蝶々の大群に包まれたアルモナが姿を現したのは、うっそうとした森の中だった。
 彼女は真夜中の森で目を開くと波の音に耳を傾けた。それに引き寄せられるように歩を進めると、その先には草原が広がり、そして更に先には崖がある。
 深い森の中に波音が聞こえる理由はその下に暗い海が存在するからだ。

 彼女は森を抜け、草原と森を分かつようにそびえた大木の下に腰を降ろした。
 くすんだ瞳の明継(あきつぐ)を膝枕して、護衛代わりに同行させていた元晴(もとはる)清光(きよみつ)を傍に座らせる。
 元晴の虹彩が黄金から深紅に戻ると、一瞬、明継の瞳に光が宿った。しかしアルモナの体から漂う甘い香りを吸い込むと再び瞳を閉じた。

「やっとあなたに会える」

 明継が深い眠りに落ちたことを確認したアルモナが呟いた。
 光を灯した手のひらが明継の胸にそっと触れると、光が徐々に熱を帯び始める。

「ううう……」

 明継の顔が歪んだ。

「苦しいのね。だけどもういいのよ。彼の器である人生は終わり。楽にしてあげますからね」

 アルモナの表情は柔らかく、それは子を想う母のような眼差しにも似ていた。

「人間が勝手にしたことですもの。もう苦しむ必要はないわ」

 アルモナの放つ光は明継の胸を浸食するように大きくなっていく。胸に埋まるように光が沈むと明継のうめき声が大きくなり、体が強張った。
 もう少しで引きはがせる。
 アルモナの瞳にはその期待が色濃く表れた。
 明継の胸から黒く尖った結晶が徐々に露出しはじめる。アルモナは光を強めたが、結晶はそれを拒むように黒い霧を纏わせて再び胸の中へ潜った。

 彼女は呆気にとられて動きを止めたが、また手のひらに光を灯した。
 しかし何度同じ行為を繰り返しても、その結晶が彼女の前に現れることは無かった。

「どうして……」

 アルモナは嫉妬にも似た黒い感情がじわじわと湧き出るのを胸に感じていた。
 徐々に顔が強張って、怒りをぶつけるように吐き出す。

「あなたがこの子を選ぶなら、私が全てを飲み込むだけよ!」

 アルモナは白い光を全身に纏うと明継を抱きしめて体の中に導いた。
 明継の胸から湧き出る黒い霧が拒むようにアルモナとの間に境界線を引くが、強い光に霧が飛散し始めると一気に明継の体を飲み込んだ。
 アルモナは取り込んだ力の大きさに、大粒の汗を浮かべて唸った。それでも口元には薄っすらと笑みがこぼれている。

「やっと一つになれた。もう逃がさない」

 強い吐き気に耐えながら体を丸めて横たわる。遠のきそうな意識を必死に捕まえて、自分の体を抱きしめた。

「逃がさない。嫌よ……もう一人は嫌!」

 唸るように呟いていたアルモナの声はいつしか意味を持たないうめき声に変わり、最後には叫び声となって闇夜に轟いた。
 心臓部に閉じ込められた黒い結晶は彼女の体を一気に浸食し、指先まで染め上げる。
 美しい濡羽色だった瞳が黄金に塗り替わって光を放つと、彼女はゆっくりと立ち上がった。






 徐々に大きくなったアルモナの力は緋咲(ひさき)嗣己(しき)が真っ先に感知した。二人は春瑠(はる)大紀(だいき)を呼び出し、クグイと穏平(やすひら)を同行させて霞月(かげつ)の門をくぐった。
 アルモナの叫び声が森を揺らす頃、緋咲の感知が正確な位置を割り出した。

『近いか?』

『ええ。この森を抜けた先にいるはず。……でも、前とは力の質も、量も違う』

 緋咲は感じていた違和感を嗣己に伝えた。

『明継が女の化け物と融合したんだろう』

 緋咲が眉間にしわを寄せる。

『アルモナ……』

 その呟きから漂うのは、躊躇い、不安、恐怖、数えきれないほどの感情だった。
 嗣己は彼女の揺らぐ心を察して静かに言う。

『覚悟を決めておけ』



 緋咲たちがたどり着いた先には漆黒の霧を纏わせた化け物がいた。
 全身を黒く染めて獣のように威嚇する様は人間としての思考を失っているように思えた。

「これが彼女……?」

「取り込んだ力に飲み込まれている。お前もそうだった」

 緋咲の呟きに嗣己が答えた。
 そしてアルモナの前で首を項垂れて立ち尽くしている清光と元晴を見るや否や、大紀に指示を飛ばした。

「まずは清光と元晴を回収する」

「はい!」

 大紀が踏み出すと、アルモナの金瞳が輝く。清光と元晴はそれに応えるように大紀へ体を向けた。
 大紀は元晴が抜いた刃先の軌道を見ながら体を捌き、すぐさま手首をつかんで旋回した。
 相手がバランスを崩したところで両手で捻り上げれば元晴の体が宙に浮く。強かに体を打ち付けたところで小刀を奪い、うつぶせにして動きを封じた。
 元晴の意識消失を確認すると流れるように立ち上がり、今度は清光が出現させた影の中へ飛び込む。大紀が影の間をすり抜けるだけでその力は失われ、黒い霧となって散っていく。
 清光の目前まで迫ると大きく飛び上がり、背後に音もなく着地した。相手が振り向く前に襟を引き寄せて抱き込むように締め上げれば、簡単に意識が飛ぶ。
 大紀は横たわった2人を回収すると、後方で待機する春瑠の元まで運び込んだ。

