宇治川に架かる朝霧橋の上で、ふと空を見上げると綺麗な彩雲が出ていた。
空を指さしながら青王様に声をかけると、私と同じように空を見上げ「彩雲か。わたしたちがここへ来たことを歓迎してもらえているのかな」と私の顔を見て微笑んだ。
「なんだか良いことがありそうですね。これから行くお店でいいものを見つけられそうな気がします」
目的のお店に着き色とりどりの雑貨やアクセサリーが並ぶ店内に入ると、そのかわいらしさに目を奪われた。つい見入ってしまったけれど「いけない。ちゃんとした目的があって来たのに...」なにも言わず後ろからそっと見守ってくれていた青王様に
「ここは組紐のお店なんですよ。実は青王様にこの組紐をプレゼントしたくてここに来たんです」
「わたしに?」
「はい。青王様はいつも、着物の端切れで作った紐で髪を結ってますよね。でもせっかく綺麗な髪なのだからこういう綺麗な組紐で結ってほしくて」
「穂香...」
私は何本もの組紐を、あれでもない、これでもないと、一本ずつ青王様の髪に合わせていく。
「あっ、これがいいと思います。どうですか?」
「うん、わたしもこの色がいいと思う」
「ではこれにしましょう」
薄いベージュと白の糸で組まれた組紐を店員さんに渡し、会計をして包んでもらう。
店を出たあとは宇治川のほうへ戻り、宇治公園で休憩することにした。
公園のベンチに座ってお茶を飲んでいると、私たちの前を、手をつないでお散歩をしている老夫婦や犬のお散歩をしている親子が通り過ぎていく。
わた雲が浮かぶ空を見上げていると穏やかな気持ちになる。そういえば、あの頃も青王様とよくこうして空を見上げて、雲の流れや星の瞬きを眺めていたなぁ。
「こうしてゆっくり空を眺めるのはいつぶりだろう。空良がいなくなってから、わたしはこういう穏やかな時間があることを忘れていたよ」
「青王様...私も今、あの頃のことを思い出していました。懐かしいですね」
「穂香、もしよかったら...あ、いやその...先ほどの組紐で髪を結ってくれるかい?」
「わかりました。少し横を向いてください」
青王様のサラサラとした絹のような髪を後ろで一つに結う。組紐が解けてしまわないようにしっかりと。
スマホで写真を撮り「こんな感じです」と青王様に見せた。
「素敵だね。この色にしてよかった。ありがとう、穂香」
「いえいえ、よくお似合いです」
さっき青王様は、もしよかったら...このあと本当はなにを言おうとしたのだろう。きっと髪を結って欲しかったわけではないと思う。
「そろそろ帰りましょうか。伏見稲荷駅の近くでちょっと買いたいものがあるんです」
「ではゆっくり行こうか」
「はい。帰りは京阪に乗るのでこっちです」
青王様の少し後ろで、大きな背中を見ながら歩いていると「やっぱり私は青王様のことが好きなのかも」と思う。でも私はただの人間で、青王様とは住む世界も生きる時間も違いすぎる。
伏見稲荷駅に着き、近くにあるお店へ向かう。
「ここの生姜のおせんべいが大好きなんです。とってもおいしいですよ」
薄く焼いた玉子せんべいを折りたたみ生姜味の砂糖蜜をかけたもので、サクサクした食感としっかりした生姜の風味がクセになるお菓子なのだ。
「それではわたしも買っていこう。穂香のおすすめなら母上もよろこぶだろう」
生姜のおせんべいを二袋ずつ購入すると、お店のお姉さんが「これ失敗作だけど、おまけに入れておきますね」と、耳の先が少し割れてしまった狐のお面のような形のおせんべいも入れてくれた。
「今日はとても楽しかった。ありがとう。それにこの組紐はわたしの宝物だ。大切にするよ」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
青王様は「穂香...」と、なにか言いかけて黙ってしまった。宇治公園で休んでいるときもなにか言いたそうだった。もしかして、絵馬になにを書いたか聞きたい...とか?
「あっ、そろそろ藤の開店準備を始めたいので、明日の閉店後に誉と寿に会えますか?」
「あ、ああ、わかった。二人に声をかけておくよ」
「では明日、王城にうかがいますね。よろしくおねがいします」
青王様は笑顔でうなずき「店まで送るよ」と言って一緒に帰ってくれた。
部屋に戻り一人になったとき「もう少し青王様と一緒にいたかったな」と、少し寂しさを感じた。
一緒にお出かけをして楽しい時間を過ごしているうちに、青王様に対する自分の気持ちを確信した。空良ではなく穂香として、今の私として青王様のことが好きなんだ。
でもそんなこと絶対に言えない。人間の私に好きだと言われても、きっと青王様は困ってしまうだけだ。
「青王様おかえりなさい。どこに行ってたんですか?」
「ちょっと散歩にね」
「おしゃれして、デートですか?ん?その組紐は...」
瑠璃は目敏く組紐を見つけわたしに詰め寄ってくる。
「いや、これは...しかもデートって...いいか、ただの散歩に行っていただけだ」
「ごまかさなくてもいいじゃないですか。穂香さんと一緒だったんですよね」
顔がどんどん熱くなっていく。瑠璃には隠し事ができないようだ。穂香、すまない...
「穂香から瑠璃には内緒にしてほしいと言われているんだが...」
瑠璃はちょっといじけたような恨めしそうな目で見てくる。
「出かけるから一緒に来てほしいと言われて、宇治まで行ってきた。いつもの端切れの紐ではなく綺麗な組紐を使ってほしいからと、組紐の店でこれを選んでくれたんだ」
「まぁたしかに、青王様の髪にあの紐は合わないですからね。それで、青王様は穂香さんに誘われたとき、どう感じました?うれしいと思いましたか?」
「もちろんうれしかった。つい...その...口づけをしそうになってしまった...でも穂香は下を向いたまま顔を上げてくれなかった。恥ずかしくなったと言っていたけれど、穂香に不快な思いをさせてしまったかもしれない」
「はぁ...見ていればわかりますけど、青王様は穂香さんのことがお好きなんですよね。どうしてちゃんと穂香さんの気持ちを聞こうとしないんですか?」
「それは...穂香のことはしっかり考えるからそんなに焦るな」
瑠璃はため息をつき呆れたという顔をしている。けれどわたしも、どうすればいいかわからないのだ。穂香の気持ちもわからないのに、自分の気持ちを伝えることで彼女を苦しめることになってしまったら...と思うと怖いのだ。
「あっそうだ。穂香が藤の開店準備のために誉と寿に会いたいと言っていた。二人に、明日の夕方王城へ来るよう伝えておいて欲しい」
「わかりました。伝えておきます」
もう!青王様も穂香さんも本当にじれったい!
