首元のネクタイをすっと引きしめ、取引先から自宅マンションへ直帰する。
人通りもまばらになった夜更けの道途中に、その夜食処はあった。
コンビニよりもやや小さい、こじんまりとした平屋の店舗だ。
扉は上部がゆるく弧を描いた木製で、取っ手部分は丸い陶器のものが使われている。
店舗の右側には大きな窓があり、まるで暖炉のような明かりが優しく漏れ出ていた。
何より印象的なのは、扉横にさげられたカボチャ型のランプだろう。
橙色に灯るそれは、まるでガラスの靴が出てくるおとぎ話かハロウィンを想起させる。
店脇に置かれた木製ボードの文字に、気を張っていた目元が自然と緩んだ。
──夜食処おやさいどき──
その名の通り、扉を開けてまず目に飛び込んできたのは色鮮やかな野菜の山だった。
「いらっしゃいませ」
視線を移すと、カウンター越しに佇んでいたのは一人の女性だった。
ふわりと柔らかな笑みをたたえたボブショートの女性は、緑色のベレー帽とエプロンを纏っている。
夜更けの小料理屋に勤めるにしては思いのほか若いな、と榊木望は思った。
「今日は少し冷えますね。どうぞお好きな席へ」
「はい」
どうやら望以外の客人はないらしい。
穏やかな促しを受けた望は、不躾にならない程度に辺りを見回した。
店内には窓際席二つ、向かいのカウンター席二つの計四席が、ゆとりをもって置かれている。
椅子は座り心地の良さそうな、一人用のソファーチェアだ。
夜食処と記載があったこともあり、大人数での利用を想定していないのだろう。
最後に視線が止まったのは、先ほども目に触れたレジ横の大きな野菜の山だった。
わら編みの大かごの中に、みずみずしい野菜たちが彩り豊かに身を寄せ合っている。
トマトにキュウリ、ジャガイモにキャベツに長ネギにタマネギに……これは赤ピーマンだろうか、パプリカだろうか。
「それは赤ピーマンなんですよ。パプリカはこっち」
望の疑問をいち早く察したらしい女性が、ふふふと笑みを零す。
その笑顔は接客用のそれではなく、純粋に喜んでいる無邪気な笑顔に思えた。
「赤ピーマンですか。今は野菜もカラフルになっていますね。お恥ずかしながら、最近まで赤色のピーマンはすべてパプリカだと思っていました」
「色の違いで含まれる栄養素も変わるんですよ。こちらも日々勉強です」
まるで店員の一人のような野菜たちに会釈したあと、望はカウンター奥の席に歩みを進めた。
羽織っていたコートを背もたれにかけ、ソファーに腰を据える。
料理を食べるには程よい座面の堅さだ。
「このお店は、夜遅くまでやってらっしゃるんですか」
「はい。十九時から二十四時までの夜間営業のお店なんです。お客さまも、お仕事帰りの方が多いですね」
「なるほど」
ソファーの横には、荷物を置くための大きめのかごも用意されている。
仕事鞄も周囲に気兼ねなく置いてくださいという配慮なのだろう。
ふう、と一息吐いた頃合いで、カウンター越しに女性からおしぼりが差し出された。
「どうぞ。今日も一日お疲れさまでした」
「……ありがとうございます」
胸に温かいものが滲むのを感じながら、おしぼりを受け取る。
手触りのいいおしぼりは適温に蒸されたもので、仕事で凝り固まった手のひらをじんわりと解してくれた。
視界をほのかに覆う白い湯気が、とても心地いい。
「本日のメニューはこちらになります」
続いて手渡されたのは、厚めのクラフト紙を台紙に作られたメニュー表だった。
主食メニューには白米、玄米、雑炊、おにぎり。
汁物には味噌汁、自家製スープなどが写真と手書き文字で丁寧に描かれている。
そういえば大学受験の勉強中、母がよく夜食におにぎりを作ってくれたな。
懐かしい記憶が蘇り、望の口元が小さく綻んだ。
「……ん?」
食欲の赴くままにメニュー表を眺めていた望の口から、間の抜けた声が漏れる。
その理由は、お待ちかねのメインメニュー欄だ。
記されているのは、「トマト」「キャベツ」「なす」「ピーマン」など、まるで八百屋のような品揃えだった。
いや。ようなじゃない。
ほぼ八百屋だ。
「野菜たちは、もちろん調理をしてお出しします」
「え」
「うちでは最初に、お料理のメインとなるお野菜を選んでいただくんです。そのお野菜の良さを、最大限に活かしたお料理を出させていただきます。避けてほしい食材や、調理についての具体的な希望ももちろん承らせていただきますので」
「ああ、なるほど」
先ほどの大かごから生野菜がどんと直で出されるのかと思ったが、流石にそれはない。
はは、と乾いた笑みをこぼし、望は今一度メニュー表に視線を落とした。
野菜の写真の隣には、その発祥地や日本での食文化、どの農園から届けられたのかなどが丁寧に書き添えられている。
そんななか望の視線は、とある野菜の写真のところでぴたりと動きを止めた。
優しい黄緑の色彩に、葉先がふわふわと波打つ丸い形。
キャベツ、か。
「お決まりでしょうか」
その言葉にぱっと顔を上げる。
いつの間にか女性は、少しこちら身を乗り出してこちらを見つめていた。
改めて正面から見て気づく、ぱっちりと大きな丸い瞳。
白い肌にほんのり染まる桃色の頬は、好奇心の強さの一端が窺える。
肩の上で揃えられたダークブラウンのボブカットは、少し幼い印象の彼女にとてもよく似合っていた。
頭に乗せられた緑色のベレー帽も、ふんわり柔らかな彼女のイメージにぴったりだ。
気づく必要のないことに気づいてしまった。
浮かんだ思考をさっと頭の隅に追いやり、望は笑顔でオーダーを済ませる。
「では、完成までどうぞ寛いでお待ちくださいね」
「はい」
まるで春風のような声で告げると、女性はさっそく調理を開始した。
最初はホールスタッフかと思っていたが、どうやら他の店員も見えない。
もしかすると、一人でこの店を切り盛りしているのだろうか。
──若いのに立派だなあ。
その思考は、今日まさに望がかけられた言葉と重なった。
同時に、蓋をしていたやりとりの内容までもが、するすると脳内に紐解かれていく。
二ヶ月ほど前から望が担当で取りかかっている、イベント企画の取引相手だ。
そこの重役はちょうど望の社長とも面識があり、話も順調に進んでいた。
今日の昼間、企画の内容の詳細を詰めるために取引先の本社に赴き、そこで重役とも顔を合わせた。
──ああ、君か。あの榊木くんの秘蔵っ子っていうのは。
──期待しているよ。榊木の甥っ子くん!
