龍神と許嫁の赤い花印三~追放された一族~


 そして数日後、村長が龍花の町に移送されてきた。
 これでもかと厳重に監視をされながら。
 どうしてそんなことが可能だったのか知らないが、龍神の願いと言葉はそれだけ重いのだろう。
 手続きに苦労したと蒼真が疲れたように愚痴を漏らしていたので、簡単ではなかったと思われる。
 ミトには同席するかどうかと問われた。
 無理する必要はないと気を使ってもらったが、ミトも知りたかったので一緒に連れていってもらうことになった。
 村長との面会が叶ったのは、龍花の町にある警察署。
 驚くことに龍花の町にも警察署があったのである。
 よくよく考えれば、それなりの人口がある町なのだから、犯罪者がひとりも出ないなんてことはないのだから、そういう施設があってもおかしくはない。
 ふたつの部屋の間には透明なアクリル板で隔てられている。
 安全のためそういう作りになっているのだろうが、透明とはいえ壁越しというのは少しだけ安心できた。
 それでもミトは緊張を隠しきれず、波琉の服をぎゅっと掴む。
 その手を上から包むでくれる波琉の温かな手が、わずかながらミトを勇気づけてくれる。
 連れてこられた村長は、最後に見た時よりずいぶんと老け込んでしまったように見えた。
 けれど、ミトを見るその目は変わらない。
「貴様! やはり忌み子は村に災いをもたらすのだ! お前さえいなければっ!」
「こら、暴れるな!」
「大人しくしろ」
 両手に手錠をかけられたまま身を乗り出す村長は、両側にいたふたりな男性によってすぐに抑え込まれた。
 それでも目を血走らせながらミトだけに目を向けている。
 その迫力にミトは気圧されてしまうが、波琉が村長の目から隠すように抱きしめた。
 そして、ぶわりと波琉から神気があふれ出し、村長を襲った。
 それまでの勢いはなりを潜め、顔色を変えて怯えている。
「やっと静かになったね」
 やれやれという様子の波琉は、大人しくなった村長を見てもミトを離すことなく、大事に守るようにその腕に包み込んだまま村長をにらみつける。
「君にはいろいろ聞きたいことがあるんだ。百年前にいたキヨと星奈の一族について」
 ぴくりと村長が反応したが、それは百年前という言葉なのか、キヨという言葉なのかは分からない。
「キヨという娘を知っているのかな?」
「…………」
 村長は答えず、再び波琉から神気があふれ、まるで圧力を与えるように村長を攻撃する。
「ぐっ……」
 苦しそうに呻く村長。
 それは少しの間のことで、すぐに圧がなくなるが、村長は苦しそうに呼吸を荒くしていた。
「あまり手間をかけさせないでくれるかな? 僕も暇じゃないんだ。今は手加減したけど、次は容赦しないよ」
 微笑みを浮かべる波琉だが、その笑みはいつもミトに向けられる優しいものではなく、ひどく冷淡なものだった。
「ひっ」
 波琉を見て息を飲む村長は、それからずいぶんと口が軽くなる。
「もう一度聞くよ? キヨを知ってる?」
「……む、昔、龍花の町から追放される原因となった女だと」
 やはり村長は知っていた。
 ならば、その昔星奈の一族が神薙であったのも承知のはずだ。
「当時君はまだ生まれていないよね? なんて言われてきたの?」
「花印を持つ者は一族に災いをもたらす。決してその存在を認めてはならないと」
「それだけ? それだけのためにミトを苦しめてきたの?」
「親もその親の代からこんこんと聞かされてきたんだ。花印を持つ者は一族の害悪でしかないと。本当ならすぐに始末するつもりだった。けど……。そうすることで災厄が振りかからないかとも限らなかった。だ、だから生かしておいたんだ」
 村長は冷や汗を流しながらしゃべり続ける。
 ミトは村長から発せられた『始末』という言葉にショックを受けていた。
 まさか生まれた時点で殺されかけていたなんて。
 それすら村長たちの弱さによって奇跡的に難を逃れたにすぎない。
 ひとつ間違えば、ミトは今この場に立っていなかった。
 両親に抱かれることもなく、波琉に出会うこともなく。
「私が悪いわけではない! 悪いのは花印を持ったそいつだ! 生まれてきたのが悪いんだ!」
 ミトに対して激しく罵倒する。
 なんて身勝手なのだろうか。
 今ですら村長が心配しているのは自分の身のことだけ。
 怒りを通り越してあきれてしまう。
「他の村民は知ってたの?」
 声は平静を装ってはいるが、波琉の眼差しは強い怒りを宿していた。
「若い者たちは知らん。だが、私や私より上の世代の一部は親たちから教えられていたから……」
「昔、星奈の一族が神薙として暮らしていたことも、キヨの行動により追放されたこともすべて?」
「あ、ああ……。私が若い頃は当時を生きていた者がいたからな」
 村長はたしか七十歳ぐらいだったろうか。
 百年前という時間を考えれば、村長の祖父母だったら実際にキヨの起こした事件を見聞きしていてもおかしくない。
「彼らは言っていたんだ。花印なんてものは災いしか呼ばないと。おかしな力を持って生まれ、また神の怒りを買うから関わるべきではないと。それなのに一族からまた花印を持った者が生まれるなんて……。私がこんなことになったのもすべて花印のせいだっ」
 両手で顔を隠しうなだれる村長からは、ミトへ行ってきた罪の意識はない。
 ただただ、自分をかわいそうに思っているだけ。
 今の状況も花印へ責任転嫁していることにも気づかない。
 はあ……。というため息が聞こえて横を見ると、波琉がミトを見ていた。
「帰ろう。もう聞くことはなさそうだ。結局、なにかしら重要な理由があったわけではなく、自分たちを哀れんだ者たちが自分たちのことだけを考えて行動しただけだった。もうミトが関わる必要はないよ。こんな胸くその悪い者たちの存在は忘れてしまおう」
「うん……」
 もうミトには関係ない。
 二度と村に帰りはしないのだから。
 そして、この部屋を出たら村長にも他の村人にも会うことはないはずだ。
 波琉に背を押され部屋を出るミト。
 閉じていく扉の向こうに見えた肩を落とす村長を見たのが、彼を見た最後だった。
 ミトは屋敷へと帰る途中の車の中で蒼真に問う。
「蒼真さん。村長はこの後どうなるんですか?」
「花印を持った子を隠すのはお前が思ってるより罪が重いんだよ。その上村ぐるみでミトを虐待していたわけだから、禁固刑は免れないだろうな。あの村長の年齢を考えると、生きている間に出られるかどうか分からんな」
「そうですか」
 蒼真は遠慮なく話してくれるので好感が持てる。
 これが尚之だったら、ミトを気遣ってすべては話してくれないだろう。
 別にだからといって尚之が嫌いというわけではない。
 尚之もミトを思って配慮してくれるのだろうし。
 これまでの扱いのせいで特別扱いに慣れないミトには、蒼真の遠慮のなさが気楽というだけだ。
「お前はもう気が済んだのか? 文句を言い足りなかったんじゃないか?」
 静かな蒼真の眼差しを受けて、ミトは考えてみた。
 けれど、答えはすぐに出る。
「今は幸せだからいいです。波琉がいるので」
 ミトが隣を見れば波琉が穏やかに微笑んでおり、ミトは自然と笑みがこぼれた。
 そう、もう村での出来事は過去でしかない。
 波琉がいる今、村長たちのことなど考える暇なんてないのだ。


 村長はその後再び龍花の町から移送されたそうだ。
 これで完全に村長と顔を合わせる機会はなくなった。
 ミトには穏やかな日常が始まる。
「おはよう、波琉」
「おはよう」
 にっこりと微笑む波琉の笑顔が朝から眩しい。
 まるで後光が差しているかのようだ。
 周囲を浄化していそうな笑顔の波琉とともに、両親のいる家に向かう。
 基本的にミトが暮らしているのは自室が用意されている屋敷の方だが、食事の時は両親と一緒に過ごす。
 まあ、それに関わらず頻繁に出入りはしているのだが。
 朝から忙しく朝食を作っている志乃の手伝いをする間、波琉はシロにご飯をあげている。
 ついでに「お手」などと言って芸を教えているのがなんとも微笑ましい。
「波琉、ご飯できたよ」
「うん。今行くよ」
 まるで新婚夫婦のようなやり取りに、先に席に着いていた昌宏がギリギリと歯噛みしている。
 相手がたとえ龍神と言えども父親的には許せないらしい。
 志乃はやれやれとあきれ返っている。
 全員が席に着き、ようやく朝食が始まる。
 これがミト一家の日課だ。
 波琉が納豆を混ぜているのを最初こそ楽しげに見ていたミトも、毎日の光景となっては物珍しさは一切ない。
 すると、突然波琉が手を止める。
「そうそう、ミト」
「なに?」
 波琉に呼ばれてミトも手を止める。
「煌理と一緒に、煌理に属する龍神がひとり花印が浮かんだから天界から降りてきているんだけど、どうやら特別科の生徒が相手みたいだよ」
「そうなの? 誰?」
「さあ、なんて言ったかな? 特に興味なかったから覚えてないや」
「波琉ったら」
 本当に興味がなさそうな波琉にあきれるミト。
 今でこそ食事を一緒に取るようになったが、ミトが町にやって来るまでは食への興味もなく食べ物を口にしていなかったとか。
 龍神は食べなくとも生きていけるとはいえ、食に関わらず、波琉はどこか他への興味が薄い。
 ミトはときどきそれが危うく感じてしまう。
 ミトのことになると自分から読心術を習ったりと行動力をみせるのに、興味のあるなしが極端すぎるのだ。
「龍神の名前は分かるよ。環って言うんだ」
「環様か……」
 名前だけ教えられてもどんな龍神かは分かりようがない。
 けれど、それ以上の情報を教えてくれる様子はなく、波琉は再び納豆へと興味が移ってしまっている。
「まあ、学校へ行ったら噂になってるかな」
 おそらく千歳が情報を持っているだろう。
 千歳はまだ学生ながら神薙の資格を持っているので、龍神の情報は共有されているはずだ。
 食事を終えると屋敷の方へ戻り、制服に着替えて玄関へ向かう。
 波琉も玄関まではお見送りをしてくれる。
「気をつけてね、ミト」
「うん。いってきます。本当はそろそろ波琉とデートしたかったんだけど……」
 皐月の事件以降は波琉と出かけるということをしていなかった。
 煌理から星奈の一族の過去も聞けたし、せっかく村から解放されたのだから、波琉と行ってみたい場所はまだまだたくさんあった。
 行動範囲は龍花の町の中に限定されるとは言え、この龍花の町は広く、たくさんの店や施設が充実しているので飽きることはなさそうだ。
「ごめんね。瑞貴が煌理伝てにたくさん仕事を送ってよこしたから、先にそれを片付けないといけないんだ。まったく、天界へ帰ったら瑞貴に文句を言わないといけないよね」
 などと波琉も嫌々なのがよく分かる。
 ミトを溺愛している波琉が優先させるのだから、早めに対処する必要がある仕事なのだろう。
 それが分かるのに、ここで自分を優先しろと我儘を言えるミトではない。
 ミトは残念そうに笑う。
「波琉の仕事が終わったら一緒に出かけてね」
 健気な姿を見せるミトを、波琉はたまらずという様子で抱きしめた。
「やっぱり仕事は後回しにしようかな。ちょっとサボったぐらいで人類が滅んだりするわけじゃないし」
 何気に怖いことを言う波琉にミトはぎょっとする。
 波琉の仕事がどんなことかまだ知らないが、天候を操る波琉に任せられる仕事なのだからかなり重要度が高いはずだ。
 ミトは慌てて波琉を止める。
「わ、私は大丈夫だから、波琉はお仕事頑張って! 私も学校の試験勉強で忙しかったりするし、私も頑張るから波琉もね?」
「そうだね。ミトがそう言うなら頑張るよ」
 ほっとしたのはミトだけではなく、ふたりのそばで静かに控えていた蒼真もであった。