あんなに長い時間一緒にいたんだから、お互いの考えていることぐらいわかるでしょ、って思う。
でも、穂香さんは人間であることを気にして、自分の気持ちに蓋をしているように見える。きっとそれさえなければ、青王様にしっかり気持ちを伝えることができる人だ。
青王様に組紐を贈ったのはたぶん、空良様が青王太子様の髪を短く切り手入れをしていたことを思い出したから。
穂香さんはよく青王様の髪をチラチラと見て、なにかを気にしている感じだった。自分がいなくなってから伸ばしっぱなしにしている髪を、あんな粗末なもので結っていることに心を痛めていたんだろう。
青王様だってずっと穂香さんのことを気にしてて、大切に思っているし好きなんだよね。だけど穂香さんの気持ちはわからないからなんて言って、ただ聞く勇気がないだけじゃない!
お互いに、相手がどう思っているかわからない、気持ちを伝えても困らせてしまう、って勝手に思ってなにも言えないでいるなんて、そんなのもったいないよ...
「穂香さん、誉と寿に今夜王城へ来るように伝えておきましたよ」
「ありがとう。開店にむけてそろそろ本格的に打ち合わせを始めないと」
「そうですね。もう少しメニューやレシピも考えないといけないし...」
「店内の備品は青王様が揃えてくれているはずだから、セッティングは私たちでやりましょう」
「それはわたしの妖力でササッと終わらせちゃいますよ!」
そうだ。瑠璃には転移の力があるんだった。物を移動させるのなんて簡単なこと。あの頃も大掃除のときなんかに家具を動かしてもらっていたな。
「ふふ、頼りにしてるからね」
瑠璃は大きくうなずきながら、商品を持って店のほうへ向かった。時計を見るともうすぐ開店の時間だ。私もいそいで準備しなきゃ。
「いらっしゃいませ」
西の空がオレンジ色に染まりつつあるころ、ある一組の男女のお客様がやってきた。
「うわぁどれもおいしそう。あれ?これって...」
「ん?ああ、あの店でもこういう印、付いてたよね」
二人がボンボンショコラを見て話す内容に、私はドキッとして背中が冷たくなるのを感じた。
こういう印とは、中のガナッシュやフィリングを区別するために、ボンボンショコラの側面に色づけをしたホワイトチョコで付けた小さな点のこと。
自由が丘の店では、同じ形だけど中身が違うボンボンショコラがいくつもあったから、混ざってしまわないように付けていたのだ。本当はもう必要ないけれど、今も癖でなんとなく付けてしまう。
「もしかして、自由が丘のお店にいた店員さん?」
「あ...はい、そうです」
「やっぱり!突然この印がなくなったと思ったら間違いが増えて、しかも味も落ちちゃったのよ。すごくおいしくてお気に入りだったのにショックだったわ」
「すみません、突然辞めてしまって...」
「あの店のオーナー、パワハラがすごいって噂で聞いたんだ。最近ほとんどお客さんが入らなくて今月いっぱいで閉店するらしいよ。辞めて正解だったんじゃないかな」
「そうだったんですか。でも、お客様にはご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんでした」
二人に頭を下げると「謝らなくていいよ。大変だったね」と声をかけてくれた。
苦しかった毎日を思い出してしまい、やさしい言葉を聞いたとたん涙があふれてしまった。
「すみません...」
「穂香さん、テンパリング終わりましたよ」
「え?あの、ちょっとチョコレートの様子を見てきます。すぐ戻りますね」
本当は今、テンパリングなんてしていない。きっと瑠璃が気を利かせて涙を拭く時間を作ってくれたのだ。
冷たいタオルで目元を拭いたあと、二種類のボンボンショコラをそれぞれ半分にカットしピックを添えて店内へ戻った。
「すみません、おまたせしました。よかったら試食してみてください。あの店とは別の種類のカカオを使っているので、だいぶ味が違うと思います」
「ありがとう。いただきます」
「お、うまい!」
「ホントにおいしい!やだ、どうしよう」
女性のお客様が「太っちゃうよぉ」と言いながら、でもとても楽しそうに話している。
「彼の仕事の都合でね、京都に引っ越すことになったの。だからこのタイミングで結婚することにしたのよ。それで今日はやっと引っ越し荷物が片付いたから伏見稲荷にお参りに行ってきたの。そうしたらまさかまたあなたのチョコレートに出会えるなんて!」
「そうだったんですか。ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう。これからよろしくね」
「こちらこそ。いつでもお待ちしています」
二人は店内を行ったり来たりし、たくさんのお菓子を抱える奥様に旦那様が「いつでも来られるんだから、少しずつ買ったほうがいいよ」と声をかけると「そうね、新しいうちに食べたほうがおいしいよね」と仲良く選んでいる。幸せそうでちょっとうらやましいな。
長い時間ずいぶんと悩みながら焼き菓子を選び、今度は冷蔵ケースの前でケーキとチョコのどちらにするか悩んでいる。
「チョコレートは、ご結婚のお祝いに私たちからプレゼントさせてください」
「え、うれしい!ありがとう!」
「ありがとう。それじゃあ今日はケーキを買おうかな」
二人が選んだ二つのケーキを、瑠璃が厨房へ持っていきデコレーションをして戻ってきた。
「今日は特別にデコレーションさせていただきました」
「うわぁ、かわいい!」
「本当に、いろいろありがとう」
笑顔で帰って行くお客様を見送ると、瑠璃が私の顔をのぞいてきた。
「穂香さん、いやなこと思い出しちゃいましたよね。大丈夫ですか?」
「ありがとう。もう大丈夫」
「よかった。それで、あの、穂香さんは青王様のことがお好きですよね。見ていればわかります。青王様に気持ちを伝えたりしないんですか?」
「え...だって...人間の私がそんなことを言っても、青王様を困らせるだけでしょ」
瑠璃が口を開きかけたとき、数名のお客様が来店された。そろそろ会社帰りのお客様で賑わう時間だ。
「いらっしゃいませ」
「よかった。今日はチョコレートのモンブラン残ってた」
「ありがとうございます。お電話いただければお取り置きもできますよ」
「それじゃあ今度からお願いするね」
瑠璃が箱詰めしたケーキを渡すと、とてもうれしそうな笑顔で帰っていった。
次は大量注文のお客様。
「明日、チョコチップクッキーと蜂蜜のフィナンシェ、三十個ずつ欲しいんだけどお願いできますか?」
「大丈夫ですよ。ご来店は何時頃のご予定ですか?」
「お昼過ぎには来られると思います」
「かしこまりました」
その後もバタバタしているうちに、あっという間に閉店時間になった。
「先に仕込みしちゃう?」
「いえ、誉たちが待ってると思うので先に王城に行きましょう」
おやつにシュークリームを持って行き、瑠璃に紅茶を淹れてもらい打ち合わせを始めた。「シュークリーム、おいしい!」
「寿、口のまわりがクリームだらけだよ」
誉は寿の顔を拭き、クリームがこぼれない食べ方を教えていた。二人はとても仲が良くて微笑ましい。
