そうして僕の一ヶ月が過ぎた。
水底に沈む泥のように過ごした最初の週に比べて、先輩と出会ってからの日々は目が醒めるようだった。
締め切り間際の一週間は、まるで煌々と燃えながら山の斜面を駆けくだる火砕流のように鮮やかだった。
「例の小説は完成した?」
「いいえ、その、書けませんでした」
結局、コンテストの締め切りが過ぎても僕の原稿は完成しなかった。
「そっかぁ」
「はい、すいません」
けれどもそれは、諦めたからではない。
先輩といっぱい話をして、アドバイスも沢山貰った。
元のノートはメモ書きで埋まって、タイトルも変えたので、僕の前には今新しいノートがある。
締め切り前夜の時点において、ただ間に合わせようと思えば、締め切りまでに漕ぎ着ける自信はあった。
それをしなかったのは、それだけじゃ満足出来なくなったからだ。
「もう少しで、良い作品が書けそうな気がするんです」
「いいね」
先輩は何かを書いていた手を止めて微笑んだ。
悠々と空を泳ぐ白雲に誘われて、僕の時間も流れ出した。
夏への扉が開いたような気分がする。
「私もね、書いてみることにしたんだ」
「いいですね」
何かの心境の変化があったらしい。
いつも文庫本を持っていた手には黒の鉛筆が携えられ、その前には原稿用紙が広げられている。
「それでは、三限を取っているので僕はそろそろ行きます」
「ん、いってらっしゃい」
ノートと筆記具を鞄の中に片付け、挨拶を交わして部屋を出る。
僕はこのサークルの外でも、幾分か人目を気にしないようになった。
まだ知らない人と話すのは少し怖いけれど、それだけでもかなり気分が楽になった。
少しだけ息がしやすくなった気がした。