 学校へ着くと、千歳がミトを待ってくれている。
 これは千歳が世話係となってからずっとだ。
 その分ミトに合わせて早く学校に来なければならないので千歳には申し訳ないが、他の世話係も同じことをしているから気にするなと言われている。
 神薙となれば仕える神に合わせて動くのは当たり前なので、これぐらいで文句を言っていては神薙などにはなれないたいうのが千歳の言い分だ。
 なるほどと納得しないでもない。
 蒼真や尚之も波琉に合わせ、波琉の願いを叶えるためすぐに動けるよういつも待機しているのだ。
 ちゃんと休みを取れているのか心配になったりもするが、波琉は他の龍神に比べると大人しく仕えやすい主人なのだとか。
 他の龍神に仕える神薙の中にはそれはもう入れ替わりが激しいところもあるらしい。
 それが顕著だったのが、久遠に仕える神薙だったというのだから驚きである。
 久遠のことを詳しく知るほど久遠を知っていたわけではないが、温厚そうな龍神だったのでなおさらそう思う。
 けれど、問題は久遠ではなく皐月の人使いの荒さが原因と聞いて、ミトは深く納得してしまった。
 学校内での横暴さを見れば確かに逃げたくもなる。
 今のところ千歳は未成年というのもあり、龍神に仕えるとしても先になるだろうとのこと。
「千歳君は早く龍神様に仕えたいの?」
「んー、特には。なんか他の神薙の話聞いてると大変そうだしならなくてもいい」
 千歳は意外にもそう言った。
「え、でも龍神様のお世話がしたくて神薙になったんじゃないの?」
「違う違う。神薙だと他と全然違うんだよね」
「なにが?」
 すると、千歳は親指と人差し指で丸を作った。
「給料。龍花の町で就ける職業の中でダントツで高収入なわけ」
「えー」
 なんて夢のない。
 いや、ある意味夢はあるのか?金銭面において。
「まさかそんな理由だなんて……」
「人間そんなものだよ。欲望の塊なんだから。神薙が人気職業トップなのもそれが理由の一端なんだろうし」
「神薙のイメージが壊れそう」
 神に仕える神聖な職業というイメージだったのに、ずいぶんと俗物的である。
 だが、まあ、それでもすでに将来の職業を決めている千歳はすごいと思うのだ。
「私も学校卒業したら働いてみたいなぁ」
「無理でしょ」
 ミトの願望を千歳はバッサリと切り捨てた。
「紫紺様の伴侶を雇ってくれるとこなんかないよ」
「それは分かってるけど、学校行くのと同じぐらいバイトとかしてみたいなって思ってたんだもの」
 あの村ではどこへ行っても招かれざる客だったので、ミトが働ける場所などなかった。
 それは両親も同じで、決められた仕事以外することができず、監視されながらの仕事は両親の精神を削り取っていた。
 けれど、この町で紹介された仕事をするようになってからは、職場であった話を楽しそうに教えてくれるのだ。
 それを聞いていたらミトも仕事がしたくなってくる。
「この町ならたくさんお店もあって求人募集してるところも数多くあるのにぃ~」
 花印のおかげでこの町に来られたのに、その花印がミトの邪魔をした。
 ままならないものである。
 ミトからは思わずため息が出る。
「あきらめな」
「あうぅ」
 せめて職業体験で一日だけでも働けないものだろうか。
 しかし、この町での花印を持った子の特異性を考えると、一日ですら許されない気がする。
 教室へ向けて歩いている途中、ミトは波琉の言葉を思い出した。
「あっ、そうだ、千歳君」
「なに?」
「天界から環様って龍神様が降りてきたんでしょう? 相手は特別科の生徒だって。どの人か知ってる? 蒼真さんに聞き忘れちゃって」
「あー、金赤様と一緒に来た方だね。ミトもよく知ってる奴だよ。吉田美羽って女」
 ミトは驚いて反射的に「えっ!」と声が出た。
「吉田さんて、あの吉田さん?」
「他にどの吉田がいるか知らないけど、たぶんミトが思ってる吉田だよ」
 以前まで皐月の取り巻きをしており、特別科の一部の生徒から虐めのような扱いをされている女の子だ。
 なにかと仕事を押しつけられているようで、前にミトが手伝ったらミトの言葉に気分を害して怒らせてしまった。
 それ以後も嫌がらせは続いているようだが、なにぶんミトのいないところで嫌がらせが行われているのもあって、口を挟めない。
 それに、美羽自身が関わってくるのをよしとしていないから、ミトもどうしようもないのだ。
「彼女いろいろと嫌がらせされてたみたいだけど、龍神が迎えに来たならもう大丈夫になるかな?」
「だろうね。この話はすでに生徒の間にも伝わってるから、これまであの女をいいように使っていた奴らは顔色変えてるんじゃない? 特別科の勢力図が変わるかもね」
「そんなあからさまになる?」
「ミトが一番よく分かってるんじゃないの?」
 千歳の言う通りだ。
 わざと隠していたわけではないが、入学当初はミトが紫紺の王の伴侶とは知られておらず、皐月に楯突いのを理由に無視されるようになった。
 それが、紫紺の王の伴侶と知るや、手のひらを返したように媚びを売り始めたのだ。
 あの豹変の仕方はミトもドン引きするほどであった。
 おそらく、あれと同じ状況が繰り返されるのだろう。
「じゃあ、吉田さんの派閥ができるのかな?」
 今はありすも学校に来なくなったので、龍神に選ばれた人間はミトを除いて美羽だけということになる。
「まあ、ミトはいつも通り過ごせばいいよ。ミトにはあんまり影響ないだろうし」
「まあ、そうだね」
 美羽とは仲がいいわけでも特別悪いわけでもない。
 同じ特別科だというのに、朝の挨拶すらしないほど希薄な間柄なのだ。
 龍神に選ばれ虐められる心配もなくなったとあれば、ミトが関わる理由もない。
 さらに言えば、これまでミトに媚びてきた生徒たちがミトでは反応が薄いといって、美羽に流れていくのではないだろうか。
 そうなればミトにようやく平穏がやって来るかもしれない。
 影響がないどころか、むしろいいことなのではないかと思い始めた。
 まあ、それは美羽の対応次第になってしまうが、今より悪くなったりはしないはず。
 ミトは意気揚々と教室へと向かい、扉の前で千歳と別れた。
 教室に入れば、教室の一部分に人が集まっている。
 そこは普段美羽が座っている席だ。
 どうやら早速狩人たちに群がられているよう。
 その集団から少し離れた場所では、前にも美羽に仕事を押しつけていた生徒が顔色を悪くして集まっている。
 この龍花の町では、龍神選ばれるかどうかで大きな差が生まれる。
 発言力が違うのだ。
 今、学校内で美羽に物申せるのは、ミトぐらいのものだろう。
 しかし、波琉の威光に頼りたくないミトが、率先して物申すのはよほどのことがない限りない。
 ミトは様子を見守ることにした。
 観察していると、美羽が非常に困惑しているのが伝わってくる。
 困った顔で、これまで見向きもしなかった生徒たちが、美羽を褒めたたえている。
「すごいわね、吉田さん。龍神様が迎えに来てくださるなんて羨ましい」
「やっぱり吉田さんの人柄がいいから、運を引き寄せたのよ」
「ねえねえ、吉田さんの龍神様ってどんな方?」
「一度でいいから屋敷に招待してくれよ」
 皆言いたい放題だ。
 あからさますぎて美羽でなくとも困惑するだろう。
 おそらくミトも少し前まで同じ顔をしていた。
 本当にここは龍神のために作られた、龍神を中心に回る町なのだと実感する。
 しばらくは大変だろうなとどこか他人事のように思っていると、草葉が教室に入ってきてホームルームが始まる。
 けれど、美羽に集まる生徒は席に戻る気配もない。
 草葉と目が合ったミトは苦笑いを浮かべる。
 草葉もやれやれとため息をついて、そうそうにホームルームを終わらして出ていった。
 草葉も今日ばかりは仕方ないと思っているのだろう。


 昼休憩になったので千歳と食堂へ行っても、いたるところから聞こえてくる美羽の話題で生徒たちがざわめいていた。
 それは特別科の生徒だけでなく、普通科や神薙科もである。
「吉田さんと環様の話で持ちきりだね」
 今は金赤の王である煌理もこの町に来ているのに、煌理の名前は全然出ていない。
「そりゃあそうなるよ。ミトはここに来てまだそんに経ってないから分からないだろうけど、花印を持った龍神が同じ花印を求めて天界から降りてくること自体珍しいから」
「そうなの?」
「うん。そもそも現在町にいる龍神は片手の指で足りるほどしかいないんだ。その中の全員が花印を持った伴侶を目的にして訪れているわけではなく、ただの観光目的で来ている龍神も含まれてるからね。時間の感覚が人間と違う龍神が学生のうちに現れるのはかなり稀有だよ」
 ミトは「へぇ~」と感心したようにしながら美羽に視線を向ける。
 美羽はいろんな人に声をかけられびくびくと怯えたように周囲の目を気にしている。
 そんな彼女を守るように、陸斗という美羽の世話係が生徒たちを近づけないように四苦八苦していた。
 美羽はよほど陸斗を頼りにしているのだろう。
 陸斗に身を隠すように、陸斗にくっついている。
 それを見ていたミトは心配になって口を開いた。
「あれって大丈夫なのかな?」
「なにが?」
 千歳は波琉と一緒で特に興味がないのか、美羽の方を見ようとすらしない。視線はカツ丼に釘付けだ。
「なんていうか、お世話係にしてはやけにふたり親密そうっていうか……。龍神様が会いに来たのに、あんな風に仲良さげにしていたら、龍神様は怒ったりしないのかな? 私が同じように千歳君にくっついてるの目撃したら、波琉は千歳君の脳天に雷落とすかもななんて思ったから」
 ちょうどご飯を口に含んでいた千歳はブッと吹きそうになるのを間一髪こらえた。
 そして、口の中のものを飲み込み、ミトをにらむ。
「なに怖いこと言ってるんだよ! 危うく吐き出しそうになっただろ!」
「いや、たとえだよ。本当に波琉がそんなことはしないと思う。たぶんだけど……」
「たぶん!?」
 冗談で口にしておきながらミトは自信がなかった。
 今朝も人類滅亡がどうとか言っていたぐらいだし。
「まじ怖い。なに、龍神て皆そんななの?」
「さあ? そこは千歳君の方が知ってるんじゃないの? 私はこの町に来たばかりだもの」
 波琉以外の龍神で話したことがあるのも、久遠と煌理ぐらいだ。
 それもほんの少しだけ会っただけで、会話らしい会話もそんなにしていない。
「俺も龍神の世話はしたことないから分からないよ」
「そっかぁ。でも蒼真さんによると、波琉は温厚で我儘も滅多に言わないから仕えやすいって」
「脳天に雷落とそうとするのに?」
 千歳は疑いの眼差しだ。
「ほんとだよ。波琉が怒ってるところなんかあんまり見ないし……。あ、でも怒ると雷落とすかも」
 村に行った時とか、ミトが学校で虐められていると知った時とか。
「やっぱり怖いじゃん!」
 千歳は顔色を悪くする。
「頼むから俺を好きになったりしないでよ」
「失礼な。私は波琉一筋だもん」
 それこそ子供の頃からである。
 ミトは夢に出てくる波琉という男性にずっと恋していた。初恋の相手なのだ。
「前例があるから忠告してるんだよ」
「どういうこと?」
 ミトは首をかしげる。
「花印を持った特別科の生徒と世話係の神薙とが恋仲になって神の求婚を断ったなんて話は過去にもあるからね」
「あ、それ前に波琉が言ってたかも」
「そういう事例があるから、紫紺様も俺に釘を刺したんだろうし……」
「釘を刺した? いつ?」
「気づいてないならそれでいいよ」
 千歳はそっと視線をそらした。

 そんなことがあった数日後、新たにやって来た環という龍神の話もひと騒ぎして落ち着きを取り戻しつつあった頃、またもや美羽の話題で騒がしくなった。
 なんと、美羽は環との関係を拒否し、神薙科でもあり、自分の世話係でもある陸斗を選んだのだった。
 これに驚いた人間は多く、またもや美羽は生徒たちに取り囲まれていた。
 しかし、あらかじめ千歳から前例を聞いていたミトは、本当にそういうことがあるのかと感心しただけだ。
 美羽は特別科の生徒から質問攻めにあっていた。
「龍神様じゃなくて世話係を選んだって本当なの!?」
「うん」
 美羽は迷うことなく肯定した。
「なんでぇ、もったいない。せっかく龍神様が迎えに来てくれたのに!」
「私は陸斗がいいから……」
 弱々しい雰囲気を出しながらも、その言葉ははっきりとしていた。
「絶対後悔するよ~。龍神様の伴侶になったら天界へ行って永遠の命も手に入れられるんだよ? 龍神様に選ばられたがってる子はたくさんいるのに、自分からチャンスを手放すなんて馬鹿じゃないの?」
 龍神に選ばれる機会を自分から捨てる美羽への嫉妬かあきれからか、信じられない様子で罵倒する女子生徒に対し、美羽は机を叩いて声を荒らげる。
「馬鹿なんかじゃない! 私だって好きで花印を持って生まれたわけじゃないもの! 私には陸斗がいてくれればいい! いつも虐められて誰も助けてくれなくて、陸斗だけが私の味方でいてくれたんだから!」
 いつも大人しい美羽の剣幕に生徒たちは唖然としているが、すぐに不満いっぱいの顔へと変わっていく。
「なにそれ。好きで花印を持って生まれたわけじゃないってさ、散々この町の恩恵に預かってる人間の言葉じゃないよね」
「ほんとほんと」
「そういう言葉はすべての権利を手放してから言って欲しいわ」
 興醒めだというように、美羽の周りから人が散っていく。
 その目にあからさまな蔑みを浮かべて。
 どうやら美羽は今の言葉で多くの生徒を敵に回してしまったようだ。
 美羽もそれに気がついたようだが、その時にはもう美羽の周りに誰も人はいなくなっていた。
 そんな様子を関わり合いにならない場所から見ていたミトは、人間関係の難しさに頭が痛くなりそうだった。