一息ついたところで店内を整備する日程や商品ラインナップを決め、研修のために明日から Lupinus に来るよう伝えた。
今まで何度か試食会をしたり瑠璃に持って行ってもらったお菓子を食べて、二人はほとんどの味と商品名を覚えていた。記憶力がいい二人なら、接客や箱詰めの方法など必要なことをすぐに覚えられるだろう。
「明日は初日だから、わたしも朝から閉店まで二人の様子を見ていようと思う」
「わかりました。それなら夕食にトマトのカレーを作りますね」
「ありがとう。せっかくだから王城で作ったらどうだろう。実は離れのそばでトマトとナスを育てているんだ。もうたくさん実っているからそれを使うといい。それに父上と母上にも食べさせてやりたい」
誉と寿も「カレー食べたい!」と期待に満ちた顔をしている。
「青王様が育てたトマト...はい、がんばってあの頃と同じカレー作りますね」
「わたしも手伝うよ」
「えぇ~、お手伝いはわたしがします!」
青王様と瑠璃がお手伝い権を取り合っている。「瑠璃はいつも穂香と一緒にお菓子作りしてるじゃないか」「それはお手伝いじゃなくてお仕事ですっ!」青王様はちょっと困った顔で言葉に詰まっている。瑠璃は結構気が強くて、青王様にもしっかり言い返す。
「二人とも、王城の厨房は広いんだから三人で作りましょう。あ、四人かな?きっと茜様も来てくださると思うし」
青王様と瑠璃のやりとりを、ぽかんと口を開けて見ていた誉と寿。きっと青王様のあんな子どもっぽいところ、初めて見てビックリしただろうな。
「瑠璃ちゃん、そろそろ戻って仕込みしましょう」
「あっ、そうだった!」
「明日の朝、待ってますね」と手を振ると、青王様たちも手を振りながらお見送りしてくれた。
「おはようございます!よろしくお願いしますっ!」
「お願いします!」
元気よくやってきた二人にエプロンを渡すと、さっそく瑠璃が付けかたを教えていた。後輩ができたことがうれしいようで、とても張り切っている。
「穂香、瑠璃、二人のことは頼んだよ」
「はい。安心して藤を任せられるようにしっかり育てますね」
青王様は一つうなずき、厨房の奥にある椅子に腰掛けた。
「レジや冷蔵ケース、それに棚の位置とか、藤でも同じ機材を使ってできる限りここと同じレイアウトにするわ。だからここでしっかりできるようになれば、あとはただ店の場所が変わるだけだから困ることはないと思うの」
「はい。がんばって覚えます!」
「それじゃあ瑠璃ちゃんは寿にいろいろ教えてあげてね。誉には私が教えるわ」
それぞれ挨拶をし、開店の準備を始めた。
まずは品出しから。
瑠璃たちは焼き菓子などの棚に並べる商品を、私たちはケーキなどの冷蔵ケースに入れる商品を持ち厨房を出る。
寿は商品名の札と商品の組み合わせをしっかり確認しながら、間違えのないよう慎重に並べている。
対して誉は手際よくどんどん並べていく。以前働いていた和菓子屋さんでは、寿は品出しをしたことがなかったと誉が教えてくれた。
「これで品出しは終わり。会計や箱詰めは実際に接客しながら教えるわ。それじゃ開店しましょう」
一度にたくさんのお客様が入ることはなく、それぞれに会計と箱詰めを教えることができた。レジの使い方が少し難しかったようだけど、やっているうちに覚えられるだろう。
「少し早いけど、完売しちゃったから閉店にしましょう。ある程度片付けたら王城に行って夕食にしましょうね」
寿は「やった~!もうおなかペコペコですぅ」とおなかをさすっている。
「わたしは先に戻ってトマトとナスを収穫しておくよ」
青王様は「母上も楽しみに待っているよ」と言って戻っていった。
「ただいま戻りました」
「誉、寿、おかえり。穂香も瑠璃もお疲れさま」
「お待たせしました。さっそくカレーを作りましょう。誉と寿は今日の復習をしながら待っててね」
青王様は「穂香、ちょっと...」と私を呼び止めると「さっきからその辺りを母上がウロウロと歩き回っている。気をつけて」と耳元でささやいた。
「気をつけて...って?」
厨房に向かって歩いていると、うしろからドタバタと足音が近づいてきて突然抱きつかれ転びそうになった。
...なるほど、そういうことだったか...
「穂香ちゃ~ん、いらっしゃい!待ってたのよ~。一緒にカレー作りましょうね~」
「あ、茜様、こんばんは。今日はよろしくお願いします」
茜様は私の腕をガシッとつかみ「もう離さないわよ~」と楽しそうに小躍りしながら歩いている。
歓迎していただけるのはとてもありがたい。でも今の私が青王様の妃になることはないのだから、もしそれを期待されているとしたら...と思うと心がチクチクと痛む。
「すごい!おいしそうなトマトがいっぱいですね」
「青王ったら毎日毎日『おいしくそだ...』」
「母上!それ以上は言わないでくれ!」
青王様が真っ赤な顔をしてめちゃくちゃ焦っている。きっと畑で野菜たちに話しかけているところを茜様に見られたのだろう。
実は空良の時に何度も目撃していたけれど、あえて知らないふりをしていたのだ。そうやって野菜の世話をしている時の青王太子様が、とてもやさしくて幸せそうな顔をしていたから。
私は青王様に「湯むき、お願いします」とトマトを手渡した。
「瑠璃ちゃんはご飯を炊いてね。それからサラダ用のフルーツのカットも」
「はい!」
「茜様、私たちはタマネギを切って炒めましょう」
「ふふ、こうしているとあの頃を思い出すわぁ。なつかしいわね」
「そうですね。あの頃は楽しかったなぁ...」
でももう戻れないんだと思ったら胸の辺りがキュッとなった。
茜様がタマネギを炒めてくれているあいだに、私はナスと青王様が湯むきをしてくれたトマトを大きめに切っていく。
あとは隠し味であるバナナを、丁寧に裏ごししピューレにする。
私は小さい頃からトマトとナスが入ったカレーが大好きで、よくおばあちゃんに作ってもらっていた。だけどおばあちゃんのカレーにも、大きくなり自分で作るようになってからも、一度もバナナが入ることはなかった。
でも先日青王様と一緒にトマトのカレーを作ったとき、前世の記憶と共にこの隠し味のことも思い出した。それからは私もこの隠し味を入れるようになったのだ。
「できた!瑠璃ちゃん、誉たちを呼んできてもらえる?」
「父上はわたしが呼んでくるよ」
「はい、お願いします」
茜様と二人でカレーとサラダを盛り付けテーブルの準備が整ったころ、丁度みんながダイニングに集まった。
「いただきます!」
このカレーを初めて食べる誉と寿は、おいしいと言いながら夢中になって食べている。
「空良妃と同じ味だね。なつかしいなぁ」
「ええ、本当に。作りかたも隠し味もあの頃と同じだった。穂香ちゃん、また一緒にお料理ができてうれしいわ」
「ありがとうございます」
「ねぇ穂香ちゃん、またここでみんな一緒に暮らさない?」
「え...?」
それが叶うならどんなに幸せか...でも私は青王様の妃にはなれない。
だけど瑠璃のように、王城に住み込みでお手伝いをしながらお店のこともできるかな...
この際だから王城で雇ってもらうとか?
