「そういえば、明日奈呼びなのはどうして」
 この問いは悩んだ。いつだったか覚えていない。"昨日"といえばそれは間違えではないしいいのだが、おそらく明日奈はそういう"いつ"を求めていないのはわかってしまう。"いつ"があってこういう展開からどうしてが生まれるからわからない。何を答えればと悩むのに力が入りすぎてつい今洗っている食器が手からすり抜けた。食器が形を崩す音が途切れることなく響く。
「何動揺してるんだよ」
「いや、悩んでいたんだ」
 これが動揺になってしまうのが惜しい気がした。"拾うから手伝って"と割れた食器の破片を先に拾う明日奈に遅れて俺は腰を下ろし拾い始めた。
 盛大に散る破片を一つまた一つと拾うのはやらかした俺が言うのもおかしいが大変だ。破片だからそれは間違えなく尖っているけれど食器の外側(端の部分)は割れずあんまし尖っていないので慎重につまんで拾い上げる。ただ、破片拾いが後半に差し掛かったところで"小さな事件"が発生した。明日奈の拾い上げた破片がなんらかの影響で拾う指からすり抜けて落ちた。床に落ちればいいもののそれは運悪くもう一方の拾い上げていない明日奈の左手の人差し指を掠めて落ちるから面倒なことになる。
「救急箱みたいなのある?」
 人差し指から赤い血が次々と出てくる。傷が深いとか詳しいことを言える立場・身分じゃないけど放っておくわけにはいかないので応急処置はしておこうと思った。救急箱のある部屋と位置を教えてもらい早急に取りに行く。それらしきものをその位置から手に取り急いで明日奈の元へ戻る。持ってきた救急箱を開いて絆創膏を取り出す。手が勝手に動く。動いて動いて。自分が手を動かしていることも忘れてしまうぐらいに手は動いて手当ては進んだ。
 手が止まったのは、明日奈が俺に呼びかけたから。
「もう大丈夫、ありがとう。たかがかすり傷で絆創膏を貼るだけなのに、なんだか悪いね」
 手当てが終わって絆創膏が貼られた指を撫でながら顔を赤く染める明日奈は言う。顔が赤いのはなんとなく察せれた。俺は今、身体中の血が熱を持っているようで今を誤魔化すためにもアイスのような冷たいものが食べたい。
 俺の顔は今赤い。明日奈の顔が赤い理由が俺と同じだったらなと願ってみた。それに相まってまた俺の顔は赤くなる。
 このりんごはいつごろが旬になるだろう。
 あのパンケーキのことが頭によぎった。

 大智 夏 大学二年生
 俺がこの店に働いてから大体三ヶ月。そして今大学は絶賛夏休み。店内はクーラーが効いてて涼しいものの外が暑いからか明日奈が横にいるからか、それとも今夜のことがあるからか。
 今夜、俺は明日奈に想いを告げようと決めているからか。俺はあの件以来から明日奈が視界に入ると体に異常が生じるようになった。緊張は緊張でもまた違うような気がしてなぜかその緊張は元気が出る。ただ明日奈が横にいたりそばにいたりすると会話はだんだんと減っていく。時が経てば経つほどに、もしやと考えると元気がなくなる。
 そういえばあの件はお互いに話し合っていくにつれ辻褄がピッタリ当てはまっていた。長治お爺ちゃんはやっぱり和治さんに取り憑かれていたのだと。二人で辻褄を当てはめていくにつれ背中に冷たい黄泉のようなものが当たる。けれどうまく当てはめれたらお互いに顔を見る瞬間がひどく爽快だった。
「成仏したのだろうか」
 明日奈の頬はふっくらと膨らみだし俺に何か物申したそうにしていた。それ以来この件のことに関しては話してもいないし口にも出していない。単に明日奈が嫌がることとわかったのにそれを言うのは本当に残念な人間を自分自身で作り上げてしまう。自分に残念とか言いたくないってわけではないが人の嫌がることはしない。それを徹底しただけ。しかし最近それは甘くなってきてしまった。