別に気にするほどのことではない。
社長、すなわち望の伯父との繋がりを指摘されることは、今までにも数え切れないほどにあった。
最近は特に複数の仕事を詰め込んで、寝る間も惜しんで進めていた。
だからきっと、こんな些末なことに心を囚われているのだろう。
まだまだ青いな、自分も。
「……ん」
気づけば辺りには、温かくて豊かな匂いが立ちこめていた。
くつくつと小さく耳に届くのは、何かを煮詰める音だろうか。
伏せられたまつげに、ふわりと湯気が触れる心地がする。
……伏せられた?
「……っ!」
我に返った望は、がばりと顔を上げた。
瞬間、肩に乗せられていたものが床にするりと落ちていくのがわかる。
顔を上げた先には、少し小さめの鍋に向き合い口元を綻ばせている女性の横顔があった。
小皿に注いだ味を確かめた女性は、とても幸せそうに微笑む。
最愛の人に笑いかけるような表情に、望は一瞬目を奪われた。
「あ。目を覚まされたんですね」
「……っ、すみません。店内でうたた寝なんて、とんだご迷惑を……!」
「いえいえ。そんなに時間は経っていませんよ。十分弱といったところです」
気に留める風でもない女性だったが、望は内心冷や汗を掻いていた。
今日は重要書類を持ち帰ってはいないが、初見の場所で眠り込んでしまうなんて自分にとってはあり得ない。
先ほど肩から滑り落ちたものを拾い上げる。
ふわふわと柔らかな手触りの膝掛けだ。
どうやら女性がかけてくれたらしい。
「ここの開店時間は夜遅くですから。皆さんお疲れで、待ち時間に眠ってしまうこともそう珍しくはないんです」
「そ、そうですか」
「それに、不思議なことに皆さん、お料理ができあがる頃合いにはすうっと自然に起きてくださるんですよ」
ふふ、と微笑みながら、女性は手慣れた様子で器に料理を盛り付けていく。
小さな手で進められていく細やかな作業を眺めていると、あっという間に木製のトレー上に料理たちが出揃った。
カウンターを出た女性が、望の元まで歩みを進める。
「お待たせいたしました。お客さまの本日のお夜食、ロールキャベツでございます」
目の前に置かれたのは、ほかほかと温かな湯気をたたえた夜食たちだった。
真っ白にピンと立ち上がった白米に、中で味噌の濃淡がふわふわと揺れるお味噌汁。
そしてメインの器に控えるのは、きれいな俵型に整えられたロールキャベツだ。
着物のように美しく巻かれたキャベツは鮮やかな黄緑色で、豊かなだしの香りをたっぷりとまとっている。
「美味そうですね」
「ふふ。今の季節は、春キャベツが一番の旬なんですよ」
無意識に漏れていた言葉に、女性は嬉しそうに答えた。
「キャベツに含まれる主な栄養素はビタミンCやカルシウムがありますが、とくに特徴的なものがビタミンUです。こちらは胃薬に用いられることもある栄養素で、疲れた胃の働きを助けてくれると言れています。キャベツは大きく春キャベツと夏キャベツ、冬キャベツに分けられますが、今はまさに春キャベツの季節ですね」
「そうなんですね。春キャベツと冬キャベツは知っていましたが、夏キャベツは初めて聞きました」
「そうでしたか。冬キャベツは葉っぱは厚く、巻き具合が締まっていますね。煮込んでも形が崩れにくいことから、ロールキャベツやミルフィーユ煮におすすめとされることが多いです。夏キャベツは、春キャベツと冬キャベツの中間の特徴を持っていて、葉っぱは柔らかいですが巻き具合はきっちりしていますね」
「な、なるほど」
「春キャベツは巻き具合が優しく、葉っぱもとても柔らかいんです。煮物に向かないと言われることもありますが、そのぶん噛み切りやすくてとても食べやすいんですよ。よろしければぜひ、だし汁までお楽しみください。しみ出たキャベツの栄養素までしっかりお客さまの身体の一部になって、頼もしい応援団になってくれると思います!」
「……!」
高揚感を宿した赤色の頬に、小さなえくぼが見えた。
「ではどうぞ、ごゆっくり過ごされてくださいね」
「……ありがとうございます」
カウンターへと戻っていった彼女を見送り、望は今一度目の前に置かれたトレーを眺める。
ふわふわと食欲をそそる香りと、こちらを労るような淡い湯気。
思えばこんな風に食べ物とゆっくり向き合う時間も、久しくなかったように思う。
自分の身体の一部になる、頼もしい応援団──か。
手を合わせ、望はレンゲを手に取った。
ロールキャベツのだし汁をひとすくいし、口に運ぶ。
瞬間、口内に広がったまろやかな味わいが、身体にじんわりと沁みていくのがわかった。
手に取った箸で、キャベツをそっと解していく。
すると中からは、予想以上に色どり豊かなタネ部分が姿を見せた。
「ロールキャベツの中身は、挽肉とタマネギだけではないんですね」
「はい。鶏挽肉の中に、タマネギとにんじん、パプリカにブロッコリー、それから卵とお豆腐が入っています」
