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 学校から帰ったミトは、一目散に波琉のいる部屋へと向かう。
「波琉! ただいま!」
 ご主人様に会えて尻尾を振る犬のように喜びを隠しもせず部屋へと飛び込む。
 そうすれば、波琉は穏やかな笑みを浮かべてミトを迎え入れた。
「おかえり、ミト。危ないことはなにもなかった?」
「危ないもなにも、学校へ行っただけだよ」
「その学校で襲われたのを忘れたの?」
「そうだけど……」
 波琉は皐月の起こした事件を言っているのだ。
 安全であるはずの学校で襲われたのを忘れたわけではないが、そう何度も同じような事件があってたまるものか。
 波琉の横にちょこんと座れば、波琉はニコニコと微笑みながらミトの頭を撫でる。
 愛でるようにふれる波琉に、ミトも抵抗なんてしない。
 ミトは波琉にふれられるのが好きだ。
 恥ずかしさはもちろんあるけれど、それ以上の幸福感がミトを満たしてくれる。
 波琉の手はどこまでも優しく、ミトの心を癒してくれた。
 そう時は経っていないのに、村での生活が何年も前のことのように遠い昔に感じる。
 そう思えるのは、波琉がいるからだ。
「もっとこっちへおいで」
 波琉に誘われるままさらに距離を詰れば、引き寄せられ波琉の腕の中にすっぽりと包み込まれた。
 奥手なミトは波琉のスキンシップの多さにまだまだ慣れない。
 けれど、逃げたいわけではなく、ただただ頬を赤らめる。
「ふふっ。ミトはかわいいね」
 そう言って頬に一瞬ふれるだけのキスをされ、ミトの顔はさらに紅潮する。
 どうしていいものか反応が分からず硬直するミトだが、内心ではアワアワと激しく動揺していることを波琉は知らないだろう。
「たまにはミトからしてくれてもいいんだよ?」
 さあどうぞ。というように波琉はみずからの頬を向けてくるが、とんでもない。
 ミトは勢いよく首を横に振った。
 自分から波琉にキスをするなんて難易度が高すぎる。
 波琉から頬にキスをされるだけでいっぱいいっぱいだというのに。
「無理無理」
 顔を真っ赤にして拒否すれば、波琉は残念そうにする。
「えー。頬でも駄目?」
 かわいらしくおねだりする波琉はあざとらしく首をかしげる。
 いったいそんな仕草をどこで覚えたのやら。
 ミトは少々心が揺れ波琉の頬をじっと見つめ考えたが、その美しい顔を間近にするとやはり自分にはまだ早いと顔を背け両手で顔を隠す。
「無理ぃ~」
「あはは。残念」
 波琉ののんびりと楽しそうな声色を聞いていると本気で残念に思っているのか判断しづらい。
 ただミトをからかって遊んでいるだけではないのかと思いすらする。
 波琉は顔を隠すミトの両手を外し、指を絡めるように握った。
 ミトにはそれだけでも羞恥心で身悶えたくなる。
「龍神は気が長いから焦らなくても大丈夫だよ。でもいつかはミトから。ね?」
 人畜無害そうな笑顔で『ね?』なんて言われても、ミトも『はい』とは答えられそうにない。
 ミトが心の中で自分からキスできるかできないか葛藤している間、波琉はミトの手を弄ぶように指をからませている。
 ふと、その手が止まると、波琉は今思い出したように口を開いた。
「そうそう、ミト。今度煌理が来ることになったよ」
「おうり? 誰?」
 聞いた覚えのない名前にミトは首をかしげる。
「金赤の王だよ」
「金赤の……。波琉と同じ龍神の王様?」
「うん」
 波琉と立場を同じくする、龍神たちをまとめる四人の王。
 紫紺の王である波琉。白銀の王。漆黒の王。そして、金赤の王。
「どうして来るの?」
「少し前、天界へ帰る久遠に煌理への伝言を頼んでいたんだよ。龍花の町に来てくれるようにって。星奈の一族がどうして龍花の町から追放されたのか、本人に聞くのが一番早いからね。久遠は煌理の側近だけど知らないみたいだったから」
「そうなんだ」
 ミトは思い出す。
 星奈の一族が龍花の町を追われたのは、金赤の王が命じたからだ。
 それが起きたのは百年前。ミトが生まれるずっとずっと昔のことで、龍花の町では星奈の一族のことが禁句扱いになっており、尚之や蒼真でもなにがあったのかを知らない。
「金赤の王様に聞けば、百年前になにがあったか分かるの?」
 なぜ自分が星奈の村で虐げられていたかも。
