「穂香、今日はパパの車で幼稚園にいくよ」
「はーい!ママは?」
「ママも一緒よ」
幼稚園の入り口に着くと、ママが私の頭をそっとなでながら話しかけてきた。
「ママたちはこれから病院にいって、おなかの赤ちゃんは元気かな~って診てもらって来るから、お迎えはおばあちゃんが来てくれるからね」
「うん!いってきまーす」
まさかこれが最後の会話になるなんて...
病院へ向かう車に、居眠り運転の大型トラックが正面から追突したそうだ。
四歳だった私は、両親と、生まれてくるはずだった弟か妹を一度に亡くした。
おばあちゃんは、月命日に必ず近所のケーキ屋さんでジャムの入ったボンボンショコラを六個買っていた。三個は仏壇に供え、残りの三個はおじいちゃんおばあちゃんと私でおやつに食べる。中のジャムは月替わりで、いつも何が入っているかワクワクしたものだ。
その習慣は、私が就職して家を出るまで続いた。
『近所のケーキ屋さんのボンボンショコラ』が作りたくてショコラティエになった私は、都内の洋菓子店で五年間働き、念願だった自分の店をオープンすることになった。
理想を遙かに上回る素敵な物件を見つけることができ、リノベーションも済み待ちに待った引っ越しの日。今にも踊り出してしまいそうな気持ちで京都駅に降り立った。
JR奈良線の東福寺駅で京阪電車に乗り換え、伏見稲荷駅に到着するとなんとも不思議な感覚を覚える。
「いつもここに来ると、帰って来たっていう感じがするんだよね...」
私は東京で生まれ育ち、京都を訪れたのは中学校の修学旅行が初めてだった。もちろん今まで一度も住んだことなんてない。
それなのに今回、店を出すのはどうしても京都がいいと思ったし、物件探しや打ち合わせで来るたびに、懐かしいようなホッとする気持ちになった。
まずは神様にご挨拶をするため伏見稲荷を参拝する。ここはとても気持ちがよく心から安心できる場所で、いつも時間を忘れてのんびりしてしまう。
不思議だなぁ...と思いながらゆっくり歩き、一階が店舗で二階が住居になっているとても古いけれど広くて明るい建物へ向かう。
ここが私のお店で新しい家。
建物の正面に立ち「これからお世話になります」と一礼した。
部屋の片付けを終え店舗前の掃除をしていると、二十代前半ぐらいの女性が声をかけてきた。
「すみません、こちらは新しくオープンするケーキショップですか?」
「え?あ、はい...」
「わたしは高山瑠璃といいます。パティシエールをしていましたが、最近京都に引っ越してきて仕事を探しているんです。ぜひここで働かせていただけませんか?」
「えっと...でも私も引っ越してきたばかりだし、まだ開店準備中で人を雇おうなんて考えてなくて」
「開店準備から手伝わせてください。お願いします!」
結構な勢いに圧倒されながらも、なぜかもう少し話を聞いてみようと思った。
「ちょっと中で話しましょうか」
簡易的なテーブルと椅子があるだけの店内へ案内し話を聞くことにした。
「瑠璃さんだっけ。どうしてここで働きたいと思ったの?」
「今まで神戸のケーキショップで働いていたんですけど、その店では色んなルールに縛られていて、一番年下だったわたしは意見も言えない雰囲気で...苦しかったんです」
瑠璃は今にも泣き出しそうな顔で、訴えかけるように話している。
私も今まで働いていた店では辛い思いをしていたから、瑠璃の気持ちがとてもよくわかる。
「だから、今度はオープニングスタッフとして働けたら、わたしからも提案とか相談とかもできるんじゃないかなと思ったんです」
話を聞いていると、私たちは同じような経験をしてきたんだとわかった。だから共感もできるし、お互いに相談しあえる仲間がいたら心強いだろうなと思った。
「わかったわ。これから細かい備品の購入や商品の考案、レシピの作成含めて、準備期間は一ヶ月ぐらいと考えているの。その間を試用期間にするということでどうかしら」
「ありがとうございます!よろしくお願いします!よかったぁ」
とてもうれしそうな瑠璃は、美人だけどどこか幼さの残る可愛らしい笑顔を見せた。
「あっ、私はショコラティエでこの店のオーナーの岩星穂香といいます。瑠璃ちゃん、これからよろしくね」
握手をすると体全体にふわっとした暖かさを感じ、なぜかこの人が一緒なら店はうまくいくような安心感を感じた。
「明日から数日間は大きな機材の設置で業者さんが入るから、その間にまずは商品とレシピを考えましょうか」
「はい、わたしにケーキの担当をさせていただけませんか」
「瑠璃ちゃんはパティシエールなんだから、もちろんお願いするわ。ケーキのほかに詰め合わせにできそうな日持ちのする焼き菓子も数種類お願いできる?」
「わかりました。穂香さんに認めてもらえるように全力でがんばります!」
瑠璃はどこに住んでいるんだろう。履歴書ももらわなかったけど、よかったのかな...
部屋に戻ると一瞬そんなことが頭をよぎったけれど、瑠璃のことは信じても大丈夫だという自信のようなものがあった。
翌日、瑠璃はたくさんのレシピを考えてきてくれた。
「すごい!どれもおいしそう。とりあえずいくつか試作してみましょうか。でも今日はチョコ系以外のものだけね」
「チョコ系はだめなんですか?」
「コンチェが届くのが明後日の予定なの。だからまだチョコレートが作れないのよ」
チョコレートはコンチェという機械で長時間精錬をすることで、あの香りとなめらかさがうまれる。
瑠璃はチョコが食べたかったと残念そうにしているけれど、こればかりは仕方がない。
「だから今日はショートケーキとチーズ系のケーキを作りましょう」
「わかりました。準備しますね」
瑠璃のレシピをもとに意見を出し合いながら全部で五種類のケーキを試作した。どれもおいしくて、試食なのに食べる手が止まらない。瑠璃の腕は確かだから、私が作るチョコレートのせいで味を落とすわけにはいかない。最高のチョコレートを作らなくては!