...って、私なに考えてるの?!
「穂香...穂香?」
「あ!はい、すみません...」
「穂香ちゃんがいてくれたらわたしも楽しいし、なによりあなたたちはお互いに惹かれあってるんでしょ?見ていればわかるわよ」
「母上!突然なにを言うんですか!穂香が困っているじゃないか」
私は驚きで声も出ない。青王様に自分の気持ちを伝えることはできないのに、茜様にはこの気持ちに気づかれていた。瑠璃にも見ていればわかると言われていたし、ちょっと青王様に馴れ馴れしくしすぎたかな...
ん?お互いに、ってどういうこと?
「だって~、二人で話してるときの穂香ちゃんはキラキラしてるし、青王はやさしい顔をしてるし、幸せオーラがにじみ出てるもの~」
青王様と私は顔を見合わせ固まってしまった。
「ほら~やっぱり~。二人とも顔が真っ赤よ。恥ずかしがってないで、ちゃんと気持ちは伝えなきゃダメよ」
「母上...」
私は恥ずかしさと、この気持ちは心に留めておかなければいけないという思いで頭の中がごちゃごちゃになって、涙があふれてしまった。
「ごめんなさい、私...」
どうしたらいいのかわからなくて、ダイニングを飛び出してしまった。
「一度部屋に戻って落ち着こう...」
「青王、ごめんなさい。穂香ちゃんの気持ちも考えないであんなことを言ってしまって」
「穂香は自分が人間であることを気にしている。半妖だった空良でさえあんなに気にしていたんだから」
「もうここへは来てくれない、なんてことないわよね...」
「どうだろうな。とりあえず穂香の様子を見てくる」
瑠璃に、事態を飲み込めないでいる誉たちに説明するよう指示し、青王は穂香のもとへ向かった。
「大丈夫かい?」
「青王様...取り乱してしまってすみませんでした」
「穂香、わたしは穂香のことをとても大切に思っている。できることならずっと抱きしめていたい。穂香が人間であることを気にしているのはわかっている。でも本当の気持ちを聞かせてほしい。どうか話してはもらえないだろうか」
青王様の綺麗な水色の瞳が、とても不安げに揺れている。
今、本当の気持ちを言ってしまったら青王様を困らせてしまう。でも、私のことを大切だと言ってくれた青王様に、その気持ちには応えられないと言ったら悲しませてしまうかもしれない。
やっと止まりかけた涙がまた流れ始めうつむく私の頭をなでながら「落ち着いてからでかまわないから」とやさしく声をかけてくれる青王様。
『穂香、大丈夫よ。この人ならあなたを絶対に大切にしてくれるわ。自分の気持ちに素直になりなさい』
顔を上げられないでいると、脳内に直接語りかけるような声が響いた。どこかで聞いたことがあるようで懐かしい、でも誰だかわからない、穏やかで澄んだ安心感のある声。
「わ、私...青王様のことが好きです。初めは空良の気持ちを思い出しているだけだと思っていました。でも、ちゃんと今の私の気持ちなんだ、って気がつきました。ただ、私は人間だから...」
「穂香、ありがとう」
私を笑顔でぎゅっと抱きしめるこの人の腕の中は、なんて暖かくて安心できる場所なんだろう。ずっと帰りたかったところへやっと帰ってこられたんだと思ったら、だけどこれで青王様を困らせてしまうかもしれないと思ったら、また涙が溢れて止まらなくなってしまった。
青王様は私が顔を上げるまで、何も言わずずっと抱きしめてくれていた。
「少し落ち着いたかい?」
「はい...あっ!」
「どうした?」
突然我に返ってしまった。ムードもなにもあったもんじゃないな...
「すみません...茜様に謝らないと。それに明日の仕込みもしないと」
青王様は驚いた顔をしながらも「母上には明日の夜にでも会いに行けばいい。わたしは穂香ともう少し話したかったが...次の休みにでもまた二人で出かけようか」と笑顔を見せてくれた。
「お出かけしたときには、私が思っていることをちゃんとお話しします」
「わかった。どこかゆっくりできるところで話そう。では、わたしは王城に戻って瑠璃を来させるよ。穂香は厨房で待っているといい」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
青王様は私の頭をポンポンとなで「おやすみ」と帰って行った。
厨房へ入るとちょうど瑠璃もやってきた。
「穂香さん、大丈夫ですか?」
「瑠璃ちゃん、びっくりさせてごめんなさい。もう大丈夫よ」
「よかった。夕食、あんまり食べてなかったからおなかすいてませんか?カレー持って来たので、よかったら仕込みの前に食べてください」
トレーに乗せたカレーとフルーツサラダをテーブルに置き、冷たい麦茶を淹れてくれた。
「ありがとう、いただくわね。瑠璃ちゃんは仕込み始めてて」
「はーい」
絶対に言ってはいけないと思っていたのに、突然降ってきた誰かの声に背中を押され勢いで言ってしまった本当の気持ち。それを聞いた青王様が笑顔を見せてくれたことで少しホッとしたけれど、やっぱりまだ不安や迷いは消えない。
「穂香さん、わたしのほうは終わりました」
「お疲れさま。こっちももう終わるから瑠璃ちゃんは戻って大丈夫よ」
「はい。お疲れさまでした」
瑠璃が戻ったあと、私は明日茜様に持って行こうと思い、たくさんのボンボンショコラを作った。ほんの少し悪戯をしかけて...
「おはようございます!」
「おはよう。二人とも、昨日はビックリさせてごめんなさい。今日も研修頑張ってね」
「はーい!」
瑠璃が、誉と寿に昨日の出来事に至るまでの経緯を説明したと言っていた。それでも今日二人はいつも通りに、何事もなかったかのように接してくれた。
「穂香さん、今日はわたしたちが冷蔵ケースのほうの品出ししますね」
「よろしくね」
今日はお客様が多くて忙しかったけれど、二人はしっかり接客ができていた。この調子なら安心して藤を任せることができそうだ。
「お疲れさま。私も王城に行く用事があるからみんなで戻りましょう」
ボンボンショコラが詰まった箱を持ち王城へ戻ると、青王様と白様、茜様が出迎えてくれた。
「白様、茜様、昨日は取り乱してしまってすみませんでした」
「穂香ちゃんは悪くないわ。わたしはあなたの気持ちも考えずに思ったことをそのまま口にしてしまった。軽率だったわ。本当にごめんなさい」
「あ、あの、もう大丈夫ですから」
深く頭を下げる茜様に恐縮してしまい、私はあたふたするばかり...
