ある女の子は無力で非力でした。けれど王子様が大好きでした。どんな人にだって来てくれる、そんな王子様が大好きでした。王子様は助けを求めれば誰にでも来てくれる。
そう信じていました。
ある男の子は自分が大嫌いでした。己だけじゃない。目に見えるもの全てが憎くて消したくて目の前から消えて欲しかった。ひとつの光が自分を変えてくれる。そう信じて今日も生きていました。
「ねぇーしおんちゃーん?クラス替え嫌なんですけど〜どうにかしてくれなーい?」
高校1年生最後の登校日。私はもうすぐ高校2年生となる。あれから3年。少しは変われたはず。
「大丈夫だって!クラス変わっても絶対話すし!」
友達だってできたから。私は優しい自分を見せなくちゃならない。
「そーだけどおー。やっぱ詩恩とクラス違うと寂しいんだもん。」
こんな言葉をかけてくれる友達がいるから、私も応えなくちゃならない。
「それは本当にそう!私も四葉と違うクラスが嫌〜」
「だよね〜やっぱ詩恩大好き!!」
ほら。大好きって言ってくれる。その大好きの一言が私の存在意義になってくれる。
「やった〜ありがとね〜」
「詩恩ってさ〜?めっちゃ可愛いし、優しいし、運動できるし、頭良いし、完璧だよね」
ピクリと可愛いの言葉に反応してしまう。これは世間では褒め言葉らしい。でも、私にとっては呪いの言葉。
「えー?完璧なわけないじゃん!できないこともいっぱいあるし!なんなら四葉のが完璧じゃん?でもありがとう!」
私が生きてきた中で一番相手が不快にならない返し方。
「てかさ、同じクラスになりたい人とかいる?」
「うーん、四葉だけでいいかな〜。仲良い子もあんまりいないし。欲を言うならりさちゃんとか結衣ちゃんも一緒だと嬉しい。」
私には友達が少ない。友達が多くてもいい事はない。あの日、身をもってそう感じたから少なくていい。少ない方がいい。
「四葉は?」
聞き返してみる。
「私も詩恩がいい!!後はね〜一ノ瀬くんと同クラなってみたいかも。」
一ノ瀬くん。初めて聞く名前。不思議に思いながら聞いてみる。
「一ノ瀬くん?誰それ。」
そうすると四葉の目が少し開き、驚いたような表情に変わった。
「え!?嘘でしょ!?詩恩、一ノ瀬くん知らないの!?」
知らなかった。交友関係が少ないとこうゆう時不便なのか。
「え、知らない。はじめて聞いたし。何?有名人なの?」
「いやいや!有名人だよ!?めっちゃイケメンでサッカー部のエースだよ!1年生でレギュラー入りしてたし。あとはねぇ。優しいんだってさー。ちょーモテモテよ。」
初めて聞いた。そんな人がうちの学校にいたのか。
「へ〜。知らなかった…でもなんでその人と同クラになりたいの?」
「イケメンの同クラなんて夢でしょ!あわよくば付き合いたい。」
この年頃の女の子はみんな彼氏、リア充、カップルと何かと恋愛の話が多い。恋なんてしたこともしようとも思ったことない私には無縁の話だ。
「そんなイケメンならもう彼女いるでしょ。」
「それがね!?いないらしいのよ!しかも元カノ0だって〜!やばくない!?狙い目だよ!」
ずいぶんと興奮した四葉が目を輝かせて楽しそうに話す。
「どこ情報よ…」
根拠の無い噂ほど迷惑な話はない。果たしてこれは本当の情報なのか。まぁ確かめようとは思わないけれど。
「マジだって〜信じてよお。」
「しゃーなし!四葉を信じてやろう!」
「上から目線だるー」
ふふふ。と2人で笑う。
始業式が終わった。今日から私は高校2年生になる。始業式中に先生が掲示板に貼ってくれたクラス替えの名簿を四葉と見に行った。
「えーとえーと、双海四葉…双海四葉。うわ全然見つからない。そっちは?見つかった?」
「ぜんっぜん」
なんせ8クラスもある。おまけに人も沢山。名前を探すのが容易なはずがない。
「あ!あったよ!詩恩!私、2組だ!」
四葉は2組か。なら絶対に自分も2組がいい。四葉と違うクラスになったら友達作りに苦労しそうだ。
「2組…2組…佐々木詩恩…佐々木…さ…あ!あった!!良かった!同クラだ!」
安心した。でもこれで3年の時に四葉と同じクラスになれる確率はぐんと減った。大丈夫だろうか。
「え!やば!一ノ瀬くんも同じなんですけどー!さすがに奇跡!神様ありがとう!!」
あの、有名人さんも一緒なのか。さほど興味もないけど共感しておく。
「ほんとだ!良かったじゃん!あ、でもりさちゃんと結衣ちゃんとは別になったね…」
「あ…でも休み時間とかも話せるし!大丈夫だよ!ほら!新しいクラス行こ?」
「だね。」
クラスに着くと黒板に座席表が書いてあった。出席番号が書かれており、私は9番で廊下側の後ろから2番目の席となった。隣は2番さん。一方、四葉とは結構離れてしまった。残念に思いつつ、支度を済ませた。するとガラリと扉が開き新たなクラスメイトが入ってきた。その瞬間女子が一斉にザワザワと話し始め、男子はそのクラスメイトに駆け寄った。一ノ瀬くんが入ってきたのだ。彼は男友達と笑い合いながらチラリと黒板を見た。そしてぐんぐんと私に近づいてくる。嘘。まさか。なんと彼は私の隣の席だったのだ。ストンと華麗に隣に腰を下ろした彼は長く、綺麗な手でカバンの漁った。相変わらず周りには多くの男友達が群がっており、とても邪魔だ。もちろん言うわけないけど。それより気がかりなことが私にはあった。さっき四葉は一ノ瀬くんと関わりたそうにしていた。だから隣になったことでに嫌われていないといいけど。怖がりながら四葉の方を見ると今にわー!きゃー!と叫びそうな顔をしてこちらをみていた。嫌われはしなかったようだ。安心していると私の目線に気がついた四葉が一瞬で私の席にやってきた。
「ちょっとちょっと!詩恩ずるすぎだよ!一ノ瀬くんの隣とか全女子の憧れだよ!?」
「えー、私あんまり一ノ瀬くんのこと知らないし憧れとかでもないんだけど…」
