「まさかあんなところで君に会えるなんて思っていなかった。見つけた時は本当に驚いたよ」
青王は自室に飾ってある写真を愛おしそうに見つめている。
「あの時、君がチョコレートを作りながら幸せそうに微笑んでいてとても安心したんだ」
今は穂香として生きる君は、当然わたしのことは覚えていないだろう。
だけどいつか思い出してくれたらうれしい。
もう一度あの頃のように語り合い、笑い合い、穏やかな時間を一緒に過ごせたら、うれしい。
「穂香さん、ごめんなさい!」
店に戻るなり瑠璃が勢いよく謝ってきた。床に着きそうなほど頭を下げて...
「瑠璃ちゃん、怒ってないから頭を上げて」
すると瑠璃は大きな瞳に涙をいっぱい溜めてこちらを見つめる。
「怒ってないけど本当にびっくりしたわ。どういうことか、なにが起こったのか、ちゃんと説明してくれる?」
「はい、あの、座ってお話しませんか」
「そうね。とりあえず落ち着くようにホットココアでも作るわ」
「ありがとうございます」
瑠璃はホットココアを一口飲み、ゆっくり話し始めた。
「青王様がおっしゃった通り、わたしは座敷童子という妖です」
「座敷童子って、それが住み憑いている家やお店は繁栄するって言われる妖怪よね」
でも私には霊感とかそういうのはないし、怪奇現象みたいなものにも遭遇したことがない。霊とか妖怪とか信じてはいないけれど。
「そう言われていますね。でもわたしはずっと王城で青王様のお手伝いをしてきました」
「そう。それじゃあどうして私の店で働きたいって言ってきたの?」
「青王様が東京の自由が丘という場所を見て歩き、京陽に戻ってきてすぐわたしに穂香さんのそばに行くよう言いつけたんです。穂香さんが楽しく過ごせているか、辛い思いをしていないか見守り、何かあったらすぐ教えてほしいと」
自由が丘は私が以前勤めていた場所だ。
「青王様がそう言った理由はわかる?」
「それは、あの...青王様に聞いていただけませんか?」
「知ってるけど話せない、って感じね」
「すみません...」
「聞きたいことはほかにもまだたくさんあるけれど今日はもう休みましょう。明日は焼き菓子の試作をして、そのあと青王様に話を聞きに行くわ」
「わかりました。今日は本当にすみませんでした」
瑠璃はもう一度深く頭を下げ帰って行った。
青王様は、私が勤めていた店でオーナーに怒鳴られたり無茶ぶりされているところを見ていたのかしら。
見守るなんて、まるで私が辛い思いをしていることを知っていたみたいじゃない。
でもどうして私のことを?
職場で辛い思いをしている人なんて、ほかにもたくさんいると思うけど...
「穂香さん、おはようございます」
「あっ、瑠璃ちゃんおはよう。あのね、今日お昼すぎにコンチェが届くことになったの」
「やったー!これでチョコレートが作れるようになりますね」
「そうね。カカオ豆は届いているから、コンチェが届いたらすぐ洗浄して作り始めましょう」
瑠璃はとても嬉しそうにしている。もちろん私も。
これからは自分が思うように自由にチョコレートを作れる。
夢が叶う瞬間にまた一歩近づけるのだ。
「届くのを待つあいだに焼き菓子の試作をしましょうか。瑠璃ちゃんはどれを作りたい?」
先日のレシピを見ながら、瑠璃はクルミのクッキーを、私はバターと蜂蜜のフィナンシェを選んだ。
瑠璃はすぐに材料を選び、手際よく生地を作っていく。
二つのボールに小麦粉やバター、卵、そしてフィナンシェの生地にはアーモンドプードルを入れて
「穂香さん、クルミは大きめと小さめ、どっちがいいと思います?」
「そうね...両方作ってみましょう」
「わかりました!」
瑠璃はどちらにするか質問しながらもう一つクッキーの生地を準備していた。私の答えがわかっていたのかな。
「穂香さん、これにクルミを混ぜて冷凍してもらえますか。あっ、ちょっと細めにしてください」
冷凍...アイスボックスクッキーってことね。
クルミを混ぜ込んだ生地を細めの棒状に成形して冷凍庫に入れる。そのあいだに瑠璃がフィナンシェの生地を仕上げて型に流し込んでいる。
フィナンシェの焼き上がりを待つあいだ、瑠璃に聞いてみた。
「瑠璃ちゃんは本当にパティシエールとして働いていたの?」
「ごめんなさい。それはここで働かせてもらうための口実です。青王様から穂香さんを見守るように言われて、どうすれば近くにいられるか考えたんです」
「でも瑠璃ちゃんが作るケーキは確かにプロ並みだった。手際もいいしちゃんと経験を積んでいるんだと思ったわ」
「お菓子作りが趣味というか、大好きなんです。王城ではほぼ毎日作っていました。だからそれなりに自信があったしなんとかごまかせるかなぁ、って...本当にごめんなさい」
だんだんとうつむき声も小さくなっていく。昨日から謝ってばかりの瑠璃を見たら、なんだかかわいそうな気がしてきた。あとは青王様に聞くことにしようかな。
『ピーッピーッ』とオーブンから焼き上がりの合図が聞こえてきた。バターと蜂蜜の甘い香りが広がっている。
「綺麗な焼き色ね。早く試食したいけど粗熱を取るあいだにクッキーも焼いちゃいましょう」
「それじゃあ生地のカットしちゃいますね」
