「やったね、チッカ!」

 瑞希がはしゃいだ声をあげながらコンビニの袋をガサつかせた。

「二百三十人中、チッカは一位、遥くんは四十二位、あたしは八十一位。まあまあじゃない? それに、目標は達成だもんねー。見たかって感じ」

 どうやって調べたのかは知らないけれど、西岡さんは百二十二位、伊東さんは九十五位、吉田さんは八十四位だったらしい。

「瑞希はちょっとはしゃぎすぎ。今回のは範囲も狭かったからそんなに難しくなかったし、すぐ中間テストもあるんだから」
「千佳はもうちょっとはしゃいだらいいのに」

 相変わらず、巨大な弁当箱をぶら下げた遥が私の隣に座った。制服じゃなく、ジャージ姿の遥からは、少しだけ汗のにおいがした。
 あれから遥は、頻繁に私たちの教室に顔を出すようになって、一緒にお弁当を食べるようになった。
 おそるおそる声をかけてくるクラスメイトたちに、遥は魔法のような笑顔と言葉を振りまいて、あっという間に魅了してしまう。そして、最後に必ず残していく「千佳をよろしくね」という言葉が、私をこのクラスの重要人物に押し上げていった。
 視線を感じて振り返ると、かつてこの教室の中心だった吉田さんたちが教室の隅からこちらを見ていた。目が合うと、思いっきり逸らされてしまう。

「ほら、全然反省してないでしょ」

 瑞希が、ふん、と鼻を鳴らした。
 吉田さんがみんなの前で遥にやり込められたあの日から、コロニーの崩壊は始まった。
 私の上履きを捨てたのが吉田さんたちの仕業だといううわさが、じわじわと学年中に知れ渡り、みんなが距離を置き始めたのだ。

「いい気味だよね。調子にのって人のことバカにするから痛い目にあうんだよ」

 瑞希はそう言うけれど、私は瑛輔くんの言葉が頭から離れなかった。

――女王様っていうのは我慢と屈辱がお嫌いなんだってこと。自分のプライドを取り戻すためならなんだってするよ。

 なんだか、いやな予感がする。

「千佳、なにボーっとしてんの? 腹減って死にそう、とか?」
「そ、そんなんじゃないよ」
「遥くんのクラスって校庭でサッカーしてた?」
「うん、そう。だから俺は腹ペコ」
「そういえば、遥ってサッカーするの好きだったよね。文芸部よりサッカー部のほうがいいんじゃない?」

 何気なくそう聞いたら、遥が私を見た。その目は、驚いているようにかすかに見開かれていた。

――はるかはサッカーがじょうずなんだよ。ボールをけるときのはるかは、すっごく楽しそうなの。

 チーはそう言ってたけど……。

「あーっ! ちょっと最悪なんだけど!」

 スマートフォンを見ていた瑞希が突然叫んだ。

「なに、どうしたの?」

 瑞希に向き直った遥はいつもと変わりはなかった。……さっきのは私の見間違いだったのかな。

「部長から。今日は部室使えないんだって!」

 見せられた画面には『本日は図書委員の作業があるため、部室は使用できません』のメッセージと、泣いている犬のスタンプ。

「もう、信じらんない」

 でも桐原先輩に聞いた話によれば、本来は図書委員のために用意されたあの部屋を文芸部が部室として借りているらしいから、優先権は向こうにある。

「じゃあ今日は早く帰れるね」
「すぐに中間テストもあるんだからって言ったのはチッカでしょ。そんな楽観的でどうすんのよ。あたし、次は五十位以内に入ってみせるんだから!」

 鼻息荒く、瑞希が宣言する。
 どうやら今回の結果でやる気に火が点いたみたいだ。

「部室が使えないなら、今日はカフェでもどこでもいいから、チッカの特別授業やろうよ!」
「あ、俺、今日『石倉(いしくら)ゼミ』だから遅くなるわ」
「そっか、遥くんって石倉先生のクラスだっけ」

 数学の授業は、今回のテストの結果でクラス分けが行われた。
 理解度の近い生徒たちをまとめたほうが授業の効率がいい、という建前ではあるが、生徒たちの競争熱をあおっているようにしか思えない。
 今回遥が入ったクラスを担当する石倉先生は飄々とした人で、授業も面白いらしいのだが、生徒には蛇蝎の如く忌み嫌われている。その理由が、週に一回行われる、放課後の特別授業――通称「石倉ゼミ」のせいだ。
「石倉ゼミ」とは、先生が選りすぐった問題を集めた大量のプリントが配られ、一時間ただひたすらにそれを解くという、修行のようなもので、解き切れなかったものは持ち帰り、次週までに提出しなければならない。