ここで共感してしまうと逆にダメということを知っているのでここは反論。するとチャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。途端にクラスメイト達は自席に戻り荷物の片付けに取り掛かった。
「えーと、よろしくね?」
急に隣から声をかけられたので肩がビクッと震えてしまった。
「あ、えと、うん。こっちこそよろしく…です。」
平気なフリをして無難に返す。
「俺、一ノ瀬楓って言います!君は…?」
さすが有名人さん。コミュ力から別次元だ。
「佐々木詩恩です。一ノ瀬楓くんのお噂はかねがね…」
一応、初対面なのでフルネームでくん付けにしておいた。するとプハッと一ノ瀬くんが笑った。爽やかで綺麗な笑顔だった。
「お噂って堅苦しすぎだろ!しかもフルネームじゃなくていいよ!」
私は男の子を下の名前で呼んだことがなかったため、無難に苗字に君付けにした。
「うん。わか…りました。一ノ瀬…くん?」
「まだ君付けに敬語かぁ。まぁいっか!じゃあ俺は佐々木って呼ぶわ!」
そうして会話は幕を閉じた。それからは順番に自己紹介をし、教科書を配ったら下校となった。
「んじゃ!詩恩また明日ね!」
元気よく四葉が手を振ってきたので振り返して四葉と別れる。1人で家に帰るこの時間は私にとって何よりも憂鬱だ。家に帰ると緑さんが待っていた。
「おかえり。」
「ただいま。」
私と緑さんは親子だ。だけど血が繋がっていない。本当の母と父は7年前に離婚し私は父について行った。その父は緑さんと再婚し、聖奈を産んだ。実は離婚する前にもう緑さんのお腹の中には聖奈がいてその事で母と離婚したんだとか。私は真相を知らない。その聖奈は今年で小学一年生となる。
「ねぇーね!おかえり!」
トタトタと足音を鳴らしながら聖奈がやってくる。聖奈は可愛くて自慢の妹だ。聖奈も私を慕ってくれている。けれど緑さんはどうだろうか。よく思われていないことは確かだ。なぜなら今、父は緑さんに対して毎日DVをするからだ。DV夫が連れてきた血の繋がりがない子なんて迷惑なだけだ。でも緑さんはそれを私に悟られないよう普通に接してくれる。
「緑さん。」
「んー?」
洗濯物から目を離さず緑さんが言う。聖奈にはちゃんと目を見てしゃがんで話を聞くのにな。
「今日ね、学校で教科書と一緒に1年生の最後にやった小テストが返ってきたんだけど全部満点だったんだよ。」
「へぇ〜すごいじゃない。詩恩ちゃんは頭いいもんね」
またも洗濯物を畳む手を止めずに返事をする。
「あ!ママ!ママ!せーなもね!せーなもね!」
聖奈はまだしっかりと自分の名前が言えない。だからせーなと言いやすくしている。すると緑さんは洗濯物から離れ聖奈の前にしゃがんで笑った。
「どうしたの?聖奈ちゃん?いい事あった?」
ああ。やっぱり対応が違う。
「せーなもね!今日テストやったの!そしたらね!国語90点だった!すごい!?」
緑さんはその報告を受けると満面の笑みで言った。
「わぁぁ!すごいね聖奈ちゃん!やっぱりお母さんの聖奈ちゃんは天才だね!すごいね、すごいね。天才だよ!聖奈ちゃんには才能があるねぇ」
「でもね…他は50点とかだったんだ…ごめんね」
それでも緑さんは嬉しそうだった。
「ううん!謝らないで?90点はすごいよ。しかもほかの教科も50点も取れたんでしょ?充分だよ。」
暗くなってしまった聖奈の顔はみるみるうちに明るくなり嬉しそうに笑った。なんで?私の方がいい点だったのに。高校の方が高得点取るの難しいのに。まるで自分が空気になったような感覚がした。そうして緑さんと聖奈が楽しげに会話しているのを横目に私は部屋へと戻った。私が部屋のドアを開けた瞬間、父が帰ってきた。
「ただいま。」
まずい。お父さんの顔を見なければ。おかえりと言わなければ。
「お父さん、おかえりなさい。」
「ん。」
父の顔は想像以上に暗く、怒りで満ち溢れていた。それを悟った私は聖奈に声をかけた。
「ねぇ聖奈?今日ね、お姉ちゃん新しい色鉛筆買ってきたんだ。私、聖奈とお絵描きしたいな。」
父の怒りに聖奈を巻き込まないよう、聖奈を避難させた。まだ小学一年生の少女が父親が母親に暴力を振るう姿を見させられるのはあまりにも残酷すぎる。私なら耐えられず泣いてしまうだろう。そしてその泣き声が父の怒りに拍車をかけてしまうことは明確だ。
「えー、せーなパパともあそびたーい」
その聖奈の声を聞くと父は心底嫌そうな顔をしてからなるべく声のトーンをあげて言った。
「ごめんな。聖奈。俺今疲れてるんだ。お姉ちゃんと遊んでくれるか?」
最近、父は仕事が上手くいってないらしい。
「そうだよ聖奈。お父さんはお仕事頑張ったからね。あっちでお姉ちゃんとお絵描きしよ?」
「しょうがないなぁ。パパ!今度は遊んでね!」
まだ少し不服そうだが収まってくれた。良かった。駄々を捏ねてしまったらそれこそ父が嫌がる。
「ありがとな。今度遊ぼうな。」
その今度はいつ来るのだろうか。もう一生来ないのではないだろうか。
「じゃあ、行こっか。」
「うん!」
私たちが部屋に入ってお絵描きを初めてしばらくした時、父の罵声が微かに聞こえてきた。その声に少しビクッとしたが、聖奈が父の罵声に気が付かぬよう抱きしめる。
「ねぇーね?どーしたの?」
「ごめんね。聖奈。お姉ちゃん今日学校で嫌なことあったんだ。聖奈をギューってしてると安心するからもう少しこのままじゃダメ?」
嘘をつくのは心苦しいが仕方ない。
「ねぇーね、大丈夫だよ。せーながついてるよ。」
「ありがとう。聖奈。」
聖奈はいい子だ。物分りが良くて優しい子。だからこそこんな可愛い妹に両親のあんな姿は見せられない。だんだんと父の声が大きくなり緑さんがすすり泣く声が聞こえてきた。聖奈をより強く抱きしめ聞こえないようにする。パァンと乾いた音が聞こえる。緑さんが殴られたのだろう。
