一章

 皐月の事件から数日後、ミトは何事もなかったかのように学校生活を送っている。
 けれど事件の記憶がなくなったわけではなく、神薙本部に連れていかれたという皐月がその後どうなったのか気になって仕方ない。
 しかし、そもそもミトと皐月とは仲がよかったわけではない。
 むしろその逆で、ミトは彼女から虐められたりしていたため、親愛の情などあるはずもなかった。
 ただ、どうなったのか知りたいという興味本位なのは隠しようがなく……。
 そんなミトに、事情を知っていそうな、神薙の日下部蒼真や彼の祖父である尚之が皐月の状況を教えてくれはしなかった。
 聞いてみても、それより学校生活を優先しろと言われてしまうだけ。
 学校でのお世話係として選んだ成宮千歳も、ミトがその話をし始めるとあからさまに話題をそらしてくるから、ミトは不満いっぱいだ。
 ならばミトに甘々の波琉なら教えてくれるかというと、それはそれで難しい。
 ミトを虐めていた皐月のことを、波琉は今もなお怒っているのか、彼女の名前を口にするだけで機嫌が悪くなってしまうのである。
 虐めに加え、皐月を止める時に傷を負ったことも、波琉が不機嫌になる理由のひとつだ。
 あの時は暴れる皐月を止めるために体を張るしかなかったのだが、どう説明しても波琉は納得がいかないよう。
 ミトにはその時についた傷はすでにないのに、波琉はミトのことになると心が極端に狭くなるから困ったものだ。
 顔や腕についた引っかき傷は、その日のうちに波琉が治してくれた。
 人を畏怖されるようなものではない、温かな空気に包まれたように神気がミトを覆い、小さな跡すらなく綺麗にしたのである。
 これにはミトだけでなく両親や蒼真も驚いていた。
 波琉が神様だと改めて教えられた気がする。
 そんな波琉からは、堕ち神についても語られることはなく、今回の事件でミトに流れてくる情報はほとんどなかった。
 これはもうあきらめろということなのだろうか。
 ミトはなんだかモヤモヤする気持ちを昇華できないでいた。

 ホームルームが始まり、担任である草葉が教室に入ってくる。
 草葉が必死に声をあげて話しているというのに、一向におしゃべりをやめない特別科の生徒たち。
 周囲を見渡しても、草葉の話を聞いているのはミトぐらいだろう。
 草葉の苦労が忍ばれる。
 いつものことだからだろうか、草葉もそうそうにあきらめて、唯一聞いているミトにだけ伝えるように話を進めていく。
 その疲れた様子からは哀愁すら漂っているので、なおさら不憫だ。
 事件直後は草葉からなにかしら話がされるかとホームルームでも静かにしていたのに、草葉からなにも話されないと悟ると一気にうるさくなった。
 それに、当初こそ皐月のことを気にしていた生徒たちも、そんな事件などあったのを忘れたかのように話題にすら登らなくなっていった。
 あんなにも皐月、皐月と媚びていた皐月派の生徒もだ。
 なんと薄情なのだろうかと思ってしまうミトの方がおかしいというかのように、皐月の存在が消えていく。
 平穏を取り戻した教室には、ありすの姿もない。
 彼女もまた、あの事件以降学校には来なくなっていた。
 なぜなのかは、皐月の件同様に知りえない。
 龍神に選ばれた伴侶であり、特別科のリーダー的存在だったありすがいなくなっても、教室内は普段通りに時間が過ぎていく。
 むしろ特別科の生徒たちが生き生きしているように感じるのは気のせいだろうか。
 いや、恐らくミトの気のせいではない。
 これまでは、ありすと皐月という龍神に選ばれた権力者を前に、気を遣って全力で媚びていたが、ふたりがいなくなったのでその必要がなくなった。
 皐月の機嫌をうかがう必要も、ありすの言動を気にかける必要もない。
 まさに自分たちこそが、この学校でもっとも権力があるという気持ちが、特別科の生徒たちを傲慢にしている。
 そんな姿を見ていると、ありすと皐月ふたりは、派閥を作ることで特別科の生徒のストッパーになっていたのだと感じる。
 この教室にいるのは、まだ龍神に選ばれていない対等な立場の子たちばかりだ。
 唯一、ミトだけが例外だ。
 波琉に選ばれた伴侶。
 しかも、最上位にある紫紺の王の伴侶だ。
 そして、幾度か学校へやって来た波琉の様子から、ミトとの関係は良好であると多くの学校関係者が知っている。
 この学校で、ミトを虐めようと考える者などいないだろう。
 いや、学校だけでなく町では。
 あの閉鎖された星奈の村では周囲の顔色を気にする立場だったミトが、龍花の町に来るや気にされる側になるなんて誰が思っただろうか。
 今日もミトのところには人がやって来る。
「ねぇ、星奈さん。今日こそは一緒にお昼ご飯食べない?」
 これで何度目か分からないお誘いに、ミトは嬉しいというより悲しくなる。
 少し怯えながら、それでもミトに気に入られたいという欲を持った眼差しでミトを囲む複数の女子生徒。
 ありすがいない今は、ミトの取り巻きになろうと必死なようだ。
 そんな彼女たちの思惑が透けて見えて、ミトは気分が悪くて仕方がない。
「ごめんなさい。千歳君と食べるから」
 いつもと同じ断り文句に、一瞬不満そうにする彼女たちだが、それ以上しつこくしてくることはなかった。
 彼女たちも、別に心からミトと食事を一緒にしたいわけではないのだ。
 彼女たちが見ているのはミトの後ろにある波琉の存在。
 それは仕方のないことなのかもしれないが、本気でミトと仲よくしたいと思ってくれる人間がいないのは切ない。
 村から解放された時、そして学校に通えると分かった時は、学校で友人たちと楽しく過ごせると夢見ていた。
 それが蓋を開けてみたら、自分たちの利益しか考えていない人たちしか寄ってこないのだから、ミトもうんざりしてくる。
 それは生徒だけでなく教師もだ。
 あからさまにミトに忖度してくる教師たちには残念感が半端ない。
 夢と現実の違いに、肩を落とすミトだった。

