静まりかえった医務室で、クグイと緋咲(ひさき)は視線を交わしていた。
 資料を握る緋咲の手には力が込められ、霞月(かげつ)への嫌悪感が見て取れる。
 その空気を感じながらもクグイは話を続けた。

「キミも知っているとは思うが、霞月の里は恵仙(けいせん)という国に統治されている。後で触れるけど、円樹村(えんじゅむら)も同じ統治下だよ」

「円樹村はどこの国にも属していないと聞いていますが」

「君たちが円樹村の大人たちにそう教え込まれていただけさ」

 緋咲は腑に落ちないものを感じながらも、それ以上の追及は控えた。重視するべきは過去ではなく、今身を置いている”霞月の在り方”についての説明だからだ。
 緋咲が聞く意思を示したのを受けて、クグイは話を続けた。

「恵仙が統治している大体の里や村は環境に恵まれていてね。土地が良い分、欲しがる奴らが山ほどいて昔は戦が絶えなかった。当時の上様は慈愛に満ちた人だったから、戦で傷つく民や土地を見ては嘆いていたそうだ」

「慈愛に満ちた人? 霞月にこの研究をさせたのはその人では?」

「鋭いね。でも慈愛に満ちた人だからこそ研究を進めたんじゃないかな。犠牲が出ても結果として軍事力が上がれば無駄な争いが減り、穏やかな日々がやってくる」

「そんなの後付けよ」

 強い意志を持って緋咲が言い切った。その純粋さに呆れるようにクグイが笑う。

「だが現実に、恵仙は優れた土地を確保したまま侵略もなく穏やかに暮らしている。その結果にだけは誰も文句を付けられないんじゃない?」

 納得がいっていないと訴えるように緋咲の眉間に皺が深く刻まれた。
 そんな彼女の手からクグイが資料を抜き取ってページをめくる。

「そんなにむくれないで。ここからが本題」

 そう言ってもう一度資料を差し出した。
 そこには遺伝子操作に関する報告が書き連ねてある。
 異形の者ばかりが写っていた資料が、徐々に人間の形状を保った赤ん坊や子供の姿に変わっていく。

「霞月の研究が始まったのは遥か昔。だけど、人間に力を付与して発現させられたのは数十年前」

「じゃあ、その上様ってのが生きていた時代に結果は出せていなかったんですか?」

「いや、そうでもないよ。だけどそれまでの霞月は見世物小屋状態だった。その名残は今も下町の一部に残っている。そう言えば、明継(あきつぐ)くんが迷い込んでたって嗣己(しき)が言ってたなぁ」

 思い出し笑いをしながら言うクグイに、明継が真っ青になって帰って来た夜の事を緋咲も思い出した。

「話を戻すね。ある年代から、霞月は産まれた子供全員に遺伝子操作を行うようになった。穏平(やすひら)の世代が8代目だったかな。僕や嗣己の世代は18、君の世代は21代目だと思う。研究が進むにつれて遺伝子の融合に耐えうる子供は年々増えた。穏平の代なんてあいつ以外全員死んでるんだから研究はかなり進んだ方だと思うよ」

「全員……?」

「うん。アイツが博愛主義なのも、そこに理由があるのかな」

 顔をしかめる緋咲に、クグイがぼやくように言った。

「霞月は今もそんな研究を?」

「いや。大紀(だいき)の世代が最後かな。遺伝子操作のベースにしていた化け物が暴走して研究が中止になった」

「それが今、明継の中に入っている化け物?」

「そう。彼は回復能力を植え付けられていたから一か八かでぶち込んだんだ。明継くんって死ぬところが想像できないでしょ? 過去の研究員もそれを感じたのかもね」

 緋咲の表情がみるみるうちに暗くなっていく。
 それでもクグイは話を止めなかった。

「封印には成功したが、その時霞月は半壊状態だった。だから復興したら直ちに封印を解くつもりだった……が、明継くんの体からは予想以上の力が漏れ出していた。その力は化け物を霞月に引き寄せた。明継くんを手放すわけにはいかないが、化け物を処理する余裕もなかった霞月は国の中で最も小さい円樹村を結界ですっぽりと覆って彼を放り込んだんだ。受信機がわりのキミと一緒にね」