瑠璃は冷凍しておいた生地にグラニュー糖をまぶしカットして天板に並べていく。クッキーの焼き上がりを待つあいだ、お待ちかねのフィナンシェの試食をすることに。
「うわぁおいしい!回りはサクッとして中はしっとりね」
「香りもいいですね。焦がしバターにしてよかった」
「ちゃんと焦がしバターを濾していて、丁寧に作っているなって思ったわ」
「濾さないと苦みが出ちゃいますからね」
改めて瑠璃が来てくれてよかったと思う。
チョコレート作りでは手を抜かないし自信もあるけれど、そのほかのお菓子を作るとき、私にはこんなに丁寧な仕事ができるかわからないから。
「フィナンシェなんですけど、チョコレートとかコーヒーや紅茶の味も試作してみていいですか?」
「もちろん。でも最初はオーソドックスなメニューを置こうと思うの。フレーバー違いは徐々に増やしていきましょう」
「わかりました。ふふっ、なんだか楽しいな」
「今までは楽しくなかったの?」
「楽しくなかったわけじゃないですけど、今までは自分が作りたいお菓子を作りたいときに黙々と作ってただけで、こうやって誰かと一緒に作って試食して、今度は違う味にしてみようとかそんなふうに考えたことなかったから」
思いついたことをメモしながら楽しそうにしている瑠璃は、本当に生き生きとしている。
「あっ、クッキーも焼けましたよ」
焼き上がったのは、ちょっと小さめでキラキラしたディアマンクッキーだ。
「一口サイズでかわいらしいわね。プレーンの生地だったら色付きのグラニュー糖をまぶしてもいいかも」
「味付きのザラメなんていうのもありますよ」
「それもいいわね。ある程度メニューが決まったら色々なクッキーやフィナンシェを試作してみましょう」
「はい!そろそろクッキーは冷めたかなぁ」
瑠璃は両手にクルミが大きめと小さめのクッキーを一枚づつ持って、もう待ちきれないという顔をしている。
私も両方持って、二人同時に食べ比べた。
「サックサクでおいしい!」
「クルミの食感もいいわね。私はクルミ大きめがいいかな」
「わたしも大きいほうがいいです」
「それなら、最初に並べるのはクルミ大きめにしましょう」
「お待たせしました!」
二人の意見をまとめていると、待っていたコンチェが届いた。
「ありがとうございます。ここに置いていただけますか」
「了解でーす!」
元気のいいお兄さんがコンチェを運び入れ、丁寧に設置をしてくれた。
「完了でーす!ありがとうございました!」
「あっ、これ試作品ですけどよかったらどうぞ」
瑠璃がラッピングをしておいてくれたフィナンシェとクッキーを渡すと、
「まじっすか!俺、こう見えて甘いもの大好きなんすよ!」
「それならよかったです。オープンしたらケーキもチョコレートも並べるので、ぜひいらしてくださいね」
「おねえさんたちもかわいいし、絶対きちゃいます!それじゃ失礼しまーす」
なんかすごい人だったね、と、瑠璃と顔を見合わせて笑ってしまった。
さっそく二人で手分けをしてコンチェの洗浄消毒をし、コンチングを始める。
昨日瑠璃が帰った後、業者さんからのメールをチェックしたら今日届くという連絡が来ていた。私は徹夜でカカオ豆の焙炒やグラインダーという機械による磨砕、レファイナーという機械による微粒化まで準備をしておいたのだ。
...青王様のところのカカオはどんな味がするんだろう。やっぱりカカオ、使わせてもらおうかな...
「コンチングは十五時間ぐらいかけようと思うから、これから青王様のところに行きましょう」
「そんなに時間かかるんですか。それじゃあコンチングが終わるのは明日の朝ですね。わたしも七時ぐらいに来ていいですか?」
「そんなに早くて大丈夫?」
「はい!少しでも早くチョコ系お菓子の試作ができるようにお手伝いします!」
「それならお願いしようかしら」
瑠璃はただチョコレートを食べたいだけのような気がするけれど...
「ふふっ、楽しみだなぁ穂香さんのチョコレート」
「さあ行きましょう」
「あの、フィナンシェとクッキー、青王様にも持って行っていいですか?」
「試作品を青王様に渡すの?」
「だってこんなにおいしくできたし、実は青王様は甘いものがお好きなんですよ」
「それなら持って行きましょうか」
瑠璃は丁寧にラッピングをしながら嬉しそうにしている。
「瑠璃ちゃんも一緒だけど、今日は懐中時計を使って行ってみることにするわ」
「はい、そうしましょう」
『京陽の王城』
そうつぶやくと、次の瞬間には先日と同じ広い和室にいた。
「穂香、よく来てくれたね」
青王様は待ち構えていたように部屋に入ってきた。
「こんにちは。今日は青王様に聞きたいこととお願いがあって来ました」
「そうか。とりあえず座って。瑠璃、お茶を用意してくれるかな」
「はい、今お持ちします」
瑠璃はバタバタと部屋を出て廊下を走っていく。するとドンッと大きな音がした。
...えっ、瑠璃ちゃん大丈夫かな。
「はぁ、廊下は走らないように言っているのに。瑠璃は結構おてんばなんだよ」
そうだったんだ...
「へへっ、転んじゃいました」
と恥ずかしそうにしながらお茶を持って戻ってきた瑠璃は、私の隣に座るやいなや
「青王様、これ、穂香さんと一緒に作ったお菓子です。今までで一番おいしくできたと思います!」
瑠璃ちゃん、試作品の残り全部持ってきたんだ...
