プロローグ

 水宮殿。
 紫紺の王である波琉が住まうその場所に、今は彼の姿はない。
 代わりに紫紺の王に属する龍神たちが、波琉の代わりとなって働いていた。
 それらの龍神をまとめるのは、波琉の側近の中でも特に彼に近しい存在である瑞貴である。
 本来のんびりとした穏やかな性格である波琉を、後ろからせっついて仕事をさせていたのは瑞貴であった。
 波琉ときたら、すぐにさぼろうとするのである。
 だから瑞貴が常に目を光らせていないとならない。
 そんな瑞貴を、波琉は「真面目だねぇ」と、他人事のようにのんびりと見ているのだから、何度瑞貴が怒りを爆発させたかしれない。
 時間の感覚が緩い龍神だから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが、紫紺の王に属する龍神たちのこととて、波琉はあまり関知しないため、瑞貴が指示を出して取りまとめていたのだ。
 波琉が人間界に降りて十六年程の月日が経つが、そもそも瑞貴が指揮をとっていたおかげで、波琉がおらずとも大きな問題は今のところ起きていない。
 それがよかったのか悪かったのかは正直悩むところだ。
 なにせ、紫紺の王がおらずとも水宮殿は回っているということなのだから、波琉の存在理由にもつながる。
 しかし、さすがに王がいなくなって十六年ともなると、波琉でなければ解決できない問題も溜まり始めてきた。
 早急に解決せねばならないものではないが、このまま溜め続けていたら支障が出てくるだろう。
 波琉の執務室にある机の上に積まれた書類を見て、どうしたものかと悩む瑞貴。
 波琉と連絡を取るのが一番早いのだろう。
 波琉のいる龍花の町に手紙を送ることは簡単だ。
 しかし、時間の感覚の緩い龍神の中でも特にゆったりとした波琉に手紙を送ったところで、いつ返事が来るか分からない。
 さすがに何十年もかかるとは思わないが、龍花の町に降りてから初めて頼りを寄越すまで十六年かかった波琉である。
 あまり期待はできない。
「困ったものですねぇ」
 いっそ手紙ではなく誰か龍神を送り込んだ方が早いかもしれないと思い始めてきた。
 問題は誰を送り込むかだが……。
「さすがに私が行くのは難しいでしょうねぇ」
 波琉のいなくなった穴を埋めているのは瑞貴である。
 ここで瑞貴までもが龍花の町に降りてしまっては、他の龍神たちが困ってしまうだろう。
 けれど……。
 瑞貴は波琉が選んだ相手に会いたいという気持ちもあった。
 波琉がその伴侶とどのように過ごしているのか。
 あの波琉に伴侶と認めさせたのはどんな人間なのだろうか。
 興味は尽きない。
 なにかしら理由をつけて龍花の町に行くには、今の機会を逃すと伴侶が寿命を終える数十年先にならないと会えないだろう。
 見逃す手はない。
「よし、やはり私が龍花の町に持っていきましょう」
 だが、それに慌てふためいたのは、他の龍神だ。
「よしじゃありません。なにおっしゃってるんですか、瑞貴様! あなたまでいなくなったら、誰がこの水宮殿をまとめるんです!」
「そうですよ、瑞貴様が行くくらいなら私が行ってきます!」
「しかし、あなたたちが行って、紫紺様が素直に仕事してくれますかね?」
「…………」
 その問いには、他の龍神たちもそっと視線をそらす。
 彼らでは少々自信がないのがうかがえた。
 やはり自分が行って無理やりにでも仕事をさせるしかないと、決意を固めたところで、慌ただしく別の龍神が執務室に飛び込んできた。
「瑞貴様!」
「なんですか、騒々しい」
「今しがた、水宮殿に金赤様が降り立たれました」
 彼の言葉が『いらっしゃった』ではなく『降り立たれた』と表現したのは、その言葉通り、龍となって空を翔け、空から降り立ったからである。
「金赤様が?」
 瑞貴は目を丸くする。
 四人の王は特に諍いもない間柄だが、特別仲いいという訳でもない。
 それゆえか、密にやり取りしてもおらず、用事がなければ数百年普通に会わないこともしばしば。
 波琉と金赤の王は穏やかな性格ゆえ、他の王より気が合うようだが、それでも最後に会ったのはいつだったか思い出せないほど昔である。
 そんな滅多に会いにこない王が、よりによって波琉がいない時に会いに来てしまった。
「困りましたね。金赤様には紫紺様がいらっしゃらないとお伝えしなければ」
「知っている」
 突然聞こえてきた第三者の声。
 執務室の出入口を見れば、赤茶色の長い髪を下ろし、王の名とも言うべき金赤色の瞳をした男性が立っていた。
 快活そうな雰囲気を発する男性は、細身の波瑠と比べると筋肉質で引き締まった体躯をしている。
 男性の登場に、その場にいた龍神たちが頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました。金赤様」
 代表して瑞貴が声を発すると、金赤の王は手を挙げた。
「楽にしてくれ」
 そう言われ頭を上げると、瑞貴は困ったように眉尻を下げる。
「せっかくお越しいただいたのに申し訳ございません。現在紫紺様は下界へ降りておりまして……」
「そのようだな。噂は私のところにも届いている」
 ならば何故ここに来たのかと瑞貴に疑問が浮かぶ。
「波琉から久遠つてで連絡があって、私も龍花の町に降りることになった」
「なんと!」
 波琉に続いて金赤の王まで。
 ふたりもの王が天界を離れることなど過去にあっただろうか。