「それだと……」

 緋咲は違和感を持った。
 しかし、これは口にしない方がいい気がする。
 そう感じ取った本能が緋咲の言葉をそこで止めた。

「君たちのご両親?」

 答えを求めるのか決めさせるようにクグイが問いかける。

「私……と、明継は……」

 未だ決めかねているような歯切れの悪さに、クグイはしばし思考を巡らせてから口を開いた。

「穏平の世代の話で分かると思うけど、人間の子供をベースにした研究は困難を極めた。そのためにいくつかやり方を変えて研究は進められたんだ」

 クグイは緋咲の瞳を見つめたが、彼女は拒否するように目を伏せた。

「明継くんと中身の相性がいいのも納得できるだろう? 今はそれくらい曖昧な認識にしておいた方がいいかもね」

 緋咲は複雑な思いを抱きながら渡された短剣を見つめた。


 緋咲は自分を普通の人間だと思って生きてきた。当然の事だ。そもそも、そんな事を再確認する人間の方が少ないだろう。”普通”とはそういうことだ。

 緋咲の母は良く笑う人だった。
 父と仲が良く、子供には優しく、太陽のような笑顔で家族を包み込んでいた。
 そんな母に憧れた緋咲は小さなころから”温かな家庭”というものを夢見てきた。
 大人になったら大好きな人と結婚して、子供を生んで、ささやかな幸せを積み重ねて生きていく。
 憧れていた当たり前の幸せ。
 その将来が打ち砕かれたような、そんな気持ちが押し寄せる。

 自分の体に何が巣食っていて、自分は何から生まれ、どのように造られてきたのか?
 人間という生物としての”普通”から余りにも外れてしまった彼女の体は緋咲にとっての”普通”を取り戻せなくしてしまった。

 力の抜けた手が資料のページを滑らせる。
 偶然開いたのは”al-mona”。
 あの女のページだ。

 緋咲の脳内で女と対峙した時の記憶が鮮明に蘇る。

 彼女の境遇とはどんなものだったのだろうか?
 自分よりも暗くて根深い何かを彼女は持っているのではないだろうか?
 明継を奪う憎たらしい女だとしか感じていなかった。

 敵が何であるかなど、考えた事もなかった。

 深く考え込んで放心していた緋咲をクグイはしばらく見つめていたが、ふと思い出したように口を開いた。

「あ。あと、聞いていないだろうから言っておくけど、嗣己は緋咲くんの精神感応を受信して円樹村を保護していた一人だよ」

「え……?」

「いくら結界を張っていたとしても、無能力者だけが集まる円樹村で力を垂れ流し続ける明継くんが十数年も平穏に暮らせたと思う?」

 緋咲が目を丸くしてクグイを見つめた。

「あいつは……円樹村を襲って……」

「不器用だねぇ。ま、僕は嗣己のそういうところが好きなんだけど」

 クグイは口元を綻ばせてそう呟いてから、穏やかな口調で話し始めた。

「嗣己は明継くんに引き寄せられる化け物を何年も狩ってきた。だけど明継くんの力は年々強くなるし、結界にも限界はある。嗣己の年齢が上がって仕事に忙殺された頃、その隙をついて化け物たちが円樹村を襲ったんだ」

「……じゃあ嗣己は……」

「君たちが勝手に悪者としていただけだよ。まあ、霞月の人間って変に冷酷なところがあるしね。何も知らない子供からしたら嗣己の存在は恐怖でしかなかっただろう」

「円樹村の人たちはどこにいるんですか?」

「他の村に住まわせてる。二峯(ふたみね)寂池(じゃくち)がいい例じゃない? 無能力者と分かっている人間を霞月に連れて来ることはあまりないから、ここで顔を合わせないのも無理はない」

