五章

 龍神たちが集まっての宴は、波琉の鶴の一声で解散となった。
 ただし、誰よりも飲んで上機嫌だった煌理が最後まで嫌だと駄々をこねていたが、千代子からの「もう、疲れてしまいましたわ」という言葉であっさりと発言を取り消していた。
 どうやら夫婦の力関係は千代子に軍配が上がるらしい。
 微笑みながら煌理を手のひらの上で転がしている幻覚が見えた気がした。
 そんな千代子の助け舟もあって、無事に終了された後に残されたのは、疲れ果てた神薙たちであった。
 波琉とミトは帰るのが最後だったので、他の龍神が帰った後、蒼真は遠慮なくいつも通りの調子に戻っていた。
「龍神まじやべぇ。どんだけ飲み食いすんだよ」
 などと愚痴をこぼしていた。
 体力がありそうな蒼真ですら疲れた顔をしていたので、尚之の疲れたるや相当なものだろう。
 ぐったりとした尚之は、どこからともなく取り出したハリセンを恭しく波琉に渡す。
「紫紺様。どうか……どうか、御身の力をお貸しくだされ……」
 波琉はやれやれという様子だったが、仕方なさそうに思いっきり尚之の頭をハリセンで叩いていた。
 スパーンという小気味よい音が響くと、どこからともなく地を這う亡者のように他の神薙もやって来て、波琉の前に列をなした。
「紫紺様どうか私めにも……」
「私もぜひ」
「私にも一発くださいませ……」
 顔をひきつらせる波琉は、いろいろとあきらめた表情で、スパーン、スパーンと流れ作業のように次々神薙の頭を叩いていった。
 波琉に叩かれた神薙たちは、思い思いに座り込んだ。
「あー、やはり紫紺様の一発は違いますなぁ」
 などと尚之がゆるんだ表情で肩を回していると、他の神薙もくつろぎながらハリセンの威力に感激している。
「おぉ、これが紫紺様のハリセンの力!」
「これはもはや神器ですな」
「これを毎日受けている尚之が羨ましいすぎる」
 まだ波琉が残っているというのに、神薙たちはくつろぎモードに突入していた。
 これにはミトも苦笑するしかない。
 他の龍神の前では緊張感があったのに、波琉の前ではなんとも空気が緩い。
 それは波琉の性格や雰囲気もあるのだろう。
 ミトも気持ちは分かる。
 波琉は優しくおおらかなので、滅多に怒ることがないと分かっているからこそなのだろうが、もう少し緊張感を持ってもいいと思う。
 まあ、それは置いておくとして、気になるのが波琉とハリセンである。
「そんなに効果あるのかな?」
 じーっとミトがハリセンを見ていると、波琉は投げ捨てるようにポイッと尚之にハリセンを返した。
「ミトには絶対使わないよ」
 わざわざ釘を刺さなくともいいのに、波琉は『絶対』という言葉を強調する。
 ミトはほんの少し残念と思った。
 校長などは波琉には頼めないからとミトに強要するぐらいなのだ。
 ミトでもそれなりに効果があるらしいので、波琉のハリセンを受けたなら分かりやすく効果を実感できると思ったのに。
 波琉の様子を見ると、ミトには使ってくれそうにない。
 自分で叩いても効果はあるだろうか、なんてことを思いつつ、回復してきた神薙が後片付けを始めたので、ミトと波琉は屋敷に帰ることにした。
 案の定、蒼真がジジババと言う歳のいった神薙は波琉のハリセンを受けても疲れ切っているようで、蒼真や千歳のような若い神薙が中心に動いている。
 これ以上ここにいては邪魔になるだろうと、足早に後にした。
 屋敷に帰る途中、波琉に気になったことを問うた。
「ねえ、波琉。黒髪に金色の目の龍神様っていたりしないよね?」
「龍神?」
「そう。さっきいた屋敷の庭でね、そういう人を見たの。綺麗な顔立ちの人だったし、たぶん龍神様だと思ったんだけど千歳君は知らないって。たんに千歳君が知らないだけだったりするのかなと思ったから」
 先ほど蒼真か尚之に聞こうとして忘れていた。
 ミトに問われた波琉は眉根を寄せる。
「そいつになにかされたの?」
「ううん。話もしなかった。でもなんかすごくにらんできて怖い人だったから気になっちゃって。知らないならいいの。やっぱり私の気のせいかもだし」
「…………」
 波琉はなにも言わなかった。