「すごいな。自分の想像以上に、たくさんの野菜が入っていたみたいです」
「お野菜もそうですが、特にお豆腐のタンパク質は優秀で、溜まった疲れを解してくれると言われているんですよ」
自分はそんなに疲れを溜めているように見えたのだろうか。
望は密かに苦笑するが、確かにそうかもしれないと思った。
いつもそれなりに多忙な仕事ではある。
しかし最近はそれに加え、プロジェクト主戦力の男性社員の妻が緊急入院になった。
彼の分の仕事は早急に現場で割り振られたものの、内容を熟知している自分に加わった業務割合はやはり小さくはない。
こういった事態は持ちつ持たれつなので、不満は特になかった。
それでもその分、仕事以外の時間は確実に削られていた。
必要があれば遠慮なく仕事を振ってくれと部下たちに言われても、この程度なら自分で対処できると判断し、キャパシティーを見誤った。
ああ。そうか。
自分は疲れていたのだな。
だから身体が無意識に、この店へと引き寄せてくれたのかもしれない。
何か、美味しいものを喰わせてほしいと。
「ご馳走さまでした」
「はい。お粗末さまでした」
代金の支払いを終えた望が丁寧に告げると、女性もまた深く頭を下げた。
そのとき、エプロンの胸元に留められた小さな名札に気づく。
淡い色彩のフェルトで作られたらしいそれは、どうやら手作りのようだった。
名前の横には可愛らしい人形の頭が添えられ、ダークブラウンのボブショートに緑色のベレー帽を被っている。
「素敵な名札ですね」
「お得意さまの奥さまが作ってくださったんです。お客さまに、私の名前をすぐに覚えていただけるようにと」
「そうでしたか」
それならば、自分が女性の名を覚えても差し支えないのだろうか。
誰に言い訳するわけでもなく心の中で呟くと、望は再度ちらりと女性の名札に視線をやった。
沙都。
花岡、沙都さん。
「よろしければまたどうぞお越しください。それから、お客さまにこちらを」
「え」
そう言って沙都から手渡されたのは、二つ折りに丁寧に畳まれた一枚の紙だった。
レジカウンターを出てから差し出されたそれに、思わずどきっと心臓が跳ねた。
「春キャベツをおうちでご笑味いただくときの、おすすめの調理レシピです。とても簡単なものなので、よろしければおうちでもぜひ作ってみてくださいね」
「……」
ああ、なるほど。
レシピか。
「それは、わざわざありがとうございます」
店員として向けられた厚意に、わずかでも期待してしまった自分が情けない。
落胆を気取られないように素早く笑顔を浮かべ、望はその紙を受け取った。
扉を開く。
夜が更けた街並みは星が瞬き、徐々に望を現実世界へと誘っていく。
それでも、訪れたときよりもよほど夜の街並みが美しく映っていた。
「ごはん、きちんと食べなくちゃ駄目ですよ」
振り返ると、扉先で何かを抱えながら見送る沙都がいる。
両手に抱えたそれは、大きな春キャベツだ。
「身体は食べたもので作られるんです。忙しいときほど、美味しいものを食べることを忘れないでくださいね」
「……はい。ありがとうございます」
まるで春キャベツを人形に見立てるみたいに話す沙都に、自然と笑みが漏れる。
今一度頭を深く下げ、望は今度こそ家路についた。
背中の向こうでは、春キャベツを抱えたあの人がいつまでも自分を見守ってくれているような気がした。
「ここにいたか、望」
「社長」
オフィス廊下の突き当たりにある、大窓が広がる休憩スペース。
自販機で買った飲み物片手に窓の外を眺めていると、背後から快活な声がかかった。
会社内で自分を「望」と呼ぶのはこの人しかいない。
望が勤める会社の創設者。初代社長の榊木昇だ。
御年五十五。
ほんのり入り交じった白髪は年相応でも、はつらつとした笑顔もピンと背筋が伸びた佇まいも、その辺の若者よりよほどパワーがみなぎっている。
「お一人さまの休憩じゃ寂しいだろ。俺も隣にご一緒させてもらっていいか?」
「ご辞退しても居座るつもりでしょう」
「ははっ、邪険にするなよ。一カ月ぶりに可愛い甥の顔を見に来ただけさ」
「……社内じゃ甥扱いは控えてくれっていってるだろ。昇おじさん」
諦めたようにうなだれる望をよそに、昇は嬉しそうに頭を撫でつける。
伯父である昇が一人会社を立ち上げたのは、望が小学生の頃だった。
それがいつの間にか仲間が一人、また一人と増え、気づけば東京の一等地にオフィスを構える有名イベント企画会社へと成長を遂げていた。
その変貌ぶりを、望は間近で見てきた。
就職活動をはじめた望は、迷うことなく伯父が経営する会社への就職を希望した。
「お前のところのプロジェクト要員、来週以降に補充が出来る目処が付いた。あとで詳細を送るから確認を頼む」
「承知しました。他メンバーの空きは大丈夫ですか」