 我を忘れた少年のように明日奈をからかうのが最近増えた気がする。明日奈のことばかり考えどうしたら明日奈と話せるのかこのごろ考えてしまう。普通に話す。ただこれは誰もできてしまう。印象に残らない。明日奈の人生の一欠片になるようにとからかってしまう。
 辞めようとしないのは明日奈がそれを嫌がることもなく笑ってくれるから。口が開くことはないんだけど口がニヤッと緩む。なぜ笑うのかは聞いたことはないのだがそれが俺のことに関しての笑みだとしたら。そう勝手に決めつけてるだけなのに考えてしまうと心がキュウっと音を出して鳴いて縮み込んでしまう。
 店前に看板を出して店の開店を知らせる。いつも開店してお客さんは来ないから明日奈と二人だけの空間と時間。この時間に言おう。考えた末に決めたこと。硬い意志、鉄の意志。それぐらいのを模して俺の意志は固くなっていこう。今回は近くの河川敷で花火が見れるようだ。近くで花火大会があって空高く舞い咲き誇る花火はその周辺でよく見れるよう。空いっぱいに咲き誇る花はさぞかし美しかろう。
 "花火を見に行かないか"と声をかけ誘えば先は見えてくる。だからファーストステージでファイナルステージでただそれを言うだけでこのミッションはクリアできる。想いはそのあと。花火を見終わったあとの帰り道に言えばいい。
 "付き合ってください"
 そのあとはもう本当に明日奈任せになる。どれだけ頭でシミュレーションを繰り返そうとも明日奈のこの答えで物事は一変したりとかと大きく崩れたりの可能性があるから。そのあとは流れに逆らわず、川のせき止めらることのない流れのように流れていけばいい。
 "比較的簡単な流れだ" と自分に何度も言いつける。
 "俺なら大丈夫"何回言っただろう。
 "さぁ、今だ!"
「あの……」 
 そのあとを続けることは自分の弱さか、いや違う。明日奈がほぼ同時のタイミングで俺に問いかけた。確かだ、いつも俺から話しかけていたな。だとしたらと明日奈の発言が気になって気になって仕方がない。
「先にどうぞ」
 そう言って俺は手でそれを表す仕草をする。
「ならおかまいなく」
「うん……」
「大智に桜木さんの話をしていなって。したことないでしょ、桜木さんのことを話したの」
 俺の頭はあるエピソードを思い出す。
「まさか、前言いかけてたやつ?」
「そうそれ」
 気を取り直してというように明日奈の表情は式典でよく見かけるあのかしこまった表情へと変わる。
「では、このお店について詳しく説明しようかなと思います」
 
 明日奈 夏 小学生
 桜木さんは彷徨う私を快く引き止めてくれた。両親が事故で他界しどこの親戚も私を引き取ってくれなくて、私は通うまでもなく暑い夏の日に公園のベンチに座っていた。風が吹いていないのに夏の空気はジリジリと音を出している気さえしてくる。
 公園の水道水の蛇口をひねり水を出して口に入れる。けれど昨晩からの空腹はやっぱり満たせない。
 "お腹…………空いた……………………"
 こう呟いてみるも言葉一つ一つに普通ではあり得ない間ができて単語を読み上げる。私はここまでの記憶はあった。
 気づいたら私は西洋のような雰囲気を感じさせてくれる家のソファで寝ていた。後にここは家ではなくカフェと知るのだが。
「気づいたかい?」
 机の数と椅子の数は一般の家庭とは比べ物にならないぐらいあって、ここはカフェなのではとの推測が前進していく。キッチンの方から聞こえた声に自分の思考を深いところまで掘り進めていたから返事をしていなかった。いわゆる無視。
 声の主の姿をその目で捉えたときに返事をした。