「たぶんね」
「そう……」
 知りたい。けれど知るのが怖い……。
 なぜ自分はあんなにも理不尽に村の人たちから嫌われていたのか。
 花印を持つ者がどうしてあの村で忌むべき存在となったのか、それは両親ですら知らない。
 知ることで余計に辛くなりやしないかと、ミトは心配で表情が曇る。
 そんなミトの頭を波琉が優しく撫でる。
「大丈夫だよ。僕がいるからね」
 すべてを包み込むような波琉の笑顔が、ミトの中の不安を吹き飛ばしてくれる。
「うん」
 百年前なにがあったのか。もうすぐその理由が知れる。

 それから数日のこと。
 朝食を終えて学校へ行く支度をしていたミトのところに蒼真がやって来る。
「ミト。今日は学校は休め」
「えっ、どうしてですか?」
 もう制服に着替えて準備万端だというのに。
「先ほど神薙本部から連絡があって、金赤様がこの龍花の町に降りられた。そのまま紫紺様のいらっしゃるこの屋敷にお越しになるそうだ。紫紺様が、金赤様との話し合いにはミトも同席するようにだとさ」
「そういうことですか」
 あらかじめ金赤の王が来ると教えられていたミトは特に驚かなかった。
 そして、金赤の王が過去に来るのは星奈の一族について話すためだとも理解した。
「分かりました。じゃあ、千歳君に連絡を……」
 ミトはスマホを手に持って、千歳にメッセージを送ろうとした。しかし……。
「もうしてある」
「えぇ!」
 蒼真の先を行く対応に、ミトは喜ぶでも感心するでもなく、ひどく残念そうな顔をした。
 そんな顔をされる理由が分からない蒼真は不思議がる。
「なんか問題か?」
「私が連絡したかったです。せっかくスマホを使うチャンスなのに……」
「あー、そういうことか」
 蒼真はあきれ顔。
 これまで村で暮らしていたミトには、スマホなどという外部と接触できるツールなど与えられなかった。
 存在は知ってはいても、手に入れるなど夢のまた夢でしかない。
 それが、この町にやって来たことで、学校にも通うし連絡を取れるようにしておいた方がいいだろうと、ミト専用のスマホが用意された。
 初めて手にするスマホに、ミトは目を輝かせながら大喜びしたものだ。
 とはいえ、学校で友達などできなかったミトのスマホの中に登録されている名前は数える程である。
 せっかく手に入れたのに使う機会がまったくないのだ。
 そんなミトにとって、今まさにスマホという夢のツールを使う時であった。
 それが、あっさりと蒼真によって壊されたのだから、がっくりと肩を落としてしまうのは仕方ない。
 蒼真もなんとなく理由を察したようで、少々申し訳なさげであった。
「持ってりゃ今後も使う機会はいくらでもある。今回はあきらめろ」
「はい……」
 ミトは泣く泣くスマホを元の位置に戻した。
 そしてせっかく着た制服を着替えると、波琉の部屋へ向かう。
 蒼真は金赤の王を迎える準備があるからと、急ぐように行ってしまった。
 神薙という職業はなにかと大変そうだ。
 いつもは比較的静かなこの屋敷が、今日ばかりは少し騒がしい。
 人も普段より多い気がする。
 ミトが廊下を歩いていると、黒猫のクロが、スズメのチコとともに日向ぼっこをしていた。
「おはよう。クロ、チコ」
『おはよう。ミト』
 普通の人間にはチュンチュンとしか聞こえないチコの言葉を、ミトはしっかりと理解していた。
 チコに続いて、大きなあくびをしたクロが挨拶する。
『おはよう~。なんだか今日は朝から騒々しいわね。知らない人間が出入りしていたわよ。なにかあるの?』
「これから金赤の王様がここに来るんだって」
ミトはしゃがんでクロの頭を撫でた。
『ふーん、そうなんだ』
 クロは金赤の王と聞いてもあまり興味はないようだ。
「そういえば、シロは?」
 ミトは犬のシロを探して周囲を見渡すが、白いもふもふは見当たらない。
『朝ごはん食べてから森の奥に行っちゃったわ。夜には戻るでしょう』
「シロはここに来てからずいぶん楽しそうね」
 ミトはクスクスと笑う。
 元は村長の家で飼われていたクロとシロだが、二匹はあっさりと村長たちを捨ててここに一緒に来ることを望んだ。
 もともとクロもシロも、ミトを虐める中心的存在である村長一家を嫌っていたので、捨てる決断は早かったようだ。