 アルモナの周囲では樺色の羽が闇夜に舞い、縞模様の幼虫が地を這っていた。
 彼女が頭上から手を振りかざすとそれを合図に虫たちが一斉に襲い掛かる。
 クグイが瞳に青い炎を揺らめかせ、一瞬で大量の人影を立ち上げた。刀や大鎌のシルエットが虫目掛けて振りぬかれればそれらは真っ二つになって体液を散らす。
 クグイが道を切り開くとすぐさま嗣己が駆け抜けアルモナに接近した。
 彼女はそれを拒むように手を伸ばして何百もの漆黒の蝶々を放ち、大きな怪物のようなシルエットを作り出した。

 突進してくる大群目掛け、嗣己が印を結ぶ。手から炎を吐き出して一斉に燃やすと大量の蝶々が灰のように舞いあがり、アルモナの視界を塞いだ。
 その隙に印を結んでいた穏平が地面に手を置いた。
 大地が揺れ、アルモナの足元から棘のような鋭い岩が吹き出した。飛びのいた彼女を穏平が視線で追えば、それに応えるように岩が地形を変えていく。

「緋咲!」

 穏平の叫びに応じた緋咲が突き出した岩に飛び乗り、アルモナの居場所まで岩を辿って駆け抜ける。
 彼女に追いつくと高く飛び上がり、瞳に紫の炎を宿した。

「捕まえた!」

 振り上げた腕を一直線にアルモナに向けて打ち込んだ。
 緋咲の拳は爆音と共に大地を震わせ、その中心に大きなクレーターを生みだした。

 しかし、緋咲の口から漏れたのは舌打ちだ。

 アルモナは体を黒い霧に変えて攻撃を躱した。緋咲の背後で元の姿に戻り、手のひらから長剣を生み出す。
 同じタイミングで緋咲も腰に刺した小刀を抜き、振り向きざまに切り付けた。それを受け流したアルモナが長剣を振るう。
 二人は幾度か火花を散らした後、つばぜり合いに持ち込み至近距離で瞳を交わした。

「しつこい女は嫌われるわよ?」

 口の端を吊り上げて緋咲が言うと、言葉を交わせないはずのアルモナの口元が一瞬笑ったように見えた。
 気を取られた緋咲の隙をついてアルモナが長剣を勝ち上げ、体勢が崩れたところで腹に蹴りを入れる。衝撃で緋咲の体が後ろへ傾くと、アルモナが手のひらを差し出して鋭く硬化させた黒い霧を放った。
 思わず目を瞑って守りに入る緋咲の脇から、体を当てるように現れたのは嗣己だ。
 抱きかかえられるように地面に落ちると嗣己の腕を赤い血液が伝う。

「いちいち動揺するな。お前はアイツを取り戻す鍵だ。それまでは死なせん」

 顔を歪める緋咲に嗣己が言い放つ。

「……ちょっとまってよ。じゃあ明継が戻ったら私は用無しってこと!?」

「そうだ」

 嗣己が意地悪く笑うと、緋咲の表情に柔らかさが戻った。


「霧の能力も問題だが、明継の回復能力も厄介だな」

 一旦引いた嗣己と緋咲に穏平が声をかける。
 その間にも、アルモナの体の傷は修復されていた。
 嗣己はしばらくアルモナを見つめてからぽつりと言った。

「……剥がすか」

 穏平は嗣己の表情を見て、その落ち着きように頷いた。

「クグイの準備が終わったら体に入れ」

「任せとけ」

 嗣己の言葉に穏平が答え、大紀を傍に呼ぶ。

「何をする気?」

 二人の会話を聞きつけたクグイが表情を曇らせて問う。
 嗣己は懐から取り出した薬品を見せて笑った。
 瓶の中で揺れる黒い液体はクグイが嗣己に渡すために調合したものだ。
 この薬品は過去に春瑠が緋咲に渡した起爆剤と同じ成分でできている。明継と同じ性質の力を持つ嗣己は、他の能力者に比べればこの薬品も幾分か馴染みやすい。だが、今回のものは緋咲からとったデータを元にクグイが改良を加え、極限まで精製したものだ。規格外の肉体をもつ明継が腹の中で抱えてきた化け物の力に限りなく近い成分に、嗣己の体が耐えられるとは言い切れなかった。

 起爆剤と言えば聞こえはいいが、その実は効果と引き換えに使用者の体を破壊する薬品だ。クグイはそれを完成させながらも、嗣己に渡すことはなかった。

「どうしてそれを持ってる!?」

「俺のために調合したんだろう? お望み通り、俺が時間を稼ぐ」

 嗣己の声色に、クグイは一度開きかけた口を閉じた。
 幼少期からずっと嗣己の傍にいたクグイは、彼の性格を誰よりも知っている。
 何を言われようと自分で決めたことは絶対に曲げない。
 それが嗣己だ。
 クグイはそんな嗣己に散々振り回され続けてきたが、それを嫌だと思ったことは一度もなかった。

 この瞬間までは。

 諦めに近い感情を抱きながら、クグイが本音を吐露する。

「僕は……嗣己を失いたくない」

 か細い声が嗣己の耳に微かに届いた。

「これからもきみに振り回され続けたい。ずっと僕の……隣にいてほしい」

 それでも嗣己はクグイを振り返らなかった。
 揺れる月白色の瞳を見てしまえば、自分の覚悟が揺らぎかねないと知っていたからだ。
 嗣己が瓶の中身を体に流し込む。

 それを見届けたクグイは焦りや喪失感、果ては苛立ちまでをも感じながら目をつぶった。
 明継など、力など、霞月など、もうどうでも良かった。

 嗣己を必ず取り戻さなければ。

 クグイは目を開けると躊躇いを捨てるように春瑠を呼び、結界を張らせた。
 クグイの周囲が桃色のオーラでぐるりと覆われると、覚悟を決めて印を結びはじめた。