「問題ないさ。いざとなれば俺が直接動く。管理職もたまには頭を動かさねえと錆びちまうからな」
「はあ。現場荒しの異名を持つ人がよくいう」
「お。なんだなんだ。ついに可愛い甥っ子も反抗期かあ?」
「あいにく、反抗期なんて時期はとうに過ぎましたよ」
「だな。お前は結局、そういった時期がないまま大きくなっちまったもんなあ」
「……伯父さんがいないところでは、それなりにありましたよ」
年長者としての詫びの感情が滲む言葉に、望はすぐさま首を横に振る。
母は未婚のまま望を産んだ。
父親の話を聞いたことはあるが、どうやら妊娠を知るやいなや母と自分を捨てて逃げたらしい。
以来、母は身重で必死に働き、未婚だった伯父もまたかなりの援助をしてくれた。
金銭だけではない。
父兄参観には毎年欠かさず出てくれたし、運動会ではぶっちぎりで父親リレーを走りきってくれた。
加えて母子家庭をからかうクラスメート相手に、あの手この手を使って打ち負かす術も伝授してくれた。
どんな逆境でも、たちまち奇跡を起こす。
伯父は望にとって、無敵のヒーローだった。
「まあ、いつまでもお前にこっちの仕事を任せっきりにするわけにはいかないからなあ」
「気づけばもう来月ですもんね」
「お前、本当にいいのか? 一年間の大阪赴任」
「何を今さら」
伯父の会社は順調に規模を拡大し、昨年には大阪支社を新たに立ち上げた。
徐々に仕事を獲得していたそちらでの新しいチーフリーダーとして、望に新たに白羽の矢が立ったのは先月のことだ。
関西の業務内容に、能力面、住環境面からも、望はまさに適任だった。
断る理由も特になかった望は、二つ返事で引き受けた。
「あっさり決めちまったけど、本当にいいのか? お前もこっちに愛着もあるだろうし、それこそ、いい人の一人や二人いてもおかしくねえだろ?」
「確かに東京に愛着はありますが、残念ながらいい人はいませんよ。考えたこともありません」
「もったいねえなあ。うちの妹に似て、きれいな面に生んでもらったのによ」
酷く重いため息を吐くものだから、望も何となく居心地悪く視線を背ける。
「うちの社に入ってから、社内の子にだって何度か告白されたって聞いたけど」
「はあ、まあ」
「取引先の受付嬢にも、数名からお誘いを受けたって聞いたけど」
「はあ、まあ」
「イベント当日の女性客にも、複数名から声をかけられたって聞い」
「……あんたは甥の恋愛情報を集めるのが仕事なのか?」
思わずため口で突っ込んでしまった望に、昇はにやりと口元に意地悪い笑みを浮かべる。
「今は離れた母親に代わって俺が気にしてやってるんだよ。可愛い可愛い甥っ子の行く末を」
「野暮な詮索は不要ですから、また妙な気を利かせて見合い話とか持ってこないでくださいね」
「はいはいわかった……、ん?」
「あ」
会話が進んだこともあり、追加でコーヒーを購入しようと財布を手に取ったときだった。
折りたたみ財布の狭間から滑り落ちた茶色の紙が、ひらひらと木の葉のように昇の靴先に不時着したのだ。
まずい。
そう思ったときにはすでに、紙は昇の手に拾われていた。
次の瞬間、昇の顔ににんまりと愉快げな笑みが上っていく。
「これはこれは。確かに昇伯父さんの手助けは不要なわけだなあ。甥っ子に、こんな可愛いメモ紙を渡してくれる存在がいるとはねえ?」
「……言っておきますが、最近初めて訪れた夜食処の方が、事務的に渡してくれているものですから。別に何か意味があるわけでは」
「ほおおおお。事務的かあ。事務的ねえ」
なるほどなるほど、と仰々しく顎をさする伯父が差し出すメモ紙を、昇は憮然とひったくる。
事務的に渡しているだけのメモ紙。
それはこの紙を受け取ったときから、幾度となく自分自身に告げてきた言葉だった。
これはあの人が仕事の一環で渡しているだけの紙。
他になんの意図もないのだと。
「脇目も振らずに仕事に精を出してきた、副作用が出ちまってるなあ」
なんとも言えない呟きを残し、伯父は去って行った。
そんな背中を見送ったあと、望は手元に戻った茶色のメモ紙を開く。
記されているのは、先日メニューの主役として登場した春キャベツの簡単レシピだ。
手書きで記したレシピで、どうやら野菜ごとに何パターンか用意されているらしい。
そしてメモ紙の下部には、数行のメッセージを残すことができるスペースがあった。
──今日も本当にお疲れさまでした。
──春キャベツの優しさで、今夜はぐっすりお休みになれますように。
ココア色の水性ペンで記されていたのは、紛れもなく手書きされた沙都の文字だった。
初来店のあのとき、つい眠りこけてしまった自分に向けて残してくれた、自分宛のメッセージ。
文末には、簡易的な沙都の似顔絵まで加えられている。
「……可愛い人、だよな」
本人がいないからこそ、ぽつりと漏れた言葉だった。
