きっと、呼ばれている。あいつがきっと、私を呼
んでいる。
目を開かなくても、耳を済まさなくても、その声はしっかり私に届いた。
あぁ、またか。私の大嫌いな、夜明けの匂いがする。あいつが、私に言う。
「起きて!起きて!起き...」
無駄に甲高くてキンキンした声が耳を突く。
何度も何度も。思わず私が耳を塞いでも、幾度となく、私に声をかけ続ける。
「ねぇ、起きて!起きて!ねぇってば!」
私がどんなに毛布をかぶっても、布団に顔を埋めても、絶対に届く声。
それは間違いなく、“私の声”だった。
私は、“私”に起こされる。起きたくないときでも必ず夜明け頃にやってきて、私を眠りから引きずり出す“私”がそこにいた。
そして今日も、仕方なく目を開けるとそこには、起きた私を見て、満足そうな“私”が笑顔でいる。
「はぁ、おはよう」
重くてだるい体を起こしながら声を掛けると、もうそこに“私”の姿はなかった。
その姿が私と同じだからか“私”に恐怖を感じたことは無い。
ふと、時計を見ると朝の三時だった。
「まだ寝れたのに」
複雑な気持ちになった私はまた、布団に体を預けて目を閉じ、あの頃を思い返す。
──────私が、“私”に起こされるようになったのは、ごく最近の事だった。
春休みが明けて、中学二年生に進級した私は、これまでより一層、勉強や委員会に力を入れるようにした。
生徒会の役員としての活動にも入ってみたり、先生の手伝いをしてみたり。
もちろん、想像していた何倍か大変だったけれど、受験に繋がるかもしれないと思えば、そこまで苦痛ではないと思っていた。
だけど、三週間後に体育祭を控えたとき、生徒会の仕事が大量に増えた。
これまででも、受験に委員会に忙しい日々だったのに、家に持ち帰らないと終わらない仕事もあって、気づいた頃には疲労とストレスが予想以上に溜まっていた。
もちろん、夜更かしもしてしまっていたし、もともと几帳面な性格だったから、普通の人よりも仕事を終えるのに時間がかかった。
そうして生活習慣が崩れはじめた頃、夜明けに声が聞こえるようになった。
最初は、朝にまで持ち越してしまった、生徒会の仕事を終わらせるための責任感で起きてしまったのかな、と思ったぐらいだった。
けど、仕事が終わった日でも起きてしまうようになった私は徐々に異変を感じ始めた。
夜明けに現れる“私”がはっきりと目の前に実在するのだ。
試しに触れようとしたこともあったけど、手が触れる前に“私”は空間に消えていった。
“私”の存在は全くもって謎だったけど、寝ぼけているだけだと思って、私は深く考えたことはない。
ほんとうに、疲れが溜まってるんだろう。最近は全く体に力が入らない。
─────少し休まないと
やっと、という時間が経って、そろそろ外が明るくなってきたと思って目が覚めた。
“私”は夜明けにしかやって来ないから、二度寝を妨げられることは無い。
まだ、頭に霧がかかったようにぼんやりしている。
けれど、準備は体が覚えているようで、気づいたら制服姿で鞄を持つ私がいた。
お母さん達はもう仕事にでていて、家には誰もいない。
私は、空っぽになった家に、いってきますと、ひと声かけて外に出た。
教室に入ると、少し遅れてきてしまったからか、みんなグループで固まって話していた。
私は、その輪に入っていればいいけれど、入りにいくのは苦手なのでおとなしく席に着くことにした。
すると、昨日は空席だったはずの隣の席に男の子が座っていた。転校生...だろうか。
男の子は、私のいない方を向いていて顔が良く見えない。昨日はいなかったと思うんだけど。
すると、私の視線に気づいたらしい彼が不意にこちらを向いた。
目が合って、私たちは同時に目を見開く。
綺麗だった。まっすぐな瞳に、スっと通った鼻筋。黒くてツヤのあるサラサラな髪。
彼の雰囲気すべてに、目を奪われる。
それは彼も同じようだった。驚いたように私を見ては、唖然とした顔で固まる。
「あ、あの?」
私が思い切って声をかけると、彼はさらに驚いた様子で言った。
「俺の事、見えてんの!?」
一瞬、頭が真っ白になった。
見えてる?それはどういうこと?