「そうか、ありがとう。みんなでいただこうか」
お茶をいただき一息ついたところで
「あの青王様、まずはお願いを聞いていただけますか」
「お願いか。わたしに叶えられることならいいけれど、なにかな」
「チョコレートを作るために必要な場所と設備を提供してください。それと、この国のカカオでチョコレートを作らせてください」
私は深く頭を下げる。すると青王様は私の隣へ来て膝をつき、そっと頭を上げさせ
「それはこの前わたしが穂香にお願いしたことだよ。どんな設備が必要か教えてくれればすべてカカオの森の中に準備する。カカオはいくらでも使ってもらってかまわない。穂香が作ると言ってくれてうれしいよ」
青王様はありがとうと頭を下げる。私も、こちらこそと頭を下げる。二人でペコペコし合っているのを瑠璃は離れた場所からそっと見守っていた。
この前とは違う道を通り、三人でカカオの森に向かう。
こちらには小さな池があった。泳ぎたくなるほど綺麗で大小の魚が泳いでいるのがよく見える。
「青王様はどうして瑠璃ちゃんに私を見守るように言ったんですか?」
青王様はどこか遠くを見つめ、少し寂しそうな顔をしている。
「それは、穂香がわたしの大切な人によく似ていたからだよ。今はもういないけれど、わたしはずっとその人を大切に思っている」
「似ているから、だけですか?」
「...いつかきちんと話す。ほら、着いたよ」
やっぱりほかにも理由があるんだ。でも今は話せない事情があるのかな。無理に聞くのはやめておこう。
「いつか絶対に教えてくださいね」
発酵に必要な木箱や温度計、乾燥に使うデッキなどの画像を青王様に見せ、それらの大きさや雨が当たらないように開閉式の屋根があるといいなど、細かな説明をした。
「それなら乾燥の期間中は雨を降らせないようにするよ」
「え、そんなことができるの!?」
「水を操るのは得意だからね」
青王様って何の妖なんだろう。カッパとか...なわけないか。
「場所はこのあたりでいいかな。明日までに用意しておくから穂香の都合がいいときに来るといい。懐中時計に『カカオの森』と言えばここに来られるから」
「ありがとうございます」
青王様は私の頭をポンポンとなでた。
「え...」
「あ、すまない...」
顔にほんの少し赤みが差しはにかんだような笑顔を見せた青王様。もしかしたら“大切な人”にはいつもやっていたのかも。
「青王様、私、不思議に思っていたことがあるんです。瑠璃ちゃんが働かせてほしいって言ってきたとき、この人と一緒にいたほうがいいかもって思ったんです。初対面だし履歴書とかもなくて身元もわからないから、あやしいって疑うほうが普通だと思うのに」
「申し訳ない。それは穂香が瑠璃を受け入れてくれるように、少し妖の術を使わせてもらったんだ」
「穂香さんが自由が丘のお店にいるときは姿を消してそばにいました。でもそれだと、辛そうにしていても話をすることができないじゃないですか!」
瑠璃は悲しそうな顔で、泣きそうになりながら、必死になって話している。
「だから、穂香さんが自分のお店を持つと聞いたとき、そこで働かせてもらおうと思ったんです。色々考えて、パティシエールになりすまして...断られないように、青王様に術をかけていただいて...」
瑠璃はその場にしゃがみ込んでしまった。
青王様も瑠璃も、こんなに一生懸命に私を守ろうとしてくれている。きっと青王様の“大切な人”は、瑠璃にとっても“大切な人”だったのだろう。
そして、もしかしたらその“大切な人”と私は何か関係があるのかも...と思った。
「青王様、二人が私を守ろうとしてくれている本当の理由、いつかちゃんと教えてくださいね」
「ありがとう。いつか必ず話すと約束するよ」
「瑠璃ちゃん、Lupinus に戻りましょう」
耳元で“明日チョコレートがおいしくできたら、青王様に持ってきましょう”とささやくと、とたんに笑顔になった。
Lupinus に戻り、瑠璃が淹れた紅茶を飲んでちょっと一息つく。
「瑠璃ちゃんは、どんなチョコレートを食べたことがあるの?」
「青王様がこっちの世界で買ってきてくださった、色々なお店のタブレットやボンボンショコラですね。でも、コンビニとかで売っているものは食べたことないです」
「それじゃあ、青王様はどんなチョコレートがお気に入りかわかる?」
瑠璃はしばらく考えこんだあと、紅茶を一口飲んでから話し始めた。
「青王様はチョコレートの酸味が苦手っておっしゃってました。色も濃くないものがいいって。あと、まん丸で中に色んなガナッシュが入っているものと、穂香さんがいたお店のボンボンショコラがお好きでした」
ハイカカオチョコじゃないほうがいいのかな。まん丸のチョコって言ったらあのブランドのものよね。自由が丘の店のチョコレートはすべて私が作っていたのだから、どれでも同じように作ることができる。青王様本人に一番好きなのはどれか聞いてみようかな。
「今作っているのは酸味が少ないカカオを使っているから大丈夫だと思うわ。明日、自由が丘の店で作っていたものの中からいくつか作ってみるわね」
「イチゴジャムが入ってるボンボンショコラと、オレンジピールのタブレットは絶対作ってください!」
「瑠璃ちゃんはその二つが好きなのね」
「はい!」
その二つは作ると約束をして瑠璃を帰らせたあと、私はイチゴジャムを作りはじめた。
そのほかにクルミのカラメリゼやキャラメルソースを仕込んでいると、深夜0時を回っていた。そろそろ休まないと寝坊しちゃう...
「おはようございまーす!」
翌朝元気にやってきた瑠璃は店内中に広がる甘い香りに気づくと、一目散にキッチンへ向かう。
「穂香さん、昨日わたしが帰ってからこんなに仕込んだんですか?」
調理台の上に並ぶジャムたちを眺めながら、言ってくれればお手伝いしたのにと唇を尖らせている。
「ほら、そろそろテンパリングに移るからそんな顔しないで」
「だって...」
だいぶいじけてるな...それなら!
「瑠璃ちゃん、先に少しテンパリングするから、それを使ってチョコレートケーキを作ってくれる?」
「はい!がんばっておいしいケーキ作ります!」
あっという間に機嫌を良くした瑠璃は、どんなケーキを作るかはチョコレートの味見をしてから決めると言って、必要な材料だけ先に準備を始めた。
コンチングが終わったチョコレートをケーキ用に少しボールに移し、あとはテンパリングの機械に入れる。
ボールでテンパリングをしたチョコレートを渡すと味見をし、すぐにケーキを作り始めた。
「このオレンジ使ってもいいですか?」
「材料はなんでも使って。でも無くなりそうなものがあったら教えてね」
「はい!」
私はさっそくボンボンショコラを作る。
丸型はクルミ、四角はキャラメル、それからハートはイチゴジャム入り。
そのあとオレンジピールを入れたタブレットチョコを二枚作ると、チョコレートだけが少し残ったからプレーンの小さなタブレットにした。
「チョコレートケーキ、できました!あとこれも」
「パウンドケーキ?」
「チョコレートケーキにはオレンジの皮をすりおろして使ったので、実のほうは絞ってオレンジケーキにしました」
瑠璃は紅茶を淹れなおし、ケーキを切り分けた。
「これおいしい。オレンジの香りがさわやかだし、蜂蜜のやさしい甘みがいいわね」
「よかった。チョコのほうはどうですか?」
「甘すぎずチョコの苦みも感じるし、かすかなオレンジの香りがいいアクセントになっているわ」
どちらもこのまま商品として採用しようと思う。自由が丘の店のものより、瑠璃ちゃんのケーキのほうが好きだな。
「チョコレートもいただきまーす!」
ハート型のチョコを一口で頬張ると、本当に幸せそうな顔で味わっている。
「うーん、やっぱり穂香さんが作るこのチョコ、おいしすぎる!」
「ありがとう。でも青王様に持って行くぶんまで食べちゃだめよ」
瑠璃はハッとした顔をしながらチョコレートをラッピングし始める。持って行くぶんを先に取っておくらしい。
「そろそろ王城へ行かない?」
「あっ、青王様はカカオの森にいらっしゃるので直接行きましょう」
「わかったわ。お菓子は持ったわね。それじゃ『カカオの森』」
カカオの森では青王様がカカオポットを持ち、じーっと観察していた。
「青王様、こんにちは。なんだか不思議そうな顔をしていますがどうかしましたか?」
「穂香よく来たね、待っていたよ。...こんなにゴツゴツした実からどうしてあんなになめらかなチョコレートができるのかと思ってね。そうだ、設備の準備はできているから確認してくれるかい」
すごい!こんな立派な設備を一日で作っちゃうなんて!