連日の仕事疲れに押しつぶされそうになっていた望を、偶然の出逢いが力強く引き上げた。
その正体は店舗のまとう温かな空気かも、春キャベツの力かも、あの人の柔らかな人となりかもしれない。
でもあと一カ月。
どうせあと一カ月で、自分はこの街を離れる。
あの店とも当然、繋がりは途絶えるだろう。
「……さて、仕事仕事」
メモ紙を静かに財布に仕舞った望は、今日中にこなすべき業務スケジュールの洗い出しをはじめた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「こんばんは。今日も一日お疲れさまでした」
今日「も」。
どうやら数日前の来店を覚えられていたことに、望は密かに安堵する。
日中の仕事を怒濤の勢いで片付けた望は、再び夜食処へと訪れていた。
会社からの道順には少し自信がなかったが、手渡されていたメモ紙に記された住所が頼りになった。
「今日も野菜たちが元気にお待ちかねですよ。メニュー表をどうぞ」
「ああ、いえ。よければまた、以前と同じロールキャベツのお夜食をお願いします」
「承知しました。できあがりまで少々お待ちくださいね」
ふわりと柔らかな笑みをたたえ、沙都はカウンター内へ戻っていく。
相変わらずうきうきと音符が見えてきそうな沙都の様子に、望は知らずのうちに笑みを浮かべていた。
「……? どうかされましたか」
「いいえ。ただ、とても楽しそうにお料理されているなあと思いまして」
「……前回は、大変失礼いたしました。頼まれたわけでもなく、野菜のあれやこれやと語りはじめてしまいました」
巨大冷蔵庫から取りだした春キャベツを脇に置き、沙都は深々と頭を下げる。
どうやら先日自分が家路についたあと、一人反省会を開いていたらしい。
「確かに圧倒されはしましたが、不快には思いませんでしたよ。野菜への愛情が感じられて、好感を持ったほどです」
「本当ですか」
「ええ」
「よかった……!」
心底胸をなで下ろしたのが伝わる笑顔に、思いがけず胸が大きな音を鳴らす。
「実は以前、私の話がいきすぎてお客さまに叱責を受けたことがありまして……それ以来、程よい会話を探りつつ経営を続けているんです。馴染みの方は逆に会話を望んでくださる方もいらっしゃいますが、初来店の方がそうとは限りませんから」
「こればっかりは、人それぞれですからね」
「本当に。日々試行錯誤の連続です」
ふふ、と笑みを交わしたあと、沙都は再び調理へと手を進めていった。
みずみずしい春キャベツの葉を、労るように一枚一枚切り離していく。
色とりどりの野菜たちを細切れに刻んでゆき、挽肉と卵、豆腐とあわせて手早くこねていった。
キャベツの着物を美しく纏ったタネたちが、小鍋の中に丁寧に敷き詰められていく。
ふうわりと漂ってきた豊かなだしの香りに、望は思わず深呼吸をしてした。
「いい香りですね」
「ありがとうございます。もう少しだけ、お待ちくださいね」
いたずらっぽく告げる沙都に、望も自然と笑みが引き出される。
沙都という女性は、どうやらこの店舗を一手に経営しているらしい。
料理、こと野菜に関して特別な愛情を持っている様子の沙都にとって、きっとこの仕事は天職なのだろう。
しかしその反面、一人での店舗経営は並大抵の努力では継続が困難だということも、イベント企画に携わる望は熟知している。
先ほども沙都は、客人から叱責を受けたことがあると話していた。
正当な指摘ならまだしも、人目が少ない深夜となれば、理不尽な要求を通そうとする輩が現れても不思議はない。
しかも、こんなに可愛らしい女性がひとりで店に立つというのは──、とそこまで考えた瞬間、望の思考がぱちりと止まった。
陰った視界に顔を上げると、トレーを差し出す沙都と目が合う。
「お待たせいたしました。ロールキャベツのお夜食でございます」
「あ、ありがとうございます」
思わず言葉に乗ってしまった動揺を抑えつけ、望は笑顔でトレーを受け取る。
今日のお夜食も、仕事疲れをひきずった望の食欲をみるみる引き出していった。
温かなだしの利いたロールキャベツを、ゆっくりじっくり味わっていく。
このお夜食を食べることで、足りていなかったいろいろなものが優しく補充されていくような心地がした。
「美味しいです。とても」
「ありがとうございます。どうぞゆっくりされてくださいね」
食事を進めながら、望はそっとカウンター越しに沙都の姿を見遣る。
緑色のベレー帽を頭に置き、カウンターに並べた野菜たちをひとつひとつ丁寧に手に取っている。
時に満足げに、時になるほどと顎をさすりながら凝視したあと、表面をそっと撫でつけてふわりと笑みを深める。
その横顔はまるで、我が子の成長を喜ぶ母親のようだ。
心の中で呟いた瞬間、伯父のにやけ顔がふと頭を過り、望は慌ててかぶりを振った。