 昼休みに入ると、千歳が迎えに来る。
 ふたりで食堂へと向かいながら、千歳に今朝の出来事を話して聞かせる。
 あまり興味はなさそうだが、かまわず話すと、千歳は当然だといった様子。
「波琉からも千歳君からも、龍神ではなく神薙やお世話係の人を選ぶ例があるって聞いたけどまさか実際に起こるなんて思わなかった」
「びっくりしてるのはたぶん神薙たちも同じだよ。ミトにああは言ったけど、実際に龍神から求められて応じない人間はほんとに少ないんだ。なにせ赤子の頃からこの町で暮らして、いかに龍神に選ばれることが名誉か聞かされ続けるんだからね」
 確かにその環境で育っていれば、龍神を拒否したりしようと思う者は少ないのかもしれないが、外で育ったミトにはあまり気持ちが理解できなかった。
「それにさ、学校なんかでの対応でも、花印を持っている奴はあからさまに特別待遇するからさ、特別な扱いに慣れた奴はそれが壊れるのを怖がる。今与えられているものが龍神の威光によるものだとよく理解してたら断りづらいよねー」
 と、千歳はつけ加える。
「じゃあ、龍神が迎えに来た人はほとんど天界に行ってるんだね」
「いや、そうとも限らない。龍神の方から愛想をつかされて破談になる事例が結構ある。ていうか、破談になる理由のほとんどがそれ。我儘女その一みたいに」
 皐月と別れ、ひとり天界へと帰った久遠を思い起こす。
「そうなの?」
「それだけ悠久の時を生きる龍神と、ただの人間とでは価値観やらが大きく違うってことなんだろうね」
 ミトは他人事のように「へぇ」と感心している。
「ミトも紫紺様に愛想尽かされないように気をつけた方がいいよ」
「うぅ……」
 そんなの絶対ない!と反論できるほどの自信はミトにはなかった。
 自分は波琉一筋だと声を大にして言えるが、この先波琉にずっと好いていてもらえるかまでは断言できないのが悲しい。
 そんな話をしていると、突然千歳を呼ぶ声が聞こえてきた。
「千歳く~ん」
 猫なで声の甘ったるい女の子の声。
 目を向けてみれば、バッチリメイクのまつ毛が重そうな子が寄ってきた。
 途端に嫌そうな顔をする千歳。
「知り合い?」
 ミトが問うと、千歳が舌打ちをしたのでミトはびっくりした。
 どうやらあまり関わりたくない相手らしい。
 ミトも、真由子や皐月のように、メイクが派手な人にあまりいい思い出がないので、ちょっと引き気味だ。
 女の子は千歳にしなだれかかろうとして避けられている。
「ねえ、一緒にご飯食べようよ」
「見て分からないの? 俺は世話係で忙しいからどっかいってくれる?」
 その時になって初めて女の子はミトを目に写した。
 そして、にっこりと微笑む。
「あなた特別科の子でしょ。優秀な千歳君をお世話係に選ぶ審美眼は褒めてあげるけど、千歳君はあなたのものじゃないんだから、あんまり千歳君を独占しないでくれる?」
 口は笑っているのに、なんとも分かりやすい敵意を向けられている。
「ほらぁ、千歳君。いっつもその子といるんだから、たまには私と一緒に食べよ。ね?」
 千歳の腕を掴み、小首をかしげて上目遣いをする女の子にミトは軽い衝撃を受ける。
 あざとかわいい……。
 これは千歳もノックアウトされてしまうのではないだろうかと思っていたが、千歳はめちゃくちゃ嫌そうに顔を歪めていた。
 もう少し取り繕ってもいいかもしれないと思うほどひどい表情である。
 千歳は自分の腕にくっつく女の子の手を振り払うと、何事もなかったようにミトを席に誘導した。
「ミトはなにするの?」
「えっと、日替わり定食で」
「了解」
 千歳は女の子の存在などまるっと無視をして食事を取りに行ってしまった。
 できれはふたりで残してほしくなかったが、千歳は逃げるようにさっさと行ってしまったので文句も言いようがない。
 予想通りというか、女の子はミトを憎々しげににらみつけてくる。
 いったいこの状況をどうしろというのか。
「勘違いしないでよ! 千歳君があなたの世話係になったのは紫紺の王に選ばれたってだけなんだから!」
「あ、はい……」
 彼女はきっと千歳に気があるのだなと、聞かなくても分かった。
「ほんとに花印を持ってるからってあなたたちは偉そうなのよ。なにが花印よ。そんなのただのアザじゃない」
 先ほどまでの猫なで声はどこへやら、なんとも強く厳しい声色でミトを攻撃する。
「そんなのがあるだけで特別待遇されるなんて、間違ってるわ。私と比べたらすべてにおいて劣ってるくせに、花印があるってだけでチヤホヤされて、ほんといいご身分だわね!」
「えーっと……」
 彼女はミトを攻めているようでいて、別の誰かに向かって言っているように感じた。
 彼女は苛立たしげに親指の爪を噛みながら、続ける。
「私はもっと価値のある人間なのよ。それなのに花印を持っていないだけで上に上がることを邪魔する。ふざけんじゃないわよ!」
 ミトに怒りをぶつけられても困るのだ。
 心の中で『千歳君、早く帰ってきて~』と叫びながら待っているしかない。
「千歳君に目をつけてアタックしてたのは私が先なんだから! それなのに私が風邪で休んでる間にあなたの神薙になってるなんて詐欺よ詐欺! 学校一番の優良物件をどうしてくれるのよ!」
「あ、えと、ごめんなさい?」
 なんとなく勢いで謝ってしまったが、自分が悪いのか?とミトに疑問が浮かぶ。
 そんなやり取りをしていると、やっと千歳が戻ってきた。
「まだいたの?」
「千歳君」
「千歳くぅ~ん」
 がらりと変わった甘ったるい声に、ミトはびっくりした。
 よくぞそこまで声を変質させられるものだ。
「お前邪魔。とっととどっか行けよ」
 なんとも冷たい眼差しの千歳に、さすがにこれ以上は怒らせるだけだと感じたのか、彼女は去っていった。
 最後にミトをひと睨みするのを忘れずに。
 まるで嵐が過ぎ去ったかのよう。
「千歳君。さっきの人は?」
 なんだか今後も現れそうな勢いだったので、誰なのか聞いておきたかった。
「普通科の一年。吉田美羽の妹の吉田愛梨だ」
「へぇ~」
 それを聞いて最初に思ったのは、なんて似てない姉妹なのかというものだった。
 それは先ほどの愛梨がメイクをしっかりしていたせいもあるのかもしれない。
 美羽の方はどちらかというとほとんどメイクをしておらず地味だったので。
 まあ、メイクをしていないのはミトもなので、別にそこは人になにかを言える立場にない。
 そんな姉妹の違いは、性格も見るからに真逆である。
 面倒事を押しつけられても文句が言えない大人しい美羽と、気が強そうな肉食系女子を思わせる愛梨。
「綺麗な子だったね」
 メイクの派手さはあるものの、整った顔立ちをしていたのは間違いない。
「ミト目が悪いの?」
「えー。美人さんだったじゃない」
 確かに波琉や煌理のような龍神と比べると見劣りしてしまうが、人間な中では美人の分類に入るはず。
 彼女を美人思わないなら千歳の美的感覚を心配してしまう。
「まあ、周りの男とかは美人だって騒いでたかも」
「でしょう?」
「けど、俺はああいうの無理。生理的に受け付けない。無駄にプライド高くて、自分を立ち位置をよく理解してない。姉が花印だからこの町で暮らせているのにそれを理解していない勘違い女」
「どういうこと?」
 ミトにはよく理解できなかった。
「花印の家族って他の町の人より優遇されてるのは知ってる?」
「えっと、家族のカードとか?」
「まあ、それもある」
 町に来てから蒼真に渡された身分証の役割もあるカードは、町で暮らす人全員に配られている。
 花印を持つミトは、どの店でも無料で利用できるというまさに特別待遇を形にしたものであるが、それは家族に渡される身分証も同じだ。
 蒼真によると、家族のカードでは半額になるのだとか。
 花印を持つ者の身内というだけで、優遇されるのである。
「お店以外でも、病院にかかる時に優先的に診てくれたり、施設を利用する時に待ち時間を短縮したり、他にもいろんなサービスが使えるんだよ」
「そうなんだ」
「そうなんだって、知らないの?」
 初めて聞くような反応を見せるミトに、千歳胡乱げな視線を向ける。
「確か蒼真さんに説明された気がするんだけど、一度にたくさんのこと聞いたから全部は覚えきれてないの」
 あはは……と笑って誤魔化すミトに、千歳は深いため息をつく。
「まあ、それはいいや。あの勘違い女はさ、花印を持つ姉のおかげでそれらの待遇を受けてる。早い話おこぼれにあずかってるだけなのに、それが許せないんだと」
 どうやら愛梨のことは千歳の中に『勘違い女』で定着してしまったらしい。
「無駄にプライドが高いからこそ、地味な姉の方が特別に扱われるのが嫌なわけ。花印がないだけで自分は下に見られる。自分は貧相な姉よりもっと価値がある人間だと思いたいんだよ」
「ふんふん」
 そういう考え方をする人も中にはいるのだろう。
 ミトの両親はそういう考えをする人たちではないが、姉妹であからさまな格差があったら不満を持つ者もいるだろう。
 姉妹だからこそ生まれる不満。
 そう考えると、ミトに兄弟がいないのは幸いだったのかもしれない。
「きっと姉が龍神を選ばなかったのも信じられないんじゃない? 勘違い女なら迷わず龍神を選んでただろうね。龍神に選ばれるのとそうでないのとでは、龍花の町すべてでさらに扱いが変わってくるからさ」
 千歳は断言する。
 しかし、ミトは異を唱える。
「でも、彼女、千歳君が好きなんじゃないの? あんなあからさまににらんできてたし。千歳君の気を引こうと必死だったし……」
「ああ、違う違う。あれは俺が神薙だから目をつけられたってだけだよ」
「そうなの?」
「言ったでしょ。なるのに難関な神薙になると給料が他より多いって。それだけでなく、この町では一目置かれる憧れの職業でもあるからね。そんな神薙を彼氏にできたら、そりゃあもう鼻高々。周りにも自慢してマウント取れるよねー」
 千歳自身のことなのに、まるで他人事のように言うので、自慢しているようには感じない。
 むしろ若干嫌そうな顔をしている。
「もしかしてだけど、これまでにも?」
「うん。めちゃくちゃ告られた。全員神薙だからって理由」
「あー……」
 それは嫌そうな顔にもなるというもの。
「でも、勘違い女はこれまで接触してかなかったんだよね。すぐに誰かの世話係になると思ってたみたい。世話係になったら相手の世話で恋人どころじゃなくなるし。だけど、我儘女その一、その二の申し出にも断ったから、世話係になる気がないと判断したんだろうね。それなら自分もチャンスがあるんじゃないかと、今アタックされてるって感じ」
 千歳の表情からは、めちゃくちゃ迷惑というのが言葉に出さずとも分かりやすく浮かんでいた。
「最近現れないなと思ってたんだけど……」
「風邪で休んでたらしいよ」
 先ほど彼女自身が言っていたのをミトは思い出す。
「はぁ……」
 千歳はそれはもう深いため息をついた。
 おそらく、これからの学校生活を想像したのだろう。
 きっと今後もあきらめずに千歳に接触してくるはずだ。
 ミトもそう予想して、困ったように眉尻を下げる。
 千歳に関わってくるということは、ほぼ一緒にいるミトも間違いなく巻き込まれるに違いない。
 千歳だけの問題ではなくなってしまった。
「早くあきらめてくれるといいね」
 こくりと静かに頷いた千歳。
 波琉を怒らせるような問題にはなりませんようにと、ミトは心の中で願った。


四章

「宴?」
 ある日唐突に波琉がそんなことを口にした。
「どういうこと?」
「どうやら今龍花の町にいる他の龍神が、僕と煌理がいるなら宴を開きたいと言い出したみたい」
「へぇ」
 龍神の集まる宴か。
 まるでおとぎ話のようだ。
 しかし、波琉をよくよく見てみると、あんまり嬉しそうではない。
「波琉は嫌なの?」
「嫌っていうか、面倒くさい」
 それを嫌がるというのではないだろうか。
「まあ、他の龍神が宴を開きたいって言い出すのも仕方ないんだよね。龍神の王同士が顔を合わせるのは滅多にないし」
「どれぐらい会わないの?」
「百年に一度会えばいいとこかな?」
 それは滅多にないどころではない。ミトは声を出すことなく驚く。
「しかも、この龍花の町で王がふたりも降りてきてるなんて初めてじゃないかな? ねぇ、蒼真?」
 波琉は控えていた蒼真に問いかける。
「ええ。過去の文献を調べてみましたが、初らしいです」
 蒼真の顔には波琉と同じ面倒くさいと言わんばかりの表情が浮かんでいる。
「おかげで龍神様方以上に神薙のジジババどもがはっちゃけて、最高のおもてなしをするぞと気合い入れて動いてますよ。あれはきっと後々体に響きますね」
 蒼真は「くそめんどくせぇ」と、舌打ちした。
「誰が後始末すると思ってやがんだか」
 どうやら龍神以上に神薙にとっても大変な宴のようだ。
「不参加でもいいかな?」
「そうしてくれるなら非常に助かりますけどね。龍神の我儘は紫紺様のような格上の龍神にしか止められませんから」
「じゃあ、僕は不参加って他の龍神に伝えてもらおうかなぁ」
 波琉と蒼真がそんな会話をしているそばで、ミトは波琉の袖をつんつんと引っ張った。
「どうしたの、ミト?」
「波琉、宴に参加しないの?」
 どこか残念そうな顔をするミトに波琉は気づいたようだ。
「ミトは参加したいの?」
 ミトは波琉の顔色をうかがいながら、こくりと頷いた。
「だって、龍神様が集まる宴ってどんなものか興味あるし……」
 ミトがこれまで会ったことがある龍神は、波琉と煌理と久遠。
 それから顔を見ただけで言えばありすの龍神もだ。
 そのどの龍神も神々しく、とても綺麗な容姿をしていた。
 そんな龍神が一堂に会する。その現場を見てみたいと思うのはミーハーだろうか。
 だが、ミトでなくとも興味を持つ者はたくさんいるだろう。
 絶対にミトだけではないはず。
 現に神薙たちは大興奮しているようだし。
「ミトがそんなに出たいなら出席しようかな」
 一転して意見を変えた波琉に、ミトはキラキラと目を輝かせ、蒼真は嫌そうに顔をしかめた。
「まじで言ってます?」
「ミトが望んでるんだよ。理由はそれだけで十分じゃない?」
「はあ……」
 蒼真はげんなりとしたように深いため息をついた。
 蒼真には申し訳ないが、きっと龍神の集まる宴なんてそうそうあるはずがないのはミトでも想像できる。
 波琉がこの龍花の町に降りてきて十六年。
 ほぼ外出していないと聞いていたので、他の龍神も似たようなものだと思っている。
 そんな龍神が集まるなんて、どんな宴になるのだろうか。
 考えるだけでわくわくしてきた。
「仕方ない。まあ、すでにジジババはやる気満々でしたからね。やらなかったらやらなかったでうるさそうですし」
「頼んだよ、蒼真」
「はいはい。……と、そうだ。宴に参加するならそれなりの格好が必要だな」
 蒼真がミトに視線を向けると、波琉もまたミトを見る。
 ミトはこてんと首をかしげた。
 波琉は蒼真の言うことが理解できた様子。
「確かにそうだね。蒼真、屋敷に業者を呼んでくれるかな?」
「かしこまりました」
 ミトひとりがついていけていない。
「なに? 波琉も蒼真さんもどういうこと?」
「宴に参加するためのミトの衣装を用意するんだよ」
「え、いいよ。もうたくさん持ってるし」
 ミトがこの屋敷で暮らし始めたと同時に、ミトが生活するに困らないものが十分すぎるほど用意されていた。
 その中には服や装飾品も含まれている。
 わざわざ業者を屋敷に呼んでまで買う必要性を感じない。
 だが、波琉と蒼真の考えはそうではないようだ。
「ミトには一番綺麗にしてもらいたいからね」
「いや、でも……」
 すると、遠慮するミトに蒼真が窘める。
「でもじゃねぇよ。お前は紫紺様が選ばれた伴侶だ。他の龍神方が集まる宴で、紫紺様の相手が貧相な格好をしていたら示しがつかないだろうが。お前は誰よりド派手に着飾る必要がある。お前の評価は紫紺様の評価につながるんだぞ!」
 びしっと指を突きつける蒼真に、ミトは衝撃を受ける。
「私が波琉の?」
「そうだ。だから、めいいっぱい着飾れ。紫紺様の伴侶だと舐められないように、これでもかというほどな」
 波琉にも迷惑をかけると聞いたら、もはや嫌とは言えない。
 むしろやる気に満ちあふれてきた。
「わ、分かりました! 気合い入れて頑張ります」