チリンチリンとドアベルが鳴り振り向くと、淡い緑色の着物を纏った女性が立っていた。
「あら。まだ開店時間前だったかしら?」
「すみません、今はまだ新規オープンの準備中なんです。開店日が決まったらお知らせしますので」
「そうだったの...ごめんなさいね」
女性は残念そうに顔を伏せた。
「ご近所にお住まいの方ですか?」
「ええ、ここから五分くらいのところに住んでいますが、久しぶりにこの道を通ったらおいしそうな香りがして。私、甘いものが大好きなの」
「それなら、もしよろしければご試食していただけますか?試作品なのでお代は結構ですので」
試食用に小さなスクエア型にカットしたケーキを、ケーキ用のボックスに詰め女性に手渡した。
「うれしい!でもいただいてしまっていいのかしら」
「もしお口に合ったら、オープン後にご来店いただけるとうれしいです」
「ありがとう」と言ってうれしそうに帰っていく女性を見送ったあと、ドアにはクローズの札をさげる。外にも甘い香りが漂っていて、入ってみようと思う人が他にもいるかもしれないから。
改めて瑠璃と二人で相談し採用するケーキを決めた。
「そういえば、タブレットやボンボンショコラも作るんですよね?」
「もちろん。コンチェが届いたら、今度はチョコレート三昧よ」
「チョコレート大好きだから試食が楽しみです。あ、そうだ。チョコ系のケーキに使うチョコレートは穂香さんに選んでほしいんです」
「瑠璃ちゃんのケーキに合うと思うチョコレートをいくつか作るから、試食しながら一緒に選びましょう」
「わかりました!」
今日の試作はここまでにして、瑠璃と一緒に買い物に出ることにした。
店内を飾る小物やラッピング用品などを買い込んで店に戻り、荷物を置いたところで何か違和感を感じた。
あれ?と思った瞬間、体がふわっと浮くような感じがして目の前が真っ白になった。
気がつくとそこは広い和室で、隣には申し訳なさそうな顔をした瑠璃が座っている。
「ここ、どこ?」
「すみません、これからちゃんとお話します」
すると、スッと襖が開き見知らぬ男性が入ってきた。
中性的な顔立ち、透き通るような水色の瞳、瞳と同じ色の腰まである髪を後ろでゆるく束ねている。
「穂香さん、こちらは妖界の王、青王様です。ここは妖の住む国、京陽といいます」
妖...青王様...?私、夢でも見てるのかな...
「瑠璃、ありがとう。わたしが説明するから大丈夫だよ」
青王様と呼ばれた人は、私のところへ近づいてきて
「穂香、突然連れてきてしまってすまない。驚かせてしまったね」
「ええと、これはどういうことでしょうか...」
「改めて、わたしはここ京陽の国王、青という。穂香に頼みたいことがあって瑠璃に連れてきてもらったんだ。瑠璃はわたしの手伝いをしてくれている座敷童子という妖だよ」
「は!?座敷童子?」
いきなりすごいカミングアウトだ。いったい何がおこってるのか理解できないんだけど...
「瑠璃が言ったとおりここは様々な妖が暮らしている妖の国で、王城内では座敷童子、妖狐、猫又などの妖が働いているんだよ」
そう言われても、言葉は通じるし青王様も瑠璃も普通の人間にしか見えない。妖と言えば怖いイメージがあるけど、二人は怖いと思えないな。
「それで、わたしはたまに人間の世界で流行っている食べ物や娯楽などを見て歩き、それらを京陽でも取り入れられないか考えているんだ。そんなときたまたま入った店で初めてチョコレートを作っているところを見たんだ」
「初めてチョコレートを?」
「チョコレートを食べたことはあったけれど、その材料や作り方は知らなかったんだ」
「それでどうして私を?」
「そのときチョコレートを作っていたのが穂香だった。続きは別の場所で話すから一緒に来てほしい」
王城を出て方丈庭園のような手入れの行き届いた庭を青王様がゆっくりと進んで行き、その後ろを瑠璃と一緒について行く。
「ここだよ。森の中を歩きながら話そう」
「えっ、なんでこんなところに...」
目の前に広がるのは、カラフルなカカオポットがたくさんぶら下がっているカカオの木の森だ。
思わずかけ寄り黄色のカカオポットを手に取った。このゴツゴツとした形はクリオロ種だ。
「ここでカカオを栽培してるの?」
「いや、特に手入れなどはしていない。ここではカカオが自生しているんだよ」
「え、うそ...このカカオは病気になりやすくて手入れが大変なのよ」
「でもここでは勝手に育つんだ。たまに中の白い部分を絞って汁を飲んでいるものもいるけれど、ほぼほったらかしだね」
白い部分は、甘酸っぱくて糖質とビタミンB1を含んでいるカカオパルプという部分だ。
「話を戻すが...穂香がチョコレートを作っていたとき、そばにカカオの実があるのを見たんだ。だからカカオがチョコレートの原料だと知った。ここにはカカオがたくさんある。これを使ってチョコレートを作ってもらえないだろうか」
「その時そばにあったのはたぶんオブジェ用のカカオポットね。私が使っていたのは、発酵と乾燥をしてチョコレートを作るための準備が終わったカカオ豆。ここにあるものをこのままの状態で使えるわけじゃないのよ」
「その発酵と乾燥ができれば作れるのかい?」
「まあ...大変だと思うけれど、それができるのならなんとかなるかも...」
だけど私はその方法こそ知っているものの、実際には見たことも経験したこともない。できると言い切るのは無責任だと思う。
「必要なものを教えてもらえればすべて準備をする。どうかお願いできないだろうか」
「少し考える時間をください。とりあえず一度、お店に帰らせてください」
とにかく今私が一番にやるべきことはお店のオープン準備なのだ。
「わかった。では一度戻って落ち着いたら、また話をしに来てくれないだろうか」
「はい、店の準備が終わったらまた来ます。でもどうすれば来られるの?」
「そうだね、瑠璃に言えば連れて来てくれるけれど、穂香の都合がいいときに来られるようにこれをあげよう」