何度見ても、当然のように彼の姿はそこにあるし、特に違和感もなくて、私はますます混乱する。
「み、見えてますけど」
恐怖で、口からでた声が震えた。
まるで、見てはいけないものを見てしまったような気持ちにのまれた私は、彼から慌てて目を逸らす。そんな私の様子を見かねた彼が、面白そうに言った。
「なーんてね、こういう冗談言ってみたくて。いきなり驚かせてごめん」
初対面で、物騒な冗談を言う人もいるんだなと私は思う。きっと、私は、彼にとって微妙な反応をしてしまったに違いない。いきなりそんなことを言う彼にも責任はあると思うのだけれど、私はなんとも言えない罪悪感を感じた。
「そうですか。何かすみません」
私が無理やり話を切り上げようとすると、彼も何かを感じ取ったのか、頬杖をついて遠くの方を見ているようだった。
不思議な彼の事で頭がぼんやりとしていた私は、気づいた頃には家路についていて、自分でもびっくりしてしまった。誰かと話した記憶もほぼ無くて、鞄にはまた、生徒会の仕事が束のように入っていた。
いよいよ体育祭まで二週間をきった今。
保護者に渡すしおりを作成するということで、生徒会の仕事は盛りだくさん。
ろくに夕飯を食べず、私は部屋へこもった。
しおりのクラス表を見て、私は、え?と思う。
私のクラス、二年二組の人数は変わっていなかった。
今日出会った彼が転校生なら、名前ぐらい知っておこうと思ったんだけど。
通常、転校生の名前が記載されるのは一番最後。私の名前が『綿野 志帆』で一番最後だし、そのとなりかと思ったのだけれど。特に新しい名前が記載されてはいない。
もしかしたら、クラス表の印刷が終わったあとに転校してきたのかも。
明日、ちょっぴり不思議な彼に、名前を聞いてみよう。
そう心に決め、私はやることを終えて、眠りについた。
──────明日は“私”が来ませんように
また、夜明けの匂いがする。深い海の匂いみたいなこの匂いが濃く香るということは、もうすぐあいつが来るのだろう。
「起きて!起きて!起きて!起き...」
少し恐れていた未来と現実が重なって、私の気分は沈んでいく。
今日は、起きないでみようかな。そう思って、何をしても聞こえてくるその声を聞きながら、私は眠る。
「起きて!ねぇ!起きてくれないと...」
起きてくれないと、と言いかけて、その声は止まった。辺りが静寂に包まれる。
いなくなったのかな、と思って、私はちらっと周りを確認するが、気配はない。
けれど、何を言おうとしたんだろう。
起きてくれないと、なんなんだろう。
別に遅刻してしまう時間でもないし、起きる必要もない。
私はまた、眠りにつくことにした。
─────ふわりと意識が揺らいだ気がした
青白い濃霧に包まれている。私はそこにひとり残されている。けれど、人の気配がする。
私は立ち上がって、辺りを探してみる。
「誰か、いるの?」
冷たい石のうえを裸足で歩いているように、足の裏がひんやりと冷たい。
途端、あの夜明けの匂いがした。私の大嫌いなあの匂い。
私は、その匂いのもとへ走った。
そちらに行かなければいけないと、心が叫んでいる。
濃い霧の中で、一瞬、影が見えた気がした。
「だれ?」
私は影へ走る。だんだんその輪郭が明確になっていく。
そこで私は息をのんだ。そこにはあの“私”が立っていた。それも、とても切なげな顔で。
“私”が口を開く。
「志帆。彼には時間が無いから。はやく気づいて」
“私”は、緊迫した声で私にそう告げた。
「え?」
自分でもびっくりするほど、裏返った声が出た。
彼には時間がない?彼って、誰のことだろう。
今日出会った転校生の事だろうか。
「あの、それってどういう...」
こと、まで言えなかった。“私”は濃霧に飲まれて溶けてしまいそうに透けていた。
「私も時間が無いから、頼むよ。志帆」
意味の分からない事を言って、“私”は溶けるように消えていった。
そこには誰もいない。
私には理解ができなかった。濃すぎる霧のせいで頭が重い。地面と呼べるのかも分からない床に、私は崩れ落ちた。
分かる気がする。けれど、分からない。
青白い霧がやっと晴れてきた。しかし、私の視界はそれに反するように、真っ白に染まっていく。
瞼の裏にあたたかい光を感じた。
あぁ、夢か。
そう思った瞬間、私の意識はそこで途切れた。
朝が来た。
四角に切り取られた窓枠から、差し込む光が眩しくて、思わず目を細める。
彼は何者なんだろう。寝ぼけた頭で、朝食を作りながら考える。
あれは夢だった。けれど、現実のようだった。
今日は彼に話しかけてみよう。
「あちっ」
ぼーっとしていたら、あたたまっていたフライパンに触れてしまった。いつもはこんな事ないのになぁ。
もっと、シャキッとしなくちゃ。私はペチペチと自分の頬を叩き、生徒会の資料を掴んで家を飛び出した。
今日も彼はそこにいた。私の隣の空席だったところ。
誰もが見とれてしまうはずの美形な顔立ちとスタイルをもっているのに、彼に話しかける人もこちらを向く人も誰一人いなかった。
私は少し不思議に思ったけれど、整いすぎている方が話しにくかったりするのだろうと思って彼の隣に座った。
今日も彼は、私に背中を向けている。
私は勇気を振り絞って、彼に声をかけた。
「あの、すみません」
意気込んで声を掛けた割には、小さな声だったけれど、彼は驚いた様子でこちらを振り向いた。
「え、あ、昨日の...」
そういえば昨日もだけど、自己紹介はしていない。
「あ、私、綿野 志帆といいます」
彼は私を見てますます目を丸くする。
まだお互いに、慣れていないのだ。
私がなんとか、話を繋ぐべきなんだろうけど、いい話題は見つからない。
「俺は、柳井 幸希。なにか用?」
そう言って柳井くんは、私を見つめた。
そういえば“私”に時間が無い、とは言われたものの、いきなりそんな話をするのもどうかと思う。
私は、昨日のクラス表を取り出して言った。
「あのね、これ体育祭のしおりのクラス表なんだけど、その...柳井くんの名前が無いっぽいなと思って。転校生だよね?これを印刷した後に来たのかなって...」
「え?あぁ、うん。たぶんそうだと思う」
いきなり名前をくん呼びするなんて馴れ馴れしかったかな。彼を困らせているのが分かる。
でも、それもそのはず。この学校に来たばかりであろう彼に体育祭が...とか、クラス表が...なんて話したところで迷惑だろう。
「ごめん。そんなに分かんないよね」
「いや、別にいいけど」
気まずい沈黙が流れる。お互いを知らなすぎて何の話をしたらいいか分からない。
いや、そもそも何で柳井くんと話さなきゃいけないんだっけ?
元はと言えば、私が変な夢を見ただけで、柳井くんからしたら、知らない女子にこんなに話しかけられるのは迷惑に違いない。
『彼には時間が無いから。はやく気づいて』
頭の中で“私”の声がリフレインする。
どうすればいいんだろう。はやく気づいてって、何に?何をすれば...
その日は特別、時間の進みが早く感じた。