「ねぇーね?今の音なぁに?」
不安そうに聖奈が私の顔色を伺う。
「今の音はね、パパとママがハイタッチした音だよ。今日も1日頑張ったねって。」
苦しい言い訳だが聖奈には通じるはずだ。
「そっか!パパとママ仲良しだね。」
「そうだよ。心配ないからね。」
聖奈を強く抱きしめる。これ以上あの地獄のような音が聞こえないように。聖奈が泣いてしまわないように。今日も両親の罵声、泣き声、殴られる音、どこかに体をぶつける鈍い音、色々な音が聞こえる。その音から逃れるように身を丸めて息を殺す。やはり私は無力だ。私はそんな無力は私が大嫌いだ。
ドッチボールは苦手だ。ドッチボールとは10人から20人のチームで構成されて、相手チームメンバーをボールで当て最終的に当たった人が少ないチームの勝利というスポーツだ。私はボールを避けるのはできるがどうにもボールが思った方向に行かないからこのスポーツは好きではない。最悪だ。今日はクラスの親交を深めるためにドッチボール対決を学年対抗でやるらしい。高校生になってまでドッチボールとはどうなのかと思ったが先生が決めたことは仕方ない。一回戦、2組対4組。時間が過ぎるごとに味方の人数が減っていく。そしてしまいには私の他3人になってしまった。こうなると全員の視線は私たちに集まる。不幸にも私の側にボームが来てしまった。これを取って相手を当てなければならないのだが生き残ってる味方も逃げる専門の人たち。つまり私が投げるしかないのだ。相手の方に行くことを願ってボールを投げる。するとボールは意識でもあるかのように相手の真逆の方向に飛んでいき相手のボールとなってしまった。これはまずい。その時、全員の目線が自分に集中している気がした。そして冷や汗をかいていることに気がついた。周りを見るのが怖くて俯いてしまう。ごめんなさい。全員が私を笑っている気がする。睨んでいる気がする。もしかしたら気にしていないかもしれない。でも怖い。もし何も言わないだけで心の中では怒っていたら?もし私に幻滅していたら?そう思ってしまうと止まらない。
「大丈夫?」
後ろから誰かに話しかけられた。でも聞き覚えのない声。振り向くとそこには例の一ノ瀬くんが心配そうな顔をして立っていた。
「具合悪いの?保健室行く?」
返事をしようとするけど声が出ない。でも多分、声が出ていても震えた声だっただろう。
「よし。保健室行こっか。」
そういうと彼は私の手を引いて先生の方に向かった。全員の目線が私たちに集中していた。恥ずかしい。ごめんなさい。お願いだからそんなに嫌悪した顔で見ないで。一ノ瀬くんは人気者。彼のことが好きな人は星の数ほどいる。でもそんなことはお構い無しに彼は進んでいく。私はその力強い手を振り払うことが出来なかった。
「先生。えっと…この子体調悪いっぽいんで保健室連れていきますね。俺、保健委員だし。」
先生の分かりました。という返事を聞くとすぐに踵を返して体育館から出た。
保健室に着くと先生はいなかった。これからどうするんだろう。何か言わなくちゃ。だけど声が出ない。
「怖かった?」
何気なく一ノ瀬くんが一言。なんで分かるの?なんで怖いってわかったの?聞きたかったが聞く勇気がなかった。というより声が出なかった。
「別に無理しなくていいけど。」
気を使ったのか言葉を足してくれた。それで少しだけ声を出せる気がしたから口を開いた。
「うん。でももう大丈夫。ごめん。」
「別に俺、謝られるようなことしてないから。大丈夫。」
こんなところで一ノ瀬くんと一緒にいたら、一ノ瀬くんファンに何言われるか分かったもんじゃない。悪口言われるのは御免だ。
「もう大丈夫。一ノ瀬くんは教室戻って?」
「いや、病人置いて行けねぇだろ。」
あれ、優しい。口の利き方に難はあるものの。
「一ノ瀬くん、なんで私が体調悪いって分かったの?」
ずっと気になっていたこと。昔の私だったら気がついてくれたことが嬉しくて好きになっちゃうかもしれないなんて思う。昔から王子様は好きだったから。まぁそんな幻想ももう見ないけど。
「佐々木のことちょうど見てたから。だんだん呼吸荒くなってんの分かった。」
「そっか。すごいね。」
ほら。たまたまじゃん。
「分かるよ。佐々木のこと前からよく見てたし。」
突然のストーカー発言。前からよく見てたって何よ。
「ストーカー…?」
まずい。思ったことがつい口をついて出てしまった。
「はあ?ざけんな。恩人に対して失礼な。」
「いやいや、ストーカー発言した一ノ瀬くんが悪いんじゃん。」
言い合いしてると一ノ瀬くんに親近感が湧いた。
「一ノ瀬くん彼女いそうな性格してるね。」
自分で言ったものの何言ってんだと思った。
初対面なのに踏み込みすぎだったかな。すると一ノ瀬くんの表情が少し曇った。
「俺、別に彼女とか…興味無い。」
もう聞かないほうがいいかもしれない。
「そっか。」
まあそんな人もいるだろう。
「体調…どう?まだ休む?」
「んー、もう大丈夫かも。」
あと3分で10分休みだ。その時に戻ろう。授業中に一ノ瀬くんと戻ったら注目の的になって嫉妬の対象になることは間違いない。そんなのは御免だ。
「10分休みになったら戻ろうかな。」
「だな。」
やっぱり一ノ瀬くんは良い人だ。その分隣にいると少し苦しくなる。
教室に戻る途中、少し視線を感じた。それの視線は興味が多かったが少なからず悪意の混じった視線もあった。
「しおーん。大丈夫だった!?ごめんね!?気づいてあげられなくって!!」
焦った顔の四葉が近づいてきた。この子もいい子だ。
「ううん。大丈夫。そんな顔しないでよ。」
「ならいいけど…」
そんな話をしていたら一ノ瀬くんがいなくなってることに気がついた。
「ねぇ。一ノ瀬くんと一緒にいたんでしょ?どうだった?」