「あの先生、マジで数学好きなんだな。なんつーか、選ぶ問題が変態的」
「ああ、ちょっと分かるかも」

 私はまだ「石倉ゼミ」を受けたことはないけれど、遥から見せてもらったプリントには、受験勉強のためというよりも、数学的興味を刺激するような問題が多かった。
 げんなりしていた遥を前に、ちょっと楽しそうだな、なんて思ったのは秘密だ。

「じゃあ、あたしとチッカは教室で勉強しながら、遥くんのお帰りをお待ちしておりますので」
「オッケー。じゃあさっさと終わらせて帰ってくるから」

 なぜかいつも私の意見が反映されない話し合いで、私たちの行動は決まる。いつの間にか「仕方ないなぁ」ってしぶしぶ受け入れるのが私の役割になっていた。
 瑞希がメロンパンの袋を開けると、ふわっと甘いにおいが漂ってきて、そのメロンパンが、この世で一番おいしそうに見えた。

「ねえ、瑞希。メロンパン一口ちょうだい。これと交換で」

 私は、ママの得意料理であるキャロットラペを指さした。
 私たち三人の間では、おかずの交換がすっかり定番になっていた。
 味も見た目も完璧なのになぜか物足りないママのお弁当が、瑞希の茶色いお弁当や、遥の和食メインのお弁当と混じり合って、私だけの特別なお弁当に変わる。
 最近では、昼休みが近付くと、今日の二人のおかずはなにかな、なんて考えるようになってしまった。
 どれどれ、と私の弁当箱をのぞきこんだ瑞希は、キャロットラペの隣にある明太子入り玉子焼きを摘まみ上げた。

「あ、それじゃないってば」
「あたし人参きらいなんでー」
「野菜も食べなきゃダメでしょ」
「オカンか!」

 ケラケラ笑いながら、瑞希は半分にちぎったメロンパンを私に差し出した。

「こんなにいらない。一口あればいい」
「だってチッカがよだれ垂らして見てくるんだもん」
「垂らしてない!」
「はいはい。ほら、どーぞ」

 鼻先をくすぐる甘い香りの誘惑に負けて、私はメロンパンを受け取り、一口かじった。
 クッキー生地にかかった砂糖が歯の間でじゃりっと音を立てた。
 いまほどではないけれど、ママはもともと私が口にするものに対して神経質で、菓子パンなんてもってのほかだった。
 だから、私が初めてメロンパンを食べたのは、チーの家に遊びに行ったときだった。

「こんなものしかないけど」

 と、おばさんがおやつに出してくれた不思議な食べ物を、私はおそるおそる口に入れ、あまりのおいしさに衝撃を受けて固まってしまった。
 おばさんもチーも大笑いしていたっけ。

――カー。私の分も食べていいよ。ねえ、お母さんもっとないの? もっといっぱい食べさせてあげようよ。

 思い出の味に思わず、くすりと笑いがこぼれた。

「ね、千佳」

 遥が私の肩を突いて、甘えるように顔をのぞき込んでくる。

「見てたら食いたくなっちゃった。俺にもちょうだい」

 遥は、あーんと口を開いた。不意に見えたその濡れた赤に、鼓動が跳ねた。

「お、おかずは交換でしょ」
「だって全部食っちゃったもん」

 遥の大きな弁当箱は、きれいに空になっていた。

「でも、千佳ならくれるでしょ? だって、昔から頼まれたら断れないタイプだったし」

 そう……だったかな。
 チーはどちらかといえばワガママで、私が「仕方ないなぁ」って言うほうだったから。
 だけど、私の知らないチーは、遥の頼みを「いいよ」って受け入れたんだ。そう思ったら、むくりと対抗心が湧いた。

「――いいよ」

 メロンパンをちぎって遥の口に押し込んだ。唇に指先が触れると、痺れるように熱が走った。

「ん、サンキュー」

 ふわりと笑う遥は、メロンパンよりずっと甘い。
 私、なにやってるんだろう。
 これじゃあなんだか、チーに張り合ってるみたいだ。
 ふと視線を感じて頭を巡らせると、吉田さんたちが顔を寄せ合い、なにかひそひそと話しながら、スマートフォンと私たちのほうを交互に見ている。
 目が合うと、吉田さんは口の端を上げて笑った。
 楽しくて仕方ない、みたいに。
 なんだか、すごく、いやな予感がする。

