村長はその後再び龍花の町から移送されたそうだ。
これで完全に村長と顔を合わせる機会はなくなった。
ミトには穏やかな日常が始まる。
「おはよう、波琉」
「おはよう」
にっこりと微笑む波琉の笑顔が朝から眩しい。
まるで後光が差しているかのようだ。
周囲を浄化していそうな笑顔の波琉とともに、両親のいる家に向かう。
基本的にミトが暮らしているのは自室が用意されている屋敷の方だが、食事の時は両親と一緒に過ごす。
まあ、それに関わらず頻繁に出入りはしているのだが。
朝から忙しく朝食を作っている志乃の手伝いをする間、波琉はシロにご飯をあげている。
ついでに「お手」などと言って芸を教えているのがなんとも微笑ましい。
「波琉、ご飯できたよ」
「うん。今行くよ」
まるで新婚夫婦のようなやり取りに、先に席に着いていた昌宏がギリギリと歯噛みしている。
相手がたとえ龍神と言えども父親的には許せないらしい。
志乃はやれやれとあきれ返っている。
全員が席に着き、ようやく朝食が始まる。
これがミト一家の日課だ。
波琉が納豆を混ぜているのを最初こそ楽しげに見ていたミトも、毎日の光景となっては物珍しさは一切ない。
すると、突然波琉が手を止める。
「そうそう、ミト」
「なに?」
波琉に呼ばれてミトも手を止める。
「煌理と一緒に、煌理に属する龍神がひとり花印が浮かんだから天界から降りてきているんだけど、どうやら特別科の生徒が相手みたいだよ」
「そうなの? 誰?」
「さあ、なんて言ったかな? 特に興味なかったから覚えてないや」
「波琉ったら」
本当に興味がなさそうな波琉にあきれるミト。
今でこそ食事を一緒に取るようになったが、ミトが町にやって来るまでは食への興味もなく食べ物を口にしていなかったとか。
龍神は食べなくとも生きていけるとはいえ、食に関わらず、波琉はどこか他への興味が薄い。
ミトはときどきそれが危うく感じてしまう。
ミトのことになると自分から読心術を習ったりと行動力をみせるのに、興味のあるなしが極端すぎるのだ。
「龍神の名前は分かるよ。環って言うんだ」
「環様か……」
名前だけ教えられてもどんな龍神かは分かりようがない。
けれど、それ以上の情報を教えてくれる様子はなく、波琉は再び納豆へと興味が移ってしまっている。
「まあ、学校へ行ったら噂になってるかな」
おそらく千歳が情報を持っているだろう。
千歳はまだ学生ながら神薙の資格を持っているので、龍神の情報は共有されているはずだ。
食事を終えると屋敷の方へ戻り、制服に着替えて玄関へ向かう。
波琉も玄関まではお見送りをしてくれる。
「気をつけてね、ミト」
「うん。いってきます。本当はそろそろ波琉とデートしたかったんだけど……」
皐月の事件以降は波琉と出かけるということをしていなかった。
煌理から星奈の一族の過去も聞けたし、せっかく村から解放されたのだから、波琉と行ってみたい場所はまだまだたくさんあった。
行動範囲は龍花の町の中に限定されるとは言え、この龍花の町は広く、たくさんの店や施設が充実しているので飽きることはなさそうだ。
「ごめんね。瑞貴が煌理伝てにたくさん仕事を送ってよこしたから、先にそれを片付けないといけないんだ。まったく、天界へ帰ったら瑞貴に文句を言わないといけないよね」
などと波琉も嫌々なのがよく分かる。
ミトを溺愛している波琉が優先させるのだから、早めに対処する必要がある仕事なのだろう。
それが分かるのに、ここで自分を優先しろと我儘を言えるミトではない。
ミトは残念そうに笑う。
「波琉の仕事が終わったら一緒に出かけてね」
健気な姿を見せるミトを、波琉はたまらずという様子で抱きしめた。
「やっぱり仕事は後回しにしようかな。ちょっとサボったぐらいで人類が滅んだりするわけじゃないし」
何気に怖いことを言う波琉にミトはぎょっとする。
波琉の仕事がどんなことかまだ知らないが、天候を操る波琉に任せられる仕事なのだからかなり重要度が高いはずだ。