違う違う。
これは別にそういうあれではない。
沙都はただ業務を遂行して、自分に料理を提供してくれている。
自分はそれを、お金を払って提供されている。
ただそれだけの関係だ。
それにどのみち、自分がここに通うことが出来るのだって今月いっぱいであって──。
「あの。もしかして、味に何か問題がございましたか」
「え?」
気づけば心配そうに眉を下げた沙都が、カウンター越しにこちらをじいっと見つめていた。
先ほどまで愛おしげに野菜に向けられていた瞳に、今は自分が映し出されている。
その事実に、心臓が大きく震える。
「今、首を何度か振られているようでしたから。何か不都合がございましたら、すぐに作り直しますが」
「っ、いいえ違います」
どうやら先ほどの自分の動作が目に留まってしまっていたらしい。
望は慌てて手を横に振った。
「誤解をさせてしまってすみません。仕事のことで、少し考え事をしていまして」
「そうでしたか。こんなに遅くまでお勤めなんですもの。きっと大変なお仕事なんでしょうね」
「……実は私、来月に関西への転勤が決まっているんです」
するりと口から出た話題に、望自身驚いた。
どうして沙都に話そうと思ったのか、話したことで何を期待したのか。
どちらもよくわからないまま、しかし言葉は元には戻せない。
「転勤自体に迷いはないんですが、慣れた土地を離れることになりますし、やっぱり少し考えることもあって」
「そうなんですね……関西ですか」
どこかしんみり告げる沙都の表情を、望はうまく見ることができなかった。
一体どんな表情で言ってくれているのだろう。
「私も、地元から離れるときはやっぱり色々と考えたものですが、期待も不安もありますよね」
「そうですね。それにその」
「?」
「せっかく素敵なお店を見つけたばかりなのに、残念だなあと」
「……もしかすると、うちのことでしょうか?」
聞き返され、望は顔を持ち上げ正直に頷く。
その瞬間、沙都の表情にふわっと幸せそうな笑みが浮かんだ。
まるで桜の花のような人だな、と望は思った。
「ありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいですし、励みになります」
「ここのごはんを食べてから、少しおざなりになっていた食生活も見直す意識が出てきました。確かに、食べたものが自分を作ると考えると、あまり適当にはしていられませんよね」
「そう、そう。その通りだと思います!」
いつの間にか、沙都の野菜愛に火がついてしまったらしい。
深く頷いたあと、沙都はカウンターに並べていた野菜たちから、大きな丸いものを抱え上げた。
本日の主役でもある、春キャベツだ。
「このキャベツは、千葉県と東京都の県境の農家さんからうちに来ることになりました。その農家さんは夫婦二人で畑仕事を続けておられるんですが、人手も足りず、幾度となく今期で最後にしよう、最後にしようとお話が出ていたそうなんです」
「そうなんですか」
「それでも、この農家さんの春キャベツを求める人の声はあとを絶たなかった。ご夫婦がこの春キャベツ栽培をはじめたのはもう二十年以上前なんですが、当時ではかなり画期的な農法を取られていて……」
初対面のときこそ呆気にとられた望も、今回の話には純粋に耳を傾けることが出来た。
沙都のうちに宿る野菜への愛情を、自分はもうすでに知っているのだ。
「ですから、この地を離れてしまってもきっと大丈夫です」
「……え?」
「お野菜は今はもう、全国至る所で顔を合わせることができますから」
包み込むような笑顔で、沙都は続ける。
「もしも心細くなったときはきっと、野菜さんたちがお客さんを見守ってくれています。食べてくれてありがとう、私も君を応援するよって言ってくれています。私もずっとそうでした」
「……」
「だから、どうか元気を出してくださいね」
「……俺」
「はい?」
「……少し、元気が出ました。ありがとうございます」
笑顔で返した望の言葉に、沙都も笑みを濃くする。
本当に続けたかった言葉を呑み込んで、望は食事を平らげた。
俺の名前も、お伝えしてもいいでしょうか──なんて、さすがに言えない。
「ご馳走さまでした」
「はい。お粗末さまでした」
会計を済ませたあと、沙都は前回と同様に小さなメモ紙を渡してくる。
「どうぞ、お気を付けて行ってきてくださいね」
「……はい。ありがとうございます」
わざわざあんな話をしたんだ。
きっと沙都は、もう望は店に来ないと思っているに違いない。
店が見えなくなる位置まで歩みを進めたあと、望は手中のメモ紙の中身をそっと覗く。
そこには前回と内容の異なるキャベツレシピとともに、やはり手書きのメッセージが添えられていた。
──関西のキャベツ料理といえば、やっぱりお好み焼きですね!