格上の人にこんな風に謝られたらどうしていいかわからない。
「えっと...ボンボンショコラを持ってきました。みんなでお茶にしませんか?」
「紅茶、淹れてきますね!」
瑠璃が厨房へ走って行く。その後ろを「お手伝いします」と寿が追いかける。
「穂香ちゃん、ありがとう。お茶の後に二人だけで少しお話できるかしら?」
「はい、大丈夫です」
「紅茶の準備ができました。ダイニングへどうぞ!」
ボンボンショコラを大皿に並べると、私はみんなに説明した。
「今日はロシアンルーレットにしました!」
みんなの頭の上に「?」が浮かんでいる。
「この中に二つだけ、唐辛子が入っているものがあります。でも人間の世界には実際に唐辛子や胡椒が入っているチョコレートが売っているので、特におかしなものではありません」
「それを選んだらアタリなのかな?それともハズレかな?」
「うーん...それは、もし白様がそれをおいしいと思ったらアタリ、まずいと思ったらハズレ、ではないでしょうか」
「なるほど。そう言われればたしかにそうだね」
青王様と瑠璃はワクワクした表情で、ほかのみんなは息をのんで慎重に選んでいる。
ちなみに私が選んでしまったらおもしろくないので、だれも気づかない程度の目印をつけてある。
それぞれ選んだボンボンショコラを持ち、一斉に一口かじる。
一つ目、二つ目はだれも唐辛子を引かなかった。そして三つ目...
口に入れしばらくすると、青王様と茜様が同時に動きを止めた。
「うっ、辛っ!ん?...でもおいしいな」
「辛いけれど、これはこれでありね!」
意外にも二人にはアタリだったようだ。
「わたしにとってはアタリなのかハズレなのか、気になる...」
「穂香さん、わたしも食べてみたいです!」
「白様、瑠璃ちゃんも、きっとそう言うと思ってちゃんと持ってきていますよ」
私は別の大皿に全部同じ形のボンボンショコラをいくつも並べ
「なにも印がないものが唐辛子、白い粒が乗っているのが胡椒、それからホワイトチョコにはワサビが入っています」
「ワサビって、あのツーンとするワサビ?」
「茜様、そのワサビです」
とにかくみんな、まずは唐辛子のものを一口。これは全員アタリだったようだ。
次に胡椒のものをかじると、誉と寿にはハズレで青王様には大アタリだった。「ピリッとしたあとにくる爽やかな感じがいい!」そうだ。
最後にワサビのもの。あまり刺激が強くないようにワサビは少なめにしてある。それにこれはホワイトチョコなので、苦みはなく甘さが強い。
「これおいしい!穂香さん、これは店にも並べませんか?」
「そうね、ワサビと唐辛子を並べてみましょうか。実は私もワサビチョコが好きなのよ」
それからしばらくわいわいとおしゃべりをしていると、茜様が私だけに見えるようにテーブルの下で廊下を指さした。
私はそっと廊下へ出て、少しすると茜様もダイニングを抜け出してきた。
「青王に見つからないように離れに行きたいのだけど」
「それなら懐中時計を使って行きましょう」
コソコソと話し、離れに移動してくると茜様のお部屋に案内された。
「二人だけで話したかったの。青王がいるとまたなにか言われるかなぁ、と思って」
「ふふ、内容によっては怒られそうですし」
「そうよね。別に悪口を言っているわけではないのにね。あっ、わたしたちがいないことに気づいたら探しに来ると思うから、伝えたかったことを先に話しちゃうわね」
椅子に座ると「お茶も出さずにごめんなさいね」と言って話し始めた。
「穂香ちゃんは、自分が人間であることを気にして本当の気持ちを言えないでいたのよね。だけどね、白様や青王は妖というより神に近い存在なのは知っているでしょ。純粋な人間である穂香ちゃんは、その神に近い青王が力を注いでいる泉の水を飲み続け、そして青王の子をおなかに宿すことで青王と同じ性質を持つ、つまり青王と同じような神に近い存在になるのよ」
「え...だったら空良は...」
「空良妃は半妖とはいえ妖の性質を持つ存在だった。自分は半妖だから青王よりはるかに寿命が短いっていつも気にしていたでしょ。だけどいくら泉の水を飲んでいても子を宿したとしても半妖であることは変わらない。だからこのことを空良妃には言わなかったの。変われるのは純粋な人間だけなのよ。わたしだって青王を産んでも妖であることに変わりはない。いつかは白様を一人にしてしまうときが来るわ」
「そんな...」
「そんな顔しないで。まだまだずっと先のことなんだから。それより、穂香ちゃんの悩みはこれで解消されたかしら?」
「えっと...」
なんて言えばいいのかわからない。私が青王様の子を宿すとか、神に近い存在になるとか、ちょっと想像が追いつかない。
でも青王様は子どもが欲しいといつも言っていた。空良はその願いを叶えることができなかったけど、もし私がそれを叶えられれば青王様にとても喜んでもらえるだろう。
青王様には笑顔でいてほしい。ずっと幸せでいてほしい。
「青王様もそのことは知っているんですよね?」
「もちろん。でも、穂香ちゃんの気持ちがはっきりわからないから、伝えることができずにいるみたい」
「そうですか。茜様、ありがとうございました。私、青王様に自分の気持ちをしっかり伝えます」
茜様は笑顔でうなずき「王城まで歩いて戻りましょう。なにか言われたら、星を眺めていたことにすればいいわ」そう言いながら離れを出る。今夜は満天の星だ。
王城へ戻る途中すねこすりたちが集まってきた。茜様は先に戻り、私はこの子たちを思いっきりなでまわした。「ほのか~もっとなでて~」とすり寄ってくるもふもふは、とにかくかわいくて癒やされる。
「穂香、楽しそうだね」
「あっ、青王様!一緒にもふもふしませんか?癒やされますよ~」
「おまえたち、わたしもなでていいかな?」
すねこすりたちは返事の代わりに青王様にすり寄って行った。
私たちはすねこすりたちと存分に遊び、みんながカカオの森へ帰るのを見送っていると、ふと目が合いそのまましばらく見つめ合ってしまった。
どうしよう、どんどん顔が熱くなっていくのがわかる。なんだかドキドキする...
すると青王様は「わたしは穂香をなでまわしたい...」なんてつぶやいた。
「はっ!?なに言ってるんですか!」
心臓がパンクしそうなほどドキドキして息が苦しい。青王様ってこんな冗談を言うような人だったっけ?
「もう!早く王城へ戻りましょう!」
「あ、いや...つい...すまなかった。そんなに怒らないでくれ」
私は聞こえないふりをして早足で王城へ戻り、何事もなかったような顔でダイニングへ入ると、すぐに瑠璃が声をかけてきた。
「穂香さん、どこ行ってたんですか?なんか顔が赤いですよ」
「茜様と星を眺めて、戻る途中ですねこすりたちと会ってね、思いっきりなでまわしてきたの」
「そ、そうですか...紅茶、淹れなおしますね」
「ハニーミルクティーにしてもらってもいい?」
「わかりました。少し甘めに淹れますね」
瑠璃が淹れるミルクティーは、ホッとする優しい甘さで心が落ち着く。
「明日お休みだから、青王様とちゃんとお話してみようかな...」そう思い、どこに行こうか考えた。静かでのんびりできるところってどこだろう?