「はい、気がつきました」
 まるで声を向けている人を抱いて包み込んでしまいそうなまたその抱かれた空間が心安らいで眠っしてまいそうな安らかな声。なので、ふっくらのお腹のお爺さんを想像していたのだが体格はいわゆる普通、顔はなんとも言えないが草の生えていない頭がなんとも輝いていて強調されている。お爺さんは私のところに一歩また一歩と歩みを進めるのと一緒に話してくれた。
 失礼ながらやっぱり声と体が対応していない。
 ベンチで意識がなくなったらしい。ベンチに座ってなくベンチの前で倒れていたようだ。胸を撫で下ろすときに手に砂が付く理由がここではっきりと理解できたのがなんとも悔しい。
 "お腹…………空いた……………………"
 意識がなくなっているはずなのに私はこうぶつぶつと言っていたらしい。お爺さんはこんなことをこんな状態になってまで言う私が見捨てれなかったらしい。私の行動でこの子を助けれるならと今私のいるこの場へと連れてきたそうだ。この話の合間に聞いたのだがここは私の推測通りやはりカフェだった。カフェとわかった状態で店内を眺めるとなんだかさっきまでとは違って"洒落た店内だな"とつい声に出してしまった。
 "ありがとうございます"と言う感謝の言葉が頭に出てこなかった。探すこともなかった。
「もうちょっとで出来るから待っててな」
 そう言ってお爺さんは元いた場所であろうというところへと戻っていく。
 もうちょっとがわからない、いきなりで慣れていない、慣れるはずがない。視線が環境が私を拘束する。時計が掛けられていたからただぼんやりと秒針が進むのを眺める。なんでだろう、秒針はいつも一定の速さなのに遅く感じられ一分経つのさえやっとと思ってしまう。楽しいことがあっという間の逆でこの学生生活で与えられた試練。時が来るまで私はただぼんやりと眺める。
 甘い匂いがして間の前にある机を見たら、あのパンケーキがあった。
「パンケーキとレモン、パンケーキレモン」
 隣のお爺さんはそう言った。パンケーキがあまりにも魅力的でお爺さんがいたことなんて知らなかった。
「こっちにおいで、食べよう」
 お爺さんは優しい表情を浮かべて招きをする。このお爺さんへの警戒心はなかった。お爺さんの言うがままに椅子に座りパンケーキを食べる。
「何これ」
 思わず声に出してしまった。
 パンケーキ。クリームがただ乗っただけのものかと思っていた。だがしかし、輪切りのレモンが小山となったクリームに添えられている。クリーム単体ではなくクリームとレモンの二つで単体と言わんばかりの存在感をパンケーキの上で示し、演じている。
 白い見ただけでわかるふわふわっとしたものがパンケーキに包まれている。これはまたクリームかと机に置かれているフォークを手に取り優しく突いてみると白いものは小さくしぼんでいく。若干ながらしゅわしゅわと弾けでたような音もしたような。
 なんだろうと思いフォークで優しくすくい口に入れる。舌に乗ってそれは優しくほろほろと溶けたり、崩れていく。ただそれはふんわりとした軽い味だった。メレンゲ、これはクリームではなくメレンゲだ。
 手が止まらない。たまたまの喫茶店で恐ろしいものを見て私は今頬張っている。もうこれは食べるの次元で説明できない。もしそうしようもんならこのパンケーキからかなりきつめの制裁を受けることになるだろう。しかもおいしさはメレンゲだけではない。この全体にかかった透けて美しい茶色のシロップがちょうど良い甘味なのだ。程よく優しくパンケーキを包み込んでくれている。
「どうじゃい美味しいだろう」
「それは本当に美味しいです」