 それから一時間もしない内に業者がたくさんの着物を持って訪れた。
 それなりに広い部屋の中に一点一点並べられた色鮮やかな着物の数々に、ミトは開いた口が塞がらない。
「すごい……」
「これだけしか持ってきてないの?」
 圧巻な光景なのに、波琉は着物の種類に不満そうにするため、業者の人たちが冷や汗を流し顔色を悪くする。
 この龍花の町に暮らす者にとったら、龍神の機嫌を損なうような事態はさぞ肝が冷えるだろう。
 ここは自分の出番だと、ミトは波琉に微笑む。
「波琉、これだけあれば十分だよ。どうせ宴で着ていけるのは一着だけなんだし」
「それもそうだね」
 納得した波琉に、業者の人たちはそろってほっとしている。
「ほら、ミト。好きなのを選んでいいよ。どれにする?」
 波琉にそう言われても自分にはどれがいいのか分からないミトは困惑顔。
 その様子を悪い方に取った波琉はミトの顔を覗き込む。
「やっぱり数が少ない?」
 ミトは慌てて首を横に振った。またもや業者の人たちが顔を強ばらせているではないか。
「その逆! こんなにたくさんあって、どれが一番いいのか分からないの」
 着物に触れてみると、それだけで質のいい生地が使われていることが分かる。
 いったいこれはどれだけ高額なのだろうか。
 考えただけでも気が遠くなりそうだ。
 そもそも、業者を家に呼ぶとはどういうことだ。
 普通は店に買いに行くのではないのだろうか。
 わざわざ店の方から商品を持ってくるなんて、なんという贅沢極まりない待遇。
 この町での龍神の力の強さがうかがい知れる。
 ミトはゆっくりと時間をかけながら姿見の前で着物を体に当ててみたりするが、どれもこれも素敵すぎて決め兼ねる。
「波琉はどれがいい?」
「どれもかわいいよ」
 眩しいほどの美しい微笑みに、業者の女性が目を奪われている。
 気持ちは十分に分かったので、ミトは苦笑した。
「それじゃあ決められないよ」
「そうだね。じゃあ、これ」
 波琉が選んだのはふたりの手にある花印と同じ、椿の花が鮮やかに描かれた赤い着物。
「僕とミトをつなぐ、特別な花だからね。他の龍神へのお披露目には相応しいと思わない?」
 ぱあっと、ミトの顔が明るくなった。
「うん。それがいい!」
 自分と波琉をつなぐ特別な花と言われたら即決だった。
 それに合わせた髪飾りも選び、思ったよりあっさりと準備は整った。
 せっかくたくさんの着物を持ってきてもらったのだが、それ以外は持ち帰ってもらうしかない。
 たった一着のために来てもらい申しわけなく感じていたが、業者の人たちはなにやらほくほく顔をしていた。
「本日は我々をご利用いたただきありがとうございます! 紫紺様のご伴侶の方の着物をご用意させていただく栄誉に、胸がいっぱいです」
 それはもう嬉しそうに頭を下げる業者の人たちに、改めて龍神の重要さを感じるミトだった。


 それから数日後、宴に出席する日となり、ミトは母からもらった顔パックをしていた。
 その様子を波琉は興味深そうに見ている。
「ミト、それはなんの意味があるの?」
「お肌がプルプルになるんだって。お母さんが、他の龍神の方とお会いする大事な日なんだから、お手入れをちゃんとしときなさいってくれたの」
 今まで家計ギリギリの生活をしてきたミト一家にとっては、顔パックなど贅沢品である。
 しかし、村での薄給だった扱いから、この町に越してきて仕事に見合った正規の給料をもらうようになり、家計にもゆとりができた。
 それは花印の家族が持つカードの優遇の力もあるだろう。
 ミトは顔に貼っていたパックを取ると、頬を触る。
「おお~」
 志乃の言う通りいつもよりモチモチプルプルしている気がする。
 ミトが感動しながらさわっていると、横から波琉が手を伸ばしてきた。
 その手を振り払うことなく受け入れる。
 やわやわと触れる波琉は、首をかしげた。
「うーん?」
「プルプルしてない?」
「まあ、してる気もするけど、そんな薄い紙ごときでミトの魅力は変わらないよ」
 これは喜んでいいのだろうか。
 波琉のことなので悪意があるわけではないのは確かだが、せっかくお手入れをしたのだから褒めてほしい気持ちもある。
 女心とは複雑なのだ。
 肌のお手入れを終わらすと、待っていましたとばかりに蒼真があらかじめ呼んだお手伝いの人たちに連れられて部屋を移動し、着物の着付けと髪を結い上げられる。
 無駄のない流れるような動きでテキパキとミトの支度がされていく。
 最後にメイクまでしてもらい、完成した姿を鏡で見て、ミトは感動した。
 衣装とメイクでここまで変わるのかと。
 ミトは急いで波琉の部屋へ向かうと、波琉も準備を終えていた。
 しかし、波琉は普段とあまり変わらない服装だ。
 着飾らなくても美しい人というのは、普段通りで十分輝いている。
 そんな美しい波琉の隣に立つのかと思うと、少し気後れしてきたが、波琉はミトを見て相好を崩す。
「綺麗だよ、ミト」
「ありがとう」
 どう見ても波琉の方が綺麗なのだが、大好きな人に褒められて嬉しくないはずがない。
 ミトははにかんだ。
 波琉はミトをぎゅっと抱きしめ。
「あー、こんなかわいいミトを他の男に見せたくないなぁ。やっぱり行くのやめようか」
 などと言い出した。
 これに困るのは宴を楽しみにしていたミトである。
「駄目だよ。皆困っちゃうし」
 龍神が集まる宴である。
 その準備をするのはもちろん龍神ではなく、龍神に仕える神薙であった。
 龍花の町にいてもほぼ単独で好きなように過ごしている龍神たちがそろうことなど滅多になく。
 というか、年寄りの尚之でも初めてらしく、それはもう神薙の間では大騒ぎになったそうだ。
 龍神の王ふたりもそろう宴を貧相なものにするわけにはいかないと、神薙の人たちは頭を悩ませ、最大限の気遣いをしながら宴の準備をしたと聞く。
 蒼真はもちろん、普段龍神には仕えていない千歳までもが駆り出されたらしく、疲れた様子で学校に来ていた。
 それを見ていたら、最初に宴を言い出したのは誰だと犯人探しをしたくなってくる。
 龍花の町において龍神はもてなされる側なので、軽い気持ちで無理難題を口にするから厄介だと、千歳がげんなりとしながら愚痴っていた。
 そんな千歳の姿を見ていると、蒼真が嫌そうにしていた意味が分かるというもの。
 そんな神薙たちが必死の思いで作り上げた宴を、直前になって行かないというのはあまりにかわいそうすぎる。
「神薙の人たちが頑張って準備したんだから」
「そうですよ、紫紺様。今さら行かないなんてなったら、神薙のジジババたちがショックのあまり泣きだしますよ」
 宴の準備に追われていたためか、やや疲れが見える蒼真がツッコム。
「それはそれで面倒くさいんでちゃんと出席してください」
 すると、波琉はため息をついた。
「行くなんて言わなきゃよかったかな」
 とは言い後悔しつつも、ミトが行くとなればついてきてくれるのが波琉である。
 ミトにはこれでもかというほど甘いのだ。
 蒼真がパンパンと手を叩く。
「ほらほら、時間になりましたから行きますよ、紫紺様」
「だって。行こう、波琉」
 ミトが手を引けば、波琉は仕方なさそうにしながらも歩き出す。
 車に乗り込んで会場となる場所へ向かう。
 本当はミトの両親も一緒に連れていきたかったのだが、龍神が集まる場所へなど、粗相をして気分を害さないか緊張するので行きたくないと言われてしまった。
 まあ、確かにその気持ちは分かるので、両親は留守番となった。
 しかし、興味はあるのか、帰ってきたらどんな様子だったか教えてくれと言われた。
「ねえ、波琉。今龍花の町にいる龍神様って何人いるの?」
「さあ?」
 波琉に聞いたのが間違いだったとすぐに思う。
 代わりに問うように蒼真に視線を向ければ、すぐに答えてくれる。
「現在町に降りてこられている龍神は、紫紺様、先日来られた金赤様と環様を含めて七人だ」
「少ないんですね」
 波琉、煌理、美羽の相手である環、そしてありすの相手である龍神以外には三人しかいない。
 ミトは指を折り曲げて数える。
「だったら、煌理様と吉田さんに断られた環様を除くと、龍神に選ばれた伴侶は私を含めて五人ということですか?」
「いや、花印関係なく町に遊びに来てるだけの方もいる。お前、桐生ありす、環様を拒否った吉田美羽の他はひとり。今は五十代の男性の伴侶の方だ。それ以外のふたりの龍神は休暇で町に来ている」
「それ、かなり偏ってません?」
 六十代の男性以外は全員学生ではないか。
「ああ。まったくだ。だから学校の教師どもは毎日胃が痛そうだな」
 くくくっと笑う蒼真はなんとも悪い顔をしている。
 そんな顔で歩いていたらきっと職質されるに違いない。
「普段の神薙の苦労が理解できるだろうさ」
 そのストレスのせいで校長の頭が寂しくなってきたのではなかろうか。
 ハリセンで叩くのを強要されるミトしては迷惑この上ない。
「なにか理由があったりするの?」
 その質問は蒼真では分からないだろうと、波琉に向けてする。
 しかし、波琉は首をかしげるだけ。
 すると、それも蒼真が答えてくれた。
「理由はどうか知らないが、花印の伴侶が偏る世代があるのは過去にもたまにあったみたいだ。なぜかは聞くなよ。紫紺様でも答えられないのに俺が教えられるわけねえからな」
「波琉、ほんとに知らないの?」
「天帝の気まぐれじゃないかな。たぶん」
 特に興味がないのか、かなり適当に答える波琉に、ミトは苦笑する。
「蒼真さん。私の他にも龍神様と参加する伴侶の方はいるんですか?」
「金赤様の伴侶の千代子さまぐらいだな。男性の伴侶の方は最近体調が芳しくないから無理だ。おそらく近いうちに天界に登られるだろうな」
「天界……」
 天界へ登る。
 それはつまり人間としての寿命を迎えるということを意味する。
 自分もいつか……。
 しかし、あまりピンと来ないのは、ミトが自分の『死』をイメージできないからだ。
 歳を取ればそのうち変わってくるのかもしれないが、十六歳である若いミトにはまだ難しい。
「桐生さんは?」
 ずっと学校に来ていないありすはどうなのか。
 あれからなぜ学校に来なくなったのか分からない。
 皐月に襲われたのがよほどショックだったのだろうか。
「あー、そいつは来るんじゃないか? 紫紺様と金赤様のための宴だから、他の龍神方は全員参加するようだし、体調が悪いでもない限りは参加するだろ」
「そうですか」
 とはいえ、ありすが参加すると分かったところでなにが変わるわけでもない。
 休んでる理由は少し気になるところだが、それ以外で特にありすにかける言葉もなく、それは彼女も同じだろう。
 それよりは千代子と話をしたい。
 天界でのこととか、聞かたい話題は尽きそうにない。
 車に乗ってさほど遠くない場所に宴の会場は用意されていた。
 波琉の屋敷のような和風の豪邸。
 車はそのまま玄関の前に横づけされ、車を下りる。
 先に車を下りた波琉がさりげなく手を貸してくれる。
 着物は華やかで美しいのだが、少々動きづらいのが難点だ。
「ありがとう、波琉」
 波琉は優しく微笑んでくれる。
 とても貴い神なのに、偉ぶることもなく優しい波琉。
 他の龍神はどんな者たちなのだろうか、とても気になる。
「行こうか」
「うん」
 先頭を歩く蒼真の案内で屋敷の中へ入っていく。
 波琉の屋敷と比べてもとても広いのが分かる。
「蒼真さん。ここは普段なにをする場所なんですか?」
「こちらは、龍神様が酒宴など、お集まりになる時使うために作られた屋敷でございます」
「……なんで敬語なんですか?」
 いつもの蒼真はミトに絶対敬語なんて使わないのに。
 ミトはうろんげに蒼真を見る。
「他の龍神方がいるのに、紫紺様伴侶相手にいつも通りでいられるわけないだろ」
 蒼真は声を潜めてこそっと話す。
 なるほどと納得するが、やはり違和感がある。
「なんか気持ち悪いです」
「今は我慢しとけ」
 やはり口の悪い蒼真の方が、ミトはなにやら安心する。
 だが、蒼真の言う通り、他の龍神がいる中で、蒼真が龍神の頂点にいる波琉とその伴侶であるミトに気安くしていたら蒼真が責められそうだ。
 変な感じはするが、宴の間ばかりは我慢するしかない。
 きっとミトより蒼真の方が誰より違和感があるのだろうし。
 気を取り直して蒼真の後について歩くと、広間に到着した。
 畳が敷かれた広い座敷に、卓がいくつもあり、上座には四つの卓が横一列に並んでいる。
 上座のうちふたつの席にはすでに煌理と千代子が隣同士で座っている。
 金赤の王である煌理がその場にいるなら、煌理の隣ふたつの席は波琉とミトのものだと察せられた。
 どうやら他の龍神はそろっているらしく席は埋まっており、最後がミトと波琉だったようだ。
「やっと来たか、波琉。遅いぞ」
「もう飲んでるの?」
 手に透明な液体の入った盃を持った煌理が手を上げる。
 千代子が酒瓶を持っているので、きっと中身はお酒だろう。
 波琉はややあきれた様子。
 席に着くべく上座に向かって歩く波琉が龍神たちの前を歩いていく。
 それに従い頭を下げる龍神たちの姿に、やはり波琉は王なのだと感じさせられた。
 人間が尊ぶ龍神すら頭を下げる存在。
 それが波琉。
 普通ならミトと出会うはずもない雲の上の存在なのだ。
 なんだか不思議な気持ちだなとミトは思いながら、波琉の隣に座った。
 上座に並べられた四つの席の真ん中ふたつに波琉と煌理が座り、両端にミトと千代子が座る。
 そして、下座に他の神々が座っている。
 その中にはありすの姿もあった。
 以前に学校に乗り込んできた龍神の隣に静かに座っている。
 特にどこか体調が悪そうには見えないので、やはり皐月の事件が理由で学校に来ていないのだろうか。
 失礼にならない程度にそれぞれの龍神たちを観察していると、波琉の盃に煌理が酒を注いだ。
「ほら、波琉。お前の伴侶にも注いでやれ」
 酒を波琉に押しつける煌理に、ミトは慌てる。
「わ、私は未成年なのでお酒は……っ」
「なんだ、それは残念だ」
 ミトには代わりに蒼真がオレンジジュースを持ってきてくれ、ほっとする。
「では、乾杯だ。波琉に無事伴侶ができたことを祝って」
 煌理が盃を掲げると、同じように龍神たちが一斉に盃を持ち上げた。
「乾杯!」
 というかけ声と同時に、龍神たちの宴が始まった。
 それを見計らったように、美味しそうな料理が運ばれてくる。
 龍神たちはどちらかというとお酒を楽しんでおり、どんどん酒瓶が空になっていいく。
 そのペースたるや、神薙たちが顔色を変えるほどだ。
「やべ。じじい、酒足りるか?」
「早急に補充を頼んでくる」
 控えていた蒼真と尚之が、ひそひそと話している声が聞こえてきた内容からは緊迫感があり、尚之が慌てて座敷を出ていった。
 部屋の中にはお酒の匂いが充満し始め、匂いだけで酔いそうだ。
 誰よりも多く飲んでいる煌理は、なんとも楽しそうに千代子にお酌をしてもらっている。
 どの龍神の様子をうかがっても、素面のようにまだまだ飲みそうだ。
 ミトは隣に座る波琉に視線を向ける。
 煌理のように豪快に飲むわけではなく、静かにお酒の味を味わうかのような飲み方をしている。
 だが、波琉もかなり飲んでいるのをミトは見ていたので知っている。
「波琉は酔わないの?」
「うん。別にこれぐらいの量では酔わないかな。強いお酒ではないし、水と変わらないよ」
「水……」
 それを聞いた蒼真が、言葉を失っているではないか。
「波琉ってお酒好きなの? 家じゃ飲んでるの見たことないのに」
 ミト一家と食事は取るが、お酒を飲んでいるのを見るのは初めてだ。
「まあ、昌宏も志乃も飲まないしね」
「それもそっか」
 ミトの両親はお酒を飲まない。
 飲めないわけではないが、別に飲まなくても困らないという感じだろうか。
 もしかしたら無理をさせてしまっていたのではないかと、ミトは心配になってきた。
「家でも飲みたかった飲んでいいよ?」
「んー、別にどっちでもいいから大丈夫だよ。お酒が特別好きってわけでもないし。今日は周りが飲んでるからそれに合わせてるってだけだから」
「それならいいんだけど……。飲みたくなったら言ってね?」
「うん。ありがとう、ミト」
 ふわりと微笑んだ波琉の目にはミトへのあふれんばかりの愛おしさが感じられる。
 それを見ていた煌理はニッと口角を上げた。
「あの波琉がずいぶんと感情豊かになったものだ。なあ、千代子?」
「ええ。本当に」
 千代子もまた微笑ましそうにミトと波琉を見ている。
「うるさいよ、煌理」
 波琉はミトに向けていた表情から一転して、不満そうに煌理をにらむが、煌理にはまったく効いていない。
「事実だろう。天界ではいったい誰がお前の心を射止めるかと男女問わず争っているというのに。お前と来たらどんな美人の色仕掛けでもけんもほろろに断っていたじゃないか。それが溺愛と言っても過言ではないなんて、早く天界の者たちに見せてやりたいな。きっとあまりの違いに腰を抜かすぞ」
 煌理はずいぶん楽しげである。
「煌理……」
 恨めしげな目を向ける波琉だが、今ミトは聞き捨てならないことを聞いた。
「美人の色仕掛け……」
 ミトは顔色を変えてつぶやく。
 ただでさえ綺麗な龍神の中の美人といったら、ミトでは絶対かないっこない。
「波琉。流されてないよね?」
 不安そうに見つめるミトの眼差しに、波琉も慌て出す。
「してない、してないっ。僕にはミトだけだよ! 煌理! 変なこと言うからミトが不安がったじゃないか」
 波琉はミトを抱きしめ煌理に抗議するが、その様子すら煌理は笑いの種にしかならない。
「はははっ。ほらみろ、私の知っている波琉とは大違いだ。皆もそう思うだろ?」
 煌理が他の龍神たちに問えば、龍神たちも微笑みを浮かべて頷いていた。
 波琉以外はなんとも和やかな空気に満ちている。