「青王様、先ほどはすみませんでした。えっと、明日店はお休みなので、もしお時間があればお出かけしませんか?」
「え、あぁ大丈夫だよ。からかったりしてすまなかったね。いや、からかったわけではなくてその...穂香が...」
どんどん声が小さくなっていく青王様。半分ぐらいしか聞き取れなかった。
「え?」
「な、なんでもない。どこか行きたいところはあるかい?」
「この前の宇治公園もいいんですけど、糺の森をお散歩するのも気持ちがいいかなと思って。でも、ゆっくりお話ができればどこでもいいんです」
「それなら糺の森に行こうか。十時頃に迎えに行くから」
「はい、お待ちしてます」
瑠璃が残りのボンボンショコラを箱に詰めると、茜様がそれをうれしそうに持って白様と仲良く帰っていった。
「それではまた明日。おやすみなさい」
誉たちも帰らせたし、瑠璃も部屋へ戻ったので私も帰ろうとすると「やっぱり送っていこう」と青王様が声をかけてきた。
「ありがとうございました...はっ?!ち、ちょっ...!」
直接自室へ戻ったのが間違いだった。青王様は突然私をベッドに押し倒してきた。
すると、ペンダントと懐中時計が同時に光りはじめた。
「あっ、懐中時計が...すぐに瑠璃ちゃんが来ますよ」
ハッとした顔の青王様が私から離れるのとほぼ同時に瑠璃が飛び込んできた。
「穂香さん!大丈夫ですか!って、あれ?青王様?あっ、青王様もペンダントに呼ばれたんですよね」
瑠璃は部屋の中を見回し危険がないことを確認すると「よかった。特に被害はなさそうですし青王様がいればもう大丈夫ですね」と戻っていった。
「青王様!どうしてこんなこと!...青王様?」
ものすごく落ち込んだ様子でベッドの横に正座をしている。
「あの...すみません、大声出したりして」
「いや、まさかわたしのことをペンダントが危険だと判断するとは...」
「あぁ、たしかにペンダントも光ってましたよね。あっでも瑠璃ちゃんは青王様が先に来て解決したと思ったみたいなので、押し倒したことはバレてませんよ」
それでもまだ正座のままうなだれている。
「あの青王様、お茶淹れますからここでお話しませんか?少し待っていてくださいね」
お茶を持って部屋に戻ると、青王様はまだ正座のまま渋い顔をしている。
「まだそんな顔しているんですか?」
「本当に申し訳なかった...」
「とりあえずお茶をどうぞ。宇治緑茶とお茶請けの梅こんぶです」
青王様は梅こんぶを一つ口に入れ、お茶を飲んで一息つくと、私に頭を下げた。
「乱暴なことをしてすまなかった。穂香がわたしのことを好きだと言ってくれて、もう手放したくないという気持ちが抑えられなかった」
「あの、お願いですから頭を上げてください」
ゆっくり頭を上げ私を見つめる青王様の瞳が、少し潤んでいて悲しそうに見えた。
「私、青王様のことが好きなんだって気づいたけど、ただの人間がそんなこと言っても青王様を困らせてしまうだけだと思ったら、どうしても気持ちを伝えることができなくて...でもどこからか懐かしい声が聞こえてきて背中を押されたんです」
青王様は私をじっと見つめて聞いてくれている。
「青王様のことが大好きです。でもやっぱり不安で...だけど茜様がいろいろ教えてくださいました。青王様が受け入れてくださるなら、私は青王様と一緒にいたいです。お願いします。そばにいさせてください!」
大きく目を見開いたまま固まっていた青王様は、突然ひと筋の涙をこぼし私をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、必ずしあわせにする。もう手放したりしない」
「青王様、ちょっと苦しいです...」
「あっ、すまない、つい力が入ってしまった」と私をゆっくり解放し、涙を拭って一度深呼吸をした。
「茜様のお話を聞いてちょっと気になったんですけど、京陽のカカオを使ってるとこちらの世界の人たちになにか影響があったりしますか?」
「それはないから安心していい。穂香は泉の水の話を聞いて気になったんだろうけど、あくまでも京陽国内で泉の水を飲むことでその力を得ることができるんだ。水はそのまま飲まなくても料理やお茶を淹れるときに使ってもいい。でも京陽から出たらそれはもうなんの力もないただの水。カカオも同様だよ」
「よかった。それならずっとあのカカオでチョコレートが作れますね」
青王様は私の頭をそっとなでながら「好きなだけ作るといい」と微笑んだ。
「わたしからも一つ話したいことがあるんだが、今日はもう休んで、明日糺の森で話そう」
「わかりました、十時に待っています。おやすみなさい」
青王様は小さくうなずくと私の頬に手をあて「穂香」とつぶやきそっと口づけをした。
「おかえりなさい!」
「おぉ、びっくりした...瑠璃、まだ部屋に戻っていなかったのか」
まったく失礼な!おばけでも見たみたいに驚くなんて!わたしはおばけじゃなくて座敷童子ですよ!
「青王様を待ってたんですっ!明日、穂香さんとお出かけするんですよね?」
「ああ、散歩をしながら話をしようと言ってある」
「せっかく二人で出かけるなら、穂香さんにその組紐のお礼をしたらどうですか?」
それはずっと気になっていた。けれど、どうしたものか...
「礼と言っても、穂香はどんな物ならよろこぶだろう。空良のときとは時代が違うから、なにを選べばいいかまったくわからない」
「穂香さんに聞いてみてもいいけど、なにもいらないって言われそうだし...あっ、でも穂香さんはいつも同じピアスをつけています。あと、リングは一本も持っていないみたいですよ」
そういえば河原町に不思議な外見の店があった。ジュエリーショップのようだが覗くわけにもいかず、気にはなるが用もないのに入れなかった店。
「わかった。考えてみるよ」
「今日はお着物にしようかな...」
おばあちゃんに教えてもらった通りに、おばあちゃんが遺してくれた大島紬の着物を着付けていく。
くすんだ水色の地に色んな色の花柄が織り込まれていて、落ち着いているけれどかわいらしい、お気に入りの着物だ。
「穂香、おはよう」
私の姿を見て口が半開きの状態のまま立ちつくしている青王様。そんな青王様も今日は素敵な着物姿だ。いつもの着流しではなく、藍染めの着物に同色の羽織、濃いめの水色の帯を締めている。とにかくカッコいい。
「お、おはようございます」
「まさか穂香も和服とは...とても似合っているよ」
「青王様だって素敵ですよ」
しばらく見つめ合っていると青王様が「糺の森の散歩のあと、一緒に行って欲しい店がある」と言ってきた。
「わかりました。ではそろそろ出発しましょう」
伏見稲荷駅から京阪電車に乗ると、前回のお出かけのときのことを思い出してしまい、チラチラと青王様を見ている数名の女性のことがとても気になってしまう。
そんな私に気づいた青王様は「穂香、大丈夫だよ」と手を握ってくれ、ずっと他愛もない話をして気を紛らわせてくれた。
出町柳駅に着くと、糺の森までは歩いて十分ぐらいだ。のんびりと歩き、糺の森へ入ると青王様が話しはじめた。
「穂香、本音を言えばわたしは穂香にずっと王城に、わたしのそばにいて欲しいと思う。でも穂香から仕事を取り上げるようなことは絶対にしたくない。だから、せめてあちらでお菓子作りをするようにしてもらえないだろうか。厨房や設備もしっかり用意するから。すぐに決める必要はないけれど、少し考えてみてほしい」
「えっと、それは...ちょっと時間をください。瑠璃ちゃんにも相談したいですし」
「まぁそんなに簡単に決められることではないだろう。焦らなくていいから」
「はい...」
そのあとしばらく広い糺の森を歩きまわり、休憩処で一息つき下鴨神社でお参りをしたあと、青王様が行きたいという店へ向かった。
「なんのお店に行くんですか?」
「着いてからのお楽しみだよ」
なんだかとても楽しそうにしているけれど、祇園にはたくさんのお店があって、どこを目指しているのか見当も付かない。
しばらく歩くと変わったデザインの黄色い扉の前で「ここだよ」と立ち止まった。
「ここって...青王様がどうしてこの店に?」
「穂香は来たことがあるのかい?」
「一度入ったことがあります。でも、素敵だけどちょっと手が出せなくてすぐにお店を出ちゃいました」
「そうか。実は穂香に贈り物をしたくてね。だけど今の女性がなにをよろこぶのかわからなくて。空良のように着物やかんざしというわけにはいかないだろう。だから穂香と一緒に選ぼうと思ったんだ」
誕生日やクリスマスでもないし、どうして青王様が私に贈り物を?