「ありがとうございます。これでしっかりカカオの処理ができます」
「それはよかった」
「青王様!今日もお菓子持ってきましたよ。まずはお茶にしましょう」
瑠璃はそう言いながら王城のほうへ走っていった。また転ばなければいいけれど...
瑠璃が戻ってくるまで、私は青王様と一緒にカカオポットを収穫することにした。
「ここで発酵と乾燥をしたら、次は Lupinus でチョコレートを作ります。もしよかったら見にいらっしゃいませんか?カカオがなめらかになっていく過程が見られますよ」
青王様は驚いた顔をしながらも私に笑顔を見せ
「穂香に誘ってもらえるとは思わなかった。うれしいよ。ぜひ見せてもらおうかな」
「おまたせしました。今日のお菓子は穂香さんが作ったチョコレートです!」
「瑠璃ちゃんのケーキもあるじゃない」
「どちらもおいしそうだね。さっそくいただくよ」
青王様は四角いキャラメルソースが入ったチョコレートを一口かじり、やっぱりこれが一番だとつぶやいている。
「青王様はそのチョコレートがお好きなんですか?」
「そうだね、これが一番好きだよ。でも穂香が店を辞めてからは食べられなかったからね。久しぶりに食べられてうれしいよ」
「Lupinus がオープンしたら毎日作るので、いつでも持ってきますよ」
「ちゃんと買いに行くよ。ほかのお菓子も見たいからね」
「青王様、甘いもの好きですよね。穂香さんを見つけてからは自由が丘のお店にもしょっちゅう行ってましたもんね」
「こら、瑠璃!まったく...」
青王様は耳を真っ赤にしながら紅茶を啜っている。
私は店頭に出ることはほとんどなかったから、青王様が来店していたことをまったく知らなかった。もちろんその時は青王様を知らないのだから気づくはずもないんだけれど...
「さて、そろそろカカオの処理を始めましょうか」
「はい!わたしは何をすればいいですか?」
瑠璃にカカオの処理方法を説明していると、青王様もやらせてほしいと言ってきた。王様にそんなことをさせてもいいのか迷っていると、瑠璃が近づいていき
「青王様、一緒にやりましょう!」
と、カカオの実を渡している。私は苦笑いするしかなかった...
三人でカカオの実を割り発酵を始めた。そのあと少し休憩をし持ってきたお菓子の感想などを聞いたあと、数日後にカカオの様子を見に来ることにして Lupinus へ戻った。
それから三日間、二人でケーキや焼き菓子の試作をし、店内のディスプレイを整え、開店の準備をすすめた。
「キャー!」
カカオの森へ行き発酵状態を確認していると、足に何かがまとわりついてきた。おそるおそる見ると白いもふもふした塊が二つ転がっている。
「なにしてるの?なにしてるのー?」
「え...しゃべった?」
「こら、穂香を怖がらせたらいけないよ」
青王様がそう言って近づいてきた。
「穂香、これはすねこすりという妖だよ。この森にいるすねこすりは足にまとわりついてくる程度だから怖がらなくていい」
「びっくりしました...でもよく見ると子猫みたいでかわいいですね」
ここは妖の住む国と聞いていたけれど、青王様も瑠璃も普通の人間にしか見えないから油断してた。
こんなかわいい妖ならいいけれど、見た目が怖かったりものすごく大きかったりする妖もいるのかしら...
「これから穂香にも姿を見せるものが少しずつ現れるだろう。王城やこの森にいる妖たちは穂香に危害を加えたりしないけれど、わたしか瑠璃がいつもそばにいるようにするから安心していい」
「...はい」
すねこすりは五匹に増えて、私の足下をうろうろしながら興味津々でこちらを見ている。
「穂香さん、カカオの状態はどうですか?ちゃんと発酵できてます?」
「え...あ、ええ、だいじょうぶそう。あと三日ぐらい発酵させたら乾燥に移りましょう」
「結構時間がかかるんですね。この前、チョコレートって割と簡単にできるんだなって思ったのに」
「普通はね、カカオの産地で発酵と乾燥が終わったカカオ豆を仕入れてチョコレートに加工するの。この作業を自分たちでやることはないのよ」
瑠璃は、そうなんだぁ...とつぶやきながらすねこすりのそばへ行き、いたずらしちゃだめよと言い聞かせている。
さて、今日はもうここでできることはない。
「青王様、三日後にまたきますね」
「ああ、待っているよ。また穂香のチョコレートも食べたいな」
「ふふ、わかりました。持ってきますね」
Lupinus へ戻り商品の最終調整をしながら、
「瑠璃ちゃん、来週からお店をオープンしようと思うの」
「ついにオープンですか!楽しみだなぁ」
「クッキー生地とか、冷凍保存できるものは準備を始めましょう」
オープン日を知らせる張り紙も作る。店の前の通りは人通りが多いけれど、少しでも多くの人に見てもらえるように、見やすく印象に残るようにを心がけて。
「あとは前日か当日までできることはないですね」
「そうね、それじゃ青王様に持って行くお菓子、いくつか作ってもらえる?私もチョコレートを作るわ」
「はい。あ、テンパリングが終わったチョコを少しもらえますか」
「はいどうぞ」
と、ボールに移したチョコレートを渡す。
なにを作ったかは青王様の前でお披露目することにして、それぞれ箱詰めまで終わらせることにした。
今日、青王様は王城にいるようなので、まずはそちらに挨拶に行くことにした。
「青王様こんにちは。お約束のお菓子、持ってきましたよ」
「ありがとう」
「紅茶淹れてきますね!」
瑠璃はまた廊下を走って行く。転ばないでね...
