――ちくしょう、今日は雨の予報なんて無かったじゃないか。
自動ドアが開き、会社のビルを出た瞬間。
スーツ姿の俺を迎えたのは、無情なる真夏のゲリラ豪雨だった。
強い風に煽られた大粒の雨が、ザァザァとアスファルトに叩きつけられている。
いったいいつから降っていたんだろう。
残業に集中していたせいで、こんな天気になっているとは気が付かなかった。
「こっちは仕事で疲れているんだぞ……勘弁してくれよ……」
最悪の気分に陥りながら、腕に嵌めた時計をみやる。クソ、午後8時半を少し越えている……。
「マズいな。早く行かないと、彼女に会えなくなってしまう……」
焦りと苛立ちで、思わず舌打ちが出そうだ。
今からオフィスに戻って傘を取りに行ったのでは、確実に間に合わない。
この機会を逃したら……間違いなく明日のモチベーションは最悪だな。
仕方ない、濡れるのを覚悟で走って行くしかないか。
覚悟を決めた俺は、持っていたカバンを傘代わりに頭の上へと掲げると、
「よし、行くか」
目的の店に向けて、夜のオフィス街を走り出した。
◇
「すみません、まだ大丈夫ですか?」
スーツを汗と雨まみれにしてやって来たのは、黄色い看板のお店。店の名前は『グゥの音亭』。
ここは俺が一人暮らしをしているアパートから数分の場所にある、小さな個人経営のお弁当屋さんだ。
そう、この店こそが俺の目的の場所。
「あっ……」
「えっ?」
まだ開いていたのを良い事に、つい駆け込んでしまったが……明らかに最悪のタイミングだ。
中に居たオーナーの唐澤さんは今まさに、店の後片付けをしている最中だったのだ。
ハッとして、時計を確認する。
うわ、やっちまった。もう閉店時間じゃないか。
当たり前だが、こんな時間じゃ店の中に他の客なんて居やしない。こんな雨の中に突然現れた俺の姿を見て、彼女は驚いた表情をしている。
オマケに今の俺は、ズブ濡れの状態。
終わるギリギリに来るわ店は汚すわで、これじゃ最低な客だって思われても当然だ。
今からでも遅くない、大人しく謝って今日は店を出よう。そう思って出口に振り返ったところで……オーナーが声を上げた。
「ま、待ってください!!」
「……えっ?」
「『えっ』はこっちのセリフですよ!! どこへ行こうとしているんですか、井出さん!? 今日はやけに来るのが遅いと思ったら、そんなにビショビショの姿で!! それに何も買わずに突然帰ろうとしないでくださいよ!!」
オーナーは慌てた様子で店の奥からタオルを持ってくると、濡れネズミになってしまった俺の身体を拭き始める。
「いや、あの……オーナーまで濡れてしまうので「またオーナーなんて他人行儀な言い方をして! それに今はそんな事を言っている場合じゃないでしょう!?」……すみません、ありがとうございます」
叱るような物言いとは裏腹に、彼女の態度は俺を本気で心配してくれている。こんなの、ただの迷惑な客でしかないのに。その優しさがかえって申し訳ない。
それに、なんだか今の状況がこっぱずかしいんだが!? 身長の差は逆だが、まるで小学生の子を叱る母親のような図だ。いやぁ、たぶん俺の方が年上だったはずなんだけどなぁ。
「でも……ちょっと近過ぎるんですが」
「いいから、大人しくしていてください!! 濡れたままで風邪でもひいちゃったら、どうするんですか」
「……はい」
あははは……もう、子どもでもいいや。
怒られてしまった俺はしゅん、と縮こまって大人しく拭かれることにした。
背の小さな唐澤さんは背伸びをしながら、俺の頭についている雨粒を優しく拭きとってくれている。
こっちは一日中働いて汗臭い。しかも雨の匂いも混ざって、悪臭になっていないか心配だ。
それなのに彼女はお構いなしで、どんどんと俺に密着してくる。
オレンジ色の可愛いエプロンを着ている彼女からは女性らしい甘い香りと、このお店で扱っているお弁当の匂いがふんわりと漂ってきた。
――クソッ。今日一日仕事をしていたのは、唐澤さんも一緒のハズだ。いったいこの差はなんなんだ!?