「ほら、早く入ろう」
青王様は私の背中をそっと押し、店に入るよう促した。
店内では私の手を取りショーケースの端から順番に見ていき「気に入った物があれば出してもらおう」と笑顔で話しかけてくる。でもどれも高級で「これがいい」なんて絶対に言えない...
すると、私が黙って見ている隣で青王様が店員さんに声をかけ「これと、あれと...」と出してもらっている。
ハーフエタニティーのリングがいくつか乗ったトレーを私の前に置き「わたしはこういう細いものが穂香には似合うと思うんだが、この中に気に入ったものはあるかい?」と聞いてくる。その中には、以前素敵だと思ったけれど見せてもらうには勇気が出なくて諦めたものがあった。無意識にそのリングに目をとめていたようで、私の顔をのぞき込んだ青王様が「これが気に入ったのかい?」とそのリングを手に取りそっと私の指にはめた。
驚いてなにも言えないでいると「あれ?これではなかったかな。わたしはこのデザインもいいと思うが、穂香の好みを教えほしい」とリングを外そうとする。
「あの...私、以前見たときもこれが気になったんです。なんだかカヌレを一列に並べて真上から見たような感じがかわいいと思って」
「ははは、それは穂香らしいね。ではサイズもぴったりだしこれにしよう。組紐のお礼に受け取ってほしい」
そう言うと店員さんに「このまま付けていくから」と声をかけサッと購入してしまった。
店を出ると青王様は私の頭をそっとなでて手をつないできた。
「穂香が気に入るものがあってよかった。...わたしは穂香にもっと甘えてほしいんだ。いろいろおねだりをしていいしわがままを言っていい。なんというか、真面目すぎるんだ。穂香も、空良も...」
ほんの少しうつむきながらそう話す青王様の水色の瞳が、ちょっと寂しそうに揺れていた。
八坂神社の近くのお寿司屋さんで、おみやげに鯖寿司を購入し王城に戻ると、瑠璃が勢いよくダイニングへ飛び込んできた。
「おかえりなさい!あっ、今日は穂香さんもお着物だったんですね。やっぱり似合いますね」
「そう?ありがとう」
「あの、空良様のお着物も今までちゃんとお手入れしていつでも着られるようにしてあります。だからよかったら今度着てみてください」
空良は着物をたくさん持っていた。茜様が丁寧に仕立ててくださったものや青王様が選んでくれたもの。毎朝どれを着ようか迷うのが日課だった。
「せっかくだから見てくるといい。空良の部屋もあの頃のままにしてあるから」
私がうなずくと「一緒にいきましょう」と瑠璃が背中を押した。
少し複雑な気持ちだった。みんな空良が大切でずっと忘れられずにいる。私は『穂香』じゃなくて『空良の生まれ変わりの人間』なんだ。
青王様も私の中の空良のことが大切なのだろう。そう思ったら胸が締め付けられるようで、今にも涙がこぼれそうだ。
「穂香さん?大丈夫ですか?」
「あっ、ごめんなさい。私ちょっと用事を思い出したからもう帰るわね」
懐中時計をギュッと握りしめ、瑠璃の顔も見ずにいそいで帰ってきてしまった。
「はぁ、私、なにやってるんだろう...」心がざわざわして胸が苦しい。
私は心を落ち着かせるために伏見稲荷へやってきた。本殿でお参りをすると気持ちがスッと軽くなっていく。
それでもまだなんとなく帰りたくなくて、ゆっくりと階段を上り千本鳥居をぬけて奥社までやってきた。だけど、そろそろ明日の仕込みのために瑠璃がやってくるはずだ。
どうしても一人になりたくて、懐中時計もペンダントもテーブルの上に置いてきてしまった。心配性の青王様のことだから、それを知ったら大騒ぎになるだろう。
ふと触った左手の中指には、さっき青王様からもらったリングがある。
「そういえばちゃんとお礼してなかったな...」
もう帰ろうと思い振り返ると、千本鳥居の向こうから誰かがこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
「あ...」あの髪の色は青王様だ。
あっという間に私の目の前までやってくると「よかった!」とギュッと抱きしめられた。
「怪我はないか?怖いことはなかったか?ペンダントも置いたままになっていて心配した。なにがあった?」
青王様がここまで焦って不安そうな顔をするのはとても珍しい。
「ごめんなさい...大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろう。悩みがあるなら話してほしい。もしかしてそのリングが気に入らなかったか?」
「そんなこと...このリングはとても気に入っています。青王様、ありがとうございます。これは私の宝物です」
青王様は私の左手を握り「歩きながら話そう」と千本鳥居をくぐっていく。
「穂香、わたしはなにか穂香を傷つけるようなことをしてしまったかい?なにがいけなかったのか教えてくれないか」
「私が勝手にいじけてただけですから...」
「いじけてた?」
「私は空良の代わりなんだ...って。だからみんなが大切にしてくれるんだろうと思ってしまって...」
青王様は足を止め、苦しそうで今にも泣き出しそうな悲しい顔で私を見つめてくる。
「いつか空良が戻ってくることを願って着物の手入れをしたり部屋をそのまま残していたりしたなら、みんなは私じゃなくて私の中の空良を歓迎しているんだ...って。そう思ったら苦しくて」
「それは違う!わたしもみんなも穂香だから大切に思うんだ。たとえ空良の生まれ変わりだとしても、自分のことしか考えないような人間だったら相手にしようとは思わない!」
突然大声を出した青王様に驚いてしまった。こんな青王様を今まで見たことがなかったから。
声も出せずにいる私に「すまない、怒鳴ったりして」と言いながらそっと頭をなでてくる。
「たしかに最初に穂香を見つけたときは、せっかく生まれ変わった空良に出会うことができたのだから今度こそ守らないといけないと思った。でも今は違う。穂香のことを大切にしたいと思う。わたしはこの先穂香とずっと一緒にいたい」
「青王様、心配させてしまってすみませんでした。もう大丈夫です。私も空良みたいにみんなに大切に思ってもらえるようにがんばりますから」
「ありがとう、穂香。瑠璃に先に仕込みを始めているよう言ってあるから、そろそろ店に戻ろう」
「あっ!仕込みのこと、頭からすっかり抜けてた...」
「わたしも手伝うからすぐに戻ろう」
青王様が私の手を握りなにかをつぶやくと、あっという間に店へ移動していた。
「あっ、穂香さん!」
「瑠璃ちゃん、ごめんなさい。もうだいじょ...」
その時、バタンッ!と青王様が倒れてしまった。
「えっ!青王様?!」
「もう...瞬間移動は苦手なのに無理するからですよ。今お茶持ってきますね」
私は青王様をなんとか起き上がらせ、背中を支えながらお茶を飲んでもらい、ついでにボンボンショコラを一つ口の中に押し込んだ。
「ふぅ...すまなかった。もう少しだけここで休ませてほしい」
青王様を椅子に座らせると、私たちは仕込みに取りかかった。
一通りの仕込みが終わると「瑠璃、ちょっと」と青王様が瑠璃に声をかけ店のほうへ移動していった。
「穂香は、自分が空良の生まれ変わりだからみんなに大切にしてもらえているんだと思っていたらしい」
「そんな...」
青王は穂香が話していたことをすべて瑠璃に伝えた。
「わかりました。空良様のことはあまり話題にしないように気をつけます」
「うん。もし穂香の様子で気になることがあったら、どんなに小さなことでも教えて欲しい」
「はい。あっ、そういえば穂香さんにリングをプレゼントしたんですか?」
「ああ、穂香が以前から気になっていたものらしい。カヌレを並べて上から見たような感じがかわいいと言っていた」
たしかにかわいいと思うけど、そうじゃなくて...