青王様はそう言って懐中時計をくれた。文字盤が透明でところどころ青くキラキラしていてとても綺麗だ。数字の部分には青い石が埋め込まれている。
「その青い石は瑠璃石という。穂香にはラピスラズリと言ったほうがわかるかな」
「ラピスラズリならわかるわ」
「そこには瑠璃が使う妖力の一つ、転移の力が込められているんだ。だからそれに行きたい場所を伝えると移動できる」
瑠璃ちゃんはすごい力を持っていたんだと思いながら懐中時計を眺める。やっぱりとても綺麗だと思う。
「穂香の店の名前を伝えれば戻れるよ。こちらに来るときは『京陽の王城』と伝えればわたしのところに来られる」
「穂香さん!そういえばまだお店の名前聞いてないです」
「あっ、まだ言ってなかった。店の名前はLupinusにしようって決めていたの。Lupinusの花言葉は、いつも幸せって言うのよ。私が作るチョコレートを食べた人に幸せな気持ちになってもらえたら、私も幸せだから」
「Lupinus、とっても素敵です!」
Lupinusはカラフルな花が咲き、とても綺麗なのだ。瑠璃にも気に入ってもらえてよかった。
「今は瑠璃がいるから懐中時計は使わなくてもいいが、まあ一度試してみるといい。穂香、また来てくれるのを楽しみに待っているよ。瑠璃、しっかり穂香の手伝いをするように」
「はい!」
「必ずまた来るとお約束します」
私は懐中時計に『Lupinus』と伝えた。
「まさかあんなところで君に会えるなんて思っていなかった。見つけた時は本当に驚いたよ」
青王は自室に飾ってある写真を愛おしそうに見つめている。
「あの時、君がチョコレートを作りながら幸せそうに微笑んでいてとても安心したんだ」
今は穂香として生きる君は、当然わたしのことは覚えていないだろう。
だけどいつか思い出してくれたらうれしい。
もう一度あの頃のように語り合い、笑い合い、穏やかな時間を一緒に過ごせたら、うれしい。
「穂香さん、ごめんなさい!」
店に戻るなり瑠璃が勢いよく謝ってきた。床に着きそうなほど頭を下げて...
「瑠璃ちゃん、怒ってないから頭を上げて」
すると瑠璃は大きな瞳に涙をいっぱい溜めてこちらを見つめる。
「怒ってないけど本当にびっくりしたわ。どういうことか、なにが起こったのか、ちゃんと説明してくれる?」
「はい、あの、座ってお話しませんか」
「そうね。とりあえず落ち着くようにホットココアでも作るわ」
「ありがとうございます」
瑠璃はホットココアを一口飲み、ゆっくり話し始めた。
「青王様がおっしゃった通り、わたしは座敷童子という妖です」
「座敷童子って、それが住み憑いている家やお店は繁栄するって言われる妖怪よね」
でも私には霊感とかそういうのはないし、怪奇現象みたいなものにも遭遇したことがない。霊とか妖怪とか信じてはいないけれど。
「そう言われていますね。でもわたしはずっと王城で青王様のお手伝いをしてきました」
「そう。それじゃあどうして私の店で働きたいって言ってきたの?」
「青王様が東京の自由が丘という場所を見て歩き、京陽に戻ってきてすぐわたしに穂香さんのそばに行くよう言いつけたんです。穂香さんが楽しく過ごせているか、辛い思いをしていないか見守り、何かあったらすぐ教えてほしいと」
自由が丘は私が以前勤めていた場所だ。
「青王様がそう言った理由はわかる?」
「それは、あの...青王様に聞いていただけませんか?」
「知ってるけど話せない、って感じね」
「すみません...」
「聞きたいことはほかにもまだたくさんあるけれど今日はもう休みましょう。明日は焼き菓子の試作をして、そのあと青王様に話を聞きに行くわ」
「わかりました。今日は本当にすみませんでした」
瑠璃はもう一度深く頭を下げ帰って行った。
青王様は、私が勤めていた店でオーナーに怒鳴られたり無茶ぶりされているところを見ていたのかしら。
見守るなんて、まるで私が辛い思いをしていることを知っていたみたいじゃない。
でもどうして私のことを?
職場で辛い思いをしている人なんて、ほかにもたくさんいると思うけど...
「穂香さん、おはようございます」
「あっ、瑠璃ちゃんおはよう。あのね、今日お昼すぎにコンチェが届くことになったの」
「やったー!これでチョコレートが作れるようになりますね」
「そうね。カカオ豆は届いているから、コンチェが届いたらすぐ洗浄して作り始めましょう」
瑠璃はとても嬉しそうにしている。もちろん私も。
これからは自分が思うように自由にチョコレートを作れる。
夢が叶う瞬間にまた一歩近づけるのだ。
「届くのを待つあいだに焼き菓子の試作をしましょうか。瑠璃ちゃんはどれを作りたい?」
先日のレシピを見ながら、瑠璃はクルミのクッキーを、私はバターと蜂蜜のフィナンシェを選んだ。
瑠璃はすぐに材料を選び、手際よく生地を作っていく。
二つのボールに小麦粉やバター、卵、そしてフィナンシェの生地にはアーモンドプードルを入れて
「穂香さん、クルミは大きめと小さめ、どっちがいいと思います?」
「そうね...両方作ってみましょう」
「わかりました!」
瑠璃はどちらにするか質問しながらもう一つクッキーの生地を準備していた。私の答えがわかっていたのかな。
「穂香さん、これにクルミを混ぜて冷凍してもらえますか。あっ、ちょっと細めにしてください」
冷凍...アイスボックスクッキーってことね。
クルミを混ぜ込んだ生地を細めの棒状に成形して冷凍庫に入れる。そのあいだに瑠璃がフィナンシェの生地を仕上げて型に流し込んでいる。
フィナンシェの焼き上がりを待つあいだ、瑠璃に聞いてみた。
「瑠璃ちゃんは本当にパティシエールとして働いていたの?」
「ごめんなさい。それはここで働かせてもらうための口実です。青王様から穂香さんを見守るように言われて、どうすれば近くにいられるか考えたんです」
「でも瑠璃ちゃんが作るケーキは確かにプロ並みだった。手際もいいしちゃんと経験を積んでいるんだと思ったわ」