「嗣己が私たちを連れ去ったのは、霞月の指示ですか? どうして? 何がきっかけで?」

 捲し立てるように聞く緋咲の様子からは、長い間モヤモヤとした感情を抱えていた事がよくわかる。それを見透かして語るクグイは穏やかだ。

「きみ達が嗣己に会ったのは、円樹村に入った化け物たちを処分した後。嗣己は限界を感じて君たちを霞月へ連れ戻した。自分の身は自分で護れるようにするためにね」

 そこまで聞いた緋咲は、嗣己に敵意をむき出しにしていた過去の自分が恥ずかしく思えた。
 緋咲の思う嗣己のイメージと言えば冷徹で、冷酷で、失礼で、趣味が悪くて、戦闘を好む。だがひどく優しい言葉や表情が垣間見えることもあった。彼の本音がわからず戸惑う事も多かった。

 本当の嗣己が後者なのだとしたら?
 何かを護るという意志が嗣己の行動の根本にあるのだとしたら?

 色々な感情が緋咲の胸の中を巡る。

「案外あいつ、悪いやつでもないでしょ?」

 そう問いかけるクグイの顔は珍しくニヤけていて、緋咲の羞恥心を煽った。

「そう……そうです。そうですけど。そんな事今更言われたら、自分が恥ずかしいです」

 赤く染まった頬を隠すように手のひらを顔に貼りつけた緋咲をクグイが優しい瞳で見つめた。








 帰路についた緋咲の足取りは重かった。
 円樹村の人々の事、自分の能力の源、霞月の過去、明継の体の中に巣食う化け物、それを切り離す武器。
 一度に押し寄せた情報を、緋咲は受け止めきれずにいた。

 この話を聞いたら明継はどう思うだろうか?

 緋咲は明継の家の前で足を止めたが、その扉に手を伸ばすことができなかった。
 ただ、すがるように彼の名前を零した。

「明継……」

「なに?」

 返事と共に、後ろから伸びてきた手に肩を叩かれて緋咲の体が大きくはねた。

「きゃあ!」

「わっ!」

 叫びながら振り向くと、そこにいたのは目を見開いて固まる明継だった。

「驚かせてごめん。どうしたのかと思って」

 顔色の悪い緋咲に、咄嗟に明継が謝った。

「い、いいえ。あなたの家の前だもの。考え事をしていた私が悪いわ。叫んじゃってごめんなさい」

 緋咲が繕うが、それでも明継が心配そうに眉を顰めるので緋咲は無理やり笑って見せた。

「あ……」

 明継が表情を曇らせた。

「なんか……無理してないか?」

「え?」

「俺の前でくらい……頼ってくれたら嬉しい……けど」

 緋咲の痛々しい笑顔に過去を重ねた明継がたどたどしく言葉を連ねる。
 緋咲は明継の目を真っ直ぐ見つめたまま固まってしまった。

「あぁ……と、ごめん。今更、頼るとかそういう関係――」

 彼女の視線に気まずさを感じた明継が前言を撤回しようと言葉を走らせたが、緋咲は思い切って明継の胸に飛び込んだ。

「緋咲……?」

 明継は高鳴る胸の鼓動を痛いほどに感じながらも、いつもと違う緋咲の様子に再び眉を顰めた。
 背中に回された手が震えている事に気がついて、抱きしめ返す。
 緋咲は明継の体温を感じ、そっと目を閉じて呟いた。

「少しだけ、このままでいさせて」

 緋咲は早まっていた自分の胸の鼓動が穏やかに脈打ち始めたのを感じた。
 明継に抱かれながら、確認するように自分の気持ちを巡らせる。


 明継は誰にも奪われたくない、大好きな人。

 絶対に手放してはいけない、大切な人。