「チッカとえーすけ先生のおかげで、午前中はバッチリだったよ!」

 昼休みになると、瑞希が椅子の上で飛び跳ねるようにして私に報告してきた。

「瑞希ががんばったからでしょ。その調子で午後もしっかりやるように」
「チッカはどう?」
「愚問」
「ひえーカッコいいーっ!」

 すっかり元気を取り戻した瑞希が、意気揚々とお弁当の蓋を開けた。

「あーあー。やだやだ。勉強しか取り柄のない人とできそこないが調子に乗っちゃって」

 西岡さんと伊東さんが大きな声でそう言うと、クラスメイトの視線が私に集まってきた。吉田さんは素知らぬ顔で、サンドイッチを()むようにして食べている。

「これで一位じゃなかったら大笑いよね」
「補欠合格のギャルもぜったい最下位だよ」

 二人の笑い声につられるように、教室のあちらこちらからクスクスと笑い声が聞こえてきた。
 吉田さんの言うとおり、私の「誰にも負けるつもりはない」というスピーチは、みんなに遺恨をのこしているようだ。
 言い返そうと立ち上がりかけた瑞希を「いいの」と制して、私もお弁当を開けた。
 手作りのハンバーグ、アスパラのベーコン巻き、ミニオムレツ、ブロッコリーの胡麻和え、チキンライスが、彩りよく詰め込まれている。

「チッカのお弁当って、いつもめっちゃキレイだよね」
「あ……そうかな」
「うち、兄貴が三人もいるからさぁ。食卓が肉々しくって困ってんだよね」

 見てよ、と、大きな唐揚げが四つにゴマ塩が振られたご飯のみ、という潔い弁当を指さした。
 でも、レシピ本からそのまま取り出したみたいな私のお弁当より、ずっとおいしそうに見えた。
 どうにも食欲がなくて、箸先でつついているうちに、オムレツが崩れてスクランブルエッグになっていく。
 今朝のママは、いつものように朝食を作り、このお弁当を詰め、私を見送ってくれた。
 まるで、夕べは何事もなかったと強調するみたいに、ことさらに明るく、ぺらぺらといろんなことを喋った。
 そうやってママは、もともとチーなんかいなかったことにしようとする。
 でも、そうすればそうするほど、ふとした瞬間、あの家の嘘みたいに白い天井や壁には、くっきりとチーの影が映るような気がした。

「あっ」

 誰かが声をあげた。見ると、遥が教室の入口に立っていた。

「遥くん、こっちこっち」

 吉田さんがはしゃぐように立ち上がって、手招きする。
 まさか……一緒に食べる約束してたの?
 昨日の仲睦まじい二人の姿を思い出して、胸が重く、苦しくなった。
 どうしよう、チー。
 もし遥が吉田さんと付き合ったりしたら。私がここに来た意味がなくなっちゃう。
 そしたら、私はどうやってチーに償ったらいいの?
 バッドエンドを見たくなくて、私はうつむいた。

「一緒にいい?」

 そんな声とともに、私と瑞希がお弁当を広げている机の上に、大きなお弁当箱が置かれた。顔を上げると、遥が微笑んだ。ふわり、と世界が鮮やかに色づいた。

「遥くん?」

 吉田さんは心底びっくりしていた。遥のそばに駆け寄ってきて、その腕をつかむ。

「私と一緒に食べるって昨日約束したじゃない」
「気が向いたらって言ったろ?」
「そんな……遥くん、ひどいよ」

 目を潤ませた吉田さんがうつむいて肩を震わせた。西岡さんと伊東さんがすぐさま「絵里奈ちゃん大丈夫?」駆け寄ってくるという見事な連係プレー。

「ひどいのは自分たちのほうじゃない? さっき千佳たちに言ってたのも全部聞いてたから」
「私はなにも言ってない! そうでしょ?」

 吉田さんが二人の手を振り払って叫んだ。西岡さんと伊東さんが「えっ」と小さく声を漏らして顔を見合わせた。瑞希も「うわ、最悪」と顔をしかめた。

「ねえ、遥くん。だから私のこと嫌いにならないで」

 すがるような吉田さんの声には、遥のことを語るチーの声とよく似た切実さがあった。
 きっとこの人は、本当に遥が好きなんだ。

「悪いけど、あんたは俺にとってただの同級生。その他大勢だよ。昨日から仲良くしてたのは、千佳にやったアレコレをバラしてくれるかと思ったからだけど、あんたたちめっちゃ性格悪いね。陰口ばっかりで全然ボロ出してくれないから参っちゃったよ」

 笑いながら遥は弁当箱の蓋を取る。
 ぎゅうぎゅうに詰められたご飯の上に真っ赤な梅干し。切干大根、玉子焼きに鶏の照り焼き、ほうれん草のおひたし。ふわっと鼻をかすめた醤油のにおいに、私は知らず知らずのうちに唾を飲みこんでいた。
 遥の行動の裏にそんな思惑があったなんて。
 じゃあ……吉田さんが好きになった、とかじゃなかったんだ。

「なに……それ。私たちは関係ないのに。部長だって証拠はないって言ってたじゃない」
「あれは証拠があればどうにかできるって意味だろ。あの人、ああ見えてあんたたちよりずーっと性格悪いから」