****

「ねー、チッカ。この英文うまく訳せないんだけど」
「バカ正直に頭っから訳していくからでしょ。まず一回最後まで目を通しなさい。訳すのはそれから」
「オカンか!」
「そのツッコミも間違ってる」

 二人きりの教室は、いつもよりずっと声が響く。
 他の学校がどうなのかは知らないが、星山高校の生徒たちは放課後にぐだぐだと教室に残るようなことはしない。塾や家庭教師、習い事などで忙しいせいらしい。

「みんな、がんばってるんだね」

 ぽつりと呟いた私を、瑞希はちらっと目を上げて見た。

「そりゃねー。あたしはここに入るのが目標だったけど、他の人たちはもっと先を見てるんでしょ。行きたい大学とか、やりたい仕事とかさ」
「なのに、負けるつもりはない、なんて言われたら、やっぱりいい気はしないよね」

 新入生代表を勝ち取った目的は、遥との出会いを演出するためだった。そこに後悔はなけれど、そのために、私は誰かの努力を、夢を、大切なものを、傷付けたんだ。
 どんなことをしても、誰に憎まれてもいい。そう思っていたはずなのに、最近、心の奥がむず痒く疼くときがある。

「でも」

 と、瑞希が机の下で私の足を優しく蹴飛ばした。

「あたしはカッコよかったと思う。チッカ、絶対に卒業生代表もやって伝説になってよね。あたしの友達すごいっしょ、ってみんなに自慢するからさ」

 友達。
 チーを失った私には、友達なんていらない。そう思っていたのに。
 瑞希がしたように、私も瑞希の足を優しく蹴り返す。

「卒業生代表、瑞希になら譲ってあげてもいいよ」
「チッカ、絶対ムリだって思ってるでしょ」
「うん」
「ひど!」

 顔を見合わせて二人で笑い合ったとき、教室のドアが開く音がした。
 遥が戻ってきたにしては早すぎるけど、誰か忘れ物でもして戻ってきたのかな……という私の楽観的な予測は、あっさりと裏切られた。

「テストも終わったばっかりなのに頑張ってるねぇ。さすが新入生代表とそのお友達」

 吉田さん、西岡さん、伊東さんの三人がニヤニヤしながら私たちのほうにやってくる。
 いやな予感がする。すごく、すごくいやな予感が。

「別にいいでしょ。ほっといてよ」

 そう言った弾みで手に力が入ったのか、瑞希のシャープペンシルの芯がノートの上で砕けるように折れた。
 白と黒。モノクロ。世界が少しずつ色を失っていく気がした。

「そんなこと言わないでよ。私たちね、今日は謝ろうと思って来たの。澤野さん、今まで本当にごめんね。お詫びにとっておきの秘密を教えてあげる」

 西岡さんが胸の前で、祈るように両手を組んだ。

「お友達の近藤さんについて。ねぇ、知りたいでしょ? それに、隠しごとは友情の邪魔になるもんね」

 吉田さんが瑞希の肩をするりと撫でると、アイラインとマスカラに縁取られた瑞希の瞳が不安げに揺れた。

「瑞希が、どうしたっていうの」
「あたし聞いちゃったんだー。西中(にしちゅう)出身、近藤瑞希さんのすっごい話」

 伊東さんが歌うように言うと、瑞希が短く息をのんでうつむいた。ミルクティーベージュの長い髪がさらりとこぼれて、私と瑞希を隔ててしまう。
 西岡さんが机のそばにしゃがみこんで、瑞希の顔をのぞき込んだ。

「なんかぁ、西中に近藤瑞希って地味で暗くてがさつで空気読まないヤバい子がいたんだってぇ。そんなんだから、みんなにいじめられて不登校になっちゃったらしくてさぁ。かわいそうだよねぇ? マジでみじめ。あたしなら生きてられないなぁ」

 素知らぬ顔の吉田さんが、スマートフォンの画面に素早く指を滑らせた。

「この子がその近藤瑞希だって。ほら、澤野さんも見てよ」

 私の鼻先に突き付けられた画面には、ぼさぼさの長い髪をひっつめにしてシルバーフレームの眼鏡をかけた野暮ったいセーラー服の女の子が映っていた。
 長すぎるスカートに丸めた背中。頬にはニキビがぶつぶつとできているせいで赤らんでいる。なにか言いたげに薄く開いた唇は、乾燥して皮がめくれて、ところどころ血がにじんでいた。
 分厚いレンズの向こうからおどおどした、それでも怒りを込めた目でこちらをにらみつけるその女の子には、間違いなく瑞希の面影がある。

