「それはそうと、環。お前もせっかく花印が浮かんだというのに、相手にはフラれたそうだな?」
 波琉をからかうことをやめた煌理は、矛先を変える。
 次の標的になった環は、本来なら美羽の相手となっていた龍神だ。
 焦げ茶色の髪と瞳をした青年である。
 煌理に属する龍神らしいが、快活そうな煌理とは違い、真面目そうな雰囲気をしている。
 その手の甲には、確かに美羽と同じ花印が浮かんでいた。
 煌理から話を振られた環だが、美羽からフラれたと言われても特に落ち込んだ様子はない。
「ええ。まあ、私も興味本位でしたからね。金赤様が龍花の町に降りられると聞いたので一緒についてきただけですし。またいずれ花印が浮かぶこともあるでしょう」
「次はよい縁があるといいな。私のように!」
 そう言って煌理は千代子の肩を抱いた。
 朗らかな笑みを浮かべる千代子の様子を見ると、百年経ってもなおラブラブのようだ。
 環は煌理の惚気にあきれたように笑う。
「はいはい。ようございましたね。金赤様の惚気話はお腹いっぱいです。もう少し量を減らしていただけると助かるのですけど」
「本当に、ウザくて仕方ないよね。瑞貴もいつも惚気けてばかりだからいい勝負だよ」
 波琉が同意する言葉を発した瞬間、どっとその場に笑いが起きた。
 波琉はなぜ笑われているのか分からないようで、きょとんとしている。
 同じくミトも理解できていない。
「ふふふ。波琉様も十分素質がございますよ」
 そう、千代子が笑った。
「ミトさんもこれほどお変わりになられた波琉様に大変な思いをするかもしれないけれど、頑張ってくださいね。これまでの無関心の反動で、溺愛の仕方に際限がない気がしますもの」
「波琉はそんなに変わったんですか?」
 当然だが、ミトは天界にいた頃の波琉を知らない。
 だからどう変わったのか分からないのだ。
「ええ、私の知る限りですが、それはもう別人のようにお変になりましたよ。波琉様は、誰に対しても興味を持たれず、人にも物にも執着を見せたことがない方でした」
 そんな千代子の言葉を、酒をあおりながら煌理が同意する。
「そうだな。あまりにも感情が死んでいて、見ているこっちが心配になるほどだった。それがひとりの女に執着しているんだから、天帝のご采配は確かだったということだろう」
 ふたりとも過去形で話しているのは、今の波琉はそうではないからなのか。
「ミトさんのおかげですね」
「私……?」
「ええ。あなたがいたから波琉様は変わられたのだわ」
 ミトが波琉に視線を向けると、波琉は否定できずに困ったというように眉尻を下げながら笑っている。
「私がいたから……」
 ミトは噛みしめるようにつぶやいた。
 以前にも波琉から言われたのを思い出す。
 ミトが波琉の見える世界を変えたと。
 それが分かっているようでいて分かっていなかったのかもしれない。
 第三者から見ても明らかなほど波琉は変わったらしい。
 その影響を与えたのが自分だと言われ、ミトは歓喜する。
 波琉の絶対な存在でありたい。
 なぜならミトにとっても波琉は絶対の存在だから。
 ミト自身の勇気と力を与えてくれる人に、自分もちゃんと返せているのだと思えるのはとても嬉しい。
 ミトは波琉を見つめて、はにかむように笑った。
 波琉もまた微笑む。
 そこには言葉では伝えきれないたくさんの思いがあった。
 周囲の龍神たちはそんなふたりを温かい眼差しで見守った。

 その後お酒はどんどん進む。
 むしろ時間が経つにつれペースが上がっているように思うのだが気のせいだろうか。
 龍神たちはどれだけザルなのか、神薙たちは忙しなく動き回っている。
 ただでさえ龍神という強者を相手に気を使っているというのに、かわいそうになってきた。
 お酒を飲んでいるからか、誰も彼も機嫌がよさそう。