「お菓子作りが趣味というか、大好きなんです。王城ではほぼ毎日作っていました。だからそれなりに自信があったしなんとかごまかせるかなぁ、って...本当にごめんなさい」
だんだんとうつむき声も小さくなっていく。昨日から謝ってばかりの瑠璃を見たら、なんだかかわいそうな気がしてきた。あとは青王様に聞くことにしようかな。
『ピーッピーッ』とオーブンから焼き上がりの合図が聞こえてきた。バターと蜂蜜の甘い香りが広がっている。
「綺麗な焼き色ね。早く試食したいけど粗熱を取るあいだにクッキーも焼いちゃいましょう」
「それじゃあ生地のカットしちゃいますね」
瑠璃は冷凍しておいた生地にグラニュー糖をまぶしカットして天板に並べていく。クッキーの焼き上がりを待つあいだ、お待ちかねのフィナンシェの試食をすることに。
「うわぁおいしい!回りはサクッとして中はしっとりね」
「香りもいいですね。焦がしバターにしてよかった」
「ちゃんと焦がしバターを濾していて、丁寧に作っているなって思ったわ」
「濾さないと苦みが出ちゃいますからね」
改めて瑠璃が来てくれてよかったと思う。
チョコレート作りでは手を抜かないし自信もあるけれど、そのほかのお菓子を作るとき、私にはこんなに丁寧な仕事ができるかわからないから。
「フィナンシェなんですけど、チョコレートとかコーヒーや紅茶の味も試作してみていいですか?」
「もちろん。でも最初はオーソドックスなメニューを置こうと思うの。フレーバー違いは徐々に増やしていきましょう」
「わかりました。ふふっ、なんだか楽しいな」
「今までは楽しくなかったの?」
「楽しくなかったわけじゃないですけど、今までは自分が作りたいお菓子を作りたいときに黙々と作ってただけで、こうやって誰かと一緒に作って試食して、今度は違う味にしてみようとかそんなふうに考えたことなかったから」
思いついたことをメモしながら楽しそうにしている瑠璃は、本当に生き生きとしている。
「あっ、クッキーも焼けましたよ」
焼き上がったのは、ちょっと小さめでキラキラしたディアマンクッキーだ。
「一口サイズでかわいらしいわね。プレーンの生地だったら色付きのグラニュー糖をまぶしてもいいかも」
「味付きのザラメなんていうのもありますよ」
「それもいいわね。ある程度メニューが決まったら色々なクッキーやフィナンシェを試作してみましょう」
「はい!そろそろクッキーは冷めたかなぁ」
瑠璃は両手にクルミが大きめと小さめのクッキーを一枚づつ持って、もう待ちきれないという顔をしている。
私も両方持って、二人同時に食べ比べた。
「サックサクでおいしい!」
「クルミの食感もいいわね。私はクルミ大きめがいいかな」
「わたしも大きいほうがいいです」
「それなら、最初に並べるのはクルミ大きめにしましょう」
「お待たせしました!」
二人の意見をまとめていると、待っていたコンチェが届いた。
「ありがとうございます。ここに置いていただけますか」
「了解でーす!」
元気のいいお兄さんがコンチェを運び入れ、丁寧に設置をしてくれた。
「完了でーす!ありがとうございました!」
「あっ、これ試作品ですけどよかったらどうぞ」
瑠璃がラッピングをしておいてくれたフィナンシェとクッキーを渡すと、
「まじっすか!俺、こう見えて甘いもの大好きなんすよ!」
「それならよかったです。オープンしたらケーキもチョコレートも並べるので、ぜひいらしてくださいね」
「おねえさんたちもかわいいし、絶対きちゃいます!それじゃ失礼しまーす」
なんかすごい人だったね、と、瑠璃と顔を見合わせて笑ってしまった。
さっそく二人で手分けをしてコンチェの洗浄消毒をし、コンチングを始める。
昨日瑠璃が帰った後、業者さんからのメールをチェックしたら今日届くという連絡が来ていた。私は徹夜でカカオ豆の焙炒やグラインダーという機械による磨砕、レファイナーという機械による微粒化まで準備をしておいたのだ。
...青王様のところのカカオはどんな味がするんだろう。やっぱりカカオ、使わせてもらおうかな...
「コンチングは十五時間ぐらいかけようと思うから、これから青王様のところに行きましょう」
「そんなに時間かかるんですか。それじゃあコンチングが終わるのは明日の朝ですね。わたしも七時ぐらいに来ていいですか?」
「そんなに早くて大丈夫?」
「はい!少しでも早くチョコ系お菓子の試作ができるようにお手伝いします!」
「それならお願いしようかしら」
瑠璃はただチョコレートを食べたいだけのような気がするけれど...
「ふふっ、楽しみだなぁ穂香さんのチョコレート」
「さあ行きましょう」
「あの、フィナンシェとクッキー、青王様にも持って行っていいですか?」
「試作品を青王様に渡すの?」
「だってこんなにおいしくできたし、実は青王様は甘いものがお好きなんですよ」
「それなら持って行きましょうか」
瑠璃は丁寧にラッピングをしながら嬉しそうにしている。
「瑠璃ちゃんも一緒だけど、今日は懐中時計を使って行ってみることにするわ」
「はい、そうしましょう」
『京陽の王城』
そうつぶやくと、次の瞬間には先日と同じ広い和室にいた。
「穂香、よく来てくれたね」
青王様は待ち構えていたように部屋に入ってきた。
「こんにちは。今日は青王様に聞きたいこととお願いがあって来ました」
「そうか。とりあえず座って。瑠璃、お茶を用意してくれるかな」
「はい、今お持ちします」
瑠璃はバタバタと部屋を出て廊下を走っていく。するとドンッと大きな音がした。
...えっ、瑠璃ちゃん大丈夫かな。
「はぁ、廊下は走らないように言っているのに。瑠璃は結構おてんばなんだよ」
そうだったんだ...
「へへっ、転んじゃいました」
と恥ずかしそうにしながらお茶を持って戻ってきた瑠璃は、私の隣に座るやいなや
「青王様、これ、穂香さんと一緒に作ったお菓子です。今までで一番おいしくできたと思います!」
瑠璃ちゃん、試作品の残り全部持ってきたんだ...