「本当に、野菜一色だな。あの子は」
にっこり微笑む手書きの似顔絵を、親指でそっと撫でつける。
財布の中に丁寧に仕舞った二枚目のメモ紙は、小さな落胆を抱える望の胸をほんのり温めていた。
「ええっ、それじゃあ榊木さん、関西転勤の噂は本当だったんですかっ?」
「うそー……」
若い声がオフィスの一角に小さく響く。
顔を見合わせるのは、勤続五年目ほどの女性社員二人だ。
新人時代に望が教育係についていたこともあり、今でも慕ってくれている。
「そうなんだ。こちらので大きなプロジェクトもようやく一段落ついたしね。バタバタするけれど引き継ぎはしっかりさせてもらうし、何かあればいつでも連絡してくれて構わないから」
「ありがとうございます……でも! 榊木さんがいなくなるのはやっぱり寂しいですよ!」
「仕事もそうですけれど! これからいったいどうしたらいいんですか? 私たちの日々の目の保養はっ!?」
「ははは……目の保養ね」
苦笑するしかない望に、「笑い事じゃないです!」と二人が揃って喰ってかかる。
浮いた話がなかなか出ない自分は、どうやら若い子たちにとっては丁度いい話のネタらしい。
とはいえ別れを惜しんでくれる後輩の存在は、やはり嬉しいものに変わりなかった。
先ほど自販機で買ってきた飲み物を差し出しながら、望は微笑む。
「はい。ひとまず飲み物でも飲んで、午後の仕事も乗り切ろう。微糖のカフェラテと、炭酸オレンジでよかったよね?」
「うう……ありがとうございます、榊木さん」
「榊木さん優しい……別れが辛いいい」
「ありがとう。俺も寂しいよ」
目を細める望に、二人の頬がふわりと桃色に染まる。
そのとき、ポケットのスマホが震えていることに気づき、望は足早にオフィスをあとにした。
廊下の先に行き着いたところで着信ボタンを押す。
母からだ。
「もしもし。母さん、どうかした?」
「ああ、望。仕事中だったかしら、一応昼休憩かと思ってかけたんだけど」
「大丈夫だよ。元気そうだね。身体の具合はどう?」
「お陰さまでとっても元気よ。最近は近所の奥さまたちと小旅行に出掛けたりしてね」
受話器越しに聞こえてくる弾むような声色に、望は小さく安堵の息を吐く。
望の母親は、昔から身体が弱い人だった。
一人で黙々と無理を重ねては、突然倒れてしまうことも一度や二度ではなかった。
女手ひとつで自分を育て上げてくれた母親に、望は心から感謝している。
今は無理のないペースで楽しく働いて、友人との時間も取れている。
母親のとりとめない近況を聞くたびに、望は心穏やかになれた。
「ところで昇兄から聞いたんだけど。あなた、ようやくどなたかいい人が出来たんだって?」
「……はっ?」
まずい。つい大声を張ってしまった。
幸い周囲に人の影はないものの、受話器からは母親の愉しげな笑い声が届く。
「実は最近私の職場の人からも、お見合いの話を結構な頻度で頂いていたのよ。あ、私のじゃないわよ。もちろん望のね。お断りの文句を考えるのも結構大変だけれど、お相手がいるなんて嘘を吐くのも、何となく気が咎めたりしていたものだから」
「お相手なんていないって。期待させて悪いけど」
「え、そうなの? でも昇兄が」
「昇伯父さんのいうことは真に受けるなって、いつも言ってるだろ?」
とはいえ、心底がっかりした声を出されてはこちらの罪悪感も多少は疼く。
単身上京した息子の行く末を案じているのだろうが、もう三十一。立派な大人だ。
加えて、結婚を選ばない人生を送る人なんてごまんといる。
「別に母さん、早く結婚してほしいなんてせっついているわけじゃあないのよ。だってほら、現に私自身、結婚直前で大失敗しでかしたいい見本だものねえ?」
きゃはっと笑う母親に苦笑が漏れる。
ブラックジョークだ。
「でもあなたってば私に似て、仕事ばかりに明け暮れていると自分を省みなくなってしまうから。ふと周りを見回して、立ち止まれる存在があれば安心だわあなんて、母さん思うのよ。恋人さんじゃなくてもいいの。お友達とか、趣味とか」
「……馴染みのお店とか?」
「そうそう、それよお」
嬉しそうに語る母親に相づちを入れながら、望の脳裏には先日訪れた店の情景が浮かんでいた。
彩り豊かな野菜たちを愛して止まない、小柄で可愛らしいあの人の姿も。
母親との通話をしている中、とある準備が着々と進んでいたらしい。
望がオフィスに戻る頃には、入り口横のホワイトボードにスケジュール調整の赤ペン文字が多数入り組んでいた。
話によると、今夜二十時、望の送別会が急遽開催されることとなったらしい。
先ほどの話を聞いていた社員たちが協力し、時間調整をしてくれたようだった。
伯父の会社というひいき目なしに、ここはとてもいい会社だ。
仕事のやりがいも勿論のこと、何より社員同士の人間関係もとても良好だ。
例えば人生の岐路と呼べる子の出産時も、産休育休は男女問わず取ることが昔からの慣例となっている。
緊急時の仕事の割り振りや人員補充の仕組みも確立され、それらの負担も見込まれた給与体制も整っていた。
社員を大切にする風潮があるからこそ、社内の空気も清々しい。
関西でもきっと、うまくやっていける。
新鮮な仕事環境が、自分をさらに成長させてくれるに違いない。
だからこそ望は、真っ先に転勤の打診に手を上げたのだ。
「飲み会の企画は、いつも榊木さんが率先してやってくれていましたからね!」
「こういうときくらい、遠慮せずに誘われてくださいよ!」
「ああ。ありがとう」
照れくささを覚えながらはにかむ望に、周囲の社員たちが一様に笑顔になる。
いつも一生懸命な仲間たちに恵まれた幸運を、望は改めて噛みしめていた。
「『今から現地で合流するよ』……と」
その夜。
社外で取引先との打ち合わせを終えた望は、ひとり夜の街を歩いていた。
送別会の指揮を執ってくれている後輩からのメッセージに短く答え、望は早足で進んでいく。
取引先では思ったよりも話し込んでしまったが、時刻は十九時五十分過ぎだ。
約束の店には時間通りに辿りつく。
高層ビルが立ち並ぶ、都内一等地のオフィス街。
ここでは夜でも眩しいほどのライトが、あちこちで忙しなく瞬いている。
赤信号で止まった望は、無尽蔵に横切っていくテールランプの名残を眺めながらふう、と小さく息を吐いた。
周囲から微かに視線を感じたが、さっと確認してみても特に知り合いというわけではない。
そこまで目立つ格好ではないはずだが、社外に出るときは特にこういった女性の視線を感じるときが多くあった。
同性の知人に言わせれば「好みの子がいるかもしれないんだから少しは反応しろよ!」とのことらしいが、いちいち足を止めていたら予定のスケジュールをこなせない。
青信号で渡った横断歩道。
よし。じきに集合予定の店に着く。
腕時計を確認し、レンガ敷きの歩道をさらに進んでいく中、早足だった歩みがぴたりと止まった。
望の革靴の先端に、何かがころころと転がってきたのだ。
これは──……、キャベツ?