ミトは慌てて波琉を止める。
「わ、私は大丈夫だから、波琉はお仕事頑張って! 私も学校の試験勉強で忙しかったりするし、私も頑張るから波琉もね?」
「そうだね。ミトがそう言うなら頑張るよ」
ほっとしたのはミトだけではなく、ふたりのそばで静かに控えていた蒼真もであった。
学校へ着くと、千歳がミトを待ってくれている。
これは千歳が世話係となってからずっとだ。
その分ミトに合わせて早く学校に来なければならないので千歳には申し訳ないが、他の世話係も同じことをしているから気にするなと言われている。
神薙となれば仕える神に合わせて動くのは当たり前なので、これぐらいで文句を言っていては神薙などにはなれないたいうのが千歳の言い分だ。
なるほどと納得しないでもない。
蒼真や尚之も波琉に合わせ、波琉の願いを叶えるためすぐに動けるよういつも待機しているのだ。
ちゃんと休みを取れているのか心配になったりもするが、波琉は他の龍神に比べると大人しく仕えやすい主人なのだとか。
他の龍神に仕える神薙の中にはそれはもう入れ替わりが激しいところもあるらしい。
それが顕著だったのが、久遠に仕える神薙だったというのだから驚きである。
久遠のことを詳しく知るほど久遠を知っていたわけではないが、温厚そうな龍神だったのでなおさらそう思う。
けれど、問題は久遠ではなく皐月の人使いの荒さが原因と聞いて、ミトは深く納得してしまった。
学校内での横暴さを見れば確かに逃げたくもなる。
今のところ千歳は未成年というのもあり、龍神に仕えるとしても先になるだろうとのこと。
「千歳君は早く龍神様に仕えたいの?」
「んー、特には。なんか他の神薙の話聞いてると大変そうだしならなくてもいい」
千歳は意外にもそう言った。
「え、でも龍神様のお世話がしたくて神薙になったんじゃないの?」
「違う違う。神薙だと他と全然違うんだよね」
「なにが?」
すると、千歳は親指と人差し指で丸を作った。
「給料。龍花の町で就ける職業の中でダントツで高収入なわけ」
「えー」
なんて夢のない。
いや、ある意味夢はあるのか?金銭面において。
「まさかそんな理由だなんて……」
「人間そんなものだよ。欲望の塊なんだから。神薙が人気職業トップなのもそれが理由の一端なんだろうし」
「神薙のイメージが壊れそう」
神に仕える神聖な職業というイメージだったのに、ずいぶんと俗物的である。
だが、まあ、それでもすでに将来の職業を決めている千歳はすごいと思うのだ。
「私も学校卒業したら働いてみたいなぁ」
「無理でしょ」
ミトの願望を千歳はバッサリと切り捨てた。
「紫紺様の伴侶を雇ってくれるとこなんかないよ」
「それは分かってるけど、学校行くのと同じぐらいバイトとかしてみたいなって思ってたんだもの」
あの村ではどこへ行っても招かれざる客だったので、ミトが働ける場所などなかった。
それは両親も同じで、決められた仕事以外することができず、監視されながらの仕事は両親の精神を削り取っていた。
けれど、この町で紹介された仕事をするようになってからは、職場であった話を楽しそうに教えてくれるのだ。
それを聞いていたらミトも仕事がしたくなってくる。
「この町ならたくさんお店もあって求人募集してるところも数多くあるのにぃ~」
花印のおかげでこの町に来られたのに、その花印がミトの邪魔をした。
ままならないものである。
ミトからは思わずため息が出る。
「あきらめな」
「あうぅ」
せめて職業体験で一日だけでも働けないものだろうか。
しかし、この町での花印を持った子の特異性を考えると、一日ですら許されない気がする。
教室へ向けて歩いている途中、ミトは波琉の言葉を思い出した。
「あっ、そうだ、千歳君」
「なに?」
「天界から環様って龍神様が降りてきたんでしょう? 相手は特別科の生徒だって。どの人か知ってる? 蒼真さんに聞き忘れちゃって」
「あー、金赤様と一緒に来た方だね。ミトもよく知ってる奴だよ。吉田美羽って女」