「そうか、ありがとう。みんなでいただこうか」
お茶をいただき一息ついたところで
「あの青王様、まずはお願いを聞いていただけますか」
「お願いか。わたしに叶えられることならいいけれど、なにかな」
「チョコレートを作るために必要な場所と設備を提供してください。それと、この国のカカオでチョコレートを作らせてください」
私は深く頭を下げる。すると青王様は私の隣へ来て膝をつき、そっと頭を上げさせ
「それはこの前わたしが穂香にお願いしたことだよ。どんな設備が必要か教えてくれればすべてカカオの森の中に準備する。カカオはいくらでも使ってもらってかまわない。穂香が作ると言ってくれてうれしいよ」
青王様はありがとうと頭を下げる。私も、こちらこそと頭を下げる。二人でペコペコし合っているのを瑠璃は離れた場所からそっと見守っていた。
この前とは違う道を通り、三人でカカオの森に向かう。
こちらには小さな池があった。泳ぎたくなるほど綺麗で大小の魚が泳いでいるのがよく見える。
「青王様はどうして瑠璃ちゃんに私を見守るように言ったんですか?」
青王様はどこか遠くを見つめ、少し寂しそうな顔をしている。
「それは、穂香がわたしの大切な人によく似ていたからだよ。今はもういないけれど、わたしはずっとその人を大切に思っている」
「似ているから、だけですか?」
「...いつかきちんと話す。ほら、着いたよ」
やっぱりほかにも理由があるんだ。でも今は話せない事情があるのかな。無理に聞くのはやめておこう。
「いつか絶対に教えてくださいね」
発酵に必要な木箱や温度計、乾燥に使うデッキなどの画像を青王様に見せ、それらの大きさや雨が当たらないように開閉式の屋根があるといいなど、細かな説明をした。
「それなら乾燥の期間中は雨を降らせないようにするよ」
「え、そんなことができるの!?」
「水を操るのは得意だからね」
青王様って何の妖なんだろう。カッパとか...なわけないか。
「場所はこのあたりでいいかな。明日までに用意しておくから穂香の都合がいいときに来るといい。懐中時計に『カカオの森』と言えばここに来られるから」
「ありがとうございます」
青王様は私の頭をポンポンとなでた。
「え...」
「あ、すまない...」
顔にほんの少し赤みが差しはにかんだような笑顔を見せた青王様。もしかしたら“大切な人”にはいつもやっていたのかも。
「青王様、私、不思議に思っていたことがあるんです。瑠璃ちゃんが働かせてほしいって言ってきたとき、この人と一緒にいたほうがいいかもって思ったんです。初対面だし履歴書とかもなくて身元もわからないから、あやしいって疑うほうが普通だと思うのに」
「申し訳ない。それは穂香が瑠璃を受け入れてくれるように、少し妖の術を使わせてもらったんだ」
「穂香さんが自由が丘のお店にいるときは姿を消してそばにいました。でもそれだと、辛そうにしていても話をすることができないじゃないですか!」
瑠璃は悲しそうな顔で、泣きそうになりながら、必死になって話している。
「だから、穂香さんが自分のお店を持つと聞いたとき、そこで働かせてもらおうと思ったんです。色々考えて、パティシエールになりすまして...断られないように、青王様に術をかけていただいて...」
瑠璃はその場にしゃがみ込んでしまった。
青王様も瑠璃も、こんなに一生懸命に私を守ろうとしてくれている。きっと青王様の“大切な人”は、瑠璃にとっても“大切な人”だったのだろう。
そして、もしかしたらその“大切な人”と私は何か関係があるのかも...と思った。
「青王様、二人が私を守ろうとしてくれている本当の理由、いつかちゃんと教えてくださいね」
「ありがとう。いつか必ず話すと約束するよ」
「瑠璃ちゃん、Lupinus に戻りましょう」
耳元で“明日チョコレートがおいしくできたら、青王様に持ってきましょう”とささやくと、とたんに笑顔になった。
Lupinus に戻り、瑠璃が淹れた紅茶を飲んでちょっと一息つく。
「瑠璃ちゃんは、どんなチョコレートを食べたことがあるの?」
「青王様がこっちの世界で買ってきてくださった、色々なお店のタブレットやボンボンショコラですね。でも、コンビニとかで売っているものは食べたことないです」
「それじゃあ、青王様はどんなチョコレートがお気に入りかわかる?」
瑠璃はしばらく考えこんだあと、紅茶を一口飲んでから話し始めた。
「青王様はチョコレートの酸味が苦手っておっしゃってました。色も濃くないものがいいって。あと、まん丸で中に色んなガナッシュが入っているものと、穂香さんがいたお店のボンボンショコラがお好きでした」
ハイカカオチョコじゃないほうがいいのかな。まん丸のチョコって言ったらあのブランドのものよね。自由が丘の店のチョコレートはすべて私が作っていたのだから、どれでも同じように作ることができる。青王様本人に一番好きなのはどれか聞いてみようかな。
「今作っているのは酸味が少ないカカオを使っているから大丈夫だと思うわ。明日、自由が丘の店で作っていたものの中からいくつか作ってみるわね」
「イチゴジャムが入ってるボンボンショコラと、オレンジピールのタブレットは絶対作ってください!」
「瑠璃ちゃんはその二つが好きなのね」
「はい!」
その二つは作ると約束をして瑠璃を帰らせたあと、私はイチゴジャムを作りはじめた。
そのほかにクルミのカラメリゼやキャラメルソースを仕込んでいると、深夜0時を回っていた。そろそろ休まないと寝坊しちゃう...
「おはようございまーす!」
翌朝元気にやってきた瑠璃は店内中に広がる甘い香りに気づくと、一目散にキッチンへ向かう。
「穂香さん、昨日わたしが帰ってからこんなに仕込んだんですか?」
調理台の上に並ぶジャムたちを眺めながら、言ってくれればお手伝いしたのにと唇を尖らせている。
「ほら、そろそろテンパリングに移るからそんな顔しないで」
「だって...」
だいぶいじけてるな...それなら!