 おバカかわいいシロはあまりよく考えずに、大好きなクロが家を出る選択をしたから一緒に来たという感じもするが、結果的には自由に走り回れる大きな庭のあるこの屋敷に来て正解だったのだろう。
 村では他の住人もいるため放し飼いとはいかずに、散歩以外は外の犬小屋を家にして首輪と鎖でつながれていたから。
 その頃を思えばかなり自由にしている。
 それはシロだけでなく、クロも村長の家にいた時よりリラックスしているように思える。
 のんびり日向ぼっこをしている姿をよく見かけるのだ。
 そこには時々チコを見かける。
 鳥と猫という危うさの感じる生き物同士だが、同じくミトのために戦った同志として仲良くやれているみたいだ。
 クロもチコも好きなミトにとったらとても嬉しい。
 そうしてクロとチコとおしゃべりをしていると、違和感を覚える。
 強いなにかが迫ってくるような重圧感。
 それはクロとチコも敏感に察知したようで、寝転んでいたクロが起き上がる。
「なんだろ。なんか変な感じ」
『たぶんさっきミトが言ってた龍神様ね。波琉と似た大きな力を感じるもの』
「いわゆる神気ってもの?」
『そうね。人間は鈍いから気づきにくいけど、ミトは勘がいいからすぐ気づいたわね』
 それがいいのか悪いのかはミトには分からない。
『波琉は凪いだ海ように穏やかな神気だけど、金赤の王ってのは燃えるような荒々しさが少しあるわね』
 そう、クロは神気の違いを分析する。
「うーん。私にはよく分からない」
『まあ、人間はそんなものよ。とりあえず神様だって崇めるのを忘れなければいいんじゃない?』
『そうそう。神罰なんて受けたくないものね』
 チュンチュンとチコが同意するが、なにげに怖いことを言っている。
 それは波琉と同じ花印を持つ自分とて失礼なことをしてしまったら神罰を与えられるのではないかと、ミトは怯えた。
 なにが龍神の逆鱗に触れるのかミトはまだ龍神というものをよく知らないのに、どうしたらいいのだろうか。
 金赤の王との話し合いにはミトも同席することになっているのに、ヘマをやらかしてしまったらどうしたらいいのだろう。
 ミトは急に怖くなってきた。
 これは早く波琉のとかろへ行って、波琉の後ろで大人しくしているのが賢明だと判断したミトが立ち上がると、角を曲がり尚之に先導されて誰かがやってくる。
 腰ほどある長い赤茶色の髪。
 快活そうな美しい男性で、どちらかと言うと細身で中性的な波琉と比べると男性的な引きしまった容姿をした男の人。
 その瞳の色は金赤色。
 紫紺の色を瞳に持つ波琉が紫紺の王だというなら、きっと彼が金赤の王なのだろうとミトはすぐに察した。
 なにより、彼からあふれ出るオーラのようなものが人ではないと教えてくれる。
 この町に来た最初こそ分からなかったが、波琉と過ごすようになってなんとなく分かってきた神気というものだ。
 そんな男性の隣には、着物を着た若い女性がいる。
 見るからに品があり、黒い艶やかな髪は結い上げており、髪に刺された控えめな飾りのついた簪がゆらゆら揺れている。
 金赤の王と思われる人は、その女性をエスコートするように手を引いて歩いてくると、ミトの前で足を止めた。
 そして、ミトを値踏みするようにじっくりと見つめ、ミトの左手にある花印に目を止めて納得したような顔をする。
「なるほど、お前が波琉の伴侶か。名前は?」
「ミ、ミト。星奈ミトです!」
「星奈……」
 とたんに金赤の王の顔が険しくなり、ミトはびくりとする。
 自分はなにかしてしまったのだろうか。
『神罰』という文字が頭を過ぎり、ミトはビクビクと怯えた。
「あ、あの……」
「聞いてはいたが、本当にあの女の一族の子孫なのだな」
 怖い……。
 なにが彼の琴線に触れたのかは知らないが、目の前の人物が不機嫌だということは嫌でも伝わってきた。
 まさに蛇に睨まれた蛙のように硬直するミトを見る金赤の王だったが、突如彼の横っ腹に肘打ちがめり込んだ。
 一瞬痛そうな顔をした金赤の王は、自分に攻撃した隣に立つ女性に目を向ける。
「千代子、なにをする?」
「あなたがかわいらしいお嬢さんを虐めているからですよ」
「虐めてなどいない」
「いいえ、虐めてます」
 千代子と呼ばれた女性はニコニコしながらも、金赤の王に有無を言わせなかった。
 そして、金赤の王とつながれた手を振り払い、固く握りしめられたミトの手をそっと包むように手を乗せた。