 私は素直に頷いているがこれに感しては社交辞令とかお爺さんの気を使ってとかの考えはこの頷きに決して練り込まれていない単純なものだった。手が止まらず少しずつ小さくなっていくパンケーキが別れの笑みを浮かべるよう。"まだ、行かないで"と私は叫び続ける。
 だがもう行ってしまった。だけれどいい時間をあなたと過ごせた。
「ごちそうさまでした」
 "いただきます"をし忘れたからそれの分まで重い気持ちを込めて合わせた手に強く乗せる。
「これを食べたもんは幸せになれるんだ」
 突如、お爺さんはそう語り始めた。
「若い頃に入店してきた面白いお兄さんがいてな……」
「はい……」 
 せっかくの機会だからと私はお爺さんの話を聞くことにした。行く当てもない途方に暮れるよりはまだマシに思えた。
「彼は有名な芸能人になるとこの店に来て言い出したんだ。けれど彼の芸は全て遠慮しても面白いとは言えなかった。"正直に物申してください"と彼は頭を下げながら言うんだから正直に言ってやったんだ」
「さっきと矛盾してませんか?面白いって言ってましたよね。それとなんて言ったんですか?」
「そんなもん、単純に"面白くない、時間が過ぎるのが勿体無い。無駄にした"とな」
「かなり毒舌なんですね」
 "まあな"と答えるお爺さん。お笑い番組とかは小さい頃茶の間のテレビで見ていた。両親は笑っていた。
「お嬢ちゃんは見るの好きかね、お笑い」
「はい好きです。けれど……」
 "思い出したくなかった"のだ。あの小さい頃の記憶では私一人でお笑いを見たという描写のアルバムの中には一枚に写真もない。お茶の間のテレビ。
「両親と見ていたから今は思い出したくありませんでした」
 "ごめんなさいお爺さん"。そんな気持ちで一つ一つ言葉を綺麗に並べた。
「そのお笑いは面白かったか?」
「はい、面白かったです」 
 申し訳なさが優先したこの今、私の発言は悲しいような殴られ続けている。もちろん殴っているのは自分自身の意思とか甘い考え。
「なら大丈夫」
 力強くお爺さんは続けた。
「彼はそのあとも毎日ここに練習に来て私にお笑いを見せてくれた。だが一向に面白いとは思わんだ。だから同じお笑いであっても彼はそれはまた違うもんさ」
 "思い出させてすまない"と最後に添えるおじいさんはやはりこの世の何もかもを包み込んでくれる。
「話を戻そうかね」 
 年寄りはしゃべりたがりらしい。私の返答を待たず話し始めた。
「"面白くない"と私は言い続ける日々を過ごした。"アドバイスをください"という彼の態度、眼差し、姿勢は本当に誰にも真似できない唯一無二のものがあったが何をしようともそれが、その能力が向上することはなかった。それから数日経ったある日にお笑いの大会のようなものがあったらしくてね、彼は予想通りの初戦敗退。この店に戻ってきて私にしがみついて泣き崩れていたよ」
 大人が大人にしがみつく光景はとても想像できるものではないと思う。見た目は大人で中身が育っていないとなると教育が届いていないような、その人を軽蔑してしまうんだ。
 ただ物語は一変した。
「彼が"ここで働きたい"と言ったのはそこから間もないときだった。夢第一志望の料理人を目指すなんて言うときには笑いを堪え切らなかったよ」
「どうしていきなり料理人なんでしょうか」
「わからないが突然言いよった。私が初めて彼のことで笑ったのはそこからだったんだよ」
 いきなりの展開は私でさえ驚き笑ってしまう。
「けれどそれは彼の人生を本当に変えてくれた。そしてこの店も」
 おそらくの予想を頭に描きお爺さんの話を待った。
「このパンケーキはその彼が発案して作り上げたんだ」
 まさかの予想の的中とそれが最も想定外で絶句した。