無事に紅茶を淹れて戻ってきた瑠璃は、青王様の前にお菓子を並べていく。
子どものようにはしゃいでいる二人の笑顔を見ていると、ちょっと不思議な感覚をおぼえた。
「穂香、どうかしたかい」
「あっ、いえなんでもありません。私もいただきますね」
ダブルクリームのエクレア、ピスタチオとイチゴジャムのケーキ、チョコクリームサンドクッキー。今日も瑠璃のお菓子はおいしい。
「穂香のチョコレートも瑠璃のお菓子も、わたしは大好きだよ。二人ともいつもありがとう」
青王様によろこんでいただけると私もとてもうれしい。でもなんだろう、この感覚...
「そろそろカカオを見に行きましょう」
「カカオの森まで歩くかい?また妖が姿を見せるかもしれないよ」
「...まだすねこすりたちだけで十分です」
「あはは、それでは瑠璃に移動させてもらおうか」
「はい!」
カカオは十分に発酵していた。
乾燥用のデッキに並べ、雨が降らないようにしてほしいと青王様にお願いをしていると、すねこすりたちがそっと近づいてきた。私はその場にしゃがみ込み勇気を振り絞ってもふもふの毛をなでてみた。
「うわ、すごい。柔らかい...」
もっとなでてー、と言いながら集まってくるもふもふは、やっぱりみんなかわいらしい顔をしている。
「もうすねこすりには慣れたかな」
「はい、もう大丈夫です」
「それはよかった。次はいつくるのかな」
「二日後に見にきます。あと、来週から店をオープンすることにしました」
「そうか。それではこれを持っているといい」
青王様は私の手になにかを握らせた。
「それは万が一穂香に危険が迫った時、すぐわたしに知らせてくれる。女性二人しかいない店なのだから用心のためだよ」
「ありがとうございます」
ではまた、と Lupinus へ戻ると瑠璃に声をかけられた。
「穂香さん、それは肌身離さずに持っていてくださいね。なにがあっても青王様が守ってくださいますから」
私の手の中には、アクアマリンと龍のような形が埋め込まれたペンダントがあった。
三日後の朝、
「明日の十時にオープンだから、焼き菓子やチョコレートは作って並べちゃいましょう。それが終わったらカカオの様子を見に行きましょうか」
「はい!まずはクッキー焼いちゃいますね」
一通りの準備が終わったところで青王様におみやげを持って王城へ行き、カカオの森ではすねこすりたちのかまって攻撃をかわしながら、カカオの乾燥を均一にするために裏返したり場所を入れ替えたりした。
「また三日後にきますね」
「雨は降らせないようにしておくよ。Lupinus がオープンしたらしばらくは忙しいだろうけど、あまり無理をしないように」
「はい、ありがとうございます」
店に戻りケーキの下準備を終え、明日のために早めに休むことにした。
開店当日、瑠璃ちゃんも早朝から来てケーキ作りをしてくれたおかげで、余裕を持って準備をすることができた。
十時少し前になると、店の前に数人のお客様が待っていた。その中には最初に試作品を渡した着物の女性もいる。
「いらっしゃいませ。おまたせいたしました」
開店と同時に店内へ入るお客様は、楽しみにしてたよ、素敵なお店ね、と声をかけてくれる。ほかのお客様がみんな入店したあと、最後に着物の女性が声をかけてくれた。
「先日はありがとう。本当においしくて開店が待ち遠しかったわ」
「ありがとうございます。あの時にはなかったチョコレートや焼き菓子もあるので、ゆっくり見ていってくださいね」
お客様はみんな笑顔でお菓子を選んでいる。おいしそう、きれいね、っていう声が聞こえるたびにうれしくて涙が出そうだった。
実は瑠璃ちゃんが、お菓子を購入されたお客様にお渡しするために、結婚式やお祝い事でおなじみのコンフェッティを作ってくれていた。一つずつカラーフィルムで包み、かわいらしくラッピングしてある。
コンフェッティとはアーモンドを砂糖でコーティングしたものだけれど、今回はチョコレートと砂糖の二層にしたみたい。
次々とお客様がきてくれて、やっと途切れたところで休憩をすることにした。
紅茶を淹れ一息ついていると一人の男性がやってきた。
「いらっしゃ...え...オーナー...」
「久しぶりだな岩星。こんな立派な店を出したのか」
「どうしてオーナーがここに...」
「この前たまたま京都にくる用があってさ、この辺歩いてる時に新規オープンの張り紙を見つけて読んでたんだよ。そうしたら店の中でおまえがチョコレートを作ってるのに気づいた。突然辞めたと思ったらこんなところに店を出すとか、生意気なんだよ!」
私は怖くて動くことも声を出すこともできなかった。
「客からチョコレートの味が落ちたとか穂香ちゃんはいないのかとか言われて、おまえが辞めたと知った常連も来なくなったし売り上げも落ちた。おまえのせいだ!どうしてくれるんだ!」
「穂香さん、どうしたんですか!」
「関係ないやつはどっか行ってろ!俺はこいつに話があるんだ!」
「穂香さん、とりあえず一旦クローズにしてきますね」
瑠璃がクローズの札を出すためにドアを開けると同時に、男性のお客様が入ってきた。
「青王さ...」
「静かに。瑠璃はドアの鍵を閉めて誰も入ってこないようにして」
「はい」
「い、いらっしゃいませ」
「こんにちは。店の前を通ったら大きな声が聞こえたから。何があったのかな?」
あ、この瞳の色。青王様だ...