「ごめんなさいね、怖かったでしょう」
「あ、いいえ! そんな……」
「いいんですよ、本当にこの人ったら見た目はいいくせに、それをあまり理解していないのよ。綺麗な人ににらまれると迫力があって逆に怖いわよね」
「えーと……」
 確かにその通りなのだが、本人がそばにいる手前、肯定していいものかミトは悩む。
「さあさあ、かわいらしいお嬢さんを虐める悪人は放って、行きましょうね。尚之さん、案内をお願いします」
「かしこまりました」
 尚之は心配そうな目線をミトに向けてから動き出し、千代子もミトの手を引いて歩みを進めた。
「こ、こら、千代子」
 慌てたように後ろから金赤の王がついてくる。
「えっ、えっ?」
 ミトは混乱しながら千代子に引っ張られるしかない。
 そして、波琉の部屋までやって来ると、ようやくミトの手が離された。
 部屋の前には蒼真が正座しており、金赤の王と千代子に向けて頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました。金赤様。千代子様。紫紺様が中でお待ちです」
 すっと尚之が襖を開けると、尚之と蒼真がいるのはここまで。
 部屋の中にはミトと千代子と金赤の王だけが通された。
 中へ入ると、助けを求めるように波琉のそばに駆け寄り、一歩後ろで波琉の背に隠れるように座った。
 そして、千代子と金赤の王は、波琉の向かいに座る。
「遅かったね。待ちくたびれたよ」
「なにを言う。久遠からの連絡があってそんなに時間は経っていないだろう」
「久遠が帰ってから結構経ったよ。ねぇ、ミト?」
「えっ、あ、えっと……」
 急に話を振られたミトは言葉に詰まった。
 そんな少し様子のおかしなミトに波琉はすぐに気がついた。
「ミト、どうかした? なんか怖がってる?」
 なんでもないと言い返そうと思ったが、千代子の方が早かった。
「先ほど煌理様が威圧して虐めてしまわれたのですよ」
「おいおい。言いがかりだろ」
 金赤の王は苦い顔をするも、千代子は言葉を翻さない。
 すると、波琉からそれまで浮かんでいた笑みが消える。
「煌理。僕のミトになにかしたなら、君だろうと容赦しないよ」
 とたんに重くなる空気に、ミトだけでなく千代子の顔色も悪くなる。
 それに加え、なにやら外から雷のゴロゴロという音も聞こえてきたので、さすがにこれまでに学習したミトは、波琉が怒っているのを悟る。
 その一方で、金赤の王は驚いた顔をしていた。
「……お前がそんな顔をするとはな。よほどその娘が大事なようだ」
「当たり前だよ。ようやく見つけた僕の唯一だからね」
 冷え冷えとした眼差しで金赤の王を見つめる波琉とは反対に、金赤の王は柔らかな笑みを浮かべていた。
「くくくっ。お前がここまで変わるとはな。安心しろ。お前の唯一に手を出すほど愚かではない」
 耐えきれずに声を上げて笑う金赤の王に、波琉は苦虫を噛み潰したような顔をする。
 それとともに、雷もどこかへ行ってしまったようだ。
 ほっとするミトだが、きっと部屋の外で待機している蒼真や尚之も安堵していることだろう。
 中の様子が分からない分、空模様が急に変わって焦りまくっていたはず。
 後で説明を求められそうだなと思っていたら、金赤の王と目が合った。
 反射的に体を強ばらせるミトだったが、金赤の王は先ほどとは違う穏やかでいて親しみのある笑みを向けてきた。
「先ほどはすまなかった。特に怖がらせたいわけではなかったが、結果的に怖がらせてしまったな。もうしないと約束する」
「いえ。金赤の王様になにかされたわけではないですし」
「煌理でいい。金赤の王などといちいち呼ぶのは長いからな。私の伴侶である千代子とて、波琉と呼んでいる」
 ちらりと千代子に視線を向ければ、笑顔で頷いたのを見て、ミトも素直に受け入れる。
「はい。ありがとうございます。煌理様」
「ああ」
 どうやら怖い人ではなさそうだと安堵するミト。
 先ほど伴侶と言われた千代子も優しそうな雰囲気の人で、ミトはいろいろ話を聞きたくなった。
 なにせ波琉からは煌理の伴侶は花印を持つ人間だと聞いていたからだ。
 つまりはミトの先輩。
 天界がどういうところなのか、どういう生活をしているのかとても気になる。
 けれど、先に済ませておかねばならない重要な話があった。