「これには私は笑ったよ。君はスイーツのお笑い芸人だって」
 "そしてこれだけではない"とお爺さんははたまた会話を続ける。
「それを発案して作って店の新商品として看板に出すとお客さんの来店数が上がったんだよ。それもみんなパンケーキ目当てで。食べた後にほとんどの人が感想とそして置き手紙をしてくれるんだ」
 "私は彼に助けられた"
 この言葉が忘れられなかった。お爺さんが言った言葉。お兄さんを尊敬、感謝として見る目とそれの反対の思いが植え付けられている。
 その後お兄さんは結婚も遂げたようだ。そのパンケーキがお兄さんと彼女を結び繋ぎ合わせた。彼女は毎週、そのパンケーキ目当てで通う常連となる人だったようである日このパンケーキの発案者と話したいと言い出したらしい。"感動した"と彼女は言ったようなんだ。お兄さんは"何かを撃ち抜かれた"って言ったらしい。
 あぁ……、これはまた長くなりそうだ。

 桜木お爺ちゃん 中年期
「男が引きこもって何をする。行動しなければ恋は芽生えてこないしそもそも一度結ばれた赤い糸もほつれてちぎれてしまうぞ」
 私は彼に言った。独身の私が言うのもおかしい話だが身近な人の人生に関わる問題を見捨てるのもおかしい。自分の恥か若者の恥か。自分なんて捨てればいい。私は圧倒的後者を取る人間で彼を応援し、サポートする。
「行けみたいなこと言いますけど何をしたらいいんですか」
 イライラとした感情とどこか切羽詰まっている彼の感情はどうも複雑で面白い。若者はどんな知識を頭に蓄えているんだろう。
「とにかく連絡先じゃないか。そしてデートとかに発展するんだろう」
 私はただサポートだ。
「今は店内に誰もいない。行くんなら今だ。こんな焦ったくて緊張しいやつがお笑い芸人目指してたのか」
 上手いこと彼の逆鱗に触れたらしい。挑戦として彼はいよいよ想い人が座りいる元へと向かった。
 何かを話しかけた。
 ぺこぺこと頭を下げている。
「本当に焦ったいやつだ」
 これが上文句になってきそうだ。
 携帯をポケットから取り出した。
 それに続いて彼女もカバンから携帯を取り出した。
 何か言っているようで口がお互い動いている。
 彼女が携帯に視線を落とすと彼は戻ってきた。
 これはまさか……、
「連絡先…………」 
 早く早く、年寄りは待てんのじゃ。
「連絡先交換できました!」
 衰えた身体で飛び跳ねた。膝、腰、関節に負荷がかかるけれどいいんだ。自分は捨てる。
 それからは早いもんだった。
 彼は知らない間にデートの約束を立てていてしかもそれが旅行と言うんだから驚いたものだ。
「どこに行くんだい」
「箱根!」
 "温泉入って江ノ島行って江ノ電乗って"ってまるで幼いときに遠足でこれをしてあれをしてと言う子供が連想された。指を折って数えていく仕草もまたそれを連想させる。
 その当日は楽しみすぎて眠れなかったと言うんだからもう笑ってしまう。見た目を裏切る幼さでとギャップが激しくて朝から私は元気だった。
「爺ちゃん、行ってきます」
 私はいつの間にか彼から爺ちゃんと言われていた。親近感が余計に沸くではないか。だけれどそれは嬉しいエピソードの一つで。
 "可愛いやつ"
 箱根旅行を待ち侘びた甲斐があったようで、毎晩夜に電話をくれた。早めの孫ができたみたいで私はなんだか現実から脱線した電車に乗っているようだ。旅行は箱根に留まらず箱根旅行が終わった後に草津、別府、下呂と日本各地の温泉の有名どころを彼女と旅行で行っている。
 旅行に行ったあとには旅行先で撮った二人楽しく笑っている写真と二人お揃いのストラップを私に自慢に見せびらかす。彼だからこそ許せたという確信がある。もちろん旅行後はお土産を持ってきてくれる。まんじゅうばっかだけれど年寄りの歯にはもってこいだし嫌いではないし飽きないし。