「これが、あんたのホントの姿なんでしょ?」
「嘘つき」

 西岡さんと伊東さんがニヤニヤしながら吐く言葉は薄っぺらいぶん、よく切れる。瑞希の心が流す赤が見える気がした。

「二人ともやめなよ。――近藤さんって、すごーく頑張ったんだね」

 かがみこんだ吉田さんが耳元でそうささやくと、瑞希の体がびくりと跳ねた。

「自分のこと知ってる人がいないからこの高校に来たんでしょ? 西中って遠いし、偏差値もそんなに高くないもんねー。ぜんぜん成績足りなかったのに、むりやり滑り込んじゃうなんてすっごいよね。尊敬しちゃう」

 パチパチと手を叩く吉田さんに合わせて、西岡さんと伊東さんも手を叩く。

「そうだ。いいこと思いついた!」

 吉田さんが人差し指をぴん、と立てた。

「せっかく頑張ってそんなに可愛くなったんだもん。この写真と今の近藤さんの写真、ビフォーアフターでSNSに載せて拡散しようよ。きっとバズるよ」
「絵理奈ちゃん、ナイスアイディア! いじめてたやつらを見返すチャンスじゃん」
「澤野さんもそう思うでしょ?」

 否定しなきゃ。そう思うのに声が出ない。
 瑞希の過去に対する驚きのせいなのか、吉田さんたちの執念深さに恐れおののいているからなのか、私一人でどうやったらうまくこの場を逃れられるのかが分からないからなのか。
 たぶん、そのすべてが混ざり合って、私の機能をストップさせている。
 ねえ、チー。チーだったらどうするの?
 友達を助けてあげるときは、どうしたらいいの……?
 呆けたままの私に、ふん、と鼻を鳴らした吉田さんは、瑞希に向き直って、スマホのレンズを向けた。

「さて、撮影会始めよっか」

 瑞希の両側から西岡さんと伊東さんが腕をつかんで強引に立ち上がらせて、窓際に引きずっていく。

「もっとスカート短くしようよ」
「シャツのボタンも外したほうがセクシーじゃん」

 二人の無遠慮な手が瑞希の制服に触れて、乱していく。
 瑞希が、やめて、と小さく言って身じろぎした。

「は? 聞こえないんですけど」

 吉田さんが大声を出すと、瑞希はびくっとして固まってしまった。

「だいたいさぁ、あんたみたいなやつが遥くんの周りでウロチョロすんの、最っ高にウザいんだよね。あげくに調子に乗ってあたしのことまで見下してバカにするとか、身の程知らず過ぎて笑えるんですけど」

 窮鼠猫を噛む。
 弱い者を追い詰めたら思わぬ反撃に遭う、という言葉。
 でも、実際に追い詰めたら厄介なのは吉田さんみたいに強い者のほうだ。追い詰められることに心が慣れていないから。だから、少しずつ、ゆっくりと狂っていく。

――女王様は我慢と屈辱がお嫌いだからね。

 私の前で得意げに笑う吉田さんと、院長室に火を点けたお局さま。
 その行動の先に、明るい未来が待っているはずなんかないのに。

「はーい、じゃあ撮りまーす。近藤さん、もっとスマイルスマイル。せっかくの記念撮影なんだからさ。そんな顔じゃバズれないよ」

 カシャッ。
 吉田さんがスマートフォンの画面をタップすると、軽い音がした。
 二人に抑え込まれた瑞希は顔を背けるのが精いっぱいのようだった。
 カシャッ。
 音がするたびに、そこにいる瑞希が薄く削り取られていくような気がした。
 ふらりと立ち上がった私を、瑞希が見た。
 灰色がかったカラーコンタクトの奥に隠れた、画面の中にいた女の子と同じ目が、私を見ている。
 でも、あの目にあった怒りはそこになかった。。
「助けて」とも「見ないで」とも違う、その目に映る瑞希の心を知りたくて、私はじっと見つめ返した。