「環はいつ帰るんだ?」
「ご縁がなかったので、早めに帰ろうと思います」
「もう少し町でゆっくりしていてもいいんだぞ? 相手の気が変わるかもしれないしな」
「相手の子にはすでにお付き合いのある男性がいるらしいですよ。それを理由に断られたのに、やっぱり私がいいなんて言われても嬉しくありませんから」
 などと、煌理と環が話している横で、波琉はミトを愛でている。
「ミト、これ食べてごらん。はい、あーん」
「自分で食べられるよ」
 恥ずかしがるミトに構わず、波琉は箸で掴んだ料理をミトの口に差し出す。
 有無を言わせぬ波琉の微笑みに負け、ミトは口を開けた。
 そこからはもうなし崩し的に波琉の給餌が始まる。
 あれもこれもとミトに食べさせ、龍神たちにその仲のよさを披露した。
 ただでさえ、着慣れない着物の帯でお腹の当たりを圧迫されているのである。
 すぐにお腹が苦しくなってきたミトは、波琉に待ったをかける。
「波琉。もう無理~」
 もはや足を崩してお腹を圧迫しないように後ろに体を倒す。
 撫でたお腹はぱんぱんだ。
 もう食べられそうにない。
 その様子に波琉は笑った。
「あはは。ミトは少食だね」
「そんなことないよ」
 ミトが少食ではないのは、普段一緒に食事をしている波琉がよく分かっているだろうに。
 しかし、ふと周りの龍神たちを見ていると、お酒とともに食事もかなりの量を消費している。
 空になった皿を神薙たちが入れ代わり立ち代わり新しい料理が入った皿と交換していっている。
「波琉。龍神様って大食漢? もうかなり食べてるよね」
 それこそミトよりずっと多い量を。
「うーん。まだまだ序盤じゃないかな。天界では三日三晩宴が続くなんてこともざらにあるし」
「さ、さすがに今回は今日中に終わるよね?」
「さあ、どうだろ。でも、特に煌理はよく食べるしよく飲むからねぇ」
「でも波琉はいつも普通の量を食べてない?」
「ミトたちに合わせてるだけだよ。龍神はその気になれば際限なく食べられるから」
 衝撃の事実だ。
「もしかして、波琉って毎日食事の量足りてない?」
「そんなことないよ。そもそも龍神は人間と違って食事しなくても生きていられるからね。満足したらそこで終わりって感じ。僕はいつもの量で十分満足しているよ」
「それならよかった。……けど、三日三晩かぁ」
 見渡してみても龍神たちが手を止める様子はない。
 誰も酔いつぶれる兆候すらないのだから、最悪、本当に三日三晩続きかねない。
 今、料理場はどうなっているのだろうか。
 ここにいるのは十人ほどだというのに、料理場は戦場と化しているのではないだろうか。
「さすがに三日三晩はしんどいかも……」
 それはミトだけでなく神薙たちもだろう。
 すると、ミトと波琉の話を聞いていた蒼真がそっと近づいてくる。
「紫紺様。さすがに三日三晩は俺たちも付き合えないんで、ほどよいとこで終わらせるようにしてください。俺たち人間では龍神方に物申すことなんてできませんから」
「分かったよ。僕も早く屋敷に帰りたいしね」
「お願いしますよ。じゃないとジジババたちじゃなくても倒れる人間続出ですから」
「そうなる前に止めるよ」
 ひそひそと声を潜めた会話を終わらせると、蒼真もまた忙しなく働き出した。
 まだまだ騒ぎ足りないという龍神たちにげんなりとしているだろうに、顔には出さないあたり、蒼真もプロフェッショナルを貫いている。
 ミトはゆっくりと立ち上がった。
「ミト、どうしたの?」
「ちょっとね。すぐ戻ってくるから」
 それだけ言えば波琉も察してくれたようで、ひらひらと手を振る。
 ミトは座敷を出てトイレを探す。
 ついでに苦しくなったお腹を減らすために屋敷の中を散策する。
 やはり見た目通りかなり広い作りのようで、いくつも部屋があった。
