「穂香さん、(ほまれ)寿(ひさ)に今夜王城へ来るように伝えておきましたよ」
「ありがとう。開店にむけてそろそろ本格的に打ち合わせを始めないと」
「そうですね。もう少しメニューやレシピも考えないといけないし...」
「店内の備品は青王様が揃えてくれているはずだから、セッティングは私たちでやりましょう」
「それはわたしの妖力でササッと終わらせちゃいますよ!」
そうだ。瑠璃には転移の力があるんだった。物を移動させるのなんて簡単なこと。あの頃も大掃除のときなんかに家具を動かしてもらっていたな。
「ふふ、頼りにしてるからね」
瑠璃は大きくうなずきながら、商品を持って店のほうへ向かった。時計を見るともうすぐ開店の時間だ。私もいそいで準備しなきゃ。

「いらっしゃいませ」
西の空がオレンジ色に染まりつつあるころ、ある一組の男女のお客様がやってきた。
「うわぁどれもおいしそう。あれ?これって...」
「ん?ああ、あの店でもこういう印、付いてたよね」
二人がボンボンショコラを見て話す内容に、私はドキッとして背中が冷たくなるのを感じた。
こういう印とは、中のガナッシュやフィリングを区別するために、ボンボンショコラの側面に色づけをしたホワイトチョコで付けた小さな点のこと。
自由が丘の店では、同じ形だけど中身が違うボンボンショコラがいくつもあったから、混ざってしまわないように付けていたのだ。本当はもう必要ないけれど、今も癖でなんとなく付けてしまう。
「もしかして、自由が丘のお店にいた店員さん?」
「あ...はい、そうです」
「やっぱり!突然この印がなくなったと思ったら間違いが増えて、しかも味も落ちちゃったのよ。すごくおいしくてお気に入りだったのにショックだったわ」
「すみません、突然辞めてしまって...」
「あの店のオーナー、パワハラがすごいって噂で聞いたんだ。最近ほとんどお客さんが入らなくて今月いっぱいで閉店するらしいよ。辞めて正解だったんじゃないかな」
「そうだったんですか。でも、お客様にはご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんでした」
二人に頭を下げると「謝らなくていいよ。大変だったね」と声をかけてくれた。
苦しかった毎日を思い出してしまい、やさしい言葉を聞いたとたん涙があふれてしまった。
「すみません...」
「穂香さん、テンパリング終わりましたよ」
「え?あの、ちょっとチョコレートの様子を見てきます。すぐ戻りますね」
本当は今、テンパリングなんてしていない。きっと瑠璃が気を利かせて涙を拭く時間を作ってくれたのだ。
冷たいタオルで目元を拭いたあと、二種類のボンボンショコラをそれぞれ半分にカットしピックを添えて店内へ戻った。
「すみません、おまたせしました。よかったら試食してみてください。あの店とは別の種類のカカオを使っているので、だいぶ味が違うと思います」
「ありがとう。いただきます」
「お、うまい!」
「ホントにおいしい!やだ、どうしよう」
女性のお客様が「太っちゃうよぉ」と言いながら、でもとても楽しそうに話している。
「彼の仕事の都合でね、京都に引っ越すことになったの。だからこのタイミングで結婚することにしたのよ。それで今日はやっと引っ越し荷物が片付いたから伏見稲荷にお参りに行ってきたの。そうしたらまさかまたあなたのチョコレートに出会えるなんて!」
「そうだったんですか。ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう。これからよろしくね」
「こちらこそ。いつでもお待ちしています」
二人は店内を行ったり来たりし、たくさんのお菓子を抱える奥様に旦那様が「いつでも来られるんだから、少しずつ買ったほうがいいよ」と声をかけると「そうね、新しいうちに食べたほうがおいしいよね」と仲良く選んでいる。幸せそうでちょっとうらやましいな。