「瑠璃ちゃん、先に少しテンパリングするから、それを使ってチョコレートケーキを作ってくれる?」
「はい!がんばっておいしいケーキ作ります!」
あっという間に機嫌を良くした瑠璃は、どんなケーキを作るかはチョコレートの味見をしてから決めると言って、必要な材料だけ先に準備を始めた。
コンチングが終わったチョコレートをケーキ用に少しボールに移し、あとはテンパリングの機械に入れる。
ボールでテンパリングをしたチョコレートを渡すと味見をし、すぐにケーキを作り始めた。
「このオレンジ使ってもいいですか?」
「材料はなんでも使って。でも無くなりそうなものがあったら教えてね」
「はい!」
私はさっそくボンボンショコラを作る。
丸型はクルミ、四角はキャラメル、それからハートはイチゴジャム入り。
そのあとオレンジピールを入れたタブレットチョコを二枚作ると、チョコレートだけが少し残ったからプレーンの小さなタブレットにした。
「チョコレートケーキ、できました!あとこれも」
「パウンドケーキ?」
「チョコレートケーキにはオレンジの皮をすりおろして使ったので、実のほうは絞ってオレンジケーキにしました」
瑠璃は紅茶を淹れなおし、ケーキを切り分けた。
「これおいしい。オレンジの香りがさわやかだし、蜂蜜のやさしい甘みがいいわね」
「よかった。チョコのほうはどうですか?」
「甘すぎずチョコの苦みも感じるし、かすかなオレンジの香りがいいアクセントになっているわ」
どちらもこのまま商品として採用しようと思う。自由が丘の店のものより、瑠璃ちゃんのケーキのほうが好きだな。
「チョコレートもいただきまーす!」
ハート型のチョコを一口で頬張ると、本当に幸せそうな顔で味わっている。
「うーん、やっぱり穂香さんが作るこのチョコ、おいしすぎる!」
「ありがとう。でも青王様に持って行くぶんまで食べちゃだめよ」
瑠璃はハッとした顔をしながらチョコレートをラッピングし始める。持って行くぶんを先に取っておくらしい。
「そろそろ王城へ行かない?」
「あっ、青王様はカカオの森にいらっしゃるので直接行きましょう」
「わかったわ。お菓子は持ったわね。それじゃ『カカオの森』」
カカオの森では青王様がカカオポットを持ち、じーっと観察していた。
「青王様、こんにちは。なんだか不思議そうな顔をしていますがどうかしましたか?」
「穂香よく来たね、待っていたよ。...こんなにゴツゴツした実からどうしてあんなになめらかなチョコレートができるのかと思ってね。そうだ、設備の準備はできているから確認してくれるかい」
すごい!こんな立派な設備を一日で作っちゃうなんて!
「ありがとうございます。これでしっかりカカオの処理ができます」
「それはよかった」
「青王様!今日もお菓子持ってきましたよ。まずはお茶にしましょう」
瑠璃はそう言いながら王城のほうへ走っていった。また転ばなければいいけれど...
瑠璃が戻ってくるまで、私は青王様と一緒にカカオポットを収穫することにした。
「ここで発酵と乾燥をしたら、次は Lupinus でチョコレートを作ります。もしよかったら見にいらっしゃいませんか?カカオがなめらかになっていく過程が見られますよ」
青王様は驚いた顔をしながらも私に笑顔を見せ
「穂香に誘ってもらえるとは思わなかった。うれしいよ。ぜひ見せてもらおうかな」
「おまたせしました。今日のお菓子は穂香さんが作ったチョコレートです!」
「瑠璃ちゃんのケーキもあるじゃない」
「どちらもおいしそうだね。さっそくいただくよ」
青王様は四角いキャラメルソースが入ったチョコレートを一口かじり、やっぱりこれが一番だとつぶやいている。
「青王様はそのチョコレートがお好きなんですか?」
「そうだね、これが一番好きだよ。でも穂香が店を辞めてからは食べられなかったからね。久しぶりに食べられてうれしいよ」
「Lupinus がオープンしたら毎日作るので、いつでも持ってきますよ」
「ちゃんと買いに行くよ。ほかのお菓子も見たいからね」
「青王様、甘いもの好きですよね。穂香さんを見つけてからは自由が丘のお店にもしょっちゅう行ってましたもんね」
「こら、瑠璃!まったく...」
青王様は耳を真っ赤にしながら紅茶を啜っている。
私は店頭に出ることはほとんどなかったから、青王様が来店していたことをまったく知らなかった。もちろんその時は青王様を知らないのだから気づくはずもないんだけれど...
「さて、そろそろカカオの処理を始めましょうか」
「はい!わたしは何をすればいいですか?」
瑠璃にカカオの処理方法を説明していると、青王様もやらせてほしいと言ってきた。王様にそんなことをさせてもいいのか迷っていると、瑠璃が近づいていき
「青王様、一緒にやりましょう!」
と、カカオの実を渡している。私は苦笑いするしかなかった...
三人でカカオの実を割り発酵を始めた。そのあと少し休憩をし持ってきたお菓子の感想などを聞いたあと、数日後にカカオの様子を見に来ることにして Lupinus へ戻った。
それから三日間、二人でケーキや焼き菓子の試作をし、店内のディスプレイを整え、開店の準備をすすめた。
「キャー!」
カカオの森へ行き発酵状態を確認していると、足に何かがまとわりついてきた。おそるおそる見ると白いもふもふした塊が二つ転がっている。
「なにしてるの?なにしてるのー?」
「え...しゃべった?」
「こら、穂香を怖がらせたらいけないよ」
青王様がそう言って近づいてきた。
「穂香、これはすねこすりという妖だよ。この森にいるすねこすりは足にまとわりついてくる程度だから怖がらなくていい」
「びっくりしました...でもよく見ると子猫みたいでかわいいですね」
ここは妖の住む国と聞いていたけれど、青王様も瑠璃も普通の人間にしか見えないから油断してた。
こんなかわいい妖ならいいけれど、見た目が怖かったりものすごく大きかったりする妖もいるのかしら...
