パンッ! ――と、何かが弾ける音がした。
料理がかかってくると思っていたのに、濡れることもなく、皿を投げ当てられた痛みも襲ってこない。その代わりに、誰かに優しく抱きしめられている感覚がした。ふと、コーヒーの香りが鼻をかすめた。
聞こえてくるのは、叔母さんの悲鳴と、男性の焦る声。
恐る恐る目を開くと、黒髪がさらりと揺れた。初めて会ったあの日と同じ、コーヒーの香りがしたのは気のせいなんかじゃない。
「食を扱う人間がする行動とは到底思えませんね。非常に残念です」
私を片腕に抱き込むようにして、夜弦さんは言う。いつもと変わらない喫茶店の服装で、サロンまでつけたままできた彼の頬をつう、と汗が伝うのが見えた。
見ると男性が私に投げようとしていた皿の中身は、夜弦さんが持っていたトレーを弾いて自分にかかっており、一張羅であったであろうスーツもソースで汚れてしまっていた。
「梓さん、大丈夫でしたか?」
「どうして……?」
「後で説明します。それよりも、こんな綺麗な恰好のあなたを汚すわけにはいきません。俺の後ろへ」
「き、貴様ぁ! こんなことしていいと思っているのか!」
「料理を無駄にしようとしたのはあなたのほうでしょう。しかもよりによって彼女を狙うなんて……到底、許せません」
「だ、誰か! こいつをたたき出してくれ!」
男性の一言に、周囲の客が何事かと慌てた様子でこちらを見てくる。店のスタッフも、状況がつかめず困った顔をしていた。
「――ああ、もう面倒だ」
突然、低い声が聞こえてきた。見れば夜弦さんが前髪で隠していた角が露わになり、男性を睨みつけている。その凄まじい威圧感に耐え切れず、次々にその場に立ち崩れていく。
「な、なんなんだお前……っ⁉」
恐怖に震え、尻もちをついた男性に夜弦さんが近づくと、先程まで包み込んでいた黒い靄が生き物のように形を変えていく。見ればそれは、手のひらサイズの小鬼だった。
「何百年も見てきたが、ここまで性根が腐っている人間は久々だ。小鬼が取り憑くもの納得だな」
小鬼は夜弦さんの手のひらに乗ると、また黒い靄に戻って吸い込まれるようにして消えていった。あやかしはあやかしを食べるなんて話は聞いたことがない。
私の顔が血の気を引いていることに気付いたのか、夜弦さんはいつもの声のトーンで安心させるように言う。
「大丈夫です。元は俺の一族がまき散らしたもの。俺の体内に戻ってもらいました」
「そ、そう……?」
「ば、化け物……!」
誰かが震えた声で叫んだ。それに反応した彼は鼻で嗤うと、私を引き寄せた。
「醜い人間に言われる筋合いはない。……いつの時代も、人は人を物扱いするのが気に食わない。こうやって依存していく人間が増えるのはお前たちのせいだ」
「ヒィッ!」
「彼女は俺がもらう。もしまた手を出すようなら――次は容赦しない」
不敵な笑みを浮かべる彼を前に、誰もが恐怖に震え上がる。
私は不本意にも、彼のその気迫あるその姿を美しいと思ってしまった。