「なんでもない。こいつとはちょっとした知り合いで、今日は話があって来ただけだ」
「でも彼女はだいぶ怯えてるみたいだけど?」
「なんでもないって言ってんだろ!」
私は、恐怖と青王様がきてくれた安心感で崩れるようにその場にしゃがみこんでしまった。
「もう大丈夫だよ」
青王様は私のそばへ来て背中をさすりながら耳元でささやいた。
「わたしも彼女とはちょっとした知り合いでね。そんな大声を出すなんて、どう考えてもなんでもないとは思えないな」
「うるせーな!話が終わったら帰るから関係ねーやつは出ていけよ!」
「ここには女性二人しかいないんだから、こんな状況の中おいていくわけにはいかないよ」
オーナーは青王様を、今にも襲いかかりそうな鋭い目つきでにらみつけている。
「彼は自由が丘のお店のオーナーだったかな。穂香が辛い目に遭わされていたのは知っている。今日は何を言われた?」
「なにコソコソ話してんだよ!岩星!こっちこいよ!」
「彼女は具合が悪そうだから、奥でちょっと休ませるよ」
「はぁ?邪魔してんじゃねーよ!」
オーナーがこちらへ向かってきた瞬間、青王様が人差し指を立てフッと息を吹きかけた。するとオーナーは電池が切れた人形のようにその場に倒れた。
「大丈夫だよ。ちょっと眠ってもらっただけだから」
「青王様...私...」
涙が止まらなくて、どうしようもなくて、思わず青王様の胸に飛び込んでしまった。
「穂香、ゆっくりでいいからなにがあったか教えてくれるかい」
私は小さくうなずき、青王様に支えられながら立ち上がった。
「瑠璃、なにか暖かい飲み物を。それからその男を見張っていてくれるかな」
「わかりました。甘いミルクティー淹れますね」
厨房の奥にある椅子に座り、瑠璃ちゃんが淹れてくれたミルクティーを一口。蜂蜜たっぷりで、甘くて、やさしくて、少しずつ気持ちも落ち着いてきた。
「何があったか話してごらん」
「はい。青王様は私がオーナーからどんな扱いを受けていたかご存じなんですよね。私はこれ以上頑張れないと思って自分で店を出すと決め準備を始めて...オーナーにはもう無理だと言って逃げるように退職しました。もちろん店を出すことも京都に来ることも言っていません。それなのに...たまたま用事があって京都に来たというオーナーに見つかってしまって...」
青王様はときどきうなずきながら、静かに話を聞いてくれている。
「私が辞めたらチョコの味が落ちたと言われてお客様が減った。売り上げが落ちた。それはおまえのせいだ。どうしてくれるんだ。って...」
そこまで話すとまた涙があふれてきてしまい、青王様はそっと頭をなでてくれた。
「穂香にすべて押しつけて、誰もその味を引き継げるものがいなかったのだから、自業自得だろう。穂香にはなんの落ち度もない」
私が顔を上げられずにいると、
「あの男がこの店や穂香に近づくことは二度とできないように術をかけておくよ。もちろん誰かに穂香のことを言いふらしたり、ネット上に誹謗中傷を書き込まれることもないようにする。大丈夫だよ。わたしが穂香を守るから」
「なんだか私...あ、いえ、ありがとうございます」
「さあ、これからどうする?今日はもう店を閉めるかい?」
「いえ、もう一度開店します。オープンを楽しみにしてくれてるお客様もいると思うので」
「そうか。ではあの男には出て行ってもらおうか」
厨房から店内へ戻ると、青王様はオーナーに声をかけ店の外まで誘導した。
オーナーは何があったのかわからないような顔をして駅のほうへ向かって歩いて行った。
「あの、どうしてわかったんですか?オーナーが来たこと...」
「穂香がちゃんとペンダントを持っていてくれたからだよ。何が起こっているかまではわからないけれど、穂香が何か怖い思いをしていると知らせてくれたんだ」
「これにそんな力があるんですか...」
「だからいつも必ず持っていてほしい」
「わかりました。ありがとうございます」
「瑠璃、穂香を頼んだよ」
青王様は、建物全体に術(結界みたいな?)をかけて王城へ戻って行った。
「瑠璃ちゃんもありがとう。ミルクティー、ホッとする味だったわ」
「いえいえ、穂香さんが落ち着けたならよかったです」
「さて、せっかくの初日なんだから、もう一度店を開けましょう」
「はい!」
オープンの札を出しに行くとドアに張り紙があった。
『機材故障のため数時間クローズさせていただき、復旧次第あらためてオープンいたします。申し訳ございません』
「瑠璃ちゃん、張り紙してくれてありがとう」
「穂香さんならもう一度オープンするって言うと思って。もうあの人は来ないから安心してくださいね」
改めて Lupinus オープンです!
「青王様、先日は助けてくださってありがとうございました」
「店は順調だと瑠璃から聞いている。穂香はもう大丈夫かい?」
「はい、青王様のおかげで安心していられます」
それはよかった、と頭をポンポンとなでられた。
やっぱり私は青王様を...
カカオ豆はしっかりと乾燥していた。
「これでチョコレートを作れます。できあがったら持ってきますね」
「楽しみにしているよ」
Lupinus へ戻り、さっそくチョコレート作りに取りかかる。
普通は悪い豆を選別して取り除くけれど、京陽産の豆は選別の必要がないぐらいとても状態がいい。
焙炒した豆をくだいて小さな粒状のカカオニブにしたものを、グラインダーにかける前に少し取り分けておいた。
「穂香さん、お願いします」
「はい、いま行きます」
瑠璃ちゃんに店番をしてもらっていたけれど、お客様がレジ前で行列をつくっていた。
「おまたせしてすみません」
ケーキの箱詰めとお会計を手分けしてさばき、なんとか行列は解消した。
でも、ショーケースのなかの商品は残り少ない。
今日は開店前にカカオの森へ行くために、早朝からお菓子作りに励んだけれど、準備した数がいつもより少し少なかったのだ。
「ケーキの補充、お願いできる?」
「わかりました。今日はなんだかお客様が多いと思っていたんですけど、どうもテレビでケーキとチョコレートの特集をやってたらしいです」
「そうなんだ。それなら帰宅時間帯にもお客様が増えるかも。ちょっと多めに準備しておきましょうか」
瑠璃ちゃんは、今日はチーズケーキがよく出るから...とつぶやきながら厨房に入っていった。
それでも閉店一時間前にはほぼ完売してしまったため、今日はもうクローズにすることにした。
明日もきっとお客様が多いと予想し、多めに準備をしておく。
「作る量が多いから、明日は五時ぐらいにきてもいいですか?」
「そのころにはコンチングが終わるから、きてもらえると助かるわ」
「やっと京陽産チョコレートができるんですね!どんな味だろう...楽しみだなぁ」
「ふふふ。楽しみすぎて眠れなかったー、なんてことにならないようにね」
「だ、大丈夫ですよぉ...たぶん...」
瑠璃は、お疲れ様でした!と元気に帰っていった。
私は、頭をそっとなでてくれた手を、背中をさすってくれた手を、知っている気がする。
そして瑠璃ちゃんの作るお菓子の味を、なつかしいと感じる。
でもなにも思い出せない...