「どうして左の中指に付けているんですか?」
「ん?」
「なんで薬指じゃないんですか」
「それはもちろん...」
いつか穂香に、わたしの妃になってほしいと伝えるときのために空けておきたかったからだよ。
翌日の営業は、すべての接客を誉と寿に任せてみることにした。結果、二人はしっかりと商品の説明もできていたし、ラッピングや会計なども安心して任せられるまでになっていた。
「来週から藤をオープンしましょう。開店して数日間はとても忙しいと思うけれど、私か瑠璃ちゃんがお手伝いするから安心してね」
「わかりました!」
「がんばりますっ!」
さっそく今夜から藤の店内設備を整えていくことにし、瑠璃とは生産体制についても話し合った。
Lupinus の営業、仕込みと商品作り、藤の開店準備と、とにかく忙しい日々を乗り越え、やっと開店の日を迎えた。
朝からたくさんのお客様が、初めて食べるチョコレートを楽しみに、そわそわしながら列を作っている。
「私たちもお手伝いするし、研修でやっていた通りにすれば大丈夫だからね」
「はい!ではオープンにしてきます!」
誉がドアにオープンの札をかけると、妖の姿のままだったり人の姿になっていたり、様々な見た目のお客様が次々と入ってくる。
寿と瑠璃は、チョコレートに興味はあるけど味がわからないと買いづらいと言うお客様に、試食用の小さなチョコレートを配ってまわる。
列の最後に並んでいた猫又の女の子に「いちごが入ってるのはありますか?」と聞かれた寿は、いちごジャムが入っているものをすすめている。
そのやりとりを聞いていた私は、あることを思いついた。あとで青王様に話しに行こう。
お客様が途切れることなくずっと忙しかったけれど、目立ったトラブルもなく、無事に初日の営業を終えた。
「疲れたけど、試食をした人たちがおいしいって言ってくれてなんだかうれしかったな~」
「そうだね。でも、苦くてあんまり食べられないって言う人もいたよね」
「うん。もうちょっと甘いのがいいって言ってたよ」
「それなら明日の試食用には、今日と同じものともう少し甘いものの二種類を用意するわ。両方食べてもらって、どちらが好みかがわかればおすすめしやすいでしょ」
人間と妖では味の好みが違うし、まして初めて見るものを口にするのは勇気がいることだと思う。安心して購入してもらうためにも、先に味を知ってもらうのは大事なことだろう。ほかに気づいたことなども話し合っていると、仕事を終えた青王様がやってきた。
「今日は珍しく忙しくて、初日なのに様子を見に来られなくてすまなかったね」
「いえ、お疲れさまでした。特にトラブルもありませんでしたし、二人ともしっかりしていて頼もしかったですよ」
「それならよかった。母上が夕食を準備しているから、片付けが終わったらみんなで戻っておいで」
そういうと青王様は茜様の手伝いをするからと、一足先に戻っていった。
「早く片付けましょう。もうおなかペコペコですぅ」
寿はおなかがすくと、わかりやすく元気がなくなる。
「もう少しがんばってね」
厨房がないぶん片付けも楽で、四人で分担すればあっという間に終わる。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい。みんなお疲れさま。さぁお食事にしましょう」
ダイニングにはホカホカの湯気をあげる衣笠丼が並んでいる。
おあげと九条ネギを甘辛く炊いて玉子でとじたこのメニューは、私の大好物だ。しかも茜様の得意料理なだけあって、彼女が作る衣笠丼はお出汁がきいていてやさしい甘さでいくらでも食べられる。
おいしいご飯をいただいておなかが満たされたら、もうなんにもしたくない。このまま眠ってしまいたいと思う。でも「仕込みが待ってますよ!」と瑠璃にむりやり立たされた。
茜様も「穂香ちゃん、片付けはわたしがするから大丈夫よ」と背中を押してくる。
「はい...ではお願いします」
「ではわたしも一緒に行って手伝おう」
「あ、そうだ青王様。店に戻ったらお話ししたいことがあります」
「ん?もしかしてあのことかな?」
え?あのことってなんのこと...?私が首をかしげていると
「ほら、王城でお菓子作りをしてほしいっていう」
あっ、忘れてた!まだ瑠璃ちゃんに相談してないよ...
「それはもう少し時間をください。とりあえず戻りましょう」
青王様とボンボンショコラを作りながら、営業中に思いついたことを話した。
「青王様の畑で、いちごやミニトマトを育てることはできますか?」
「大丈夫だよ。どちらも一週間もあれば収穫できるようになる。ほかに欲しいものはあるかい?」
「あとは種なしの巨峰があるとうれしいです」
「わかった。さっそく明日植えておこう」
「よろしくお願いします」
それにしても一週間で収穫できるなんて、あらためて青王様の力ってすごいなぁと思う。
仕込みが終わって青王様たちが王城に戻ると、やっと一日が終わる。結構疲れが溜まっているし、明日は瑠璃に藤のお手伝いをお願いしてあるから寝坊するわけにはいかない。
アラームを大音量でセットしたスマホと目覚まし時計を、歩いて行かないと止められない場所に置きベッドに潜り込んだ。