「なにか問題でもございましたか?」
 波琉に限ってなにかあるとは思えなかったが、紫紺の王の側近であることに誇りを持っている瑞貴は、波琉が心配でならない。
「問題と言えば問題なのだろう。どうやら百年前の出来事を知りたいらしい」
「百年前というと、金赤様が龍花の町に降りられた頃ですね」
「よく覚えているな」
 金赤の王は感心したように瑞貴を見る。
 龍神はそんな細かく時間の流れなど気にしていないのが通常なのだ。
「それはもう覚えていますとも。金赤様が誰にもなにも言わずに龍花の町に降りられたせいで、大迷惑を被った久遠から散々愚痴を聞かされましたからね」
 王に対して無礼と言われかねないが、多少の嫌味は許してくれるだろう。
 金赤の王も、ばつが悪そうな顔をしている。
「あ、あの時は花印が現れて少々気が動転していたんだ」
 ポリポリ鼻を掻きながら、視線を瑞貴からそらす。
 どうやら本人は悪いことをしたと自覚があるらしい。
 ならば、それを追求するのは一番の被害者である久遠がすべきだろうと、瑞貴は話を終わらせて話題を変えた。
「そう言えば、久遠も花印が現れ龍花の町に降りたようですが、縁がなかったらしいですね」
「ああ。花印が浮かんだのを喜んでいたのに残念なことだ。まあ、今回縁がなかったとしても次があるかもしれないと、本人はさほど落ち込んではいないがな」
「それならよかったです」
 瑞貴も安堵したように微笑むのは、同じく王の側近という立場ゆえに久遠とはそれなりに仲がいいからだ。
 花印が現れるのは一度とは限らない。
 久遠のように、一度花印が浮かんでから龍花の町に降り、同じ花印を持つ伴侶と相性が悪く天界に戻ってきたとしても、同じ花印を持つ人間が亡くなり印が消えた後、何年かして再び花印が浮かんだりもする。
 すでに龍神の伴侶がいる者などは、もう他の伴侶など求めていないにもかかわらず、数百年の間に二度も三度も花印が浮かんでしまいうんざりしている者もいるという。
 そこまで来ると、もう笑い話だ。
 けれど、金赤の王のように、花印がある伴侶を持つと、再び花印が現れることはない。
 そこの理由は不明だが、久遠にも再び花印が浮かぶかどうかを含め、天帝の御心次第ということなのだろう。
 期待して待つしかない。
「それにしても、紫紺様が百年前の出来事を知りたいとはどういうことでしょうか?」
 瑞貴のことろには波琉から連絡が入っていないので見当もつかない。
「私は百年前の時に、ある一族を龍花の町から追放したのだがな、波琉の伴侶はどうやらその一族の子孫のようなのだ」
「なんとまあ」
 なんという因果か。
「町には当時を知る者もおらず、一度龍花の町に来て話を聞きたいと言うのでな。これから龍花の町に行くことにしたのだ」
 それを聞いた瑞貴は難しい顔をする。
「金赤様まで下界に降りられるのですか」
「ああ。そう長居するつもりはないが、せっかくだから妻を連れて息抜きをしてくるつもりだ。妻にとっては久しぶりの里帰りになるからな」
 金赤の王の伴侶は花印を持つ人間だ。
 それはつまり、龍花の町出身であることを意味する。
「波琉に加え私も天界を留守にするので、なにか問題が起きたら他の王を頼ってくれ。今日はそれを伝えに来たのだ」
「他の王……」
 瑞貴はなんとも言えぬ複雑そうな顔をした。
 口にはできぬ。
 ただの側近でしかない瑞貴には恐れ多い。
 けれど、瑞貴の言わんとするものを金赤の王は察していた。
「あれたちにも一応直接会って頼んできた。たぶん大丈夫だ。たぶん……」
 二度も『たぶん』と繰り返すところを見るに、あまり信用していないのを感じる。
 それは瑞貴も同じこと。
 龍神をまとめる四人の王は、よくも悪くも個性的なのだ。
 そして、温厚な波琉と金赤の王と比べると、白銀と漆黒の王は特に個性が強い。
 瑞貴は金赤の王がいなくて大丈夫だろうかと今から心配になってきた。
「何事もないといいんですがねぇ」
「そうそう王が出張ってこざるを得ない問題など起こらないだろう。案ずるな」
「だといいんですが。金赤様もなるべく早くお戻りくださいね」
「ああ。なにかしらあれば久遠と話し合ってくれ」
 瑞貴はこくりと頷くと、波琉の机の上にある書類が目に入った。
「金赤様。実は紫紺様への仕事が溜まっているんです。私が龍花の町まで行ってお届けしようと思ったのですが……」
 金赤の王は、瑞貴が最後まで口にせずとも理解してくれたよう。
「分かった。私が責任をもって届けよう」
「お願いします。くれぐれも、サボらぬよう念を押しておいてください」
 書類をまとめながら、「くれぐれも」のところを強調する瑞貴に、金赤の王も苦笑する。
「お前といい、久遠といい、側近はしっかりしているな」
「側近だからこそです」
 王を支えているという自負が、瑞貴に胸を張らせる。
 金赤の王はくっくっと笑いながら「頼もしいことだ」と、波琉に渡す書類を受け取った。
 金赤の王を見送って、波琉の執務室に戻ってきた瑞貴は、綺麗さっぱりとした机の上を見て、満足げな顔をする。
「紫紺様の伴侶様とお会いする機会を失してしまいましたが、まあ、いずれ会えるのでいいでしょう」
 それよりも、紫紺と金赤のふたりの王がいなくなった穴を埋めなければならない。
 金赤の王の側近である久遠と対策会議をしなければなるまい。
 瑞貴は文をしたためるべく、執務室を後にした。