「そりゃあね、私もあの人たちの気持ちが分からないわけじゃないの。波琉は私にすごく過保護だし、人間は龍神に敵わないわけだから、私を通してご機嫌うかがいをするのは仕方ないって思う。でも、やりすぎるっていうか。私は普通の学校生活を送りたいの。ずっとずーっと夢だったんだから。ねえ、聞いてる? 千歳君」
 などと、ミトはお昼ご飯を食べながら、目の前に座る千歳へ不満を訴える。
「はいはい。困ったねー」
「全然心がこもってない」
 棒読みの千歳を、ミトはじとーっとした目で見る。
「そもそもさ、紫紺様に選ばれた時点で普通じゃなくなってるし、無理じゃない? 特にこの龍花の町ではさ」
「うっ……」
 それを言われるとミトも反論できない。
 波琉が紫紺の王であることは変えようのない事実なのだ。
「嫌なら紫紺様と縁を切るしかないね」
「それは嫌!」
 ミトは食い気味で声をあげる。
 千歳ときたら、なんということを言うのだろうか。
 波琉と縁を切るなど、冗談でも考えたくない。
 波琉の存在は村で虐げられていたミトにとって、救いだったのだ。
 夢の住人でしかないと思っていた人が、現実に存在していると知った時の喜びは今も忘れていない。
 毎日毎日朝になって波琉の顔を見るたびに、その喜びを思い出し噛みしめているのに、離れるなどとんでもない。
「じゃあ、あきらめて受け入れるしかないね」
「千歳君が意地悪だ……」
 しかし正論なのでミトも反撃できない。
「じゃあお世話係から降ろす?」
「それも嫌だ」
「そんなんじゃあ、我儘女その三の誕生だな」
 なんて意地悪を言う千歳の表情は言葉に反して楽しそうだ。
 本当は他の子とも千歳とのやり取りのように気さくに会話したいのだが、ままならないものだ。
 学校でのミトには、この千歳と過ごす時間だけが心のよりどころである。
 草葉は担任と生徒という間柄なので、仲よくとはちょっと違う。
 そして校長とは……。あれはなんと名付ければいいのか分からない関係である。
 茶飲み友達と言えばいいのか。しかしミトが一方的に校長の愚痴を聞かされているだけのようにも感じる。
 そして、ハリセンで叩き叩かれる関係はなんと表現したらいいのだろうか。
「それはそうと、我儘女その一とその二がいなくなって、特別科は問題ないの?」
 千歳の言う我儘女その一とその二とは、皐月とありすのことだ。
 なにがあったか知らないが、千歳はふたりにやや厳しい物言いをする。
 千歳の問いかけに、ミトは眉間にしわを寄せた。
「うーん。一応は?」
「なに、その曖昧な感じ」
「だって私もその現場を見たわけじゃないからなんとも言えないんだもの」
「見てないってなにを?」
 自分から聞いておきながら特段興味がありそうにはない千歳に、ミトは話し出す。
「これまでは龍神に選ばれた皐月さんとありすさんをトップに、まだ選ばれていない他の子たちが平等に下にいるって思ってたんだけど、皐月さんとありすさんがいなくなって、選ばれていない他の子の間にもカーストって言うのかな?そういうのがあるみたいなの」
「そりゃそうでしょ」
 千歳は特に驚いてはいなかった。
「特別科の奴らはどっちが上かを常に争ってマウント取る奴ばっかりだから」
「そんなことはないんじゃない? 確かに最初は虐めっぽい嫌がらせされたけど、それはどっちの派閥にも入らなかったからでしょう?」
「まあ、それもあるけどね。でも、今はミトが問題なさそうに思うのは、奴らが紫紺様の伴侶であるあんたの前では行儀よくしてるだけだよ。だって、誰もミトの言葉に逆らえないんだから」
「そう、なのかな?」
 ミトは首をひねる。
「ミトは前にも我儘女その一が久遠様に捨てられて虐められた時に助けに入ってたからね。ミトの前でそういう行いはしないように気をつけてるだけだよ。実際は結構ドロドロしてるはずだよ。よく見てたら分かると思う」
「ふーん」
 ミトはあまりよく分からないまま食事を終えた。