瑞希や塚本先生、桐原先輩にハメられた(かどうかは定かではないけれど)かたちで入った文芸部は、思っていたよりずっと居心地がよくて、瑛輔くんの家庭教師がある水曜日以外の放課後は、瑞希と遥、それに桐原先輩の四人で過ごすのが当たり前になりつつあった。

「おっはよーチッカ。今日の放課後もよろしくね!」
「はいはい」

 朝、校門で駆け寄ってきた瑞希は、今日も元気いっぱいで、メイクも髪型もばっちりだ。

「見て見て。これ、新しくしたの。かわいいっしょ」

 ピンと伸ばした指先は、昨日とは違うベージュピンクに塗り替えられていた。

「もう、明日はテストなのにそんなことして」
「ちょっとくらい息抜きも必要でしょー。ほら、指先ってよく目につくから、かわいいほうがテンション上がるし!」

 そういうものなのかな。……私もやってみようかな、なんて思いながら夕べ短く切りそろえたばかりの自分の爪を見ていると、瑞希が私の顔をのぞきこんできた。

「チッカ。なんかいい感じだね」
「え、なにが?」
「なんか、かわいい。恋のチカラってやつ?」
「へ、変なこと言わないでよ。そんなこと言うなら今日は部室に行かないんだから」
「わー、ごめんごめん。でもかわいいって思ったのはマジだから、自信持っていこー!」

 瑞希がくしゃくしゃと私の頭を撫で回した。ちょっとやめてよ。いいじゃん。とやり合っていると

「近藤さん、澤野さん、おはよう」

 吉田さん西岡さん伊東さんの、いつもの三人組に声をかけられた。

「なによ」
「やだ、挨拶しただけでそんな警戒しないでよ。この間のことは私も反省してるんだから。私たち、同じ人を好きになった者同士なんだし、これからは仲良くしようよ。でも戦いは正々堂々と。どっちが選ばれても恨みっこなし。ね?」

 吉田さんはにっこりと笑った。

「そういえば、遥くんが文芸部に入ったって聞いたけど、ちょっと意外だったな」
「藤原くんがあんな地味な部にねぇ」
「きっと澤野さんたちに誘われて断れなかったんじゃない? なんかかわいそう」

 友好協定を申し出たわりにはずいぶん含みのある言いかたをしてくる。
 まあ、たしかに文芸部は派手ではないし、華やかな遥に似合うような部ではないけれど、私が無理強いしたわけじゃないし。
 なんなら、私だって瑞希や塚本先生、桐原先輩にハメられた(かどうかは定かではないけれど!)被害者だ。

「あたしたちは楽しくやってるんでお構いなくー。行こ、チッカ」

 瑞希が新しいネイルを施した手をヒラヒラ振って、私を促した。

「なんかヤな感じ。せっかく最近は、チッカにいろいろ教えてもらって勉強ってけっこう楽しいんだって思ったのにさ」

 唇を尖らせる瑞希は、外見に似合わず、まじめで覚えもよかった。今回は五十位に入るのは難しいかもしれないけれど、コツコツやっていればそのうち名前が載るようになるだろう。
 遥は苦手な教科と得意な教科の差は大きいけど、たぶん全体的に平均点を下回ることはないはずだ。
 ん? もしかして、私が二人に教える必要なんかないんじゃない?
 あれ? あれ? と私が首をひねりながら靴箱を開ける。

「……あれ?」

 と、心のなかの「あれ?」とは違う意味の「あれ?」が声に出た。

「どしたの?」
「なんか……上履きがない」

 持って帰った記憶もないのに、私の靴箱は空っぽだった。

「澤野さん、どうかしたの?」

 追いついてきた吉田さんトリオが、私の手元をのぞき込んで大げさに手で口を覆った。

「やだ。もしかして、誰かに靴を隠されちゃったとか?」
「ええっ! それってイジメってやつ? こわーい」
「あっ、もしかして新入生代表のスピーチのせい? あれ、みんなムカついてたもんね」