 いろんなお土産を持って帰ってきたけどこのお土産が一番好きで、忘れられなくて。
「お付き合いすることになりました」
 下呂温泉の旅行後に彼はモジモジと恥ずかしげにけれどきっぱりと言った。両手の指を交わして大きい拳を作るのは彼自身の気を逸らすためだろう。無理もない。彼はあれから一歩を確実に踏み進めている。
「よろしくお願いしますと言ってくれました」
「君から言ったんだね、うふふ」
「笑ったー」
 彼が他人とはもうこのときから考えること、思うことはなかった。
 次は温泉ではなくグルメ中心の旅行になるようで海鮮の北海道、石川、山口。ラーメンの福島、神奈川、福岡。B級グルメの大阪、広島。この旅行の回数が増えていくにつれ私はあることの期待を寄せてしまうのだ。これぐらい旅行をする仲なのだからそろそろなのではと。"結婚するよ"と言う彼の言葉を待っていた。きっとそれは今まで見たよりも笑顔で明るくて。
 私を一番笑わせてくれる瞬間となるだろう。
「明日、彼女と花火見に行ってくるよ」
 カフェの営業時間が終わり片付けをしているときに彼は言った。
「そうか、行ってらっしゃい」
 少し期待をよし押せまさかとはと待っていた。期待は事実へと変わったときは身体中に痺れるイナヅマが走った。
「花火見終わったあとに結婚を告げようと思うのですが……」
 ついにこの瞬間が来たと素直に思った。
「遅いよ、待ち侘びてたよ。先に私が死ぬんじゃないかと思ったぐらいだよ」
 可愛いやつだ。冗談の気持ちで手を広げると彼はその手の中、いわゆる腕の中に飛び込んで今私の空間に入り込んだ。暖かく普通の体格と思っていたが意外とがっしりしていた体格。
「この身体なら彼女を守っていけるよ。強い男になってください」
「爺……ちゃん……」
 この子は本当にすくすくと育ってほしい。
「てか爺ちゃん、まだ死なないでよ。結婚出来たら俺の子供を見せたいし面倒見ててほしいし」
「私は子守かい」
 笑いながら腕の中にいるあったかい子は言って、私も言った。
「でもそうだな。君の息子の顔をしっかりと目に焼き付けたい」
 私の過去最高のわがままを吐いたつもりだ。
「見せるよ、絶対に約束」
 指切りげんまん。小指を立てた拳を私に向けて心が温かくなる。そして笑う。彼はお笑い芸人だ。心を温かく温めてくれるお笑い芸人。
 君は最高の私の息子だ。
 翌日に日と時は進む。
「指輪は持ったかい?」 
 玄関であたふたと足を躍らせ靴を履く背中を見て私は言った。結婚を申し込む彼の背中はいつもよりたくましく感じられた。それが伝染するように私のやる気も上がっていく。何をやるためのやる気かわからないから自分のを彼に分け与えたいくらい。
「あぁ、持ったよ。忘れるわけにはいかんよ」
 よく見たら右手に指輪のケースらしきものがあった。玄関の照明は少々暗いがおそらくそれは渋い赤色をしている。どんな指輪を買ったのかは知らない。次期にお目にかかることになるだろう。そのときのお楽しみと言うような気持ちで今は彼を送ろう。
「いってきます!」
 大きい声で彼は言った。大きく開いた口と隠せていない頬の紅潮。それと彼らしいと思えるものがあと一つ。
「これ待て。口見たか、パンケーキの白い粉が付いとるぞ」
 ここと人差し指を立て自分の口を示す。彼からしたらこの位置だよという意味。パンケーキは願掛けで食べさせた。告白が成功しますように。彼と彼女を結ばせる力があるのだからきっとほどけないよう頑丈に結んでくれるはず。
「粉砂糖ついてた、マジやん!」