 あのやり取りでそこまで読み取れるなんて、二人はいつの間にそんな以心伝心の関係になっていたんだろう。

「でも」
「ああそうだ。あんたたち、千佳の入学式のスピーチのことさんざんバカにしてたけどさ、この学校で一番になるのがどれだけ大変かみんな分かってんだろ。それなのに、全員の前であんな宣言ができる千佳ってすげーなって思わねーの?」

 遥が私に向き直って優しく微笑んだ。世界がもう一段階鮮やかになって、きらきらとし始める。昨日からずっと死んだように冷たかった心が熱を取り戻す。苦しいくらい、熱い。

「俺は、すげーカッコイイなって思うけど」

 教室の空気が変わった。
 みんなが私を見るその目は、まるで今日初めてこの教室に現れた転校生に向けられるような、新鮮な興味をはらんでいた。

「……うっざ」

 小さく捨て台詞を残すと、吉田さんは教室を飛び出していった。

「絵里奈ちゃん!」
「待ってよ!」

 西岡さんと伊東さんがそのあとを追う。なんかデジャヴを感じる光景だ。
 三人が姿を消すと、教室は徐々に平穏を取り戻していったが、チラチラとこちらに向けられる視線は、やはりいままでとは少し変わっている気がした。、

「なんか……かわいそうじゃない?」

 私がそう呟くと、遥と瑞希が呆れた顔をして「そんなわけないだろ(でしょ)」と、口をそろえて言った。

「これくらいで反省するタイプじゃないよ、アレは」

 吉田さんたちが消えた先を顎でしゃくって、瑞希は私の弁当箱からハンバーグを取り上げた。

「そうそう、昔っから千佳は優しすぎ。だから、俺が守ってやるって約束したんだよ」

 遥が弁当箱からアスパラベーコンをさらっていく。
 その代わりに、巨大な唐揚げと切干大根がやってきた。
 レシピ本みたいにきれいだったお弁当が、めちゃくちゃなレイアウトに変わる。
 だけど、ようやく食欲が戻ってきた。
 午後のテストに備えて、私は箸を持ち直した。

******

「ふぅん。ぴーちゃんの高校生活もなかなか波瀾万丈だね」
「瑛輔くん、ちょっと面白がってない?」
「そんなことないって。これでも真剣に考えてますよ。それではひとつ、ぴーちゃんにご忠告を」

 瑛輔くんは器用にくるくるとペンを回しながら言った。

窮鼠(きゅうそ)猫を嚙むってことわざは、もちろん知ってるよね」

 私はうなずいた。
 ネコに追い詰められたらネズミだって反撃する。転じて、弱いものを追い詰めすぎると思わぬ反撃に遭う、という意味だ。

「これは俺の親父から聞いたお話です」

 瑛輔くんは、こほん、と咳ばらいをして喉を整えると、絵本でも読むような調子で話し始めた。

「むかーしむかし、うちの病院の経理に勤続何十年っていう、経理のほとんどを牛耳ってた、いわゆるお局様がおりました。パワハラ、モラハラ、エトセトラ。ハラスメントのデパートみたいなその人のせいでやめたスタッフも大勢いて、それはそれは嫌われていたのです」

 瑛輔くんの髪は、ブルーからグリーンに変わっていた。季節より早いその変化に人間の頭皮はどこまで耐えられるものなのだろうか。

「ですが、ある日突然、その人が長年に渡ってちまちまと経費をちょろまかしていたのがバレてしまったのです。まあ、親父もずっと疑ってたらしいけど。そんで、仕事を辞めて弁済するなら被害届は出さないっていう条件を出した。お局様は、それにすがるしかないよね。断ったらあっという間に犯罪者だから」

 でもね、と瑛輔くんは続けた。

「表向きは円満退社っていうことになったんだけど、みんな知ってた。お局様は退職するその日まで、みんなにヒソヒソされて、遠巻きにされて、笑われたんだよ。最終日には見送りも花束なし。長年座っていたデスクはみんなによってたかってきれいに片付けられて、クリップひとつに至るまできっちり詰め込まれたダンボールを、早く出ていけとばかりに押し付けられたんだって」

 瑛輔くんは、そこで悪戯っぽく笑った。

「お局様は、そのダンボールを持ってどこ行ったと思う?」
「どこって……帰ったんじゃないの?」

 ちっちっと舌を鳴らして、瑛輔くんは声を潜めた。

「正解はなんと親父がいる院長室。イノシシみたいに突進してきたかと思ったら、ダンボールをひっくり返して、ライターで火を付けたんだって。幸い小火(ぼや)で済んだけど、けっきょく警察に捕まっちゃった。あのまま大人しく辞めてれば、どこかで再就職だってできたかもしれないのにね」

 勢いよく体を預けたせいで、瑛輔くんの椅子の背もたれが、ぎぃっと軋んだ。

「なにが言いたいかっていうと、女王様っていうのは我慢と屈辱がお嫌いなんだってこと。自分のプライドを取り戻すためならなんだってするよ」

 吉田さんが教室に火を点けているところを想像したけれど、どうもリアリティがない。「まあ、気を付けるけど」

「それと、もうひとつ、いいことを教えてあげよう。俺、吉田絵里奈って名前、どっかで聞いたって言ってたろ? それ思い出したんだよ。実はね……」

 瑛輔くんが私に教えてくれた事実は、驚くべきものだった。