『ぐうぅう~』
「う、ぐ……その。これはあの……」
「……ぷっ、くふふふっ。井出さん、そんなにお腹が空いていたんですか?」
ぐふっ……良い匂いがしたせいで、つい。
まったく、男としてのメンツはボロボロじゃないか。
これだけ近くに居たら、そりゃあバレるよなぁ。でもお腹が空いていたのは紛れもない事実なんだからしょうがない。
それに俺は、それだけ今夜のアレを楽しみにしていたんだ……。
真っ赤になった顔を両手で覆っている、情けない俺の姿を見て、唐澤さんはクスクスと笑いながらやっと離れてくれた。
「だって……仕事の後にこのグゥの音亭のお弁当を食べるのが、俺の楽しみだったので……」
俺の仕事によるストレス発散方法。それがココなのだ。
仕事帰りにこのグゥの音亭の弁当を持ち帰りして家で食べること。それが俺の習慣であり、なによりの生き甲斐だった。
小さい頃から陰キャだったせいで、一緒に食事をしてくれる彼女も友人も居ない。加えて華やかな趣味も無い。
挙げ句に家事も苦手な俺にとって、この店の手作り弁当が心からの楽しみだったんだ。
今日だって弁当が恋しくて恋しくて、こんな雨の中を一生懸命に走って来たぐらいだしな。
だからそれを、ここのオーナーである唐澤さんに正直に打ち明けた。
客にこんなことを言われたら困惑してしまうだろうが、仕事の疲労と空腹で今の俺は頭が良く回っていなかった。
自分がいったい何をやらかしているのか――冷静になった時にはもう遅い。唐澤さんは口元を押さえて、俺から離れていってしまった。
「あぁ~、すみません……!! 急にこんなことを言われたら迷惑でしたよね」
「ち、違いますよ!! そっ、そんな嬉しいこと、突然私に言わないでください!!」
「え? いや、でも本当なんです。本当は夜だけじゃなくって、毎日3食で食べたいぐらいに!!」
「えぇっ!? そ、それって……嬉しいわ、井出さん!!」
瞳を潤ませて喜ぶ唐澤さん。
ここの先代オーナーだったご両親が亡くなってからは、彼女がここをずっと切り盛りしていた。
先代の頃からの味を守るために彼女は嫁にも行かず、高校生の妹を養うために独りでずっと頑張っているのだ。応援したい気持ちもあったし、喜んでもらえたのなら正直に言って良かった。
「あ、もしかして。今日分のお弁当はもう全部売れちゃいました?」
「……え? い、いえいえ。もしかしたら井出さんが来てくださるかと思って、ちゃんと取っておいたんですよ!!」
ぱあっと花の咲いたような笑顔の唐澤さん。一度カウンターに戻ると、袋に入ったお弁当を取り出してきた。
あぁ、あのパッケージは。この店で一番人気の商品で、俺の大好物でもある唐揚げ弁当に間違いない。
……あまりに通いすぎたのか、俺の好みは唐澤さんに把握されてしまっている気がするなぁ。
「それで、お箸は何膳付けますか? その、私の分も付けます……よね?」
ニコニコとしながら俺の眼を見つめて唐澤さんはそう言った。だから俺も笑顔でお代の500円玉を差し出しながらこう返す。
「え、どうして唐澤さんの分を?」
彼女は俺の手ごと硬貨を握りしめながら、不思議そうな表情でこう返した。
「だって毎日でも私のご飯が食べたいって言ったじゃないですか! だから今日から私は井出さんの通い妻、です」
えっ……通い妻って、ナニ??