 口元の粉を指先に付けぺろっと舐める仕草も子供らしい。すぐにティシュで口周りを拭いたら扉を勢いよく開いて表へ出た。
「やってくる。後悔しないよ俺は」
 "あぁ、盛大にやってこい"
 俺は祈って二人が結ばれることを願った。
 たくさん旅行に出かけたんだ。
 たくさん二人で笑ったんだ。
 たくさんの時間を共有したんだ。
 他にもいっぱいあるだろうけど私にはこれが精一杯。彼と彼女はもっと何かをしたに違いない。二人だけの秘密を私には暴けないし、探りたくない。秘密は秘密のままでいい。
 彼がさっきげん担ぎで食べ残していったレモンの果肉を口に加え吸う。
 あの二人のような関係を綺麗に表してくれる味が口いっぱいに広がった。
 
「爺ちゃん」
 玄関のドアが力一杯に開く音が聞こえた。"爺ちゃん"と言っていた。心が勢い良く跳ねた。急いで玄関に向かい彼の元へ向かう。結果は……結果は…………、
 彼と彼女が二人手を繋いで玄関にいた。照明の不具合でいつも暗い玄関が今だけ明るく見えた。二人が輝いているのだ。
「爺ちゃん、俺たち結婚します」
 さっきまで口に粉砂糖をつけてた子供が大人に完全に成長したと思える瞬間だった。彼は子供ではなくなった。あぁ、酷い。あの無邪気な姿が、その姿を持った人がいるのにもう見れなくなるなんて。あぁ、素晴らしい。人がこんなに早く成長して立派になるなんて。
「お爺ちゃんですね、今後ともよろしくお願いします」
 私は寝起きだから頭はまだほぼ起動していない。でも今はフル稼働だ。
「おめでとう」
 これから二人で幸せな家庭を築きあってください。
 
 明日奈 夏 小学生
「それで二人はどうなったの?」
 さっきまで私はぐったりだったのにこのパンケーキを食べたあとだからかみるみる力が湧いてきた。それと今この涼しい環境にいるからというのも一つの理由だろう。元の体に徐々に戻ってきている。
 そして老人だと舐めていた。素敵な話じゃないか。小学校の校長先生のような長々と面白くない話が今から耳に入ると思っていたから予想を覆された驚いている。
 その続きへの興味もすごい。あのパンケーキが繋いだ物語。二人はあのパンケーキで出会って、結ばれて、最終的に結婚まで至った。だとすれば今も幸せな家庭をどこかで築いているのだろうか。二人の間で生まれた子供はどんな子なのだろうか。笑顔がきっと素敵で父という名の彼のひょうきんさを受け継いでいるのだろうか。
 お爺さんは口をもごもごと結んだままだ。早く早くと急かす私に困った表情を向ける。目を瞑り、やっと開いたと同じタイミングで結ばれていた口が開いた。
「彼は亡くなった」
 リセットボタン。これがあったならとすぐさまに思った。私が今耳に入れた語が聞き間違えかもしれない。"なんて"と私は聞き返すが返ってきた言葉はさっきと大差なかった。
 "亡くなった"が今度はどこかの異国語かと思うぐらいに翻訳が難しかったが、単語の意味を理解したら受け止めなきゃいけない現実は絶対に受け止めなきゃいけないとわかった。
「すみません。どうしても続きが気になってつい聞いちゃいました。本当にすみません」
 "すみません"ではないけれど"ごめんなさい"は最近よく口にした。少しの間だけいろんな親戚に引き取られて引き取ったくせに邪魔者扱いで日頃のストレス、会社や人間関係でのトラブルが体を呑みそれから脱すべく必死に暴れる。暴れるためのサンドバック。

 何もしていないのに私は言っていた。
 "すみません、すみません"