「じゃあ、次はちょっとスカートめくっちゃおっか」
「絵里奈ちゃん、変態ー!」
「ほらほら、モデルはカメラマンの要求に応えなきゃ!」

 きゃあきゃあと騒ぐ三人の声が遠くなる。
 ああそうだ。
 瑞希の目にあるのは「諦め」だ。
 そう気付いた瞬間、そんなはずはないのに、瑞希がくれたメロンパンの香りが鼻先をよぎった。

「はい、ラスト! いい顔してー」

 吉田さんの指が画面をタップするより先に、勝手に動いた私の手が、その背中を力いっぱい突き飛ばした。
 つんのめった吉田さんがぶつかった机や椅子が大きな音を立てる。宙を舞うスマートフォンがくるりと一回転して床に落ちるまでの一瞬が、まるでスローモーションのように見えた。

「絵里奈ちゃん!」
「ちょ、なにすんのよ、あんた!」

 慌てた西岡さんと伊東さんが、瑞希から手を離して吉田さんに駆け寄る。
 乱れた制服の瑞希が驚いたように私を見ている。
 手に残ったブレザーのしゃりっとした感触と湿った体温の不快感を、私の脳が徐々に理解する。
 誰かに触れられるのも、触れるのも嫌いだ。特に、こんな下らないやつになんか。
 でも、そうせずにはいられなかった。瑞希のひとかけらだって、こいつらに与えてやりたくなかった。

「最悪なんだけど! 怪我したらどうすんのよ!」

 吉田さんの怒声にびくりと体を震わせた瑞希が、ごめん、と呟いた。
 その言葉の矢印が向いているのは吉田さんなのか、私なのか、ひどくあやふやだった。

「瑞希が謝る必要なんかない。私だって謝らない。吉田さんたちも怒る権利なんかないでしょ。誰かを傷付けるなら、自分も傷付く覚悟くらいするべきだもの」

 追い詰められたネズミが猫に嚙みつくのは、生きたいからだ。ゼロに等しい可能性にすがってでも生きようとしてるからだ。命を懸けて、一生消えない傷を残してやる覚悟をしたからだ。
 そんな覚悟もなく、噛みついてくるなんて許さない。

「瑞希がいじめられてたとか不登校だったとか、ホントどうでもいい。私にも遥にも関係ないし。友達ってそういうもんじゃないの?」

 くだらない会話をして、足を蹴飛ばし合って、メロンパンを分け合って、困っていたら助けてあげて、誰かにバカにされていたら怒ってやる。瑞希は私にそうしてくれた。それが、私は嬉しかった。

「そうやって誰かを見下さないと不安なの? もっと自信もって生きたら? そうすれば私たちのことなんてきっとどうでもよくなるはずだよ。だって、私たちは吉田さんたちのこと、どうでもいいって思ってるもん」

 身体が苦しいくらいに熱い。――そうか、私は怒ってるんだ。
 吉田さんにも、西岡さんと伊東さんにも、かつて瑞希をいじめた人にも、守ってあげなかった人にも、瑞希にぶつけられただろう言葉にも、いやな笑いにも、あの写真を撮った人にも、あの写真を吉田さんに渡した人にも、すべてに怒っていた。
 瑞希が「怒り」を「諦め」に変えてしまったのなら、私が代わりに怒ってやる。

「……は?」

 いつもの嘘くさい可愛らしさも余裕も消え去った吉田さんに残ったのも、純粋な怒りそのものだった。

「うっさいんだよ! あんたなんかただ成績がいいだけのガリ勉でしょ? 偉そうなこと言わないでよ!」

 吉田さんに思い切り肩を突かれて、私は床に倒れ込んだ。手のひらと膝に焼けるような痛みが走る。

「そっちのくそダサかったやつが調子乗ってんのも気に食わないし。ああ、もうイライラする! なんであんたたちみたいなのが遥くんのそばにいるわけ? あいつ趣味悪すぎ。普通さ、選ぶなら絶対あたしのほうでしょ? ねぇ、そうでしょ?」

 ヒートアップしてまくし立てる吉田さんに、さすがの西岡さんと伊東さんも引き気味だ。

「誰にも負けるつもりはない? それはこっちのセリフなんですけど。あたしとあんたたちは大違いなの。分かる? せいぜい教室の隅っこでちっちゃくなって、こそこそ教科書開いてればいいのよ!」

 一瞬の間があった。
 そこに、声が落ちてきた。世界を鮮やかに彩る声が。

「へぇ、面白いこと言うじゃん」

 分厚いプリントの束を抱えた遥が、教室の入口に立っていた。