 だからやはり自分の気のせいなのだとミトは自分を納得させた。

 翌日、学校へ行くと、疲れきった顔をした千歳がミトの登校を待っていた。
「千歳君。ひどい顔してるよ」
 クマまでできているではないか。
 たった一日で何歳も老けた気がする。とても若い青年がする顔ではなかった。
「昨日の今日だから当然だよ。あんなハードな仕事した後に片付けまでしたんだからさ。ジジババ神薙は口を出すだけで動いてくれないし。必然と若い下っ端が一番働かされるんだよ」
「疲れてるなら休んだ方がよかったんじゃない?」
「そうもいかないよ。俺はミトの世話係なんだから」
 仕事熱心なのは尊敬するが、フラフラとしていて見ている方が気になって仕方ない。
「本当に大丈夫?」
「平気。授業中に寝るから」
「先生に怒られるよ」
「もう神薙になってる俺に、神薙科の授業とかほぼ意味ないからいいの」
 そう言われてしまうと、確かにと納得させられる。
 神薙科とは神薙になる人を育成教育するためのコースだ。
 もう神薙の試験を合格している千歳には、復習のようなものなのだろう。
 まあ、それでも授業は受けていた方がいいように思うのだが、今の疲れきった千歳を見ると一日ぐらい許されてもいい気がする。
 特別科の教室へ到着すると、千歳は自分の教室へと向かっていった。
 ちゃんとたどり着けるのか心配である。
 むしろミトが千歳を教室まで送るべきだったのではないかと思うが、千歳は見た目こそ金髪にピアスをしていてやんちゃそうに見えるが、性格は基本真面目。
 なので、ミトがついて行くと言っても断られただろう。
「うーん。千歳君大丈夫かな?」
 心配しつつ教室の中へ入ると、雫が寄ってきた。
 最初こそ気さくに話しかけてくれたひとつ年上の雫だが、今ではまったく関わりがない。
 皐月からの嫌がらせが始まった時に、完全に関係は断ち切られていた。
 なので、今になって雫が近づいてきたのには驚いた。
 虐められるとは思っていないが、少々警戒してしまうのは仕方ない。
「ねえ、龍神様たちの宴があったって本当?」
「……どうしてそれ知ってるの?」
「神薙科の子が言ってたから」
「なるほど」
 神薙科の中には、蒼真のように代々神薙を輩出している家柄がある。
 昨日の宴には多くの神薙が関わっていたので、親から話を聞いた子もいるのだろう。
「それがどうかしたの?」
「ありすさんも参加してたって聞いて……」
 気まずそうに話す雫は、ありすの派閥に入っていた。
「うん。彼女も来てたよ」
「その……。様子はどうだった? 元気にしてた?」
 ありすは皐月が暴れた事件以降、学校に来ていないので、雫は気になってミトに声をかけてきたに違いない。
「元気だったと思う。普通そうに見えたよ」
 まあ、お酒の匂いが充満する部屋の中にずっといたので、そういう意味では気分はよろしくなかったかもしれないが、元気そうに見えた。
「そう。よかった……」
 ほっとした顔をする雫は、ミトから視線をそらす。
「それだけ聞きたかったの。ありがとう」
「うん」
 雫は他の女子生徒のところへ向かい、なにやら話し込んでいる。
 今の話を他の生徒に教えているのかもしれない。
 まあ、ミトには関係ない話だ。
 それからホームルームを行い、午前中の授業を終えると、千歳が教室に迎えに来た。
 朝とは違いすっきりとした顔をしているので、授業中にゆっくり休めたのだろう。
「千歳君、回復したね」
「うん。めちゃくちゃ寝たからね」
「先生に怒られなかった?」
「神薙科の教師も神薙だからね。昨日の宴にも参加してる教師もいるから見逃してくたみたい」
 それはミトも初耳だった。
「神薙科の先生は神薙なんだね」
「当たり前。神薙じゃないのに神薙のことを教えられないでしょ」
「それもそっか」
 神薙の試験は難しいと聞くので、知らない者が教えるのは難しいと、言われてから気づく。
 千歳と並んで歩きながら階段を降りるミト。
 すると、突然背中を誰かに押された。
 そのあまりの押しの強さに、ミトは踏ん張ることができず、階段に身を投げ出した。
 落ちる……!