「それはそうと、環。お前もせっかく花印が浮かんだというのに、相手にはフラれたそうだな?」
 波琉をからかうことをやめた煌理は、矛先を変える。
 次の標的になった環は、本来なら美羽の相手となっていた龍神だ。
 焦げ茶色の髪と瞳をした青年である。
 煌理に属する龍神らしいが、快活そうな煌理とは違い、真面目そうな雰囲気をしている。
 その手の甲には、確かに美羽と同じ花印が浮かんでいた。
 煌理から話を振られた環だが、美羽からフラれたと言われても特に落ち込んだ様子はない。
「ええ。まあ、私も興味本位でしたからね。金赤様が龍花の町に降りられると聞いたので一緒についてきただけですし。またいずれ花印が浮かぶこともあるでしょう」
「次はよい縁があるといいな。私のように!」
 そう言って煌理は千代子の肩を抱いた。
 朗らかな笑みを浮かべる千代子の様子を見ると、百年経ってもなおラブラブのようだ。
 環は煌理の惚気にあきれたように笑う。
「はいはい。ようございましたね。金赤様の惚気話はお腹いっぱいです。もう少し量を減らしていただけると助かるのですけど」
「本当に、ウザくて仕方ないよね。瑞貴もいつも惚気けてばかりだからいい勝負だよ」
 波琉が同意する言葉を発した瞬間、どっとその場に笑いが起きた。
 波琉はなぜ笑われているのか分からないようで、きょとんとしている。
 同じくミトも理解できていない。
「ふふふ。波琉様も十分素質がございますよ」
 そう、千代子が笑った。
「ミトさんもこれほどお変わりになられた波琉様に大変な思いをするかもしれないけれど、頑張ってくださいね。これまでの無関心の反動で、溺愛の仕方に際限がない気がしますもの」
「波琉はそんなに変わったんですか?」
 当然だが、ミトは天界にいた頃の波琉を知らない。
 だからどう変わったのか分からないのだ。
「ええ、私の知る限りですが、それはもう別人のようにお変になりましたよ。波琉様は、誰に対しても興味を持たれず、人にも物にも執着を見せたことがない方でした」
 そんな千代子の言葉を、酒をあおりながら煌理が同意する。
「そうだな。あまりにも感情が死んでいて、見ているこっちが心配になるほどだった。それがひとりの女に執着しているんだから、天帝のご采配は確かだったということだろう」
 ふたりとも過去形で話しているのは、今の波琉はそうではないからなのか。
「ミトさんのおかげですね」
「私……?」
「ええ。あなたがいたから波琉様は変わられたのだわ」
 ミトが波琉に視線を向けると、波琉は否定できずに困ったというように眉尻を下げながら笑っている。
「私がいたから……」
 ミトは噛みしめるようにつぶやいた。
 以前にも波琉から言われたのを思い出す。
 ミトが波琉の見える世界を変えたと。
 それが分かっているようでいて分かっていなかったのかもしれない。
 第三者から見ても明らかなほど波琉は変わったらしい。
 その影響を与えたのが自分だと言われ、ミトは歓喜する。
 波琉の絶対な存在でありたい。
 なぜならミトにとっても波琉は絶対の存在だから。
 ミト自身の勇気と力を与えてくれる人に、自分もちゃんと返せているのだと思えるのはとても嬉しい。
 ミトは波琉を見つめて、はにかむように笑った。
 波琉もまた微笑む。
 そこには言葉では伝えきれないたくさんの思いがあった。
 周囲の龍神たちはそんなふたりを温かい眼差しで見守った。

 その後お酒はどんどん進む。
 むしろ時間が経つにつれペースが上がっているように思うのだが気のせいだろうか。
 龍神たちはどれだけザルなのか、神薙たちは忙しなく動き回っている。
 ただでさえ龍神という強者を相手に気を使っているというのに、かわいそうになってきた。
 お酒を飲んでいるからか、誰も彼も機嫌がよさそう。
「環はいつ帰るんだ?」
「ご縁がなかったので、早めに帰ろうと思います」
「もう少し町でゆっくりしていてもいいんだぞ? 相手の気が変わるかもしれないしな」
「相手の子にはすでにお付き合いのある男性がいるらしいですよ。それを理由に断られたのに、やっぱり私がいいなんて言われても嬉しくありませんから」
 などと、煌理と環が話している横で、波琉はミトを愛でている。
「ミト、これ食べてごらん。はい、あーん」
「自分で食べられるよ」
 恥ずかしがるミトに構わず、波琉は箸で掴んだ料理をミトの口に差し出す。
 有無を言わせぬ波琉の微笑みに負け、ミトは口を開けた。
 そこからはもうなし崩し的に波琉の給餌が始まる。
 あれもこれもとミトに食べさせ、龍神たちにその仲のよさを披露した。
 ただでさえ、着慣れない着物の帯でお腹の当たりを圧迫されているのである。
 すぐにお腹が苦しくなってきたミトは、波琉に待ったをかける。
「波琉。もう無理~」
 もはや足を崩してお腹を圧迫しないように後ろに体を倒す。
 撫でたお腹はぱんぱんだ。
 もう食べられそうにない。
 その様子に波琉は笑った。
「あはは。ミトは少食だね」
「そんなことないよ」
 ミトが少食ではないのは、普段一緒に食事をしている波琉がよく分かっているだろうに。
 しかし、ふと周りの龍神たちを見ていると、お酒とともに食事もかなりの量を消費している。
 空になった皿を神薙たちが入れ代わり立ち代わり新しい料理が入った皿と交換していっている。
「波琉。龍神様って大食漢? もうかなり食べてるよね」
 それこそミトよりずっと多い量を。
「うーん。まだまだ序盤じゃないかな。天界では三日三晩宴が続くなんてこともざらにあるし」
「さ、さすがに今回は今日中に終わるよね?」
「さあ、どうだろ。でも、特に煌理はよく食べるしよく飲むからねぇ」
「でも波琉はいつも普通の量を食べてない?」
「ミトたちに合わせてるだけだよ。龍神はその気になれば際限なく食べられるから」
 衝撃の事実だ。
「もしかして、波琉って毎日食事の量足りてない?」
「そんなことないよ。そもそも龍神は人間と違って食事しなくても生きていられるからね。満足したらそこで終わりって感じ。僕はいつもの量で十分満足しているよ」
「それならよかった。……けど、三日三晩かぁ」
 見渡してみても龍神たちが手を止める様子はない。
 誰も酔いつぶれる兆候すらないのだから、最悪、本当に三日三晩続きかねない。
 今、料理場はどうなっているのだろうか。
 ここにいるのは十人ほどだというのに、料理場は戦場と化しているのではないだろうか。
「さすがに三日三晩はしんどいかも……」
 それはミトだけでなく神薙たちもだろう。
 すると、ミトと波琉の話を聞いていた蒼真がそっと近づいてくる。
「紫紺様。さすがに三日三晩は俺たちも付き合えないんで、ほどよいとこで終わらせるようにしてください。俺たち人間では龍神方に物申すことなんてできませんから」
「分かったよ。僕も早く屋敷に帰りたいしね」
「お願いしますよ。じゃないとジジババたちじゃなくても倒れる人間続出ですから」
「そうなる前に止めるよ」
 ひそひそと声を潜めた会話を終わらせると、蒼真もまた忙しなく働き出した。
 まだまだ騒ぎ足りないという龍神たちにげんなりとしているだろうに、顔には出さないあたり、蒼真もプロフェッショナルを貫いている。
 ミトはゆっくりと立ち上がった。
「ミト、どうしたの?」
「ちょっとね。すぐ戻ってくるから」
 それだけ言えば波琉も察してくれたようで、ひらひらと手を振る。
 ミトは座敷を出てトイレを探す。
 ついでに苦しくなったお腹を減らすために屋敷の中を散策する。
 やはり見た目通りかなり広い作りのようで、いくつも部屋があった。
 さらに歩くと庭の見える場所までやって来た。
 建物に合った日本庭園が広がっており、灯篭が灯っている。
 ここに来た時はまだ明るかったのに、いつの間にやら夜になっていた。
 その間飲み食いし続けている龍神たちにあきれと驚きを感じる。
 あの場にはありすもいたが、彼女も顔をひきつらせていたのを見るに、ミトと同じように思っていたのではないだろうか。
 千代子は普通の量だったので、特に天界へ行ったからといって龍神のようになるわけではなさそうだ。
 千代子とじっくり話しをしたかったのだが、煌理が片時も千代子を離さないのでなかなか時間が見つけられない。
 まあ、それはミトにも言える。
 波琉が始終構っているので、離れる隙がないのだ。
 別に嫌というわけではないのだが、次々に料理を食べさせようとするのはやめてほしい。
 ミトは外に面した廊下で立ち止まり、大きく深呼吸する。
 座敷は酒の匂いが立ち込めていたので、新鮮な空気を体が欲していた。
「はー、空気が美味しい……」
 あのまま酒をあおる龍神たちに囲まれていたら、酔っていたかもしれない。
「ふう……。ちょっと落ち着いたかも」
 ふと庭に目を向けると、大きな木のそばに人が立っているのに気がついた。
 闇に溶けるような癖のある髪をした男性。
 その整った容姿と金色に光る目はどう見ても人間ではあらず、ミトは驚いた。
「龍神?」
 しかし、現在龍花の町にいる龍神は七人であり、その全員が今は座敷にいるはず。
 いつの間にか 座敷から出てきたのかとも思ったが、あの場にいたどの龍神でもない。
 龍神と思われる者は、憎々しげににらみつけてくる。
 そのあまりの殺気に、ミトはたじろいだ。
 背筋がぞくりとし、思わず肩を抱く。
 なぜそんな目で見てくるのだろうか。
 恐怖心とともに不思議に思うミトに声がかけられた。
「ミト」
 びくりと体を震わせたミトが声のする方へ目を向けると、神薙の装束を着た千歳が立っていた。
「千歳君? なにしてるの?」
 びっくりするミトに千歳が近づいてくる。
「俺も神薙だからね。応援要員。でも、下っ端だから直接龍神の対応はせずに裏方を任されてたわけ」
 千歳はやれやれというように肩をすくめた。
「そうなんだ……」
「それよりそこでなにしてたの?」
「あ……。さっきそこに龍神の方が……」
 ミトは先ほど人がいた場所を振り返ると、そこには誰もいなかった。
「誰もいないけど?」
「あれ?」
 確かにいたのだ。いくら暗がりだったとしても、灯篭の灯りもあるので見間違えたりしない。
「ねえ、千歳君。龍神様は座敷にいる七人以外にいたりするの?」
「いや。そんな話聞いてないよ。もし来てたら俺に話が伝わってないはずないからね。未成年だけど神薙だし、嫌でも情報は共有されるから」
「でも……」
 そんなはずがないのに。
 もう一度ミトは庭に目を凝らしてみたが、やはり先ほどの人の姿はどこにも見つけられない。
「千歳君は誰も見なかった?」
「まったく。ミトの気のせいじゃないの?」
「そう、なのかな……?」
 気のせいなのだろうか。
 けれど、男性のミトを見る目が脳裏から離れない。
 あんなに恨みのこもった眼差しを受けたのは初めてだ。
「それよりこんなとこでなにしてるの? 龍神方のいる部屋からずいぶん離れてるけど?」
「あ、トイレに行こうと思って」
「全然場所違うじゃん」
「ついでにお散歩」
 千歳は「ふーん」と、感情の見えない表情をしながらミトの姿をじっと見る。
「なに?」
「いや、いつも制服のミトしか見てないから、着物姿が物珍しいだけ。結構似合ってるじゃん。かわいいよ」
「えへへ。ありがとう」
 波琉に褒められるのは当然嬉しいが、千歳に褒められるのも嬉しく感じる。
 はにかむように笑うミトに、千歳も柔らかな顔をする。
 その時。
「ミト」
 ミトを呼ぶ声とともに波琉がいつの間にか来ていた。
「あ、波琉」
「遅いからどうしたのかなって」
「うん、散歩してた」
 ついつい興味に引かれるまま屋敷内を徘徊さてしまった。
 まだ目的のトイレにも行っていないたいうのに。
「なにかあったかと心配しちゃったよ」
「ごめんなさい」
 素直に謝るミトの頭を撫でる波琉は、千歳へと視線を向ける。
「それで、君はミトのお世話係の千歳君だっけ?」
 にこやかな笑みを浮かべながら千歳に問いかける。
 千歳は顔をひきつらせていた。
「は、はい」
「ミトとふたりでなにしてたの?」
「それは……」
「千歳君もお手伝いに来てたみたいで、ちょうど会ったの。私の着物がかわいいって褒められた」
 言葉を詰まらせる千歳に代わり、ミトが嬉しそうに報告するが、なぜか千歳の顔がさらに強ばる。
「ふーん……」
 波琉は笑みを貼りつけたまま話を聞いているが、その目はどこか鋭さを持っていた。
 気づいていないのはミトのみ。
「い、いや、特に深い意味はないです!」
 常にない焦りを見せる千歳に、ミトは首をかしげる。
「千歳君どうかした?」
「なんでもない。ほんとになんでもないです!」
 もはやどっちに向かって話しているのか分からない千歳は、ジリジリと後ずさる。
「俺は手伝いがありますのでここで失礼します!」
 勢いよく頭を下げた千歳は、ミトがなにか言葉を発する前に行ってしまった。
「あ……。千歳君どうしたんだろ? なんだか様子がおかしかったけど」
「きっと手伝いで忙しいんだよ。それより……」
 波琉はミトを突然抱きしめる。
「波琉!?」
「ミトは本当に放っておけないなぁ。いっそ閉じ込めちゃおうか」
 波琉らしくない言葉と、内容に反した明るい声色にミトはクスクスと笑う。
「なんで? 私なんかした?」
「ミトがどう思ってるか知らないけど、さっきの世話係の子とあんまり仲良くしてほしくないなぁ」
「千歳君?」
 なぜと問おうとして、以前の波琉の言葉と美羽の存在が頭をよぎる。
 花印を持つ者の中には神薙や世話係と恋仲になるものがいるということを。
「千歳君との仲を疑ってるの?」
「疑ってるっていうか焼きもちかな」
「そんな必要ないのに。私には波琉だけだもん」
 焼きもちを焼かれるのすら心外だというように、ミトは不満そうな顔をする。
「僕もミトだけだよ」
 こつんと波琉の方からおでことおでこをくっつける。
 キスもできそうなほどの近さにミトは頬を染める。
 胸がドキドキして波琉にも伝わらないか心配するほどだ。
 こんな気持ちになるのは波琉だけ。
 他の誰にも同じように感じることなんてないのだ。
 波琉は顔を離し、ミトのおでこにキスをする。
 まだ唇にするのは恥ずかしい奥手なミトに歩調を合わせてくれている、優しい波琉。
 だからこそ波琉を不安にさせてしまっているのだろうかとミトは悩む。
 自分がもっと積極的になったら波琉も安心するだろうかと考えながら波琉の顔をじっと見つめて、やはりまだ無理そうだと目をそらす。
 すると、波琉に咎められる。
「駄目だよ、ミト。僕から目を離しちゃ」
「波琉……」
「ずっと僕だけを見て。他に目を向けたら駄目だからね。そんなことになったら……」
「なったら?」
 口を閉じて沈黙する波琉に、なにを考えているのかとミトも注視すると……。
「千歳君の脳天に雷落としちゃおうか」
「それ聞いたら千歳君がお世話係やめちゃうから、絶対本人には言わないでね」
 まさか以前に冗談で言った言葉と同じことを波琉が言い出すとは。
「んー、それは千歳君次第かな。ミトに邪な感情を抱くならズドーンと、ね?」
 波琉の言葉は時々冗談なのか本気なのか分からない時がある。
 とりあえずはこの場に千歳がいなくてよかったと思うミトだった。