どうだったって言われても何も無かったからなんと言ったらいいのか分からない。
「別に何も無かったけど?」
すると同じクラスの女の子三人が寄ってきた。
「佐々木さん!楓くんと仲良かったの!?」
「いや、昨日初めて話したよ。」
そういった瞬間三人は安堵したような顔になった。多分一ノ瀬くんのファンなんだろう。ファンクラブがあるとか噂されてたし。もう少しで文化祭だから一ノ瀬くんと回りたいっていう女子は多いだろう。本人は全く気にしてないようだけど。そういえば最後の授業は文化祭の準備だった。すると先生が私を呼んだ。
「あ、ごめん。先生が。」
「あー、気にしないで〜行ってら。」
なんだろう。少し怖い気がする。先生に呼ばれることは少ない。何かした覚えもない。
「あー、ごめんね。佐々木さん。」
「いえ、大丈夫です。」
「ちょっとお願いがあるんだけどいいかな?」
いいかなって言われても内容を言われないと善し悪しは分からない。なんと答えるべきか。
「どうかしました?」
先生は申し訳なさそうに言った。
「文化祭実行委員、引き受けてくれないかな?なかなかやっても良いって人がいないんだよね。」
文化祭実行委員はクラスに男女一人づつ。仕事量は膨大で、クラスの出し物の準備の総指揮をとる。それに加え、舞台の準備、広告とポスター作り、他にも細々とした仕事は沢山すある。そのためやりたがる生徒は少ない。だから私に回ってきたのだろう。面倒極まりないので断りたいがこのまま決まらなかったら放課後、クラスで会議することになるだろう。そんなの会議どころか喧嘩の始まりだ。仕方がない。やるしかないか。
「分かりました。じゃあやります。」
先生はとても嬉しそうな顔をした。引き受けなかったらどんな顔をされていたことか。まぁ内申点ゲットできるからいいか。
「じゃあ、男子は一ノ瀬だから二人で頼んだよ。」
嘘でしょ。よりにもよって一ノ瀬くん?ただでさえあの人といたら注目を浴びる。こんなことなら引き受けない方がマシだった。なのに先生は頼んだぞー!と嬉しそうに去っていった。あと五分でチャイムがなる。戻らなくては。戻ると四葉がきた。さっきの三人と話していたようだ。
「どした?なんか言われたの?」
「いや…まぁ…」
3人も心配そうに来たので先生に言われたことを話した。
「えー!?一ノ瀬くんと!?えー!なら私やれば良かった!後悔…」
いいなーだの羨ましいだの散々言ってきた。こちとら一ノ瀬くんとは一緒になりたくなかったのに。そんな話をしているとチャイムがなり三人は自分の席に着いた。直後に先生が教室に入ってきて言った。
「文化祭の準備するぞー。実行委員前に来て進めてくれ。今日は出し物決めるからなー。」
一斉に教室が騒がしくなった。そして私と一ノ瀬くんが前に出ようと立った瞬間一気に騒々しさが増した。やっぱりこうなった。注目を浴びるのは苦手だと言うのに。
「佐々木。お前、黒板やって。」
「分かった。」
良かった。黒板なら目立つことはないし、字は綺麗なほうだ。これなら恥をかくこともないだろう。
「はい。じゃーやりたいの言って。今年、俺らの学年は店だからなー」
そう言って一ノ瀬くんが仕切り出す。そんな一ノ瀬くんに関心しながら意見を待つ。その後カフェにしようという意見でまとまった。
「んー。でもカフェだけじゃ物足りないよなあ。なんかあるかー?」
和風喫茶や、コスプレカフェなど出たが賛否両論でなかなか決まらない。すると1人の女の子が隣の席の女の子に話しかけた。
「男女逆転カフェとか面白そうじゃない?」
笑いながら話しかけると相手の女の子は
「えー。男装するのー?」
と笑いながら言った。
「おー。いんじゃね。客来そう。儲かる儲かる。」
一ノ瀬くんがそう言ったことで、クラスみんながその意見について口々に言い始めた。やっぱり一ノ瀬くんお金目当てだったのか…
そう私が呆れているとやはり批判の声がかかった。
「俺ら女装だろ??嫌だわ。」
クラスで目立つ存在の男の子が批判した。提案した女の子もまぁそうだよねという顔をしていた。
「じゃあ全員男装でいいんじゃね?」
一ノ瀬くんの透き通った声が響いた。大声じゃないのに何故か耳に残る声だった。
「まぁ…それなら…」
私はクラスメイトの顔を見てみたが、女の子は満更でもないようだ。
「女子はそれでもいい?」
一ノ瀬くんが言ったあと、特に女の子からの意見は無かった。なので二年二組は男装カフェをやることとなった。
放課後も実行委員の仕事があった。
「佐々木。なんかスマホなってんぞ。」
二年二組の出し物と予算の合計を生徒会に出すために資料を作成していると一ノ瀬くんが私のスマホに着信があったことを知らせてくれた。
「詩音ちゃん。遅くない?もう夜だよ?お父さんもう帰って来るよ。」
緑さんからだった。要するにもうすぐ父が帰ってくるから聖奈を見ていて欲しいという内容だった。でも一ノ瀬くんを置いて帰る訳にも行かない。
「ごめん。もう少しで終わるよ。終わったらすぐ帰るね。」
送るとすぐに既読がつき、返信がきた。
「お願いね。今日お父さん、会社の飲み会あって多分嫌なこともあったから…」
今日は荒れるなと思いつつ分かったと返信する。
「大丈夫?親心配してんじゃね?」
「うん。遅いから早く帰って来いって。」
「まじかよ。だったらもう帰ってもいいよ。心配してるんでしょ?」
まるで自分の親は心配なんてしないからというような口調だったのが少しひっかかったが私はそれを却下した。
「いや、もうすぐ終わるでしょ。それに2人でやった方が早い。」
「分かった。じゃあ早く終わらそ。」
「やっと終わったなぁ〜」
「そうだね。」
そう一ノ瀬くんと言い合っているとふと、あることに気がついた。まずい。作業に集中しすぎて結構な時間が過ぎてしまった。慌ててスマホを見ると親からの着信がたくさん来ていた。さすがに怒ってるかな。緑さんから予想外のメッセージが届いていた。