 さらに歩くと庭の見える場所までやって来た。
 建物に合った日本庭園が広がっており、灯篭が灯っている。
 ここに来た時はまだ明るかったのに、いつの間にやら夜になっていた。
 その間飲み食いし続けている龍神たちにあきれと驚きを感じる。
 あの場にはありすもいたが、彼女も顔をひきつらせていたのを見るに、ミトと同じように思っていたのではないだろうか。
 千代子は普通の量だったので、特に天界へ行ったからといって龍神のようになるわけではなさそうだ。
 千代子とじっくり話しをしたかったのだが、煌理が片時も千代子を離さないのでなかなか時間が見つけられない。
 まあ、それはミトにも言える。
 波琉が始終構っているので、離れる隙がないのだ。
 別に嫌というわけではないのだが、次々に料理を食べさせようとするのはやめてほしい。
 ミトは外に面した廊下で立ち止まり、大きく深呼吸する。
 座敷は酒の匂いが立ち込めていたので、新鮮な空気を体が欲していた。
「はー、空気が美味しい……」
 あのまま酒をあおる龍神たちに囲まれていたら、酔っていたかもしれない。
「ふう……。ちょっと落ち着いたかも」
 ふと庭に目を向けると、大きな木のそばに人が立っているのに気がついた。
 闇に溶けるような癖のある髪をした男性。
 その整った容姿と金色に光る目はどう見ても人間ではあらず、ミトは驚いた。
「龍神?」
 しかし、現在龍花の町にいる龍神は七人であり、その全員が今は座敷にいるはず。
 いつの間にか 座敷から出てきたのかとも思ったが、あの場にいたどの龍神でもない。
 龍神と思われる者は、憎々しげににらみつけてくる。
 そのあまりの殺気に、ミトはたじろいだ。
 背筋がぞくりとし、思わず肩を抱く。
 なぜそんな目で見てくるのだろうか。
 恐怖心とともに不思議に思うミトに声がかけられた。
「ミト」
 びくりと体を震わせたミトが声のする方へ目を向けると、神薙の装束を着た千歳が立っていた。
「千歳君? なにしてるの?」
 びっくりするミトに千歳が近づいてくる。
「俺も神薙だからね。応援要員。でも、下っ端だから直接龍神の対応はせずに裏方を任されてたわけ」
 千歳はやれやれというように肩をすくめた。
「そうなんだ……」
「それよりそこでなにしてたの?」
「あ……。さっきそこに龍神の方が……」
 ミトは先ほど人がいた場所を振り返ると、そこには誰もいなかった。
「誰もいないけど?」
「あれ?」
 確かにいたのだ。いくら暗がりだったとしても、灯篭の灯りもあるので見間違えたりしない。
「ねえ、千歳君。龍神様は座敷にいる七人以外にいたりするの?」
「いや。そんな話聞いてないよ。もし来てたら俺に話が伝わってないはずないからね。未成年だけど神薙だし、嫌でも情報は共有されるから」
「でも……」
 そんなはずがないのに。
 もう一度ミトは庭に目を凝らしてみたが、やはり先ほどの人の姿はどこにも見つけられない。
「千歳君は誰も見なかった?」
「まったく。ミトの気のせいじゃないの?」
「そう、なのかな……?」
 気のせいなのだろうか。
 けれど、男性のミトを見る目が脳裏から離れない。
 あんなに恨みのこもった眼差しを受けたのは初めてだ。
「それよりこんなとこでなにしてるの? 龍神方のいる部屋からずいぶん離れてるけど?」
「あ、トイレに行こうと思って」
「全然場所違うじゃん」
「ついでにお散歩」
 千歳は「ふーん」と、感情の見えない表情をしながらミトの姿をじっと見る。
「なに?」
「いや、いつも制服のミトしか見てないから、着物姿が物珍しいだけ。結構似合ってるじゃん。かわいいよ」
「えへへ。ありがとう」
 波琉に褒められるのは当然嬉しいが、千歳に褒められるのも嬉しく感じる。
 はにかむように笑うミトに、千歳も柔らかな顔をする。