五章

 龍神たちが集まっての宴は、波琉の鶴の一声で解散となった。
 ただし、誰よりも飲んで上機嫌だった煌理が最後まで嫌だと駄々をこねていたが、千代子からの「もう、疲れてしまいましたわ」という言葉であっさりと発言を取り消していた。
 どうやら夫婦の力関係は千代子に軍配が上がるらしい。
 微笑みながら煌理を手のひらの上で転がしている幻覚が見えた気がした。
 そんな千代子の助け舟もあって、無事に終了された後に残されたのは、疲れ果てた神薙たちであった。
 波琉とミトは帰るのが最後だったので、他の龍神が帰った後、蒼真は遠慮なくいつも通りの調子に戻っていた。
「龍神まじやべぇ。どんだけ飲み食いすんだよ」
 などと愚痴をこぼしていた。
 体力がありそうな蒼真ですら疲れた顔をしていたので、尚之の疲れたるや相当なものだろう。
 ぐったりとした尚之は、どこからともなく取り出したハリセンを恭しく波琉に渡す。
「紫紺様。どうか……どうか、御身の力をお貸しくだされ……」
 波琉はやれやれという様子だったが、仕方なさそうに思いっきり尚之の頭をハリセンで叩いていた。
 スパーンという小気味よい音が響くと、どこからともなく地を這う亡者のように他の神薙もやって来て、波琉の前に列をなした。
「紫紺様どうか私めにも……」
「私もぜひ」
「私にも一発くださいませ……」
 顔をひきつらせる波琉は、いろいろとあきらめた表情で、スパーン、スパーンと流れ作業のように次々神薙の頭を叩いていった。
 波琉に叩かれた神薙たちは、思い思いに座り込んだ。
「あー、やはり紫紺様の一発は違いますなぁ」
 などと尚之がゆるんだ表情で肩を回していると、他の神薙もくつろぎながらハリセンの威力に感激している。
「おぉ、これが紫紺様のハリセンの力!」
「これはもはや神器ですな」
「これを毎日受けている尚之が羨ましいすぎる」
 まだ波琉が残っているというのに、神薙たちはくつろぎモードに突入していた。
 これにはミトも苦笑するしかない。
 他の龍神の前では緊張感があったのに、波琉の前ではなんとも空気が緩い。
 それは波琉の性格や雰囲気もあるのだろう。
 ミトも気持ちは分かる。
 波琉は優しくおおらかなので、滅多に怒ることがないと分かっているからこそなのだろうが、もう少し緊張感を持ってもいいと思う。
 まあ、それは置いておくとして、気になるのが波琉とハリセンである。
「そんなに効果あるのかな?」
 じーっとミトがハリセンを見ていると、波琉は投げ捨てるようにポイッと尚之にハリセンを返した。
「ミトには絶対使わないよ」
 わざわざ釘を刺さなくともいいのに、波琉は『絶対』という言葉を強調する。
 ミトはほんの少し残念と思った。
 校長などは波琉には頼めないからとミトに強要するぐらいなのだ。
 ミトでもそれなりに効果があるらしいので、波琉のハリセンを受けたなら分かりやすく効果を実感できると思ったのに。
 波琉の様子を見ると、ミトには使ってくれそうにない。
 自分で叩いても効果はあるだろうか、なんてことを思いつつ、回復してきた神薙が後片付けを始めたので、ミトと波琉は屋敷に帰ることにした。
 案の定、蒼真がジジババと言う歳のいった神薙は波琉のハリセンを受けても疲れ切っているようで、蒼真や千歳のような若い神薙が中心に動いている。
 これ以上ここにいては邪魔になるだろうと、足早に後にした。
 屋敷に帰る途中、波琉に気になったことを問うた。
「ねえ、波琉。黒髪に金色の目の龍神様っていたりしないよね?」
「龍神?」
「そう。さっきいた屋敷の庭でね、そういう人を見たの。綺麗な顔立ちの人だったし、たぶん龍神様だと思ったんだけど千歳君は知らないって。たんに千歳君が知らないだけだったりするのかなと思ったから」
 先ほど蒼真か尚之に聞こうとして忘れていた。
 ミトに問われた波琉は眉根を寄せる。
「そいつになにかされたの?」
「ううん。話もしなかった。でもなんかすごくにらんできて怖い人だったから気になっちゃって。知らないならいいの。やっぱり私の気のせいかもだし」
「…………」
 波琉はなにも言わなかった。
 だからやはり自分の気のせいなのだとミトは自分を納得させた。

 翌日、学校へ行くと、疲れきった顔をした千歳がミトの登校を待っていた。
「千歳君。ひどい顔してるよ」
 クマまでできているではないか。
 たった一日で何歳も老けた気がする。とても若い青年がする顔ではなかった。
「昨日の今日だから当然だよ。あんなハードな仕事した後に片付けまでしたんだからさ。ジジババ神薙は口を出すだけで動いてくれないし。必然と若い下っ端が一番働かされるんだよ」
「疲れてるなら休んだ方がよかったんじゃない?」
「そうもいかないよ。俺はミトの世話係なんだから」
 仕事熱心なのは尊敬するが、フラフラとしていて見ている方が気になって仕方ない。
「本当に大丈夫?」
「平気。授業中に寝るから」
「先生に怒られるよ」
「もう神薙になってる俺に、神薙科の授業とかほぼ意味ないからいいの」
 そう言われてしまうと、確かにと納得させられる。
 神薙科とは神薙になる人を育成教育するためのコースだ。
 もう神薙の試験を合格している千歳には、復習のようなものなのだろう。
 まあ、それでも授業は受けていた方がいいように思うのだが、今の疲れきった千歳を見ると一日ぐらい許されてもいい気がする。
 特別科の教室へ到着すると、千歳は自分の教室へと向かっていった。
 ちゃんとたどり着けるのか心配である。
 むしろミトが千歳を教室まで送るべきだったのではないかと思うが、千歳は見た目こそ金髪にピアスをしていてやんちゃそうに見えるが、性格は基本真面目。
 なので、ミトがついて行くと言っても断られただろう。
「うーん。千歳君大丈夫かな?」
 心配しつつ教室の中へ入ると、雫が寄ってきた。
 最初こそ気さくに話しかけてくれたひとつ年上の雫だが、今ではまったく関わりがない。
 皐月からの嫌がらせが始まった時に、完全に関係は断ち切られていた。
 なので、今になって雫が近づいてきたのには驚いた。
 虐められるとは思っていないが、少々警戒してしまうのは仕方ない。
「ねえ、龍神様たちの宴があったって本当?」
「……どうしてそれ知ってるの?」
「神薙科の子が言ってたから」
「なるほど」
 神薙科の中には、蒼真のように代々神薙を輩出している家柄がある。
 昨日の宴には多くの神薙が関わっていたので、親から話を聞いた子もいるのだろう。
「それがどうかしたの?」
「ありすさんも参加してたって聞いて……」
 気まずそうに話す雫は、ありすの派閥に入っていた。
「うん。彼女も来てたよ」
「その……。様子はどうだった? 元気にしてた?」
 ありすは皐月が暴れた事件以降、学校に来ていないので、雫は気になってミトに声をかけてきたに違いない。
「元気だったと思う。普通そうに見えたよ」
 まあ、お酒の匂いが充満する部屋の中にずっといたので、そういう意味では気分はよろしくなかったかもしれないが、元気そうに見えた。
「そう。よかった……」
 ほっとした顔をする雫は、ミトから視線をそらす。
「それだけ聞きたかったの。ありがとう」
「うん」
 雫は他の女子生徒のところへ向かい、なにやら話し込んでいる。
 今の話を他の生徒に教えているのかもしれない。
 まあ、ミトには関係ない話だ。
 それからホームルームを行い、午前中の授業を終えると、千歳が教室に迎えに来た。
 朝とは違いすっきりとした顔をしているので、授業中にゆっくり休めたのだろう。
「千歳君、回復したね」
「うん。めちゃくちゃ寝たからね」
「先生に怒られなかった?」
「神薙科の教師も神薙だからね。昨日の宴にも参加してる教師もいるから見逃してくたみたい」
 それはミトも初耳だった。
「神薙科の先生は神薙なんだね」
「当たり前。神薙じゃないのに神薙のことを教えられないでしょ」
「それもそっか」
 神薙の試験は難しいと聞くので、知らない者が教えるのは難しいと、言われてから気づく。
 千歳と並んで歩きながら階段を降りるミト。
 すると、突然背中を誰かに押された。
 そのあまりの押しの強さに、ミトは踏ん張ることができず、階段に身を投げ出した。
 落ちる……!
 分かっていながらも体が動かないミトはぎゅっと目をつぶった。
 体に受ける痛みを覚悟したが、次の瞬間、強く腕を引っ張られる。
「ミト!」
 千歳の叫ぶ声が響く。
 落ちるはずだった体は、数段滑っただけで止まる。
 それは千歳がとっさにミトの腕を引っ張ったおかげだった。
 心臓がバクバクと激しく鼓動するのを感じながら、ミトは今なにが起こったのか整理がつかない。
 そんな呆然としたミトに千歳が声をかける。
「ミト! 大丈夫!?」
「あ……。千歳、くん……」
 ミトは掴まれた腕を見て、千歳が助けてくれたことを悟る。
「あ、ありがとう……」
「そんなのはいいから、怪我は?」
 焦りが含まれた千歳の声に、ミトの頭がようやく回り始める。
「大丈夫。たぶん……」
 正直びっくりしすぎて体の痛みを感じる余裕がないが、見たところ怪我はしていなかった。
 この騒ぎに、周囲の生徒もザワついている。
「どうしたの、急に? 足を滑らせた?」
 千歳の問いにミトは顔を強ばらせる。
「押されたの」
「押された? 誰に!?」
「分かんない。けど、背中を押されたの。もしかしたらぶつかったのかもしれないけど……」
 ミトはまだショックが抜けきらないのか、声がわずかに震えていた。
 それを聞いた千歳は階段を見上げてそこに誰もいないのを確認してから、周囲に鋭い眼差しを向ける。
「誰か、ミトが落ちる時に後ろにいた人見てないの!?」
 周囲を見渡すが、誰もが困惑した表情できょろきょろしている。
 すると、階段下で友人と談笑していた男子生徒が声を発する。
「俺、階段の方向見てたけど、その子の後ろには誰もいなかったぞ」
「えっ……。いない?」
 ミトは唖然とする。
「それ本当? ちゃんと見てた?」
 千歳が男子生徒を激しい剣幕で問い詰めると、男子生徒は気圧される。
「あ、いや、俺もこっちで話してたし、絶対かって言われると自信がないけど……」
 男子生徒の声が尻すぼみになっていく。
 すると、千歳がちっと舌打ちした。
 それが自分に向けられたものと勘違いしたのか、男子生徒が顔色を悪くし、友人たちと足早にその場を去っていく。
「ごめんね、千歳君。助けてくれてありがとう」
 千歳が差し出してくれた手を取り、ミトは立ち上がる。
「いいよ、そんなの。すぐに保健室へ行こう」
「別にどこも怪我してないから大丈夫だよ」
 保健室なんて大げさなとミトは固辞するが、問答無用とばかりに千歳に手を引かれて強制的に保健室に連れていかれることに。
 保健室の先生に階段が落ちたことを伝えると大層驚かれ、病院に行くかと言われてしまったミトだが、さすがにそれは全力で拒否した。
 先生の方もミトが紫紺の王である波琉の相手だと知っていたので、かなり心配している。
 そんな先生をなだめて、なんとかあきらめせた。
 代わりに体の確認をすると、スカートで隠れていた膝上の辺りに擦り傷ができているのを発見する。
 それまでなんともなかったが、怪我をしていると分かるとなんだか痛みを感じ始めてきた。
 とはいえ、病院に行くほどではないので、消毒と絆創膏で処置してもらうだけに留めた。
 保健室の外で待っていた千歳は、擦り傷ができていたことを知ると、「やっぱり怪我してるじゃん」と、少し怒られた。
「病院行く?」
「大丈夫だって。擦り傷ぐらいで病院なんて」
「…………」
 千歳は不服そうだ。
 これは話を変えた方がよさそうなので、わざとらしく話題を変更する。
「それにしても結局誰だったのかな? 私を押した人」
 すると、先ほどよりさらに眉間に皺を寄せる千歳。
「下手してたら大怪我じゃ済まなかったかもしれないのに、名乗り出ないなんてふざけてんのかな」
 これはかなり怒っているなと、被害者であるはずのミトは、どこか他人事のような感想を抱いた。