 三人はわざとらしくそう言うと、こわいね、と顔を見合わせている。

「あんたたちがやったんでしょ!」

 喰ってかかる瑞希に、吉田さんは驚いたような顔で否定する。

「違うよ。だって私たちいま来たばっかりなんだよ?」
「そうだよ」
「第一、うちらがそんなことするわけないじゃん」

 白々しい演技が何よりの証拠だけど、追及するだけ時間の無駄だ。

「いいよ、瑞希」
「でも!」
「大丈夫だから」

 悠々と靴を履き替えた吉田さんは、私の横を通り過ぎるとき、制汗剤の花のような香りとともに、私だけに聞こえるようにささやいた。

「遥くんってすっごくモテるって言ったでしょう? こういうことされるのは、澤野さんが遥くんにふさわしくないって思ってる人がいるからかもね。それか……よっぽどあなたが嫌われてるか。どっちだと思う?」

 西岡さんと伊東さんを従えて、吉田さんは教室に向かう。吉田さんが歩くと、自然と人がよけて道ができた。それはまるで、女王様の行進のようだった。

「なによ、絶対あいつらがやったのに! インケンなやりかたしてさぁ、腹立つなぁ、もう!」

 瑞希が地団太を踏んで怒りをあらわにする。

「とにかく、職員室でスリッパ借りてこよう。このままでいるわけにもいかないし」
「あたしが行く! ついでに先生にチクってくるから!」

 そんな大事(おおごと)にしなくても、と止める間もなく、瑞希は風のように駆けて行った。
 瑞希って足速いんだ……。変なところに感心してしまう。
 空っぽの靴箱には吉田さんの悪意が詰まっているみたいだった。なんのメリットもないこの行動が意味するのは、女王様からの仕返しだ。
 それにしても、情報化社会とか新時代とか叫ばれるような現代に至っても、嫌がらせの手口は意外とありきたりなまま、進化しないんだな。

「おはよ、千佳。なにしてんの?」

 昇降口で立ち尽くしている私に、遥が不思議そうに声をかけてきた。世界の鮮やかさが少しだけ上がるのに合わせるように、心臓もさり気なくテンポを上げる。ん? ……なんだこれ。

「あの、ちょっと、上履きがなくて」
「……それ、どういうこと?」

 遥の表情が変わった。

「別に大したことじゃないよ。もしかしたら、誰かが間違って履いてったのかもしれないし」

 我ながら無茶苦茶な理由をつけてごまかそうとしたのは、遥が明らかに怒っていたからだ。遥の怒りは、世界を灰色に染めるようだった。
 吉田さんのときにはすらすら口から出てきた嘘が、遥の前では喉の奥で詰まって出てきてくれない。

「とりあえず、俺の使って」

 遥が自分の上履きを私の足元に置いた。

「え、いいよ。瑞希がスリッパ借りに行ってくれたし、それに、遥の靴は私に大きすぎるよ」
「履いて」
「いや、そしたら遥はどうするの?」
「いいから」
「あの」
「履かないなら、俺、千佳を教室まで抱えていくけど」

 そんなことになったら吉田さんどころか、星山高校の女子全員に殺されるかもしれない。
 一歩も引かない遥に観念した私は、しぶしぶ遥の上履きに足を入れた。
 サイズの合わないぶかぶかの靴。足裏に、これは自分のものじゃないっていう違和感がある。その違和感の正体は、遥の足のかたちなんだと思うと、なぜだか顔が熱くなった。

「あれ? チッカ、なにそのビッグサイズの靴……」

 スリッパ片手に職員室から戻ってきた瑞希が私の足元を見て、それから遥を見て、ははーん、とすべてを理解したようににやりと笑った。
 その理解力があれば、高校の授業なんか楽勝だろ、と心のなかでツッコむ。

「やだー、あたしSサイズのスリッパ借りてきちゃったのに」
「そっちは俺が履く」

 小さいスリッパを履いた遥は、まるで子どものサンダルを履いたお父さんみたいだった。

「めっちゃ歩きにくい」
「……私も」

 お互いサイズの合わないものを履いた私と遥は、よちよちと不確かに歩き出す。

「うわー、二人ともカワイイ! 写真撮ってあげよっか?」
「ちょっと余計なこと言わないでよ」

 瑞希に言い返した弾みで足がもつれた。

「あっ」
「千佳!」

 転びそうになった私を遥が支えてくれた――けど、遥も踏ん張りがきかなくて、けっきょく二人で転んでしまう。

「いってー。千佳、大丈夫だった?」
「うん、ありがと……」

 上げた顔のすぐそばに、遥の顔があった。
 私を庇うようにして尻もちをついた遥が、私を抱きかかえている。藍色のブレザー越しに遥の体温が伝わってくる。
 とくん、と心臓が音を立てた。
 なに、これ。
 私の奥で鳴り始めた鼓動が存在を主張する。ここにあるんだって。
……やめて。違うの。
 これは私のじゃない。
 鳴るな、治まれ、それができないなら消えてしまえ。
 決して届かない心臓を握りしめるように、ブレザーの胸元をぎゅっとつかんだ。