「お父さん、今日仕事で嫌なことがたくさんあったみたい。相当怒って帰ってきて、詩音ちゃんがいないって伝えたら遅くまで何やってんだって怒ってた。それで迎えに行くって。止めたんだけど聞いてくれなくて行っちゃった。だから、気をつけてね。」
まずい。本当にまずい。早く帰らないと。お父さんに見つかる前に。
「ごめん。もう帰らなくちゃ。お父さんが心配してる。」
「じゃあ送るよ。お父さんもその方がいいだろ。」
それが一番まずい。でも一ノ瀬くんの親切心を無下にする訳には。お父さんに見つからなければいい話だし。大丈夫かな。どうだろう。
「でも…」
「大丈夫だって。行こ?」
あー。これはもう一ノ瀬くん譲らないな。
「ごめんね。ありがとう。」
お父さんに見つからなければ大丈夫。お父さんと口論にならなければ大丈夫。お父さんが頭を冷やしてくれていたら大丈夫。そう言い聞かせて学校を出た。
「一ノ瀬くん、なんで文化祭実行委員になったの?めんどくさいの嫌いそうなのに。」
ふと気になった疑問を聞くと一ノ瀬くんの顔が明るくなった。
「だって文化祭とかぜってぇ楽しいじゃん!!やるしかないだろ!」
満面の笑みで私の顔をのぞき込むようにして_一ノ瀬くんが言った。少し胸がドクンとなった気がした。それは綺麗という言葉が似合う笑顔だった。その笑顔に見とれてしまった。
「どうかした?」
あまりにも私が反応しなかったため、一ノ瀬くんが心配そうに見てきた。
「いや、なんでもない!!一ノ瀬くん、そうゆうの面倒くさがりそうだなあって思ってたからびっくりしちゃって!」
慌てて適当な理由を探して言うと一ノ瀬くんの顔が少し呆れたような顔になった。
「俺をなんだと思ってんだよ…文化祭好きなんだわ。」
「そうだったんだ。」
意外だった。一ノ瀬くんと関わるようになってからイメージと違うところが見つかる。もっと適当な人かと思っていたから。何にも興味がなさそうな人だと勝手に思っていた。
「めんどくさくてもさ、楽しくていい思い出になったら良くない?」
心底楽しそうだった。それが結構羨ましかったりする。私は好きが分からないから。いや、違う。好きだけじゃない。感情が分からないのかもしれない。それすらも定かではない。そして、この時に私の中で一ノ瀬くんはいつでも楽しそうな人と決まってしまった。それをのちのち、とてつもなく後悔するということも知らずに。
一ノ瀬くんと帰るのは楽しかった。一ノ瀬くんの考えは爽やかだ。私には到底思いつかないようなことを思いつく。素直に尊敬してしまう。きっと彼はこうやって人を魅了してきたのだろう。私とは真逆に思えた。そんな楽しい帰り道も終わりがやってきた。前から男がやってきた。もうすっかり日が暮れていて周りも暗かったのでその男が父だと分かるまでに時間がかかってしまった。私が父だと認識してすぐ、パァンと私の頬から音がなった。頬を平手打ちされたのだ。驚きのあまり声が出せなかった。父は隣に一ノ瀬くんがいるのにも関わらず怒鳴った。
「詩音!!てめぇ!!遅いから心配して来てやったのに男といたのか!!!文化祭の準備だとか嘘までついて!!親不孝者が!!どれだけ俺が苦労してお前を育ててきたと思ってんだ!!」いくら父でも世間体は気にする。だから外で、ましてや人の前で大声をあげることなんて無かった。そこで緑さんが今日は一段と怒っていると言っていたのを思い出した。やっぱり一ノ瀬くんと帰るんじゃなかった。幻滅しただろう。いつも笑って愛想を振りまいている私が家ではこんなに怒鳴られていると知ってしまったから。父がもう一度手を振りあげた。もうダメか。避けたら避けたで胸ぐらを掴まれるか髪を引っ張られるかするのだろう。だったら潔く受けるしかないか。そう決心し目を強く閉じる。パシッ乾いた音だった。けれど私の体をどこも痛くない。恐る恐る目を開けると父の手が一ノ瀬君に払われていた。
「なんで…」
私がそう言うと同時に父の顔が曇った。そして一ノ瀬くんの胸ぐらを雑に掴み怒鳴った。「てめぇなんのつもりだ!!詩音をたぶらかしといてその親にもこの態度か!てめぇらいい加減にしろ!!」
この時の父の顔は何年経って忘れられないだろう。それくらいには狂気じみていた。けれどそんな父に臆することなく一ノ瀬くんは冷静に口を開いた。
「あなた…佐々木のお父さんですよね。いつもこんななんですか?」
「んなわけねぇだろうが!!俺は詩音を、家族を大切に生きてきた!!お前に何が分かる!!」
大切になんかされていない。そう言いたかった。でもやっぱり声が出ない。こうなってしまった父には誰も歯向かうことは出来ない。それでも一ノ瀬くんは冷たい目で父を見ていた。ただただ哀れなものを見るように。
「でも、さっき叩いた時妙に手馴れてましたよね。初めてじゃない。絶対。それに佐々木、たまに腕とか目の周りにアザあるんですよ。本人は隠してるみたいですけど。あなたがやったんですか?」
なんで君は知ってるの。なんでそこまで見ていてくれてるの。泣きたくなった。でもやっぱり涙は出なかった。だから多分私は本気で泣きたいなんて思っていないのだろう。
「これは躾だ!!詩音がダメなやつだから!!こうしないと分からないから!!」
すると一ノ瀬くんは口調を荒らげ、声を少し大きくして食い気味に言った。
「それは躾なんかじゃない!自分の都合がいいように、自分を正当化させるための言葉です。もしも本当に佐々木がダメなやつで言ったことを聞かないのなら、それはあなたの伝え方のせいです。あなたの愛し方に問題があります。子供は…どんなに親が狂ってしまっても、昔にくれた愛を忘れないんです。いつかまた同じように愛してくれるのを願うんです。そんな願いを踏みにじるのが親です。子供と向き合わず、自分の感情に支配される。周りが見えなくなってしまう。それでも…子供は親が好きなんです。」