翌朝、コンチングが終わったチョコレートをスプーンですくい、同時に口に入れる。
「え!?これは...」
「うわぁ、おいしい!」
ベネズエラの小さな村、チュアオ村で栽培されているカカオで、伝説のカカオと言われるほど高品質で希少価値が高いカカオ『チュアオ』とほとんど変わらない、同時にくらべても区別がつかないと思うレベルのおいしいカカオだ。
「穂香さん、これ、すごいですね。柑橘っぽい酸味も感じるけど苦みもあって、でもクリーミーでまろやかな感じもする...」
「ええ、びっくりしたわ。これとほぼ同じ感じのカカオがこちらの世界にもあるんだけれど、入手はとても困難なの」
「あんな勝手に生えてて誰も見向きもしなかったのに、こんなにすごいものだったなんて...今までものすごーくもったいないことしてたんだ...」
「青王様にもちゃんと説明しないと。閉店後、このチョコレートを持って王城にいきましょう」
「はい。あ、今日のケーキにこのチョコレート使っていいですか?」
「そうね。テンパリングするから待ってて」
「はい!」
やっぱり今日もお客様が多い。それに、昼間来店して夕方にまた来店されるお客様も数名。
「今日のチョコケーキ、いつもよりおいしかったよ。いや、いつものだってとってもおいしいんだけど...なにか変わったの?」
「カカオ豆がいつもと違うんです。明日はボンボンショコラにもこのカカオ豆を使う予定なので、ぜひご来店ください」
「青王様、京陽産カカオのチョコレート持ってきました」
「それは楽しみだ。さっそくいただこうかな」
プレーンの小さなタブレットチョコを一口。すると青王様は目を見開いて固まっている。「青王様どうですか?やっぱり酸味が苦手でしたか?」
「あ、いや、驚いた。あの森のカカオで作ったチョコレートがこんなにおいしいとは。もちろん穂香の技術あってのことだろうが、それにしても今までで一番だと思う」
青王様にも、ここのカカオは希少な『チュアオ』にそっくりなことなどをしっかり説明した。
「ここの設備をもっと増やして妖たちに作業をさせるから、これから Lupinus ではここのカカオを使ったらどうだろう」
カカオはいくら使ってもいいと言われていたけれど、正直、発酵や乾燥の作業は大変だ。だからそれを任せられるのならとてもありがたいし、よりおいしいお菓子を提供することができる。
「それはとてもありがたいお話です。でも作業をしてくれる妖のみなさんは大変じゃないですか?」
「大丈夫だよ。体力がある妖に任せるからね」
「ここにいる妖たちは、みんな結構真面目だし、きっと丁寧に作業してくれますよ。おいしいチョコレートはお客様にも喜ばれると思うし。わたしもおいしいチョコレートが食べ放題...」
瑠璃ちゃんはそれが一番の目的のような気がするけれど...
「それでは、せっかくなのでよろしくお願いします」
「うん。では妖たちにも声をかけておくよ。二日もあれば準備ができると思うから、近いうちに作業工程を教えにきてくれるかな」
「はい、わかりました」
でもまた新しい妖に出会うことになるのか。怖くないといいな...
「さて、明日分のボンボンショコラ、作ろうかな」
「この京陽産チョコ、全部のチョコ系商品に使ったら今回分はあと二日ぐらいでなくなっちゃいますね」
「そうね。次に京陽産カカオ豆を持ってくるまではいつものカカオ豆を使うことになるから...明日と明後日の二日間は『スペシャルカカオの日』にしたらどうかしら?」
「それいいですね。いつものカカオ豆に戻ったら、きっとまた味が変わったって言われそうだし」
「そうでしょ。あ、そういえば青王様はどれくらい設備を増やしてくれるのかしら。発酵も乾燥も時間がかかるから完全に京陽産カカオだけを使うとなると、数日ずつずらして発酵を始められるように複数の設備が必要になるけれど」
「そうですね。カカオの森はとっても広いのでいくらでも増やせると思います。それにあのカカオ、収穫しても数日で新しいカカオポットが実るのでいくら使ってもなくなることはありません。少し多めに設備を増やしていただいて、カカオ豆の在庫がある程度貯まったらしばらくお休みしてもらう、とかにしたらどうでしょう」
それならカカオ豆の在庫切れを心配する必要もないだろう。王城に戻ったら、瑠璃の提案を青王様に伝えておいてもらえるようにお願いした。
明日の仕込みを終わらせ、できあがったボンボンショコラを一つ瑠璃に渡す。
「あれ?この形、いつもと違いますね」
「そうなの。早く食べてみて」
まるごと口に入れようとしたけれど、やっぱり半分ほどをかじる。
「なんかサクサクする!これおいしいです!」
「カカオニブを混ぜたのよ」
「カカオニブ?」
「グラインダーにかける前の状態のカカオ豆よ」
「焙炒しただけだとこんな感じなんですね」
カカオニブを混ぜるとカカオの香りを一層強く感じられるし、クランチチョコのようなサクサクした食感も楽しめる。
「これ、青王様にも渡してくれる?」
「わかりました。さっきの話もしっかり伝えておきますね」
瑠璃はラッピングしたボンボンショコラを、とても大切そうに持って帰った。
「青王様!これ食べてみてくださいっ!」
瑠璃は王城に戻るなり、チョコレートを差し出しながら青王様にかけ寄った。
「瑠璃、少し落ち着け」
「あっ、すみません...これ、穂香さんから預かってきました」
「ん?これは初めて見る形だね。いつもと味が違うのかな」
「食べればわかりますよ。すぐに紅茶を淹れてきますね」
長方形のチョコレートを半分ほどかじると、口の中にカカオの香りが広がる。
