明継(あきつぐ)は走っていた。息を吸うのも吐くのも精一杯で、どれだけの距離を走っているのかも分からない。後ろには太い胴体と尻尾をもった鰐のような人間が長い髪を振り乱しながら追いかけてくる。

 あぁ気色悪い。
 死ぬほど気色が悪い!

 明継は心の中で精一杯の悪態をつきながら走り続けた。
 なぜならその化け物は、少しでも遅れをとると耳まで裂けた口を開いて、丸飲みにでもしてやろうかと食いついてくるからだ。
 明継は、どんな経緯でこの化け物たちが産まれたのかを考えたが、それを作っている男たちの顔を思い出したら一気に怒りが湧いて、思考を停止させた。


『1日目で死ぬかと思ったのになぁ』

 月白色の瞳の男が口を尖らせて言った。

『今日はさすがに難しいかもな』

 呂色の瞳を持った男が白髪を風に揺らしながら言った。

『俺は緋咲への執念に全額を賭けるよ』

 金瞳の男が言った。


『『言ったな?』』


 彼らは、それぞれの持ち場で明継を監視しながら笑い合った。

『ペットが役に立つ日が来るとはなぁ』

 白髪の男はどこか満足そうに顔をほころばせた。
 ”ペット”と呼ばれる化け物の成り立ちはそれぞれだ。

 1番最初に明継が出会った化け物。元は人間だった。
 白髪の男が面白半分に結合の能力を試した結果、その能力を中途半端に受け継いだペットは山に迷い込む人々を自分に取り込み続け、巨大な化け物になってしまった。

 4番目に出会った化け物は目玉と手足が大量に埋め込まれ、蜘蛛のような形をしていた。これは月白色の瞳の男が絵画にインスピレーションを受けて作り出した傑作だった。この化け物を作り上げるために何人もの犠牲者を生んだが、彼の心は今までになく満たされていたという。

 そうして今晩、明継が追いかけられている化け物は、金瞳の男――嗣己(しき)が提供したものだ。見た目は鰐と人間の融合体だが、元は嗣己を慕っていたごく普通の女性だった……と思われる。
 数年前、嗣己に恋をした女性がいた。嗣己は彼女を疎ましく感じていたが、その恋心はさめやらず猛アタックの日々だった。そんなある日、彼女は唐突に姿をくらませた。その代わりに現れたのがこの化け物だった。
 鰐と合成されたであろう女性らしきこの生物は、知能を失い、本能で獲物を狩るだけの動物と化していた。しかし、嗣己を見つけた途端すり寄って、求愛行動を見せたのだ。
 嗣己はこの化け物があの女性なのだと気づき、優しく微笑んだ。
 結局、彼女の姿を変えたその能力者は見つかっていないが、嗣己はそんな彼女をいたく気に入り、自分のペットとして可愛がっている。

『あの鰐女、明継にくれてやっていいのか? お前の愛する女だろう?』

 白髪の男が揶揄うように言う。

『俺のかわいい女があいつにどんな殺され方をするか想像しただけでゾクゾクする。彼女にふさわしい舞台だとは思わないか?』

『『きっしょ』』

 談笑の最中、明継が転倒した。起き上がる事すら敵わないのか、後ろを這いまわっていたペットが迫っても動く様子がない。

 白髪の男が笑った。

『嗣己の全財産は俺たちのものだ』









 明継はペットと呼ばれる化け物に追われながらずっと考えていた。

 俺には何が足りないのか?
 なぜ意識を手放してしまうのか?
 何者が俺の中でくすぶっているのか?

 そして思考を巡らせる中で、大きな怒りの感情が体を支配していることに気がつく。
 その怒りは体の中で肥大化し、逃げ場を探すように暴れまわる。

 何が愛する女だ。
 何がふさわしい舞台だ。
 こっちは命からがら逃げているというのに!

 嗣己たちの会話を拾い上げた明継の脳が、その怒りに乗せられて言葉を吐き出す。
 黒い感情で頭の中がいっぱいになると同時に、明継の瞳孔が獣のように細長く尖った。

 脳の中心をかき回されるかのような感覚に陥り、視界が揺らいだ。
 必死に踏み込んでいた足が他人の物のように勝手にふわりと浮いて、木の根のようなものに引っかかる。微かに宙を舞った体は砂利に飛び込んで無様な音を鳴らした。
 木々が風になびいてゴウゴウと音を立てた。

 うるさい。

 うるさい。


「うるさい!!!!!」

 頭の中で巡らせていた言葉が無意識のうちに口から飛び出した。

「俺の頭の中で勝手に話をするな!! 勝手に決めるな!! 俺の体を勝手に使うな!!!!!」

 そう叫んでいる間にも、ペットという名の化け物はすぐ側まで迫ってきていた。しかし、今の明継には自分の中の真っ黒な何者かに抗うことの方がよっぽど重要だった。

 この感情に飲まれてしまえば気持ちよくなれる。

 それは嗣己と出会った時から理解していた。
 だが明継はいい加減うんざりしていた。

「お前が俺の体を使うんじゃない、お前が俺の一部になるんだ!!」

 頭を抱えて苦しみ悶える。うめき声とともに黒い霧が明継の手にまとわりつくと、徐々に腕全体を黒く変色させた。それは巨大なナイフに形を変えて、目の前の化け物を真っ二つに切り裂いた。
 一瞬で形を変えた化け物から漂う血の匂いに、明継の口内は涎で溢れた。

 ”食べてしまいたい”

 その欲求に駆られて舌なめずりをした瞬間、明継の目に金の瞳が写り込んだ。

「ギリギリだな」

「誰……だ? こいつは? これ、は? し、き? シ……?」

 嗣己は呆れて笑った。

「お前、人間やめるのか?」

 嗣己が一瞬で距離を詰める。
 次の瞬間、明継の意識は無くなっていた。