自分はもう父を捨てていると思っていた。父を好きだなんて思っていなかったと思う。私は好きなの?違うでしょ。あれはもう途方もないクズだから。だから私はもう涙も出ないんでしょう?頭がグルグルして頭痛がする。
「俺が悪いってのか?お前何様だよ。何も知らねぇくせによぉ!人様の家庭に首突っ込んでくんじゃねぇ!」
やめて欲しかった。もう静まって欲しかった。でも私に止めることができるほどの勇気はなかった。
「そうですね。でも他人が首を突っ込みたくなるようなことをあなたはしているんです。娘に。」
その時父は一ノ瀬くんの胸ぐらを離した。無言の肯定と言うべきか、深くため息をついて、まだ怒りに満ち溢れたような顔をしながら私の手首を思いきり掴んだ。重心が傾いた。父は私を引っ張り家の方に向かっていった。戸惑い一ノ瀬くんを見ると悲しいような道場のような怒りのようななんとも言えない顔でこちらを見ていた。もう止めてもどうにもならないと思ったのだろう。最前の判断だと思う。一ノ瀬くんと帰ったのは間違いだったと深く後悔した。やはり、酒を手にした父は誰の手にも負えない。
翌日の放課後、文化祭の準備をしていると一ノ瀬くんに話しかけられた。
「佐々木、海行くか。」
予想もしてなかった。私から距離を取るか、心配して必要以上に話しかけてくれるかの二択かと思っていた。
「日曜日、空いてる?」
絶対行くようだ。昨日の一件について勝手に弱みを握られている気になった。行かなきゃ何か言われるかと思った。いや、それよりも父にあんなに物申した一ノ瀬くんをもう少し知りたいと思ってしまったのかもしれない。
「え、あ、うん。空いてる…」
つい空いてると言ってしまった。この選択が更なる不幸を呼び寄せるなんて夢にも思わずに。
さて、海に何を着ていこう。ワンピース?ズボン?いや海にズボンは無いな。じゃあスカートか。ミニスカート?いや、軽いロングスカートのほうがいいな。薄ピンクのワンピースにシルバーのネックレスとイヤリング。これにするか。てゆうか、たかがクラスメイトと海に行くくらいで何をこんなに悩んでるんだ私は。それより一ノ瀬くんとは友達なのか…?いやでも友達というには距離がある気がする。いやいや、友達ですらない人を海に誘う?色んな考えで頭がパンクしそうだ。一ノ瀬くんはやっぱり考えていることが分からない。今日だってなんで私なんかを海に誘ったのだろう。考えたらキリが無い。そんな感じでどんどん時間が過ぎてしまった。行かなくては。
「ごめん、待った?」
待ち合わせ場所は家から二駅の大きな駅だった。待ち合わせ場所に着くともう一ノ瀬くんはいた。
「別に待ってない。行こっか。」
やっぱり一ノ瀬くんが分からない。難しい人。一ノ瀬くんが半歩先にいる。
「あのぉ…どこ行くの?」
一ノ瀬くんは振り返らずに言った。
「海。」
一ノ瀬くんが何を考えてるのか分からなくて少し怖い。いつも乗らないような地方に行ける電車に乗った。それはそれは遠くまで行ける電車に。電車に乗ると一ノ瀬くんはいつものように接してくれた。
「佐々木って前からこの辺住んでたの?」
いつもの口調といつもの一ノ瀬くん。さっきの少しの恐怖はすぐにどこかへ行ってしまった。
「そうだよ。ずっと家の近くの学校選んできたから。」
「そっかぁ…ねぇあのさ、真田由貴(さなだ ゆき)って知らない?」
全然知らない子の名前が出てきて驚いた。真田由貴。名前を聞いたこともない。その子と一ノ瀬くんはどんな関係なのか気になった自分がいた。
「真田由貴…?んー知らないなぁ。どうして?」
一ノ瀬くんが残念にしていた。もしかして初子の人だったりするのかな。なんて思った。それとも忘れられない元カノ?モヤモヤした。どんな人かどんな関係なのか知りたい。だから軽いノリで聞いてみることにした。
「なになに〜。一ノ瀬くんの好きな人ぉ?」
明らかに一ノ瀬くんの表情が曇った。これはまずい。私は家の事情で両親の顔色を伺うことが多い。だから大抵の人は表情で何を考えてるか分かるようになってしまった。そしてこの顔は全力で拒絶しているような心底迷惑そうな顔だった。
「違う。なわけねぇよ。あんなやつ。」
初対面の時、私は一ノ瀬くんをフレンドリーな人だと思った。一緒に帰った夜、私は一ノ瀬くんを強い人だと思った。今日の朝、私は一ノ瀬くんを難しい人だと思った。そして今の一ノ瀬くんは怖くて分からない人だ。
「そう…なんだ。」
これ以上詮索するのは良くない。一ノ瀬くんも嫌だろう。話題を変えよう。
「そういえば、もう文化祭だね。誰と回るの?」
我ながらいい話題の選択だ。
「まだ決めてないよ。誰でも良いかな。なんなら1人でも良い。」
「え!一ノ瀬くん色んな人から誘われてるでしょ!?」
意外だった。いつでも人に囲まれている彼はもう決まっているものだと勝手に思っていた。
「あいつら、別に俺が好きなわけじゃねぇだろ。」
悲しそうにそう笑った彼は孤独に見えた。なぜ一ノ瀬くんが自分をそう蔑んでいるのか私には分からない。だけどこれは言える。
「え?そんなわけなくない?だって私、好きじゃない人と海行ったりしないよ?みんなそうでしょ。」
もしかしたら彼にはもう一つの一面があるのかもしれない。それでも彼は良い人だから。
一ノ瀬くんが驚いた顔をした。それから笑って。
「ありがと。」
少し照れてる。その顔が綺麗だった。私が今まで見てきたのは暗く醜いものばかりだった。彼の笑顔はいつでも爽やかで美しかった。しばらくするとこじんまりとした駅に着いた。
「降りるぞ。」
一言そういうと一ノ瀬くんが歩き出す。遅れないように早足で近づいてまた話始める。やっぱり一ノ瀬くんといるのは楽しい。四葉といる時も楽しいかもしれない。けどそれとはまた違ってちゃんと楽しいって思える。止まっていた時間が動き始めるように。