 分かっていながらも体が動かないミトはぎゅっと目をつぶった。
 体に受ける痛みを覚悟したが、次の瞬間、強く腕を引っ張られる。
「ミト!」
 千歳の叫ぶ声が響く。
 落ちるはずだった体は、数段滑っただけで止まる。
 それは千歳がとっさにミトの腕を引っ張ったおかげだった。
 心臓がバクバクと激しく鼓動するのを感じながら、ミトは今なにが起こったのか整理がつかない。
 そんな呆然としたミトに千歳が声をかける。
「ミト! 大丈夫!?」
「あ……。千歳、くん……」
 ミトは掴まれた腕を見て、千歳が助けてくれたことを悟る。
「あ、ありがとう……」
「そんなのはいいから、怪我は?」
 焦りが含まれた千歳の声に、ミトの頭がようやく回り始める。
「大丈夫。たぶん……」
 正直びっくりしすぎて体の痛みを感じる余裕がないが、見たところ怪我はしていなかった。
 この騒ぎに、周囲の生徒もザワついている。
「どうしたの、急に? 足を滑らせた?」
 千歳の問いにミトは顔を強ばらせる。
「押されたの」
「押された? 誰に!?」
「分かんない。けど、背中を押されたの。もしかしたらぶつかったのかもしれないけど……」
 ミトはまだショックが抜けきらないのか、声がわずかに震えていた。
 それを聞いた千歳は階段を見上げてそこに誰もいないのを確認してから、周囲に鋭い眼差しを向ける。
「誰か、ミトが落ちる時に後ろにいた人見てないの!?」
 周囲を見渡すが、誰もが困惑した表情できょろきょろしている。
 すると、階段下で友人と談笑していた男子生徒が声を発する。
「俺、階段の方向見てたけど、その子の後ろには誰もいなかったぞ」
「えっ……。いない?」
 ミトは唖然とする。
「それ本当? ちゃんと見てた?」
 千歳が男子生徒を激しい剣幕で問い詰めると、男子生徒は気圧される。
「あ、いや、俺もこっちで話してたし、絶対かって言われると自信がないけど……」
 男子生徒の声が尻すぼみになっていく。
 すると、千歳がちっと舌打ちした。
 それが自分に向けられたものと勘違いしたのか、男子生徒が顔色を悪くし、友人たちと足早にその場を去っていく。
「ごめんね、千歳君。助けてくれてありがとう」
 千歳が差し出してくれた手を取り、ミトは立ち上がる。
「いいよ、そんなの。すぐに保健室へ行こう」
「別にどこも怪我してないから大丈夫だよ」
 保健室なんて大げさなとミトは固辞するが、問答無用とばかりに千歳に手を引かれて強制的に保健室に連れていかれることに。
 保健室の先生に階段が落ちたことを伝えると大層驚かれ、病院に行くかと言われてしまったミトだが、さすがにそれは全力で拒否した。
 先生の方もミトが紫紺の王である波琉の相手だと知っていたので、かなり心配している。
 そんな先生をなだめて、なんとかあきらめせた。
 代わりに体の確認をすると、スカートで隠れていた膝上の辺りに擦り傷ができているのを発見する。
 それまでなんともなかったが、怪我をしていると分かるとなんだか痛みを感じ始めてきた。
 とはいえ、病院に行くほどではないので、消毒と絆創膏で処置してもらうだけに留めた。
 保健室の外で待っていた千歳は、擦り傷ができていたことを知ると、「やっぱり怪我してるじゃん」と、少し怒られた。
「病院行く?」
「大丈夫だって。擦り傷ぐらいで病院なんて」
「…………」
 千歳は不服そうだ。
 これは話を変えた方がよさそうなので、わざとらしく話題を変更する。
「それにしても結局誰だったのかな? 私を押した人」
 すると、先ほどよりさらに眉間に皺を寄せる千歳。
「下手してたら大怪我じゃ済まなかったかもしれないのに、名乗り出ないなんてふざけてんのかな」
 これはかなり怒っているなと、被害者であるはずのミトは、どこか他人事のような感想を抱いた。