「んじゃ!詩恩また明日ね!」
元気よく四葉が手を振ってきたので振り返して四葉と別れる。1人で家に帰るこの時間は私にとって何よりも憂鬱だ。家に帰ると緑さんが待っていた。
「おかえり。」
「ただいま。」
私と緑さんは親子だ。だけど血が繋がっていない。本当の母と父は7年前に離婚し私は父について行った。その父は緑さんと再婚し、聖奈を産んだ。実は離婚する前にもう緑さんのお腹の中には聖奈がいてその事で母と離婚したんだとか。私は真相を知らない。その聖奈は今年で小学一年生となる。
「ねぇーね!おかえり!」
トタトタと足音を鳴らしながら聖奈がやってくる。聖奈は可愛くて自慢の妹だ。聖奈も私を慕ってくれている。けれど緑さんはどうだろうか。よく思われていないことは確かだ。なぜなら今、父は緑さんに対して毎日DVをするからだ。DV夫が連れてきた血の繋がりがない子なんて迷惑なだけだ。でも緑さんはそれを私に悟られないよう普通に接してくれる。
「緑さん。」
「んー?」
洗濯物から目を離さず緑さんが言う。聖奈にはちゃんと目を見てしゃがんで話を聞くのにな。
「今日ね、学校で教科書と一緒に1年生の最後にやった小テストが返ってきたんだけど全部満点だったんだよ。」
「へぇ〜すごいじゃない。詩恩ちゃんは頭いいもんね」
またも洗濯物を畳む手を止めずに返事をする。
「あ!ママ!ママ!せーなもね!せーなもね!」
聖奈はまだしっかりと自分の名前が言えない。だからせーなと言いやすくしている。すると緑さんは洗濯物から離れ聖奈の前にしゃがんで笑った。
「どうしたの?聖奈ちゃん?いい事あった?」
ああ。やっぱり対応が違う。
「せーなもね!今日テストやったの!そしたらね!国語90点だった!すごい!?」
緑さんはその報告を受けると満面の笑みで言った。
「わぁぁ!すごいね聖奈ちゃん!やっぱりお母さんの聖奈ちゃんは天才だね!すごいね、すごいね。天才だよ!聖奈ちゃんには才能があるねぇ」
「でもね…他は50点とかだったんだ…ごめんね」
それでも緑さんは嬉しそうだった。
「ううん!謝らないで?90点はすごいよ。しかもほかの教科も50点も取れたんでしょ?充分だよ。」
暗くなってしまった聖奈の顔はみるみるうちに明るくなり嬉しそうに笑った。なんで?私の方がいい点だったのに。高校の方が高得点取るの難しいのに。まるで自分が空気になったような感覚がした。そうして緑さんと聖奈が楽しげに会話しているのを横目に私は部屋へと戻った。私が部屋のドアを開けた瞬間、父が帰ってきた。
「ただいま。」
まずい。お父さんの顔を見なければ。おかえりと言わなければ。
「お父さん、おかえりなさい。」
「ん。」
父の顔は想像以上に暗く、怒りで満ち溢れていた。それを悟った私は聖奈に声をかけた。
「ねぇ聖奈?今日ね、お姉ちゃん新しい色鉛筆買ってきたんだ。私、聖奈とお絵描きしたいな。」
父の怒りに聖奈を巻き込まないよう、聖奈を避難させた。まだ小学一年生の少女が父親が母親に暴力を振るう姿を見させられるのはあまりにも残酷すぎる。私なら耐えられず泣いてしまうだろう。そしてその泣き声が父の怒りに拍車をかけてしまうことは明確だ。
「えー、せーなパパともあそびたーい」
その聖奈の声を聞くと父は心底嫌そうな顔をしてからなるべく声のトーンをあげて言った。
「ごめんな。聖奈。俺今疲れてるんだ。お姉ちゃんと遊んでくれるか?」
最近、父は仕事が上手くいってないらしい。
「そうだよ聖奈。お父さんはお仕事頑張ったからね。あっちでお姉ちゃんとお絵描きしよ?」
「しょうがないなぁ。パパ!今度は遊んでね!」
まだ少し不服そうだが収まってくれた。良かった。駄々を捏ねてしまったらそれこそ父が嫌がる。
「ありがとな。今度遊ぼうな。」
その今度はいつ来るのだろうか。もう一生来ないのではないだろうか。
「じゃあ、行こっか。」
「うん!」
私たちが部屋に入ってお絵描きを初めてしばらくした時、父の罵声が微かに聞こえてきた。その声に少しビクッとしたが、聖奈が父の罵声に気が付かぬよう抱きしめる。
「ねぇーね?どーしたの?」
「ごめんね。聖奈。お姉ちゃん今日学校で嫌なことあったんだ。聖奈をギューってしてると安心するからもう少しこのままじゃダメ?」
嘘をつくのは心苦しいが仕方ない。
「ねぇーね、大丈夫だよ。せーながついてるよ。」
「ありがとう。聖奈。」
聖奈はいい子だ。物分りが良くて優しい子。だからこそこんな可愛い妹に両親のあんな姿は見せられない。だんだんと父の声が大きくなり緑さんがすすり泣く声が聞こえてきた。聖奈をより強く抱きしめ聞こえないようにする。パァンと乾いた音が聞こえる。緑さんが殴られたのだろう。
「ねぇーね?今の音なぁに?」
不安そうに聖奈が私の顔色を伺う。
「今の音はね、パパとママがハイタッチした音だよ。今日も1日頑張ったねって。」
苦しい言い訳だが聖奈には通じるはずだ。
「そっか!パパとママ仲良しだね。」
「そうだよ。心配ないからね。」
聖奈を強く抱きしめる。これ以上あの地獄のような音が聞こえないように。聖奈が泣いてしまわないように。今日も両親の罵声、泣き声、殴られる音、どこかに体をぶつける鈍い音、色々な音が聞こえる。その音から逃れるように身を丸めて息を殺す。やはり私は無力だ。私はそんな無力は私が大嫌いだ。