「これから穂香にも姿を見せるものが少しずつ現れるだろう。王城やこの森にいる妖たちは穂香に危害を加えたりしないけれど、わたしか瑠璃がいつもそばにいるようにするから安心していい」
「...はい」
すねこすりは五匹に増えて、私の足下をうろうろしながら興味津々でこちらを見ている。
「穂香さん、カカオの状態はどうですか?ちゃんと発酵できてます?」
「え...あ、ええ、だいじょうぶそう。あと三日ぐらい発酵させたら乾燥に移りましょう」
「結構時間がかかるんですね。この前、チョコレートって割と簡単にできるんだなって思ったのに」
「普通はね、カカオの産地で発酵と乾燥が終わったカカオ豆を仕入れてチョコレートに加工するの。この作業を自分たちでやることはないのよ」
瑠璃は、そうなんだぁ...とつぶやきながらすねこすりのそばへ行き、いたずらしちゃだめよと言い聞かせている。
さて、今日はもうここでできることはない。
「青王様、三日後にまたきますね」
「ああ、待っているよ。また穂香のチョコレートも食べたいな」
「ふふ、わかりました。持ってきますね」
Lupinus へ戻り商品の最終調整をしながら、
「瑠璃ちゃん、来週からお店をオープンしようと思うの」
「ついにオープンですか!楽しみだなぁ」
「クッキー生地とか、冷凍保存できるものは準備を始めましょう」
オープン日を知らせる張り紙も作る。店の前の通りは人通りが多いけれど、少しでも多くの人に見てもらえるように、見やすく印象に残るようにを心がけて。
「あとは前日か当日までできることはないですね」
「そうね、それじゃ青王様に持って行くお菓子、いくつか作ってもらえる?私もチョコレートを作るわ」
「はい。あ、テンパリングが終わったチョコを少しもらえますか」
「はいどうぞ」
と、ボールに移したチョコレートを渡す。
なにを作ったかは青王様の前でお披露目することにして、それぞれ箱詰めまで終わらせることにした。
今日、青王様は王城にいるようなので、まずはそちらに挨拶に行くことにした。
「青王様こんにちは。お約束のお菓子、持ってきましたよ」
「ありがとう」
「紅茶淹れてきますね!」
瑠璃はまた廊下を走って行く。転ばないでね...
無事に紅茶を淹れて戻ってきた瑠璃は、青王様の前にお菓子を並べていく。
子どものようにはしゃいでいる二人の笑顔を見ていると、ちょっと不思議な感覚をおぼえた。
「穂香、どうかしたかい」
「あっ、いえなんでもありません。私もいただきますね」
ダブルクリームのエクレア、ピスタチオとイチゴジャムのケーキ、チョコクリームサンドクッキー。今日も瑠璃のお菓子はおいしい。
「穂香のチョコレートも瑠璃のお菓子も、わたしは大好きだよ。二人ともいつもありがとう」
青王様によろこんでいただけると私もとてもうれしい。でもなんだろう、この感覚...
「そろそろカカオを見に行きましょう」
「カカオの森まで歩くかい?また妖が姿を見せるかもしれないよ」
「...まだすねこすりたちだけで十分です」
「あはは、それでは瑠璃に移動させてもらおうか」
「はい!」
カカオは十分に発酵していた。
乾燥用のデッキに並べ、雨が降らないようにしてほしいと青王様にお願いをしていると、すねこすりたちがそっと近づいてきた。私はその場にしゃがみ込み勇気を振り絞ってもふもふの毛をなでてみた。
「うわ、すごい。柔らかい...」
もっとなでてー、と言いながら集まってくるもふもふは、やっぱりみんなかわいらしい顔をしている。
「もうすねこすりには慣れたかな」
「はい、もう大丈夫です」
「それはよかった。次はいつくるのかな」
「二日後に見にきます。あと、来週から店をオープンすることにしました」
「そうか。それではこれを持っているといい」
青王様は私の手になにかを握らせた。
「それは万が一穂香に危険が迫った時、すぐわたしに知らせてくれる。女性二人しかいない店なのだから用心のためだよ」
「ありがとうございます」
ではまた、と Lupinus へ戻ると瑠璃に声をかけられた。
「穂香さん、それは肌身離さずに持っていてくださいね。なにがあっても青王様が守ってくださいますから」
私の手の中には、アクアマリンと龍のような形が埋め込まれたペンダントがあった。
三日後の朝、
「明日の十時にオープンだから、焼き菓子やチョコレートは作って並べちゃいましょう。それが終わったらカカオの様子を見に行きましょうか」
「はい!まずはクッキー焼いちゃいますね」
一通りの準備が終わったところで青王様におみやげを持って王城へ行き、カカオの森ではすねこすりたちのかまって攻撃をかわしながら、カカオの乾燥を均一にするために裏返したり場所を入れ替えたりした。
「また三日後にきますね」
「雨は降らせないようにしておくよ。Lupinus がオープンしたらしばらくは忙しいだろうけど、あまり無理をしないように」
「はい、ありがとうございます」
店に戻りケーキの下準備を終え、明日のために早めに休むことにした。
開店当日、瑠璃ちゃんも早朝から来てケーキ作りをしてくれたおかげで、余裕を持って準備をすることができた。
十時少し前になると、店の前に数人のお客様が待っていた。その中には最初に試作品を渡した着物の女性もいる。
「いらっしゃいませ。おまたせいたしました」
開店と同時に店内へ入るお客様は、楽しみにしてたよ、素敵なお店ね、と声をかけてくれる。ほかのお客様がみんな入店したあと、最後に着物の女性が声をかけてくれた。
「先日はありがとう。本当においしくて開店が待ち遠しかったわ」
「ありがとうございます。あの時にはなかったチョコレートや焼き菓子もあるので、ゆっくり見ていってくださいね」
お客様はみんな笑顔でお菓子を選んでいる。おいしそう、きれいね、っていう声が聞こえるたびにうれしくて涙が出そうだった。
実は瑠璃ちゃんが、お菓子を購入されたお客様にお渡しするために、結婚式やお祝い事でおなじみのコンフェッティを作ってくれていた。一つずつカラーフィルムで包み、かわいらしくラッピングしてある。
コンフェッティとはアーモンドを砂糖でコーティングしたものだけれど、今回はチョコレートと砂糖の二層にしたみたい。
次々とお客様がきてくれて、やっと途切れたところで休憩をすることにした。
紅茶を淹れ一息ついていると一人の男性がやってきた。
「いらっしゃ...え...オーナー...」
「久しぶりだな岩星。こんな立派な店を出したのか」
「どうしてオーナーがここに...」
「この前たまたま京都にくる用があってさ、この辺歩いてる時に新規オープンの張り紙を見つけて読んでたんだよ。そうしたら店の中でおまえがチョコレートを作ってるのに気づいた。突然辞めたと思ったらこんなところに店を出すとか、生意気なんだよ!」
私は怖くて動くことも声を出すこともできなかった。
「客からチョコレートの味が落ちたとか穂香ちゃんはいないのかとか言われて、おまえが辞めたと知った常連も来なくなったし売り上げも落ちた。おまえのせいだ!どうしてくれるんだ!」
「穂香さん、どうしたんですか!」
「関係ないやつはどっか行ってろ!俺はこいつに話があるんだ!」
「穂香さん、とりあえず一旦クローズにしてきますね」
瑠璃がクローズの札を出すためにドアを開けると同時に、男性のお客様が入ってきた。
「青王さ...」
「静かに。瑠璃はドアの鍵を閉めて誰も入ってこないようにして」
「はい」
「い、いらっしゃいませ」
「こんにちは。店の前を通ったら大きな声が聞こえたから。何があったのかな?」
あ、この瞳の色。青王様だ...