 そんなことがあった昼休みが終わると、千歳は大丈夫だというミトを無理やり引っ張って玄関まで連れてきた。
「はい、鞄。今日は帰りな」
「えー」
「迎えはちゃんと呼んでおいたから」
「ちょっと怪我しただけなのに」
 不満を訴えるミトを千歳は完全に無視している。
 迎えに来たいつも乗る車の中には、普段はいない蒼真の姿が。
「あれ、蒼真さん?」
 昨日の宴の件もあって忙しいと聞いていたので、ミトは不思議がる。
「どうしているんですか?」
「いいから乗れ」
 ミトは困惑したように千歳を振り返るが、千歳は帰らせる気満々だ。
 蒼真からも早く乗れという無言の圧をかけられ、今日ばかりは仕方なく受け入れることにした。
「はい」
 なにやら機嫌が悪そうな蒼真に促されて乗り込むと、蒼真が千歳をにらむ。
「千歳、学校だからって気抜いてんじゃねぇぞ」
「すみませんでした」
 蒼真に向かって深く頭を下げる千歳にミトはオロオロする。
 そして、千歳を残したまま車が発車する。
 しかし、車が走る道がいつもとは違うことにミトはそうそうに気がついた。
「蒼真さん、どこか行くんですか?」
「病院だ」
「えっ、なんで?」
「アホか。お前を調べてもらうためだ。今日階段から落ちたんだろ」
 なぜそれを知っているのかと思ったが、迎えを呼んだ千歳が伝えたに決まっている。
 余計なことをと思わなくもないが、千歳もミトを心配しての行動だろうから文句も言えない。
「別になんともありませんよ?」
「その言葉を鵜呑みにして、はいそうですかと終わらせられるわけないだろうが!」
 くわっと目をむく蒼真にミトはたじろぐ。
「でも──」
「お前になにかあったら紫紺様が心配する。そこを考えろ」
「それはそうですけど……」
 確かに波琉は必要以上に心配するだろう。
 ミトが大したことないと言ったとしても。
「万が一急変してみろ。怒り爆発した紫紺様の力で、龍花の町は嵐で水没するかもしれないだ。細心の注意を払っても足りるなんてことはない!」
「それは困りますね……」
 実際は困るどころではない。
 龍花の町の命運がミトにかかっていると言っても過言ではないのだ。
「擦り傷だけと聞いているが、念のため病院に行って全身くまなく調べてもらうぞ」
「波琉は知ってるんですか?」
「今の曇天を見て言ってんのか?」
 蒼真は窓の外を親指で指差す。
 言われてみたら確かに空は暗い雲に覆われており、今にも雷が鳴りそうなほど悪い。
「紫紺様には千歳から連絡があってすぐに報告した。まあ、なんていうか、はっきり言ってめちゃくちゃ怒ってる」
 蒼真は怯えたように顔色を悪くしているので、それを見ただけで波琉の様子が目に浮かぶようだ。
 ミトも口元が引きつった。
「擦り傷だけってちゃんと伝えました?」
「もちろん伝えたに決まってるだろ。心配はいらないとな。けど、それであの方が納得すると思ってんのか? お前に害を与えるものには温厚って言葉をどこかに放り投げる方だぞ」
「ほんとに擦り傷だけなんですけどぉ」
 ミトは情けない声を出す。
「あきらめて検査しとけ。町の平穏のためだ」
「はあ……」
 ミトは深いため息をついた。
 病院に着くや、そのまま検査着に着替えさせられた。
 そして、レントゲンやらなにやら検査をされ、内科医やら外科医やら多すぎる医者に診察されてから、ようやく問題なしのお墨付きをもらい開放された。
「疲れた……」
 病院のVIP専用に作られた待合室にて、椅子でぐったりと座るミトの向かいでは、蒼真も疲れた顔をして立っている。
 VIP専用とあって、周囲には高級そうな美術品が飾られている。
 なんとも豪華な待合室だが、今のミトに美術品を鑑賞して楽しむ余裕はない。
「疲れたのは俺の方だ。やっと昨日の宴の後始末が終わって休めるかと思ったら、階段から落ちたなんて情報が飛び込んでくるんだからな」
「ご心配おかけしました」
 ミトは一応とばかりに頭を下げる。
「でもこれできっと波琉の機嫌も直りますよね?」
「だといいんだけどなぁ」
「他にも気になることが?」
「お前落ちた時どうしてた? 突き落とされたんだろ?」
 その問題があったかと、ミトは頭を抱えたくなった。
「はい。でも見てた人によると誰も私の背後にはいなかったって」
「お前の気のせいってことは?」
「確かに押されたんです。背中をどんと。結構な力だったので間違えるはずないです」
 沈黙がしばし続く。
「……まあ、それはおいおい調べるとして、とりあえずは無事な姿を紫紺様に見せに帰るとするか」
「はい。そうしましょう!」
 やっと帰れると、ミトが飛ぶように勢いよく立ち上がったその時。
 ドシャン!と大きな音を立てて、つい今しがたまでミトが座っていた場所に石像が倒れていた。
 時間が止まったように硬直するミトと蒼真。
 そして、すぐにふたりの顔色が青ざめる。
「ひっ!」
 ミトは慌てて椅子から距離を取った。
 石像はミトが座っていた椅子の横に飾られていた美術品だ。
 石でできているため見るからに重く、椅子が石像の重さで潰れている。
 もしミトがまだ座っていたら……。
 考えるだけでも怖い。
「な、なんで……」
「おい! 怪我はないか!?」
 今日二度目となる問いかけに、ミトはこくこくと頷く。
「ないです」
 ほっとした顔した蒼真は、石像を確認する。
「なんでこんなものが急に倒れてくるんだよ」
 ちょっとやそっと押したくらいではびくともしなさそうなものだったのに、まるで高いところから落としたように崩れている。
「そ、蒼真さん……」
 ミトは怯えた眼差しで蒼真に目を向ける。
 蒼真は真剣な顔をしてミトの手を引いた。
「急いで帰るぞ」
「は、はい……」
 なにか得体の知れないそら恐ろしさを感じる。
 今日突然怒ったふたつの危険はただの偶然なのか、それとも……。

 屋敷へと帰ってきたミトは、波琉の部屋へ一目散に走る。
 その後を蒼真が歩いてついてきていたが、急ぐミトを叱るようなことはしない。
 ミトはうちにある不安を払拭するべく、愛しい人を目指す。
「波琉!」
 波琉は立ちながら外の景色を眺めていたようで、ミトが部屋に飛び込んでくると、振り返りミトに静かな眼差しを向ける。
 いつもなら微笑みながら迎えてくれるのに、今日は違った。
「波琉?」
 いつもと様子の違う波琉に、ミトの不安がさらに膨らむ。
 そんなミトを波琉は優しく抱きしめた。
「階段から落ちたって聞いたよ。怪我をしたんだって?」
「そうだけど、ただの擦り傷だから大丈夫。千歳君が咄嗟に助けてくれたから」
「そう。なら、千歳君にはお礼を言っておかないと駄目だね」
 そこで初めて笑みを見せた波琉だが、その笑顔にはどこか緊張感があった。
「紫紺様」
 部屋に蒼真が入ってきて、波琉の視線もミトから蒼真に移る。
「少しよろしいでしょうか」
「いいよ」
「ミト、少し外に出てろ」
「えっ、でも……」
 ミトはためらいを見せたが、波琉に頭を撫でられ、しぶしぶ部屋から出る。
 時間にしたらそれほど長くはない。
 思ったよりも早く蒼真は出てきて、「もういいぞ」とミトに声をかけて行ってしまった。
 ミトは再び部屋に入ると波琉に近づく。
 先ほどと違い座っている波琉の隣に腰を下ろそうとしたが、手を引かれ波琉の膝の上に乗った。
「今日は大変だったみたいだね」
「蒼真さんから聞いたの?」
「うん。ある程度ね。ミトが無事で本当によかったよ」
「うん……」
 ひとつ間違えば怪我では済まなかったのだから。
 もし千歳が助けてくれなかったら。
 立ち上がるのがもう少し遅かったら。
 ふたつの偶然がミトを助けた。
 今になって無事であることを実感し安堵した。
 そして急にある思いが浮かんでくる。
「ねえ、波琉。もし私が今死んじゃったら、天界へは行けないの?」
 前に煌理だったか波琉だったかが言っていた花の契り。
 それをしなくては天界へは行けないと。
 これまではそんなに深く考えていなかったが、今日命の危険を感じたことで、急に不安になってきた。
「そうだね。今のままじゃミトは天界へ行けない。花の契りをしない限りはね」
「それは今しちゃ駄目なもの?」
「ミトはしたいの?」
「…………」
 ミトは沈黙し、顔を俯かせながらこくりと頷く。
「だって、それをしないままもし私が死んじゃったら波琉とは一緒にいられないんでしょう?」
「そうだね」
「だったらっ!」
 波琉はそれ以上の言葉を遮るようにミトの唇に人差し指を押し当てる。
「ミトが望むならいつだって僕の準備はできているよ。でもね、ミトに覚悟があるか分からないから」
 ミトは首をかしげる。
 この町に来て波琉と会えた時点で覚悟なんてとっくにできているのだ。
 ミトにとっては愚問だった。
 けれど、まだミトに話させないように指を当てたまま波琉は続ける。
「ミトは両親と別れる覚悟はある?」
 意味が分からないミトはきょとんとする。
「ミトが僕とともに天界へ行くっていうことはね、輪廻の輪から外れるということなんだよ」
 なおさらわけが分からない。
 やっと波琉が唇から指を離した。
「どういう意味?」
「人間は死ぬと輪廻の輪に戻り、また別のなにかになってこの世界に生まれ落ちる。けれど、花の契りはその輪廻の輪からミトの魂を外す契約だ。そうすると本来なら人間が行くはずの場所にミトは行けなくなる。両親や友人たちとは違う理の中で生きることになるんだ。それはこれまで魂に刻まれた人との縁を断ち切るものでもある」
「少し難しい」
「そうだね。簡単に言うと、今のミトには両親との間に親子のつながりができている。それはまた生まれ変わった時にその縁で結ばれ出会うこともあるだろう。けれど、花の契りをしたら両親とのつながりをなくしてしまう。よほどのことがない限り両親と出会う可能性を失うものだ。それが縁を切るということだよ」
 もう両親とは会えない……。
 それはミトにとってかなり衝撃を受ける話だった。
 敵ばかりの村で、ミトが生きてこれたのは間違いなく両親がいたからだ。
 そんな両親との縁を切るなんて。
 ミトの目に迷いが写った。
 それを察した波琉はよしよしとミトの頭を撫でる。
 まるで子供をあやすように。
「まだ話すつもりじゃなかった。ミトにとって両親がどれだけ大事な存在か分かっていたからね。でもね、ごめん。僕はミトを天界へ連れていくよ」
 ミトは波琉と視線を合わせる。
 波琉はとても真剣で、吸い込まれそうなほど透明な目をしていた。
「僕にはもうミトのいない世界なんて考えられない。ミトに覚悟がないからなんて言っておきながらひどいと思うかもしれないけど、たとえどんなになじられてもミトを手放す選択肢は僕にはないんだ。でも、いつまでも待つよ。ミトが覚悟を決めるのを」
 優しい波琉。
 そして、残酷な波琉。
 ミトの心を分かっているようでいて分かっていない。
「波琉。私に花の契りをして」
 波琉の腕をぎゅっとつかんで、ミトは波琉の頬にそっと唇を寄せた。
 初めてミトからされたキスに、波琉はひどくびっくりしたように目を大きくする。
「確かにお父さんとお母さん。それに蒼真さんとか千歳君とか尚之さんとか、きっとこれからも数えだしたらキリがなくなるほど大切な人ができるかもしれないけど、私は波琉と生きたい」
 迷いのない眼差しが波琉を射抜く。
「そりゃ悲しくないわけじゃないけど、私は波琉と一緒にいる。その覚悟だけはとっくにできる」
 ミトの言葉に波琉は息を飲んだ。
「だからお願い。波琉とこれからも一緒に生きるために花の契りをして」
 沈黙がしばらく続き、ミトはだんだん不安になってきた。
 今の言葉を聞いて波琉はなんと思っただろうか。
 簡単に両親や友人知人との縁を切る決断をしてしまうミトに愛想を尽かさないだろうかと心配だ。
 すると、くくくっと波琉が小さく笑い始めた。
「波琉?」
「いや、案外ミトの方が潔いなって。もしかしたら覚悟が必要だったのは僕の方だったのかもしれない。ミトが、僕より他の人間を選んでしまはないかって不安だったのかも」
 波琉はミトと目を合わせるとにっこりと微笑んだ。
 そして、奪い去るようにミトの唇にキスをする。
 唇同士でしたのはこれが初めて。
 突然のことにミトはなにが起こったか分からない顔をしていたが、すぐに顔を赤くする。
「は、波琉っ!」
「これまで遠慮してたって気づいたから、今後は自重という言葉を捨てることにするよ」
「駄目駄目駄目! 急いで拾ってきて!」
「やーだ」
 なんとも楽しげにクスクスと笑う波琉は、ミトの隙をついて再度唇を狙った。
 二度もの攻撃にミトはもういっぱいいっぱいという表情で、三度目は許さないというように自分の唇を両手で隠した。
 そんな姿も愛おしそうに波琉は見つめる。
「かわいいね、ミトは」
「波琉、なんだか意地が悪い」
「そんなことないよ。ミトを愛でているだけ」
 そう言うとぎゅっとミトを抱きしめた。
「じゃあ、ミトの覚悟が変わらないうちに花の契りをしちゃおうか」
 はっとするミトは口から両手を離す。
「どうするの?」
 花の契りと何度も口にしてはいるけれど、どうやって契約するのかミトはまったく知らない。
「特に難しいことはないよ」
 波琉は左の手の平をミトに見せる。
「花印がある方の手を合わせて」
「うん」
 言われるままに左手を波琉の左手と合わせる。
「今ここに花の契りを行わん」
 そう口にしてから、波琉がミトの額にそっとキスをした。
 波琉の触れた額が温かさを超えて熱さすら感じると、左手のアザまでもが熱くなってきた。
 その熱はまるでミトの中に吸収されていくように次第に落ち着いていった。
 熱が冷めると、波琉が手を離す。
「これで終わり?」
「うん。終わり」
「思ってたより簡単なんだ」
 契約とかいうので、契約書とか名前を書いたりとか手続きが必要なのかと思っていたが、あっけないほどあっさり終わってしまった。
「これでミトは永遠に僕と一緒だよ」
「うん」
 永遠とはなんて重い言葉だろうか。
 けれど、ミトは後悔なんてしていなかった。
 両親に相談なく決めてしまったのは後ろめたいが、きっと志乃ならば快く受け入れてくれるだろう。
 ただ、父親である昌宏が問題だったが、さらは志乃に任せるほかない。
 きっとかなり怒りながら泣くのだろうなと思うと、しばらく黙っていた方がいいような気がしてきた。
「あっと、もうひとつ忘れてた」
「なに?」
「ちょっとじっとしててね」
 そう言うと、波琉はミトの頭に手を乗せた。
 すると、その手から強い神気を感じ、ミトの全身を包むように膜を張った。
 ほのかに体が光っていたが、それはすぐに消えてなくなる。
「なにしたの?」
「今日のようなことがミトにあっても、多少なら守ってくれるようにおまじないしただけだよ」
「へぇ」
 おまじない。
 それがどれほどの効果をもたらすか分からないまま、ミトは感心したように声を発した。






