首元のネクタイをすっと引きしめ、取引先から自宅マンションへ直帰する。
人通りもまばらになった夜更けの道途中に、その夜食処はあった。
コンビニよりもやや小さい、こじんまりとした平屋の店舗だ。
扉は上部がゆるく弧を描いた木製で、取っ手部分は丸い陶器のものが使われている。
店舗の右側には大きな窓があり、まるで暖炉のような明かりが優しく漏れ出ていた。
何より印象的なのは、扉横にさげられたカボチャ型のランプだろう。
橙色に灯るそれは、まるでガラスの靴が出てくるおとぎ話かハロウィンを想起させる。
店脇に置かれた木製ボードの文字に、気を張っていた目元が自然と緩んだ。
──夜食処おやさいどき──
その名の通り、扉を開けてまず目に飛び込んできたのは色鮮やかな野菜の山だった。
「いらっしゃいませ」
視線を移すと、カウンター越しに佇んでいたのは一人の女性だった。
ふわりと柔らかな笑みをたたえたボブショートの女性は、緑色のベレー帽とエプロンを纏っている。
夜更けの小料理屋に勤めるにしては思いのほか若いな、と榊木望は思った。
「今日は少し冷えますね。どうぞお好きな席へ」
「はい」
どうやら望以外の客人はないらしい。
穏やかな促しを受けた望は、不躾にならない程度に辺りを見回した。
店内には窓際席二つ、向かいのカウンター席二つの計四席が、ゆとりをもって置かれている。
椅子は座り心地の良さそうな、一人用のソファーチェアだ。
夜食処と記載があったこともあり、大人数での利用を想定していないのだろう。
最後に視線が止まったのは、先ほども目に触れたレジ横の大きな野菜の山だった。
わら編みの大かごの中に、みずみずしい野菜たちが彩り豊かに身を寄せ合っている。
トマトにキュウリ、ジャガイモにキャベツに長ネギにタマネギに……これは赤ピーマンだろうか、パプリカだろうか。
「それは赤ピーマンなんですよ。パプリカはこっち」
望の疑問をいち早く察したらしい女性が、ふふふと笑みを零す。
その笑顔は接客用のそれではなく、純粋に喜んでいる無邪気な笑顔に思えた。
「赤ピーマンですか。今は野菜もカラフルになっていますね。お恥ずかしながら、最近まで赤色のピーマンはすべてパプリカだと思っていました」
「色の違いで含まれる栄養素も変わるんですよ。こちらも日々勉強です」
まるで店員の一人のような野菜たちに会釈したあと、望はカウンター奥の席に歩みを進めた。
羽織っていたコートを背もたれにかけ、ソファーに腰を据える。
料理を食べるには程よい座面の堅さだ。
「このお店は、夜遅くまでやってらっしゃるんですか」
「はい。十九時から二十四時までの夜間営業のお店なんです。お客さまも、お仕事帰りの方が多いですね」
「なるほど」
ソファーの横には、荷物を置くための大きめのかごも用意されている。
仕事鞄も周囲に気兼ねなく置いてくださいという配慮なのだろう。
ふう、と一息吐いた頃合いで、カウンター越しに女性からおしぼりが差し出された。
「どうぞ。今日も一日お疲れさまでした」
「……ありがとうございます」
胸に温かいものが滲むのを感じながら、おしぼりを受け取る。
手触りのいいおしぼりは適温に蒸されたもので、仕事で凝り固まった手のひらをじんわりと解してくれた。
視界をほのかに覆う白い湯気が、とても心地いい。
「本日のメニューはこちらになります」
続いて手渡されたのは、厚めのクラフト紙を台紙に作られたメニュー表だった。
主食メニューには白米、玄米、雑炊、おにぎり。
汁物には味噌汁、自家製スープなどが写真と手書き文字で丁寧に描かれている。
そういえば大学受験の勉強中、母がよく夜食におにぎりを作ってくれたな。
懐かしい記憶が蘇り、望の口元が小さく綻んだ。
「……ん?」
食欲の赴くままにメニュー表を眺めていた望の口から、間の抜けた声が漏れる。
その理由は、お待ちかねのメインメニュー欄だ。
記されているのは、「トマト」「キャベツ」「なす」「ピーマン」など、まるで八百屋のような品揃えだった。
いや。ようなじゃない。
ほぼ八百屋だ。
「野菜たちは、もちろん調理をしてお出しします」
「え」
「うちでは最初に、お料理のメインとなるお野菜を選んでいただくんです。そのお野菜の良さを、最大限に活かしたお料理を出させていただきます。避けてほしい食材や、調理についての具体的な希望ももちろん承らせていただきますので」
「ああ、なるほど」