 ダンゴムシのように丸くなり頭を守るポーズで蹴られ殴られ。本当に血が繋がっていない親戚の配偶者からのあたりは特に強かった。邪魔者、サンドバック、パシリ。昔漫画で読んだ不良としていることと大差なかった。比べるものが違う。彼らは主に中学生、高校生でそれに対しての奴らは大人だ。なんの教育も受けなかったやつとしか思えなかった。
 "なんで私がこんな目に"と考えなかった日はない。クラスでギャーギャーと叫ぶうるさい奴ら、悪ふざけを当たり前のように繰り返す奴ら、本人のいないところでこそこそと陰口を吐く奴ら、仲間外れを当たり前と考える奴ら。
 けれどそいつらは普通の範囲の生活を過ごして今も普通に学校に通っている。そして授業を受けている。
 不平等だとしか言えない。夜も寝れない体はもうボロボロだった。

「君は散々謝ってきただろう」
 いきなりお爺さんは口を開いた。
「だから謝らなくてもいい。彼は確かに可哀想な結末に終わってしまったし私だって代われるものなら代わってやりたい。だが代われないんだ。そんな自分に謝りたい」 
「いえ、これとそれでは趣旨が違います」 
「それが違くない。だから私は彼に謝ったことなんぞ本当はない。止めるのだ心に。天で彼が聞いているだろう」
 死んだ人は星になる。これはもうこの年代で本当と思う人はいないだろう。死んだ人の魂はそこで終わりで体も焼かれ土に埋められ記憶、思い出だけが残る。けど天にいると言われて"違う"なんて言えない。実際私もいまだにこの年齢でそう思っているから。
「お父さん、お母さん元気かな」
 視界がぼんやりと霞む。お爺さんはハンカチを出してくれた。
「君が元気なら元気じゃよ。きっと天でも幸せじゃ。心配ない」
「本当にそうだといいです」
 "うわー"心からの今まで耐え抜いた傷跡の痛みを今口から吐いた。肺から来る呼吸は心からの呼吸も含まれていただろうか。吐いたら心が癒やされていく感覚が忘れられない。
「で、このパンケーキはどうして幸せになれるかわかったかい?」
 それはどうも十分に理解できた。
「はい!」
 私はそう力強く答える頃には視界が元に戻り目の周りが小さく縮込むような感覚になった。
 私はあれからどこの親戚の家に引き取られることもなくこの家に住むこととなった。桜木お爺ちゃんと呼ぶ。私は彼二世だろうか。だったら彼と同じ人生を送ってみたいと思った。けれど最後は私の代で意地でも捻じ曲げようと思った。
 彼は交通事故で亡くなったらしい。死に様と言い方は卑劣だがそれは素晴らしかった。彼女が誰かに押されて道路に身を持って行かれた。彼は手を伸ばして道路とは反対の方向へ投げた。その反動だ。道路へ体は持っていかれ車の衝突音とクラクション音と共に彼の魂は天へと向かったそうだ。
 私はこのことにこれ以上の言及はやめた。彼は彼なりの人生を全うした。悔いのない人生。それを罵倒している、否定している気にさせられる。だからもうやめた。
 桜木お爺ちゃんのカフェのお手伝いをして過ごした。通信制で一応高校は卒業した。中卒という称号は給料面から不利だから意地でも高校に通った。
 高校卒業した三月下旬。
 "桜木登賀死去 享年96歳"
 老衰と彼に続きまた一人と自分の人生を全うした人物が現れた。
 桜木お爺ちゃんが死ぬ間際私にこそっと話してくれた。
「君はあのパンケーキを食べてはいけない。食べたいときは一緒にいても苦にならない男を捕まえてからだ。そして二人となったときにはお互いがなくなるまで一緒にいて欲しい。一世、二世ができなかったことを君が全部成し遂げてみようや」 
 こんな長文を桜木お爺ちゃんは。
 絶対に叶えます。だからあの世、いや天で私をみていてください。あなたに救われた命は絶対に無駄にはしません。
 口に出したけど聞いている人はいなかった。
 お爺ちゃん、今まで本当にありがとうございました。