 その時。
「ミト」
 ミトを呼ぶ声とともに波琉がいつの間にか来ていた。
「あ、波琉」
「遅いからどうしたのかなって」
「うん、散歩してた」
 ついつい興味に引かれるまま屋敷内を徘徊さてしまった。
 まだ目的のトイレにも行っていないたいうのに。
「なにかあったかと心配しちゃったよ」
「ごめんなさい」
 素直に謝るミトの頭を撫でる波琉は、千歳へと視線を向ける。
「それで、君はミトのお世話係の千歳君だっけ?」
 にこやかな笑みを浮かべながら千歳に問いかける。
 千歳は顔をひきつらせていた。
「は、はい」
「ミトとふたりでなにしてたの?」
「それは……」
「千歳君もお手伝いに来てたみたいで、ちょうど会ったの。私の着物がかわいいって褒められた」
 言葉を詰まらせる千歳に代わり、ミトが嬉しそうに報告するが、なぜか千歳の顔がさらに強ばる。
「ふーん……」
 波琉は笑みを貼りつけたまま話を聞いているが、その目はどこか鋭さを持っていた。
 気づいていないのはミトのみ。
「い、いや、特に深い意味はないです!」
 常にない焦りを見せる千歳に、ミトは首をかしげる。
「千歳君どうかした?」
「なんでもない。ほんとになんでもないです!」
 もはやどっちに向かって話しているのか分からない千歳は、ジリジリと後ずさる。
「俺は手伝いがありますのでここで失礼します!」
 勢いよく頭を下げた千歳は、ミトがなにか言葉を発する前に行ってしまった。
「あ……。千歳君どうしたんだろ? なんだか様子がおかしかったけど」
「きっと手伝いで忙しいんだよ。それより……」
 波琉はミトを突然抱きしめる。
「波琉!?」
「ミトは本当に放っておけないなぁ。いっそ閉じ込めちゃおうか」
 波琉らしくない言葉と、内容に反した明るい声色にミトはクスクスと笑う。
「なんで? 私なんかした?」
「ミトがどう思ってるか知らないけど、さっきの世話係の子とあんまり仲良くしてほしくないなぁ」
「千歳君?」
 なぜと問おうとして、以前の波琉の言葉と美羽の存在が頭をよぎる。
 花印を持つ者の中には神薙や世話係と恋仲になるものがいるということを。
「千歳君との仲を疑ってるの?」
「疑ってるっていうか焼きもちかな」
「そんな必要ないのに。私には波琉だけだもん」
 焼きもちを焼かれるのすら心外だというように、ミトは不満そうな顔をする。
「僕もミトだけだよ」
 こつんと波琉の方からおでことおでこをくっつける。
 キスもできそうなほどの近さにミトは頬を染める。
 胸がドキドキして波琉にも伝わらないか心配するほどだ。
 こんな気持ちになるのは波琉だけ。
 他の誰にも同じように感じることなんてないのだ。
 波琉は顔を離し、ミトのおでこにキスをする。
 まだ唇にするのは恥ずかしい奥手なミトに歩調を合わせてくれている、優しい波琉。
 だからこそ波琉を不安にさせてしまっているのだろうかとミトは悩む。
 自分がもっと積極的になったら波琉も安心するだろうかと考えながら波琉の顔をじっと見つめて、やはりまだ無理そうだと目をそらす。
 すると、波琉に咎められる。
「駄目だよ、ミト。僕から目を離しちゃ」
「波琉……」
「ずっと僕だけを見て。他に目を向けたら駄目だからね。そんなことになったら……」
「なったら?」
 口を閉じて沈黙する波琉に、なにを考えているのかとミトも注視すると……。
「千歳君の脳天に雷落としちゃおうか」
「それ聞いたら千歳君がお世話係やめちゃうから、絶対本人には言わないでね」
 まさか以前に冗談で言った言葉と同じことを波琉が言い出すとは。
「んー、それは千歳君次第かな。ミトに邪な感情を抱くならズドーンと、ね?」
 波琉の言葉は時々冗談なのか本気なのか分からない時がある。
 とりあえずはこの場に千歳がいなくてよかったと思うミトだった。