野外訓練から戻った次の日、緋咲(ひさき)は医務室へ向かっていた。
 前回の任務で使用した薬品の事で話があるとクグイから呼び出されたのだ。

 緋咲は野外訓練前にも一度、厳重注意を受けていた。その際呼び出しを行ったのは穏平(やすひら)で、その時は春瑠(はる)も同時に呼び出されてこっぴどく叱られた。
 薬を使用したのはそれに頼るしかない状況だったから。というのは穏平も理解していたが、それでも彼が緋咲らを叱責したのはその薬がまだ研究段階で使用者にどんな影響を与えるのか検証すらされていない危険なものだったからだ。
 穏平を敬愛している緋咲はその本意をすぐさま理解し、自分の行いをひどく恥じた。

 それなのにクグイにまで呼び出しをくらうとは。

 緋咲は眉間にしわを寄せてそう思った。
 もちろん薬の製造者であるクグイに咎められるという構図は筋が通っている。
 だが緋咲からしてみれば、”クグイがまともに説教をする姿”というのが想像できなかった。
 呼び出された意図が分からないだけに、気が重かった。

「失礼します」

 緋咲が恐る恐る医務室の扉を開けば、待ちわびたようにクグイの声が響いた。

「やぁ、待ってたよ。緋咲くん」

「あ、あの、今回の件は、その」

 冷汗を浮かべながら口ごもる緋咲をクグイは不思議そうに見つめたが、やがて思い出したように

「あー、穏平に厳重注意を受けたんだっけ? そんなの気にしなくていいよ」

 と、言って笑顔を浮かべた。
 そもそもクグイは春瑠や緋咲を咎めるつもりは一切なかった。なにしろ今回の件は緋咲が喜んで人体実験に参加してくれたようなものだ。感謝しこそすれ、責める理由などなかった。

 緋咲は満面の笑みを浮かべるクグイを前に
 この人に笑顔を向けられたのは初めてかもしれない。
 と、思いながら珍しい生き物でも見るかのような視線を送ったが、クグイはその笑顔を崩すことはなかった。

 クグイは問診を行った後、能力値と身体データを一通り取り終えた。その熱心なデータ収集は数時間続き、ようやく解放されたのは日が傾き始めたころだ。
 緋咲が衣服の乱れを正していると、目の前のイスに満足気な様子のクグイが座った。

「助かったよ。あんな未完成で過激な薬、誰で試したもんかと悩んでいたから。頼みの綱の明継(あきつぐ)くんは今回ばっかりは使えないし、かといって力に耐えられないと意味ないしね。春瑠くんもそれは分かっていたはずなのに」

「……もしかして、春瑠に渡したのは先生ですか?」

「えぇ? 僕が渡した訳じゃないよ。彼女の目の前に置いただけ。そして彼女は、キミを死なせたくなくて渡す判断をした。若さゆえの暴走ってのは怖いねぇ」

 クグイはわざとらしく声を上げて笑った。
 あの薬が春瑠の手に渡ったのは、間違いなく意図的だった。
 緋咲は静かに息を吐くと、切り替えるようにクグイに問いかけた。

「それで……私の体は大丈夫なんですか?」

「うん。嗣己(しき)が全部吸っちゃったみたい。採取した体液で検査はするけど恐らく何も出ないよ」

 優しく微笑むクグイに緋咲が納得した表情を見せた。

「それでは――」

 切り上げようとすると、クグイが引き止めるように言った。

「近いうちに、明継くんの力を分離するつもりだ」

「……分離?」

「彼には遺伝子操作で与えられた力に加え、化け物の本体が封印されている」

「封……印? 現実の話ですよね?」

「うーん。明継くんの体に化け物が住みついているって言えばいいかい? 明継くんを野放しにしていたら、そいつがここをいつ崩壊させるかわからない。だから分離――」

「そんな危険な存在が明継の中に!?」

 クグイが言い終わる前に緋咲が叫んで立ち上がった。クグイは笑顔の下に苛立ちを隠しながらイスに手のひらを向けて座るように促した。

「キミに託しておきたいものがある」

 緋咲が腰を落ち着けたのを見て、取り出したのは青銅の短剣だった。

「これは霞月(かげつ)に伝わる神器だ。今どき信じられないかもしれないが、霞月にはこういう代物も存在する」

 緋咲の表情を見て付け加えた説明だったが、クグイ自身も納得がいっているようには見えない。

「これはまぁ……武器には違いないからね。突き刺せばもちろん体に穴が開く。だがお互いが求めあっている仲ならば、それは体を貫かず精神だけを分ける……と言われている。つまり、霞月の中でこれを明継くんに使えるのはキミだけだ」

「言われているって……そんな曖昧な状態で使用して大丈夫なんですか?」

「大丈夫……と言いたいんだけどね。こんな非現実的な物、どうしたって信じられないだろ?」

 人に武器を託しておきながらその効果を全く信じていないクグイに緋咲は浮かない表情を見せた。

「他に手がないってわけじゃないよ。僕のもつ能力なら刃物を突き刺すことなく剥がす事ができる。というかそっちの方が確実なんだけど。でもね、それには膨大な時間と、ある男の同意が必要になる。だからこの短剣は明継くんの力が何らかの影響で表出化した時に、緊急で分離するための物なんだ」

 短剣を見つめた緋咲の瞳にくすんだ反射光が写り込んだ。

「術で時間をかけて剥がす時と比べれば、短剣を使用した方が明継くんに与える副作用は大きいだろう。だが彼に限ってはバカでかいエネルギーと驚異的な回復力を持っているから、普通の人間よりかはその衝撃に耐えられると思う」

「……」

 返事すらできずに固まってしまっている緋咲にクグイが問いかける。

「急に言われても理解が追い付かない?」

 しかしクグイはそれを予測していたかのように机から資料を取り出した。

「この短剣を託すからには霞月の過去を知っておいた方がいいかもね」

 緋咲はクグイに書類を渡されると、訳も分からずページをめくった。そこにはいくつかの実験結果や報告書が並んでいたが、内情を知らない彼女には飲み込みにくい情報だった。
 難しい顔をしたままページをめくっていた緋咲の手が、ピタリと止まる。

「この顔……」

「知っている顔かい?」

「薬を使って戦った相手です」

 そこに映っていたのは表情を曇らせた女の顔。青白い肌にくっきりと映る漆黒の髪と、印象的な樺色の毛先。だがその瞳に光はない。

「al-mona……?」

 写真に添えられた英字を緋咲が読み上げる。

「アルモナ。彼女に付けられた識別コードだね。付与された力の元が由来だよ」

「彼女は霞月にいたという事ですか?」

「霞月にいたというか……霞月が造った……とでも言えばいいのかな」

 歯切れの悪い様子に焦れながらも緋咲は他の情報欲しさに次のページをめくった。

「ちょ……と、これ」

 顔を真っ青にした緋咲に対して、クグイは冷静に答える。

「それはちょっとした、霞月の暗い過去」

 そこには目を背けたくなるような異形の死体の数々が並んでいた。

「どっちが化け物かわからないわ」

 そう言ってクグイへ向けた視線には嫌悪の感情がありありと見えた。しかし彼は気にするそぶりも見せず、短く笑う。

「これは平和のための研究だよ。霞月には霞月の正義がある」