「いつもよりカカオの香りが強いかな。それにサクサクした歯ごたえが心地いい」
「カカオ豆を砕いたものを入れたそうです」
「カカオ豆はこんな形でも食べられるのか。ほかにも使い道があるのかな」
「青王様から穂香さんに聞いてみたらどうでしょう?あっ、そうだ。設備について穂香さんと話したんですが...」
カカオの森の設備について、穂香さんと話した内容を青王様にすべて伝えた。
「そうか。今のところ五カ所に設置しようと思っている。もし必要なら徐々に増やしていくというのではどうだろう」
「わたしはそれでいいと思いますが、明日穂香さんにも聞いてみますね」
「おはようございます。設備のこと、青王様にお話してきました」
瑠璃が青王様の考えを教えてくれた。
「ありがとう。私もそれでいいと思う。今夜、青王様に直接お話しに行くわ」
「はい、わかりました。あの、カカオニブってまだありますか?」
「もうあまり残ってないけれど、これ全部使っていいわよ」
ガラスの容器に入ったカカオニブを渡すと、うれしそうになにか作り始めた。
開店準備をしていると、瑠璃ができあがったお菓子を持って厨房から出てきた。
「ナッツとカカオのフロランタンです!試食してみてください」
「おいしそうね。いただきます」
ローストしたナッツの香ばしさ、キャラメルのミルキーな甘さ、それにカカオニブの苦みと香りが一つにギュッと詰まっている。
「サクサクした軽い食感でとってもおいしい!」
「よかったぁ。これ、並べてもいいですか?」
「もちろん。ショーケースの右半分をスペシャルカカオコーナーにしたから、その上に並べたらどうかしら」
「はい!ラッピングして並べますね」
「フロランタンは青王様にも持っていこうと思って取っておいた分がありますが、それも並べちゃいましょうか?」
「いいえ、それは青王様に持っていきましょう」
スペシャルカカオコーナーの商品はお昼過ぎには品薄になり、まもなく完売してしまった。「今日はもう追加できないから仕方ないわね」
「この前続けてカカオの発酵を始めておけばよかったのかも」
「そうね。でもあの時は早くチョコレートを作りたくてそこまで頭が回らなかったのよね」
まだ京陽産カカオの味がわからなかったし、いつものカカオ豆もあるから、そんなに深く考えていなかったのだ。
「今夜からまた発酵始めますか?」
「ええ、ケーキが完売したら早めに閉店してカカオの森へ行きましょうか」
「そうしましょう!」
予想していたよりも早く、夕方にはすべてのケーキが完売してしまった。
閉店作業を終えカカオの森へ行くと、青王様がたくさんの妖たちを連れてやってくるのが見えた。
「ひっ...あれなに?なんの妖?」
大きなねずみみたいなのと、体にいくつもの目がある牛みたいなの。
「あれは、鉄鼠と白沢ですね」
「鉄鼠と白沢...」
近づいてくるとやっぱり怖い。思わず後ずさりしていると、
「穂香が怖がっている。みんな人間の姿になってくれるかな」
青王様が言うと、次々と人間の姿に変わっていく。しかもみんなかなりの美男美女だ。
「え?すごい...」
「驚かせてすまなかったね。この妖たちが発酵と乾燥を手伝ってくれる。作業中は人間の姿でいるから安心して」
「は、はい」
全部で十人の妖たちによろしくと挨拶をすると、みんなフレンドリーに話しかけてくれた。明るくて優しくていい妖ばかりだ。怖がったりして失礼だったなと反省する。
「すぐに発酵作業を始めたいのですが、今からでも大丈夫ですか?」
「かまわないよ。完成している設備は今のところ三カ所だから、今回はすべての設備で発酵を始めるといい」
「ありがとうございます。みなさん、よろしくお願いします」
さっそく一通りのやり方を説明すると、みんな一斉にカカオポットを収穫し作業を始めてくれた。
「わたしにも手伝わせてくれるかな。前回一緒に作業したとき、とても楽しかったんだ」
「はい、一緒にやりましょう」
青王様は私のとなりで作業を始めた。
瑠璃が言っていた通り、みんなとても丁寧に作業をしてくれた。しかも早い!
楽しく和やかな雰囲気で作業が進み、あっという間に終了してしまった。
「みなさんお疲れ様でした。これはフロランタンと言って、瑠璃ちゃんが作ってくれたお菓子です。ここのカカオも使っているのでぜひ食べてみてください」
みんながおいしいと言って食べてくれた。もっと欲しいなって言ってもらえて瑠璃もうれしそうだ。
「ここにいる妖たちはチョコレートを食べたことがないんだよ。だから、できあがったらぜひ振る舞ってやってほしい」
「もちろん持ってきます」
「わたしもケーキやクッキー、作ってきます!」
「二人ともありがとう。そうだ、穂香に聞きたいことがあったんだ」
え、なんだろう...?
「チョコレートやフロランタンに入っていたカカオニブ。あれはほかの食べ方もあるのかな?」
「はい。お菓子に使うことが多いですが、お料理にも使えますよ。カカオニブはポリフェノールが豊富で体にいいんです」
「妖にも効果があるだろうか...まぁ、効果に関係なくおいしいものは食べてみたいが」
「よろしければ、お菓子以外にもなにか作りますよ」
「穂香、ありがとう」
青王様は私を見つめ、そっと頭をなでた。
「あの、青王様。私...ずっと前に青王様に会ったことがある気がして...」
「そうか...」
青王様はそれ以上そのことには触れようとしなかった。
言いづらいなにかがあるのだろうか。私はなにも思い出さないほうがいいのかな...
私ももうなにも言わず、数日後に発酵状態の確認に来ることにしてカカオの森をあとにした。