先ほどの大かごから生野菜がどんと直で出されるのかと思ったが、流石にそれはない。
はは、と乾いた笑みをこぼし、望は今一度メニュー表に視線を落とした。
野菜の写真の隣には、その発祥地や日本での食文化、どの農園から届けられたのかなどが丁寧に書き添えられている。
そんななか望の視線は、とある野菜の写真のところでぴたりと動きを止めた。
優しい黄緑の色彩に、葉先がふわふわと波打つ丸い形。
キャベツ、か。
「お決まりでしょうか」
その言葉にぱっと顔を上げる。
いつの間にか女性は、少しこちら身を乗り出してこちらを見つめていた。
改めて正面から見て気づく、ぱっちりと大きな丸い瞳。
白い肌にほんのり染まる桃色の頬は、好奇心の強さの一端が窺える。
肩の上で揃えられたダークブラウンのボブカットは、少し幼い印象の彼女にとてもよく似合っていた。
頭に乗せられた緑色のベレー帽も、ふんわり柔らかな彼女のイメージにぴったりだ。
気づく必要のないことに気づいてしまった。
浮かんだ思考をさっと頭の隅に追いやり、望は笑顔でオーダーを済ませる。
「では、完成までどうぞ寛いでお待ちくださいね」
「はい」
まるで春風のような声で告げると、女性はさっそく調理を開始した。
最初はホールスタッフかと思っていたが、どうやら他の店員も見えない。
もしかすると、一人でこの店を切り盛りしているのだろうか。
──若いのに立派だなあ。
その思考は、今日まさに望がかけられた言葉と重なった。
同時に、蓋をしていたやりとりの内容までもが、するすると脳内に紐解かれていく。
二ヶ月ほど前から望が担当で取りかかっている、イベント企画の取引相手だ。
そこの重役はちょうど望の社長とも面識があり、話も順調に進んでいた。
今日の昼間、企画の内容の詳細を詰めるために取引先の本社に赴き、そこで重役とも顔を合わせた。
──ああ、君か。あの榊木くんの秘蔵っ子っていうのは。
──期待しているよ。榊木の甥っ子くん!
別に気にするほどのことではない。
社長、すなわち望の伯父との繋がりを指摘されることは、今までにも数え切れないほどにあった。
最近は特に複数の仕事を詰め込んで、寝る間も惜しんで進めていた。
だからきっと、こんな些末なことに心を囚われているのだろう。
まだまだ青いな、自分も。
人通りもまばらになった夜更けの道途中に、その夜食処はあった。
コンビニよりもやや小さい、こじんまりとした平屋の店舗だ。
扉は上部がゆるく弧を描いた木製で、取っ手部分は丸い陶器のものが使われている。
店舗の右側には大きな窓があり、まるで暖炉のような明かりが優しく漏れ出ていた。
何より印象的なのは、扉横にさげられたカボチャ型のランプだろう。
橙色に灯るそれは、まるでガラスの靴が出てくるおとぎ話かハロウィンを想起させる。
店脇に置かれた木製ボードの文字に、気を張っていた目元が自然と緩んだ。
──夜食処おやさいどき──
その名の通り、扉を開けてまず目に飛び込んできたのは色鮮やかな野菜の山だった。
「いらっしゃいませ」
視線を移すと、カウンター越しに佇んでいたのは一人の女性だった。
ふわりと柔らかな笑みをたたえたボブショートの女性は、緑色のベレー帽とエプロンを纏っている。
夜更けの小料理屋に勤めるにしては思いのほか若いな、と榊木望は思った。
「今日は少し冷えますね。どうぞお好きな席へ」
「はい」
どうやら望以外の客人はないらしい。
穏やかな促しを受けた望は、不躾にならない程度に辺りを見回した。
店内には窓際席二つ、向かいのカウンター席二つの計四席が、ゆとりをもって置かれている。
椅子は座り心地の良さそうな、一人用のソファーチェアだ。
夜食処と記載があったこともあり、大人数での利用を想定していないのだろう。
最後に視線が止まったのは、先ほども目に触れたレジ横の大きな野菜の山だった。
わら編みの大かごの中に、みずみずしい野菜たちが彩り豊かに身を寄せ合っている。
トマトにキュウリ、ジャガイモにキャベツに長ネギにタマネギに……これは赤ピーマンだろうか、パプリカだろうか。
「それは赤ピーマンなんですよ。パプリカはこっち」
望の疑問をいち早く察したらしい女性が、ふふふと笑みを零す。
その笑顔は接客用のそれではなく、純粋に喜んでいる無邪気な笑顔に思えた。
「赤ピーマンですか。今は野菜もカラフルになっていますね。お恥ずかしながら、最近まで赤色のピーマンはすべてパプリカだと思っていました」
