メンタル強化の特訓を受けに来た明継(あきつぐ)が「クグイ」という名の男を目の前にして持った第一印象は”優しそうなお兄さん”だった。
 色白の肌に、柔らかに波打つ青墨色の髪。丸い目元と小ぶりでふっくらとした唇は優し気な雰囲気を纏っている。まるで少女漫画に出てくる美男子のような顔立ちだ。
 その顔でふんわりと微笑まれれば、誰だって彼を好青年と呼ぶだろう。

 だが、明継の目の前にいるクグイという男は、出会ってすぐにこう言った。

嗣己(しき)のお気に入りの明継くんでしょ? 練習中の事故ってことで腕の1本くらい取っておこうかな」

 明継が頭を抱えた。

「あぁ……そういう冗談、あんま好きじゃないかな……」

 冗談であってくれという願いを込めて返事をしたが、クグイはそれでもなお、物欲しそうに明継の腕を擦った。

「キミのメンタルと力の性質から見て部位欠損はなかなか面白い精神状態になりそうなんだよね。興味深いんだけどなあ。あ、内臓でも良いよ?」

 この男はどう考えても危険人物だ。
 明継は身の危険を感じながらクグイへ視線を送ったが、当の本人は楽しそうに満面の笑みを返すだけだった。

「あーーー分かった分かった! 冗談だって!」

 そんなクグイが唐突に声を張り上げた。
 明継が動揺していると

「精神感応で嗣己に怒られちゃった」

 と言ってウィンクする。
 明継はその様子に顔を歪めながら、今日ばかりは嗣己に感謝した。

「しょうがないから真面目に仕事するかぁ。ついてきて」

 クグイはそう言うと、体を翻してサッサと歩きはじめてしまった。


 明継がクグイと話をしていたのは、霞月(かげつ)が誇る巨大な屋敷の中だ。
 明継がこの里に連れてこられた時に一番最初に放り込まれ、部屋を与えられているのもこの屋敷である。
 ここには明継のように、能力が確認段階で配属を検討されている新入りが生活をするスペースもあるが、基本的には来客用の部屋から研究室、仮眠室、道場など、能力者たちが働くうえで必要となる施設が備えられた建物だ。
 来て日が浅い人間には何がどこにあるのか、どう行けば何にたどり着けるのか、把握するのも難しい。
 もちろん明継も例外ではなかった。


 クグイの後ろについて行くと、見たことのない通路が現れる。その先には階段があり、降りれば降りるほど薄暗く、肌寒くなっていく。

「着いたよ」

 そう言って足を止めた目の前には、木造建築には不釣り合いな分厚い鉄扉が存在感を放っていた。
 クグイが慣れた手つきで扉横の機械にカードを通し、ゆっくりと扉を開く。その中にはこちらの光を一切通さない、漆黒の闇があった。
 クグイに名前を呼ばれ、何の疑いもなく入口の前まで足を進めた明継がその中を不思議そうに見つめていると、突然背中を押されて体が傾く。
 闇の中に足を踏み入れた明継が咄嗟に振り向けば、締まりゆく鉄扉の隙間からクグイが悪魔のような笑みを浮かべていた。

「おい!?」

 扉が閉まると同時に発した言葉は体の中だけに響いた。
 何も見えず、匂いもしない。
 体に触れるものは全てが滑らかで、どこが始まりでどこが終わりなのかも分からない。
 全ての感覚を奪われる。
 この異様な空間に、明継の体は本能的に恐怖を感じて震えた。

 自分と闇の境界が分からない。
 自分が消える。

 その危機感は体の中の闇を増幅させた。
 自分の体の境界線があやふやな空間で、闇と自分の境目が明確になるはずがなかった。意思とは関係なく体が変形していく。手の形は尖ったり硬化したり、形が定まらない。
 明継は唐突に周りを見回した。化け物の鳴き声が聞こえてくるのだ。だが姿は見えない。すると体から無数の針が飛び出し、それでも消えない声に、今度は針金のように固く細いものが空間を埋めつくそうと、体からランダムに伸びた。
 全身は汗で濡れ、呼吸は短く、息苦しくなってくる。
 ここにどれくらいの時間閉じ込められているのか? いつまで閉じ込められるのか?
 その恐怖心にまた体がうずく。見えない敵に対して体が勝手に防御反応を起こし形を変えようとする。
 もう一度体がのけぞり鞭のように変形したものが部屋中を跳ね回り、しばらくして収まると、ようやく扉が開いた。


「あはっ。思ったより逝ってるねぇ」

 明継はうずくまったまま、体を起こすことができなかった。
 光が目に差し込み、自分の出す音がようやく耳に届く。

「ころ……す」

 腕を伸ばしたが、すぐに気を失った。