「なんでもない。こいつとはちょっとした知り合いで、今日は話があって来ただけだ」
「でも彼女はだいぶ怯えてるみたいだけど?」
「なんでもないって言ってんだろ!」
私は、恐怖と青王様がきてくれた安心感で崩れるようにその場にしゃがみこんでしまった。
「もう大丈夫だよ」
青王様は私のそばへ来て背中をさすりながら耳元でささやいた。
「わたしも彼女とはちょっとした知り合いでね。そんな大声を出すなんて、どう考えてもなんでもないとは思えないな」
「うるせーな!話が終わったら帰るから関係ねーやつは出ていけよ!」
「ここには女性二人しかいないんだから、こんな状況の中おいていくわけにはいかないよ」
オーナーは青王様を、今にも襲いかかりそうな鋭い目つきでにらみつけている。
「彼は自由が丘のお店のオーナーだったかな。穂香が辛い目に遭わされていたのは知っている。今日は何を言われた?」
「なにコソコソ話してんだよ!岩星!こっちこいよ!」
「彼女は具合が悪そうだから、奥でちょっと休ませるよ」
「はぁ?邪魔してんじゃねーよ!」
オーナーがこちらへ向かってきた瞬間、青王様が人差し指を立てフッと息を吹きかけた。するとオーナーは電池が切れた人形のようにその場に倒れた。
「大丈夫だよ。ちょっと眠ってもらっただけだから」
「青王様...私...」
涙が止まらなくて、どうしようもなくて、思わず青王様の胸に飛び込んでしまった。
「穂香、ゆっくりでいいからなにがあったか教えてくれるかい」
私は小さくうなずき、青王様に支えられながら立ち上がった。
「瑠璃、なにか暖かい飲み物を。それからその男を見張っていてくれるかな」
「わかりました。甘いミルクティー淹れますね」
厨房の奥にある椅子に座り、瑠璃ちゃんが淹れてくれたミルクティーを一口。蜂蜜たっぷりで、甘くて、やさしくて、少しずつ気持ちも落ち着いてきた。
「何があったか話してごらん」
「はい。青王様は私がオーナーからどんな扱いを受けていたかご存じなんですよね。私はこれ以上頑張れないと思って自分で店を出すと決め準備を始めて...オーナーにはもう無理だと言って逃げるように退職しました。もちろん店を出すことも京都に来ることも言っていません。それなのに...たまたま用事があって京都に来たというオーナーに見つかってしまって...」
青王様はときどきうなずきながら、静かに話を聞いてくれている。
「私が辞めたらチョコの味が落ちたと言われてお客様が減った。売り上げが落ちた。それはおまえのせいだ。どうしてくれるんだ。って...」
そこまで話すとまた涙があふれてきてしまい、青王様はそっと頭をなでてくれた。
「穂香にすべて押しつけて、誰もその味を引き継げるものがいなかったのだから、自業自得だろう。穂香にはなんの落ち度もない」
私が顔を上げられずにいると、
「あの男がこの店や穂香に近づくことは二度とできないように術をかけておくよ。もちろん誰かに穂香のことを言いふらしたり、ネット上に誹謗中傷を書き込まれることもないようにする。大丈夫だよ。わたしが穂香を守るから」
「なんだか私...あ、いえ、ありがとうございます」
「さあ、これからどうする?今日はもう店を閉めるかい?」
「いえ、もう一度開店します。オープンを楽しみにしてくれてるお客様もいると思うので」
「そうか。ではあの男には出て行ってもらおうか」
厨房から店内へ戻ると、青王様はオーナーに声をかけ店の外まで誘導した。
オーナーは何があったのかわからないような顔をして駅のほうへ向かって歩いて行った。
「あの、どうしてわかったんですか?オーナーが来たこと...」
「穂香がちゃんとペンダントを持っていてくれたからだよ。何が起こっているかまではわからないけれど、穂香が何か怖い思いをしていると知らせてくれたんだ」
「これにそんな力があるんですか...」
「だからいつも必ず持っていてほしい」
「わかりました。ありがとうございます」
「瑠璃、穂香を頼んだよ」
青王様は、建物全体に術(結界みたいな?)をかけて王城へ戻って行った。
「瑠璃ちゃんもありがとう。ミルクティー、ホッとする味だったわ」
「いえいえ、穂香さんが落ち着けたならよかったです」
「さて、せっかくの初日なんだから、もう一度店を開けましょう」
「はい!」
オープンの札を出しに行くとドアに張り紙があった。
『機材故障のため数時間クローズさせていただき、復旧次第あらためてオープンいたします。申し訳ございません』
「瑠璃ちゃん、張り紙してくれてありがとう」
「穂香さんならもう一度オープンするって言うと思って。もうあの人は来ないから安心してくださいね」
改めて Lupinus オープンです!