「色の違いで含まれる栄養素も変わるんですよ。こちらも日々勉強です」
まるで店員の一人のような野菜たちに会釈したあと、望はカウンター奥の席に歩みを進めた。
羽織っていたコートを背もたれにかけ、ソファーに腰を据える。
料理を食べるには程よい座面の堅さだ。
「このお店は、夜遅くまでやってらっしゃるんですか」
「はい。十九時から二十四時までの夜間営業のお店なんです。お客さまも、お仕事帰りの方が多いですね」
「なるほど」
ソファーの横には、荷物を置くための大きめのかごも用意されている。
仕事鞄も周囲に気兼ねなく置いてくださいという配慮なのだろう。
ふう、と一息吐いた頃合いで、カウンター越しに女性からおしぼりが差し出された。
「どうぞ。今日も一日お疲れさまでした」
「……ありがとうございます」
胸に温かいものが滲むのを感じながら、おしぼりを受け取る。
手触りのいいおしぼりは適温に蒸されたもので、仕事で凝り固まった手のひらをじんわりと解してくれた。
視界をほのかに覆う白い湯気が、とても心地いい。
「本日のメニューはこちらになります」
続いて手渡されたのは、厚めのクラフト紙を台紙に作られたメニュー表だった。
主食メニューには白米、玄米、雑炊、おにぎり。
汁物には味噌汁、自家製スープなどが写真と手書き文字で丁寧に描かれている。
そういえば大学受験の勉強中、母がよく夜食におにぎりを作ってくれたな。
懐かしい記憶が蘇り、望の口元が小さく綻んだ。
「……ん?」
食欲の赴くままにメニュー表を眺めていた望の口から、間の抜けた声が漏れる。
その理由は、お待ちかねのメインメニュー欄だ。
記されているのは、「トマト」「キャベツ」「なす」「ピーマン」など、まるで八百屋のような品揃えだった。
いや。ようなじゃない。
ほぼ八百屋だ。
「野菜たちは、もちろん調理をしてお出しします」
「え」
「うちでは最初に、お料理のメインとなるお野菜を選んでいただくんです。そのお野菜の良さを、最大限に活かしたお料理を出させていただきます。避けてほしい食材や、調理についての具体的な希望ももちろん承らせていただきますので」
「ああ、なるほど」
先ほどの大かごから生野菜がどんと直で出されるのかと思ったが、流石にそれはない。
はは、と乾いた笑みをこぼし、望は今一度メニュー表に視線を落とした。
野菜の写真の隣には、その発祥地や日本での食文化、どの農園から届けられたのかなどが丁寧に書き添えられている。
そんななか望の視線は、とある野菜の写真のところでぴたりと動きを止めた。
優しい黄緑の色彩に、葉先がふわふわと波打つ丸い形。
キャベツ、か。
「お決まりでしょうか」
その言葉にぱっと顔を上げる。
いつの間にか女性は、少しこちら身を乗り出してこちらを見つめていた。
改めて正面から見て気づく、ぱっちりと大きな丸い瞳。
白い肌にほんのり染まる桃色の頬は、好奇心の強さの一端が窺える。
肩の上で揃えられたダークブラウンのボブカットは、少し幼い印象の彼女にとてもよく似合っていた。
頭に乗せられた緑色のベレー帽も、ふんわり柔らかな彼女のイメージにぴったりだ。
気づく必要のないことに気づいてしまった。
浮かんだ思考をさっと頭の隅に追いやり、望は笑顔でオーダーを済ませる。
「では、完成までどうぞ寛いでお待ちくださいね」
「はい」
まるで春風のような声で告げると、女性はさっそく調理を開始した。
最初はホールスタッフかと思っていたが、どうやら他の店員も見えない。
もしかすると、一人でこの店を切り盛りしているのだろうか。
──若いのに立派だなあ。
その思考は、今日まさに望がかけられた言葉と重なった。
同時に、蓋をしていたやりとりの内容までもが、するすると脳内に紐解かれていく。
二ヶ月ほど前から望が担当で取りかかっている、イベント企画の取引相手だ。
そこの重役はちょうど望の社長とも面識があり、話も順調に進んでいた。
今日の昼間、企画の内容の詳細を詰めるために取引先の本社に赴き、そこで重役とも顔を合わせた。
──ああ、君か。あの榊木くんの秘蔵っ子っていうのは。
──期待しているよ。榊木の甥っ子くん!
別に気にするほどのことではない。
社長、すなわち望の伯父との繋がりを指摘されることは、今までにも数え切れないほどにあった。
最近は特に複数の仕事を詰め込んで、寝る間も惜しんで進めていた。
だからきっと、こんな些末なことに心を囚われているのだろう。
まだまだ青いな、自分も。