長い時間ずいぶんと悩みながら焼き菓子を選び、今度は冷蔵ケースの前でケーキとチョコのどちらにするか悩んでいる。
「チョコレートは、ご結婚のお祝いに私たちからプレゼントさせてください」
「え、うれしい!ありがとう!」
「ありがとう。それじゃあ今日はケーキを買おうかな」
二人が選んだ二つのケーキを、瑠璃が厨房へ持っていきデコレーションをして戻ってきた。
「今日は特別にデコレーションさせていただきました」
「うわぁ、かわいい!」
「本当に、いろいろありがとう」

笑顔で帰って行くお客様を見送ると、瑠璃が私の顔をのぞいてきた。
「穂香さん、いやなこと思い出しちゃいましたよね。大丈夫ですか?」
「ありがとう。もう大丈夫」
「よかった。それで、あの、穂香さんは青王様のことがお好きですよね。見ていればわかります。青王様に気持ちを伝えたりしないんですか?」
「え...だって...人間の私がそんなことを言っても、青王様を困らせるだけでしょ」
瑠璃が口を開きかけたとき、数名のお客様が来店された。そろそろ会社帰りのお客様で賑わう時間だ。

「いらっしゃいませ」
「よかった。今日はチョコレートのモンブラン残ってた」
「ありがとうございます。お電話いただければお取り置きもできますよ」
「それじゃあ今度からお願いするね」
瑠璃が箱詰めしたケーキを渡すと、とてもうれしそうな笑顔で帰っていった。

次は大量注文のお客様。
「明日、チョコチップクッキーと蜂蜜のフィナンシェ、三十個ずつ欲しいんだけどお願いできますか?」
「大丈夫ですよ。ご来店は何時頃のご予定ですか?」
「お昼過ぎには来られると思います」
「かしこまりました」


その後もバタバタしているうちに、あっという間に閉店時間になった。
「先に仕込みしちゃう?」
「いえ、誉たちが待ってると思うので先に王城に行きましょう」

おやつにシュークリームを持って行き、瑠璃に紅茶を淹れてもらい打ち合わせを始めた。「シュークリーム、おいしい!」
「寿、口のまわりがクリームだらけだよ」
誉は寿の顔を拭き、クリームがこぼれない食べ方を教えていた。二人はとても仲が良くて微笑ましい。
一息ついたところで店内を整備する日程や商品ラインナップを決め、研修のために明日から Lupinus に来るよう伝えた。
今まで何度か試食会をしたり瑠璃に持って行ってもらったお菓子を食べて、二人はほとんどの味と商品名を覚えていた。記憶力がいい二人なら、接客や箱詰めの方法など必要なことをすぐに覚えられるだろう。
「明日は初日だから、わたしも朝から閉店まで二人の様子を見ていようと思う」
「わかりました。それなら夕食にトマトのカレーを作りますね」
「ありがとう。せっかくだから王城で作ったらどうだろう。実は離れのそばでトマトとナスを育てているんだ。もうたくさん実っているからそれを使うといい。それに父上と母上にも食べさせてやりたい」
誉と寿も「カレー食べたい!」と期待に満ちた顔をしている。
「青王様が育てたトマト...はい、がんばってあの頃と同じカレー作りますね」
「わたしも手伝うよ」
「えぇ~、お手伝いはわたしがします!」
青王様と瑠璃がお手伝い権を取り合っている。「瑠璃はいつも穂香と一緒にお菓子作りしてるじゃないか」「それはお手伝いじゃなくてお仕事ですっ!」青王様はちょっと困った顔で言葉に詰まっている。瑠璃は結構気が強くて、青王様にもしっかり言い返す。
「二人とも、王城の厨房は広いんだから三人で作りましょう。あ、四人かな?きっと茜様も来てくださると思うし」

青王様と瑠璃のやりとりを、ぽかんと口を開けて見ていた誉と寿。きっと青王様のあんな子どもっぽいところ、初めて見てビックリしただろうな。

「瑠璃ちゃん、そろそろ戻って仕込みしましょう」
「あっ、そうだった!」

「明日の朝、待ってますね」と手を振ると、青王様たちも手を振りながらお見送りしてくれた。