――かさかさ、しゃらしゃら、ざあざあ、ごうごう。

 色が消えて、世界がモノクロに落ちていく。白と黒。 
 いや、やめて。チー。チーはどこ……?
 ぷっと遥が噴き出した。その瞬間、世界が鮮やかに色を取り戻す。

「このままじゃ教室着くまで何回コケるんだろーな。やっぱり俺が千佳を抱えていったほうが早いかも」
「……私と遥のを交換したらいいんだと思う」
「それじゃあ意味ないでしょ」

 遥は、私の手を引いて立ち上がらせると、そのまま自分の腕に絡ませた。

「ちゃんとつかまってて」

 そう言って遥が歩き出す。引っ張られて、思わずしがみつく格好になってしまった。

「きゃー! なんかバージンロードみたい!」

 大はしゃぎしながら私たちを先導する瑞希をにらみつけると、数メートル先でべーっと舌を出された。
 くそ。絶対あとで一発なぐってやるからな。
 超がつくほどのスローペースで歩く私たちを、教室へ向かう生徒たちが不思議そうな顔で追い越していく。
 階段という難所をどうにかこうにか乗り越えて、ようやく一年生の教室がある三階にたどりつくと、あちこちのクラスから生徒たちが顔をのぞかせていた。
 どうやら私と遥のこのみっともない行進のうわさを聞いて、全員で見届けるつもりらしい。

「ほらほら、チッカ。見てみなよ」

 瑞希が指さした先には、吉田さんがいた。
 いつもの完璧なスマイルもなく、教室の入口に立って、完全な無表情でこちらを見ている。その後ろでは、西岡さんと伊東さんがひそひそと言葉を交わし合っていた。

「いい気味ー」
「千佳の靴ってあいつらがやったの?」
「いや、それは分かんなけど」
「ぜーったいそう!」

 瑞希が力強く断言すると、遥は、ふぅん、と言って、私の頭をぎゅっと抱き寄せた。
 きゃあっ! という女子の悲鳴と、うおおっ! という男子の声が巻き起こる。
 え、ちょ、なにこれ!
 ようやく治まりつつあった心臓が、再びフルスロットルで鳴り始める。もう無視できないくらいの鼓動が、私を突き破って飛び出してきそうだった。

「俺の上履き、お守り代わりに貸しておくから」
「え、でも遥は」
「千佳のこと、ずっと守るって約束しただろ」

 耳元でそうささやくと、遥は私の頭をくしゃりと撫でた。

「じゃあ、またあとで」

 隣の教室に向かう遥の背中をぼんやりと見つめていると、瑞希に肘で突かれる。

「チッカもすごい人に恋しちゃったねー。あれは強敵だわ」
「うるさい」

 教室に入るとき、吉田さんとすれ違った。花のような甘い香りに混じって、舌打ちが聞こえた。

「いい気にならないでよ」
「なるわけないでしょ。こんなに不便で困ってるのに」

 私が遥の上履きを爪先に引っかけてぶらぶらさせてみせると、吉田さんは私を押しのけるようにして自分の席に戻っていった。

「え、絵里奈ちゃん、待ってよ」

 西岡さんと伊東さんがそのあとを追いかける。

「なに、あいつら。ホントくっだらない」
「いいよ。放っておこう」

 それでも気が済まないのか、瑞希は三人に向かって、いーっと歯をむき出しにしていた。
 私は胸のあたりに手をあてて、平常に戻った心臓の音を確かめる。
 遥に触れたとき、弾けたように鳴り始めた鼓動と高まった熱は、本物じゃない。
 チーの気持ちを真似ただけのニセモノ。
 私のものじゃない。
 分かってるよ、チー。
 私が叶えるのは、チーの恋。
 チャイムが鳴ると同時に塚本先生が教室に入ってきた。
 慌てて自分の席に向かうと、大きすぎる遥の上履きが、ぺたん、ぺたん、と間の抜けた音を立てた。