 翌日、波琉に見送られながら学校へと向かう。
「おまじないをしておいたから大丈夫だとは思うけど、気をつけてね」
「うん」
 結局ミトを階段から落とした人物は見つけられなかったと、昨日の夜に千歳が連絡してきた。
 石像の件もひっかかっていたが、ただの偶然だと思うようにして不安を振り払う。
 車はいつものルートで学校への道を走っていた。
 学校までは別に歩いて行けないこともないが、花印を持つ者は基本的に単独で行動しない。
 必ず車で移動し、外に出る時には人が付き添う。
 学校では付き添いなど世話係以外いないが、学校のセキュリティはかなり高く、問題ないそうだ。
 だからこそ、ミトが階段から落ちた件は重要視されており、警備の見直しがされることになったとミトは蒼真から教えてもらった。
 紫紺の王の伴侶が階段から落ちたという事件は、ミトが思っている以上に大事らしく、学校側は顔を青ざめさせたらしい。
 神薙本部からも警告が出されたようで、校長の毛根が心配になってくる。
 一度や二度ハリセンで叩いたぐらいでは間に合わないかもしれない。
 ミトは流れる景色をなんの気なしに眺めていた。
 すると、赤信号であるはずの横の方から車が突っ込んでくるのが見えた。
「きゃあ!」
 運転手が車を避けようととっさにハンドルを切るが間に合わず、ミトの座る後部座席に直撃した。
 車は何度か回転し、どっちが上で下かも分からない状態になりながら、車はひっくり返った状態でようやく止まった。
「ミト様大丈夫ですか?」
 運転手が後ろを振り返りミトに声をかける。
 どうやら頭を怪我してしまったようで、血が出ている。
 幸いにもミトはなんともなかった。
「はい。なんとか……」
 運転手が這い出し、ミトもシートベルトを外して出ようとしたが、シートベルトが外れない。
 あれっと思った直後、漏れだしたガソリンに火がついた。
「ミト様!」
「嘘、嘘っ」
 焦り出すミト。
 必死でシートベルトを外そうとするのに、ミトは捕らわれたようにその場から逃げられない。
 火の熱さがミトを襲ってくる。
 もがけばもがくほど、余計に焦って冷静な判断ができない。
「ミト様!」
「やだ! 助けて!」
 運転手もミトを助け出そうと必死になってくれているが、火がその行く手を阻んでいる。
 このままでは爆発して運転手も巻き込まれてしまう。
 けれど、そんなことにきがまわらないほどミトは恐怖に襲われていた。
「いやっ! 波琉!」
 こんな時、頭に浮かぶのは波琉しかいない。
 けれど、ここにいない波琉が助けられるはずもなく、死を覚悟したその時、ミトの体が淡く光る。
「えっ……」
 驚きのあまり恐怖心を忘れたミトの周囲を光が渦巻き、その光は広がって車を包み込む。
 すると、近づくことすら危険だった炎が一瞬で消え去ったのだ。
 なにが起こったかすぐには分からなかったが、あの慣れ親しんだ強い気配。波琉の神気にミトは涙が出そうになった。
 そして、波琉が言っていた『おまじない』が頭をよぎる。
「波琉……」
 波琉が守ってくれたのだと確信する。
 燃える心配がなくなったミトは、再度シートベルトを外すべく動かすと、今度は先ほどまでのはなんだったのかと思うほどあっさりと外れた。
 そして、運転手の手を借りながら車の外に出る。
「ミト様、大丈夫ですか?」
「はい。私は全然なんともないです」
 自分よりも、頭から血を流す運転手の方が心配である。
 車はかなり損壊しており、よく無事だったなと思わせるほどで、特にミトが座っていた後部座席が一番ひどかった。 
 花の契りのおかげで、寿命が尽きる前に死んでしまっても問題なくなったとはいえ、死にたいわけではまったくない。
 波琉のおまじないの力を実感して、ミトはほっと息をつくとともに、自分の身になにかが起こっているのを感じる。
 なにせ、横から追突してきた車には誰も乗っていなかったのだ。
 そんなことあるのだろうか。
 警察がすぐに訪れて調べているが、ミトにはただの事故とは思えない。
 階段からの落下。倒れてきた石像。そして無人の車の追突。
 偶然にしてはおかしすぎる。
 そう思っていたから、波琉もミトにおまじないと言ってミトを守る力を与えてくれたのではないだろうか。
 波琉はなにか知っている?
 今、ミトの周りで起きている不思議な出来事の原因を。
「波琉は話してくれるかな?」
 波琉はミトに過保護なところがある。
 心配させまいと話してくれない可能性も高かった。
 けれど被害にあっているのはミトなのに、仲間はずれにされるのは気分がよくない。
 帰ったら問い詰めようと思ったが、まずは現状をなんとかするのが先だ。
 さすがに車がこんな状態で学校には行けないだろう。
 見事なほどにボロボロだ。
 その上、先ほどの炎上で、ミトの鞄が燃えてしまった。
 中に入っていた教科書はノートも使い物になりそうにない。
「はあ……」
 ため息をつくミト。
 先ほどあんなに取り乱していたのに、今は逆に冷静であった。
「なんで私ばっかり」
 不運ではとうてい片付けられない。

 少しすると救急車がやって来て、頭を負傷した運転手とともにミトも乗り込む。
 そして二日連続で精密検査をする羽目になってしまった。
 検査を終えて待合室へ行くと、警察と思われる人と蒼真が話し込んでいた。
 ミトに気づくと、警察は一礼してから離れていき、蒼真がミトに近づいてくる。
「散々だったな、ミト」
「ほんとです。運転手の方は大丈夫ですか?」
「ああ。場所が場所だから念のため今日一日入院することになったが、本人はいたって元気だ。心配しなくていい」
「そうですか」
 それを聞いてミトもほっとした。
 けらど、すぐに真剣な表情へと変わる。
「ぶつかってきた車、人が乗ってなかったですよね?」
 見間違えた可能性も考えて蒼真に問うが、蒼真は肯定した。
「ああ。車には誰も乗ってなかった」
 蒼真も険しい顔をしている。
「原因は分かったんですか?」
 人が乗っていない車が猛スピードで突っ込んできたのだ。
 車には持ち主だっていただろうに。
「今は調査中だ。お前は気にするな」
「気にしますよ! 昨日からいったい何度死にかけたと思ってるんですかっ」
 思わず声を荒げてしまうミトだが、それも当然というもの。
「隠さず話してください」
 問い詰めるミトの視線を受けた蒼真は、髪をくしゃくしゃと掻き、どうしようか悩んでいる様子。
「まあ、なあ。お前の気持ちも分からんではないが、ほんとに理由が分かってないんだよ」
「嘘」
 ミトはじとーっとした目で蒼真を見つめる。
「嘘じゃねぇよ。学校で階段から落ちたにしても、学校ないにはいくつもの監視カメラがあるんだ。それを確認したが、ミトが落ちる場面は映っていたが、その後ろには誰もいなかった」
「えっ……」
 学校内に監視カメラがあったことにもびっくりだが、ミトが落ちた場面が証拠として映っていたことにも驚く。
「ほんとに誰も?」
「ああ」
「でも押されたか当たったかしたのは絶対です! 嘘なんて言ってません!」
「俺も嘘をついたとは思ってない。だからこそ厄介なんだよ」
 蒼真は興奮するミトを落ち着かせるように頭にぽんと手を置いた。
「この町でなにか起こってる。それもお前の周りでな。紫紺様はそれを理解された上でお前を守ろうとしている」
「あ……」
 車が炎に包まれた時、ミトを守った光。
 波琉の神気。
 まるで自分がそばにいるから大丈夫だと言われているかのような安心感があった。
「紫紺様は堕ち神が関係しているんじゃないかと考えているようだ」
「堕ち神って、波琉が言ってた、展開を追放された龍神」
 百年前に星奈の一族から生まれた花印を持った女性の相手。
 キヨと玖楼。
 キヨは煌理を愛し、玖楼はキヨを愛していた。
 それゆえに起こった事件によりキヨは煌理に殺され、玖楼はたくさんの生き物を殺した罰で堕ち神となった。
 百年前の因縁が今のミトに影響を及ぼしている。
 もしミトを狙っているのが堕ち神なのだとしたら、相手は龍神だ。
 力のないミトに立ち向かえるとは思えない。
「紫紺様によると堕ち神はこの龍花の町のどこかにいるらしい。紫紺様の命を受けた龍神たちが目下捜索中だ。そいつを見つけないことには、ミトの周りで起きた事故と関連づけることができない」
「龍神様ならすぐに見つけられるんじゃないんですか? すごい力を持ってるのに」
「龍神たちも頑張って探しているらしいが、龍神とてそんな万能じゃないんだそうだ。なんの制約も制限もなく、好き勝手に人間界で力を使えるわけじゃないんだとさ。まあ、そうだよな。本来天界にいるはずの龍神が人間界に来ているわけだし、好き勝手力を使われたら町ぐらい簡単に滅ぶ」
「そうなんですか……」
 ミトはしゅんとする。
 龍神の力があればすぐに解決するかもしれないと思っていたのに、そう上手くは運べないらしい。
「とりあえずいったん屋敷に帰るぞ。どうせ学校なんて行っても授業に身が入らないだろ」
「はい。そうですね」
 ミトははっきりとしない今の現状にモヤモヤとした感情を抑えながら、蒼真の後についていく。
 蒼真はやけに周囲を警戒しながら歩いているのが分かり、自然とミトにも緊張感が走る。
 何事もなく病院を出て、玄関前に停められた車に乗り込もうと歩いていた時、ミシミシとなにやら音が聞こえた。
 きょろきょろと辺りを見回すミトを不振そうに蒼真が振り返る。
「どうした?」
「なんか変な音しません?」
「変な音?」
 その時ふと蒼真が視線を上に向けた途端、その顔に焦りをにじませる。
「ミト!」
「え?」
 きょとんとするミトを蒼真が引き寄せ、抱きしめながら前に飛ぶと、地面に転がるようにして倒れたミトの耳に大きな音が響いた。
 状況が理解できないミトが体を起こせば、瓦礫の残骸が散らばっていた。
 この瓦礫がどこから来たのかと上を見上げると、どうやら建物の外壁が剥がれたらしい痕跡が壁に残っていた。
 幸いにも周囲にはミトと蒼真以外に人はおらず、被害を受けた人はいないようだが、この騒ぎに周囲から人が集まってきている。
 ザワザワとする周囲の喧騒も頭に入ってこないほど、ミトは顔を青ざめさせて蒼真にしがみついている。
「まじか……」
 顔を強ばらせる蒼真は、思わずといった感じでつぶやいた。
「下手したら死んでんぞ」
 その言葉にびくりと体を震わせるミトに気づき、蒼真ははっとする。
「悪い。怖がらせたか」
「いえ、大丈夫です……」
 言葉とは裏腹にとても大丈夫そうには見えないミトだったが、四度目ともなると嫌でも理解させられる。
「私、狙われてるんでしょうか?」
「…………」
 ミトの問に蒼真は沈黙をもって返したが、それが答えのように感じた。