ミトは驚いて反射的に「えっ!」と声が出た。
「吉田さんて、あの吉田さん?」
「他にどの吉田がいるか知らないけど、たぶんミトが思ってる吉田だよ」
以前まで皐月の取り巻きをしており、特別科の一部の生徒から虐めのような扱いをされている女の子だ。
なにかと仕事を押しつけられているようで、前にミトが手伝ったらミトの言葉に気分を害して怒らせてしまった。
それ以後も嫌がらせは続いているようだが、なにぶんミトのいないところで嫌がらせが行われているのもあって、口を挟めない。
それに、美羽自身が関わってくるのをよしとしていないから、ミトもどうしようもないのだ。
「彼女いろいろと嫌がらせされてたみたいだけど、龍神が迎えに来たならもう大丈夫になるかな?」
「だろうね。この話はすでに生徒の間にも伝わってるから、これまであの女をいいように使っていた奴らは顔色変えてるんじゃない? 特別科の勢力図が変わるかもね」
「そんなあからさまになる?」
「ミトが一番よく分かってるんじゃないの?」
千歳の言う通りだ。
わざと隠していたわけではないが、入学当初はミトが紫紺の王の伴侶とは知られておらず、皐月に楯突いのを理由に無視されるようになった。
それが、紫紺の王の伴侶と知るや、手のひらを返したように媚びを売り始めたのだ。
あの豹変の仕方はミトもドン引きするほどであった。
おそらく、あれと同じ状況が繰り返されるのだろう。
「じゃあ、吉田さんの派閥ができるのかな?」
今はありすも学校に来なくなったので、龍神に選ばれた人間はミトを除いて美羽だけということになる。
「まあ、ミトはいつも通り過ごせばいいよ。ミトにはあんまり影響ないだろうし」
「まあ、そうだね」
美羽とは仲がいいわけでも特別悪いわけでもない。
同じ特別科だというのに、朝の挨拶すらしないほど希薄な間柄なのだ。
龍神に選ばれ虐められる心配もなくなったとあれば、ミトが関わる理由もない。
さらに言えば、これまでミトに媚びてきた生徒たちがミトでは反応が薄いといって、美羽に流れていくのではないだろうか。
そうなればミトにようやく平穏がやって来るかもしれない。
影響がないどころか、むしろいいことなのではないかと思い始めた。
まあ、それは美羽の対応次第になってしまうが、今より悪くなったりはしないはず。
ミトは意気揚々と教室へと向かい、扉の前で千歳と別れた。
教室に入れば、教室の一部分に人が集まっている。
そこは普段美羽が座っている席だ。
どうやら早速狩人たちに群がられているよう。
その集団から少し離れた場所では、前にも美羽に仕事を押しつけていた生徒が顔色を悪くして集まっている。
この龍花の町では、龍神選ばれるかどうかで大きな差が生まれる。
発言力が違うのだ。
今、学校内で美羽に物申せるのは、ミトぐらいのものだろう。
しかし、波琉の威光に頼りたくないミトが、率先して物申すのはよほどのことがない限りない。
ミトは様子を見守ることにした。
観察していると、美羽が非常に困惑しているのが伝わってくる。
困った顔で、これまで見向きもしなかった生徒たちが、美羽を褒めたたえている。
「すごいわね、吉田さん。龍神様が迎えに来てくださるなんて羨ましい」
「やっぱり吉田さんの人柄がいいから、運を引き寄せたのよ」
「ねえねえ、吉田さんの龍神様ってどんな方?」
「一度でいいから屋敷に招待してくれよ」
皆言いたい放題だ。
あからさますぎて美羽でなくとも困惑するだろう。
おそらくミトも少し前まで同じ顔をしていた。
本当にここは龍神のために作られた、龍神を中心に回る町なのだと実感する。
しばらくは大変だろうなとどこか他人事のように思っていると、草葉が教室に入ってきてホームルームが始まる。
けれど、美羽に集まる生徒は席に戻る気配もない。
草葉と目が合ったミトは苦笑いを浮かべる。
草葉もやれやれとため息をついて、そうそうにホームルームを終わらして出ていった。
草葉も今日ばかりは仕方ないと思っているのだろう。