「すみません!」
呆気に取られた望の背に、ひどく慌てた様子の声がかけられる。
「そちらのキャベツ、私のです! 手から滑り落ちてしまったようで、お怪我はありませんか……って、あれ?」
「あなたは」
「わあ。こんなところでお会いするなんて、偶然ですね……!」
ぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた人物は、夜食処店主の沙都だった。
しかし目に飛び込んできた姿に、望は一瞬目を見張る。
今の彼女は、夜食処で目にする緑色のベレー帽にエプロン姿ではなく、爽やかな私服姿だった。
ふんわり身体を包み込む綿素材の淡色ワンピースに、ジーンズを重ねている。
背中には彼女の身体の大きさに負けないほどに膨れ上がったリュックがかつがれ、両手の手提げ鞄も苦しそうなほどにパンパンだ。
「こんばんは。このリュックや鞄の中身は……もしかすると、すべてお野菜ですか」
「はい! 今日はお店が休業日なので、日頃お世話になっている農家さんのお手伝いに行っていたんです。そしたら農家さんのご厚意で、こんなにお野菜を持たせていただいて……!」
人工的な光が瞬く夜の街で、沙都はまるで太陽のように笑った。
よく見ると、手には土色に染まった軍手がはめられている。
ワンピースの裾から見えるスニーカーにもほんのり土色が混ざっているし、何より。
「失礼」
「え……?」
土の香りをまとった沙都に、気づけば望は手を伸ばしていた。
白い頬に薄く伸びていた茶色を、親指の先ですっと拭い取る。
「頬に、土がついていました。畑仕事を頑張られた証拠ですね」
「あ……」
望の行動の意図を知った沙都は、照れくさそうに眉を下げた。
「わざわざすみません。一応身なりは確認したつもりだったんですけれど」
「いいんですよ。大変でしたね。今日も一日お疲れさまでした」
「……ふふ。いつもとは台詞の主が逆ですね」
はにかむ様子に目を細めながら、望は改めて私服姿の沙都を眺めた。
話によれば今着ているワンピースも、土で汚れた服を隠すためのアイテムとして採用されたのだという。
それでも、足元をふわりとなびくワンピースの裾は、望の胸を小さく逸らせた。
休日も野菜一筋な沙都を眩しく思いつつ、望は拾い上げたキャベツを差し出した。
「今日も美味しそうなキャベツですね。幸い傷もないようでよかった」
「はい。ありがとうございます」
沙都が、嬉しそうにキャベツを抱え直す。
両手に少しめり込むように提げられた鞄を目にし、望はふとある考えが過った。
このまま彼女を店舗まで送ったとしたら。
このキャベツを食する客人は、自分ということになるのだろうか。
「榊木さーん! こっちですこっち!」
そのときだった。
通りの向こうから響いた自分の名に、望はぱっと振り返る。
そこには待ちきれない様子で店舗の入り口から顔を出している後輩の姿があった。
ネクタイをすでに外していて、飲み会の準備もばっちりといったところか。
「なかなか来ないから、迷子になっちゃったのかと思いましたよー!」
「さあさ、早く来てください! 主役がいなくちゃ始まらないんですから……、あれ、この方は?」
どうやら、望の背後に立つ人物の存在に気づいたらしい。
沙都の姿をちらりと確認した瞬間、後輩の瞳にきらりと光が灯った。
「あれれ。もしかして、榊木さんのお知り合いですか?」
「わあ、榊木さんが社外の女性といるところって、何気に初めて見ましたよ!」
「こら。余計なことを言うんじゃない」
興味津々に沙都を見る二人の後輩を、望は短く諫める。
とはいえわざわざ紹介するほどの関係でもない。気もする。
どうしたものかと小さく振り返る望に、沙都は微笑を向けた。
先ほどまでみせてくれていた太陽のようなものではなく、何か明確に線引きをされたような、よそ行きの笑顔だった。
「足をお止めして申し訳ありません。私が転がしてしまったキャベツを、こちらの方が拾ってくださったんです」
「あ……」
「本当にありがとうございました。それでは、失礼します」
ぺこりと頭を下げた沙都は、くるりと背中を向けて通りの向こうへ歩いて行く。
その様子を呆然と見送る望を、後輩二人はここぞとばかりに挟み込んだ。
「榊木さんっ、今の女性、可愛らしい方でしたね……!」
「小柄なのに荷物をあんなにたくさん持って、力持ちだなあ」
きっと沙都は、望に気を遣ったのだろう。
互いの関係を言葉にしかねていた望に気づき、ただの通りすがりを演じてくれたのだ。
唐突に見知らぬスーツ姿の男に囲まれた状況は、沙都にとって居心地のいいものではなかったに違いない。
それなのに、もしかしたらもう二度と会うことのない、望の心中を慮って。
「──……沙都さん!!」
夜道に響く声は、真っ直ぐにその人の背に届いた。
目をまん丸にした沙都が振り返る。
ボブショートの髪が柔らかく揺れ、背負ったリュックにぺしりと跳ね返されていた。
「明日の夜、あなたのところに行きます!」
「……!」
「必ず行きますから、そのキャベツ、ぜひ食べさせてください……!」
洗練された街中でくり広げるには、おおよそ相応しくない会話だろうと思う。
それでも声を張り上げた先で、沙都はふんわりと柔らかな笑みを浮かべてくれた。