「ここ。綺麗だろ。人も少ねーんだ。」
5分ほど歩くとそこには一面の海があった。白い砂に水晶のように綺麗な海。涼しげな風。ちょうどお昼時で人も少ない。画面の向こうでしかこんな景色はないと思っていた。実際に見るとやはり目を見張るような美しさだ。白い砂浜にポツンとある一つのベンチに腰をかけて海を眺める。
「佐々木。なんか飲み物いる?」
「あ、自販機行くの?私も行く。」
ふと声をかけられて答える。一ノ瀬くんは気配りができる。もうすぐ秋とはいえ、まだ暑さが残っている。そんな日にサラッとこんなことを聞ける彼はすごいのだろう。
「いいよ。海、見てたいんだろ?俺買ってくるから。」
「え!いいの!?ありがとう…じゃあ美味しそうなジュースで。一ノ瀬くんのおすすめ。」
一ノ瀬くんはすごいな。優しい。海をまだ見ていたかったから嬉しい。海に来て良かったと心底思う。
「おすすめぇ?好きじゃなくても文句言うなよ?」
正直、どれでも良かったから文句は言わないと思う。好き嫌いだってないし。
「うん。言わない言わない。」
笑ってそう言う。すると彼は分かったよと言って自販機がある方へ歩いて行った。そこで気がついたが彼の一歩は大きかった。それもそのはずだ、彼は私より二十センチ以上身長が高い。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。彼は私に歩幅を合わせてくれていた。顔が熱くなった。これはきっと暑さのせい。そうだ。大丈夫。私は恋なんてしてはいけないのだから。
「おまたせ。迷ったわー。」
そう言って平然と戻ってくる彼を見て、また熱くなった。
「大丈夫。海見るの楽しかったから。」
「そ?ならいいけど。」
ふと一ノ瀬くんの手元を見ると見た事のない黄緑色のラベルが貼ってある缶ジュースがあった。
「何買ってきたの?」
「マスカットジュースだっけ?たしかそんなん。なんか美味しそうじゃね?」
私の家の地域では全く見ないので気になってラベルを見るとそこにマスカットという字はなかった。
「ねぇ、一ノ瀬くん?これ…マスカットじゃなくない?」
「え、なわけ。」
そう言って一ノ瀬くんもラベルの字を見て驚いた。
「わらび…ジュース?何だこれ…」
堪えきれずに笑いが込み上げてきた。
「あははっ!なにこれ!わらびって!」
笑いすぎて涙が出てきた。そして一口飲んでみる。やっぱりマスカットの味はしなかった。
「はぁー。おもしろ。ほんっと。」
「良かった。」
一ノ瀬くんが安堵した顔になった。私にはそれがなぜかは分からななかった。ただそれだけを言って嬉しそうな顔になってとても美しかった。なんとも美しく儚い顔だった。
「あ、お金…何円だった?」
「いらないよ。勝手に買ってきただけ。それよりさぁお前もう白状しちゃえばあ?」
サラッとお金はいらないっていう彼はかっこよかった。多分女子の理想なんだろう。そして、白状。なんの話か心当たりが無いわけじゃない。けど一応聞いてみる。
「何の話?」
「知ってるくせに、無理してんだろ。」
「分からないなあ。」
頑なに否定する。無理かもしれないけど私はこれしか方法を知らない。
「お前さぁ、妹に似てるんだよなあ。だからなんか気になるっつーか、分かっちゃうみたいな?」
寂しそうな顔だった。
「すごいね。なんでも分かるんだね。羨ましい。」
もう詮索して欲しくなかった。これ以上話したくなかった。だから少し皮肉を込めて言ったつもりだった。
「なわけねえだろ。俺は…妹を殺した。そんなやつ羨ましい?」
殺した…?今、殺したって言った…?妹に似てる人を気になってしまうくらいに想っている妹なのに?矛盾している気がした。そしてあまりにも衝撃的だった。
「どう…して?」
声が震えた。私の隣にいる男はもしかしたら罪を犯した人かもしれない。私を恐怖が包んだ。
「…佐々木なら話してもいいけど…これを話したらお前も話してくれよ。頑張って話すから。」
内容によると思う。けれどやっぱり話が聞きたくて無言で一ノ瀬くんの目を見た。
それは一ノ瀬くんの壮大な、残酷な過去だった。
俺さ、四人家族なんだよ。母親と父親と俺と妹。でも家族仲は最悪。正確に言うと両親が。両親は可愛くて綺麗な女の子が欲しかったんだって。だから一番目の子供が男で要らなかったみたい。けど、捨てるわけにもいかないから渋々俺を育ててくれた。両親はキレるといっつも俺にこう言ったよ。
「お前は顔しか取り柄がない。」
って。ひでぇだろ?で、俺が産まれてから一年後に妹の一ノ瀬菫を産んだ。男じゃなくて良かったよ。菫はほんっとに可愛かった。綺麗と可愛いをどっちも持ってた。両親も嬉しそうだったよ。菫は謙虚だし、誠実だった。ほんっと花言葉通りだよ。知ってる?菫の花言葉は「謙虚」「誠実」「小さな幸せ」さすがだよなぁ。その通りに成長したんだから。だけど両親の俺への態度は変わらなかった。いい成績を取っても表彰されても両親は俺を褒めてくれなかった。その時は俺がいけないんだって思ってたわ。もっともっとって頑張ってた。けど両親は一回も褒めてくれなかったよ。頑張りすぎて熱を出した時も最低限の食事を渡して仕事へ行った。菫が熱を出した時は大騒ぎなのに。でも俺は菫が好きだったよ。菫は俺が両親にキツくあたられてるのを見たら話を変えようと努力してくれた。俺の部屋に来て両親の愚痴を言ってたよ。だから、嫌じゃなかったんだ。良い妹だった。両親は俺らが仲良くすることに対しては何も言わなかった。菫を叱りたくなかったんだろうな。休日に二人で買い物に行ったり、勉強を教えたり。当然菫には彼氏が出来た。足立信くん。良い奴だったわ。それが四年前だったか。中一の秋だったな。早いよなあ。幸せそうだったよ。毎日信くんとの惚気話を聞かされてさ。俺も嬉しかったんだけどね。幸せそうな菫を見るのは気分が良かった。傍から見たら仲良い兄妹だよな。いや、カップルにも見えただろうね。菫の信くんはモテてたんだ。だけど菫もモテてた。菫も信くんも男女共に好かれるお似合いカップルだった。だから、菫になら信くんにならみたいな感じでトラブルは起きなかった。そんな時に俺と菫が一緒にいるところを見られた。自慢じゃないが、俺の両親は美男美女だった。俺は父親に似て菫は母親に似た。だから俺と菫はにあんまり似てなかったんだ。つまり、菫が浮気していると噂が回ってしまったんだ。スキャンダルみたいにさ、インターネット上に晒されたよ。俺も菫も割と有名人だったからな。あ、芸能的な意味じゃないけどな。なんでインターネットになんか載せるんだろうな。まあ叩かれるわな。少数だったが顔も知らない、学校も違うやつにも認知されてたからなぁ。そいつらにも叩かれたよ。なんも知らねぇくせに。インターネットに書いた言葉残る。俺も菫も俺らに向けての罵詈雑言をたくさん見た。吐き気がするほどに。
「死ね」「クズ」「浮気女」「二重人格」中にはさ、「菫ってなんっか気に食わねぇなって思ってたんだよ。どうせ裏があるって。まじキモいし。なんで信はあんなやつが好きなんだよ。私のがいいでしょ。洗脳されてる。」って書いてるやつがいたんだ。これはもう何度も見すぎて一語一句覚えちゃった。書いたの誰だと思う?菫の親友だった。あ、それが真田由貴ね。後から知ったけど真田も信くんのことが好きだったみたい。それにしてもこれはねえだろ。あんなに仲良くして一生親友だねとか言ってたくせに。菫のスマホはずっと鳴るようになった。誰かも分からないアカウントから永遠に暴言が送られてくるんだ。しかもアカウントは一つじゃない。何個も何十個も。毎日毎日。最初は菫も俺も対応したよ。俺らは兄妹だって。まぁ聞かねぇよな。人間、自分が楽しけりゃ周りには興味ねぇ。だから俺らの言葉には耳を傾けてくれなかったわ。唯一の救いは信くんは信じてくれたってこと。ほんと良い奴だよ。てゆーか信じない方がおかしいよな。苗字同じだってのに。同じ家に帰ってるってのに。もっと面白くするために違う噂を流すやつもいたよ。なんだっけな。
「楓先輩と菫は信が嫌いで陥れて嘲笑うために信と付き合って浮気した。」
だったかな。ほんとひどい話だよ。噂は真実かなんでどうだっていいんだ。ただネタにして笑った信くんに同情できれば。気づいてたやつもいたんじゃないかな。けどあわよくば心を痛めてるだろう信くんを慰めて奪いたいって気持ちがあったんだろう。信くんはそんなヤツらにそそのかされたりしなかったけどね。でも菫はどんどん堕ちていったよ。学校に行っても誰も助けてくれない。無視されてものを隠されて捨てられてボロボロにされて。親にも教師にも相談できない。なんてったって親も教師も菫は世渡りが上手な子だと思ってんだからな。だから信くんのことも俺のことも信じられなくなった。信くんを冷たく突き放して泣いて、壊れたよ。菫はアイドルでも芸能人でもない!なのに!憶測で好き勝手言いやがって!真実かも知らねぇで!自分の利益を最優先にするクズしかいねぇ!言葉は言った途端宙に舞って消えるが文字はちげぇ!特にインターネット!あれは…科学者が生み出した兵器だ。常人や一般人が持ってていいもんじゃない。使い方を間違えたら人を殺す。怖い兵器をよくもまぁ作ったもんだ。俺らはインターネットがある環境に慣れすぎている。そんでインターネットを上手く使えないクズのせいで菫は自殺を選んだ。そう思ってた。でも俺のせいだった。最後に菫が言ったんだ。
「あの時、お兄ちゃんと出かけてなければまだ幸せだったかなあ。」
血の気が引いたよ。そしたら菫は夜の街に飛び降りた。そして延々に消えてしまった。俺があの時買い物に誘わなければ菫の笑顔はまだ見れていた。俺は妹を殺した。その後、ひたすらに一ノ瀬家は堕ちていった。父は荒れ狂って一日中酒を飲むようになってそれに痺れを切らした母が離婚を切り出し、離婚した。母は出て行って父も何日も家を留守にすることが増えた。もう1ヶ月以上顔みてねぇな。あいつ、いつ帰ってきてんのか知らねぇけど大金置いていくんだよ。それで今の俺がある。どうだ?羨ましいか?それとも惨めだと思ったか?ただ一つ言えることは菫に似てるお前を放置しておきたくなかった。
冷たい声、突き放すような口調。暖かく涼しいはずの海の側は凍えるほどに寒かった。一ノ瀬くんの目は何も写していなかった。海を見ているはずなのに一面灰色のようだった。
「えっと…」
何か言わなくちゃいけない。でも何を言えばいいのか分からない。多分、慰めの言葉なんていらない。私が一ノ瀬くんの立場なら、そんなものいらない。
「…よく頑張ったね。」
私はこの言葉が好きだ。きっと一ノ瀬くんも。何年も聞いてないこの言葉。親に認めてもらえなかった、愛されなかった私たちが欲しい言葉はこれだ。誰かに頑張りを評価して欲しかった。努力を見て欲しかった。そう思うと自然に涙が出た。私が泣く場面じゃないのに。そうしたら一ノ瀬くんは私が好きなあの笑顔に少し儚さを混ぜて言った。
「ありがとう。」
やっぱりこの人の笑顔が好きだ。もっと見ていたい。もっと近くにいたい。でもそう思うことは多分これから一ノ瀬くんを傷つける。ただでさえ苦しい過去を持っている彼に更なる不幸を私の手で呼びたくない。彼には幸せになって欲しいから。だから、私は彼の傍にいることはできない。私なんかよりずっと良い人が現れて、幸せになって欲しい。それが彼を救う方法だ。
「さて、次は佐々木の番だぞ。俺こんなに頑張ったんだから佐々木も。」
いたずらっぽく一ノ瀬くんが笑った。一ノ瀬くんは思い出したくもない、ましてや他人に話したくもない過去を教えてくれた。私にそんなことを教えてくれた彼だから私も教えようと思った。