うっそうとした森の中、いくつかの視線が巨大な猪を取り囲んでいた。
 彼らはアイコンタクトと精神感応を何度か繰り返し、司令塔らしき人物の手がゴーサインを作ると、それを見た視線――明継(あきつぐ)は深く息を吐いて目をつぶり、イメージする。
 地面から延びる蔦、そして巨大な猪を捉えるその瞬間。
 決して慌てず、決して取り乱さず、目を開き、一気に印を結ぶ。
 そうして地面に叩きつけた明継の手のひらは猪が立つ地面へ力を送りこみ、蔦を勢いよく伸ばしてその足を捕らえた。猪は暴れたが、その蔦はいくら引きちぎられようとも新しく芽吹き、何度も絡みつく。

大紀(だいき)!』

「はい!」

 明継の声に木から飛び降りた大紀が猪の背中に飛び乗った。
 脳裏にはウリ坊のいたいけな視線。しかし、情に流されるだけの大紀はもういない。
 心を鬼にしてクナイを振り上げた。

「ごめん!」

 急所を的確に狙ったクナイは猪を苦しめる事なくあの世へ送った。

 猪の絶命を確認すると、明継は山の斜面を降りて駆け寄った。

「大紀、やるじゃないか!」

「明継! ありがと……ぉ」

 笑顔を見せた大紀だったが、明継の顔を見た途端に緊張が解けてその場にへなへなと座り込んた。苦笑いしながらも励ましの言葉をかけた明継が大紀の手を引いて立ち上がらせる。
 遠方で指令役を任せていた緋咲(ひさき)と合流しようと精神感応を行おうとした、

 その時だった。

 緋咲から緊急の連絡が入る。

『でかいのが来るわよ!』

 明継たちが周囲を見まわせば、不自然に揺れる木々が確認できた。それは緋咲の言う”でかいもの”が近づいている証拠だ。
 森の木々をかき分けて、身構えた2人の前に姿を現したのは

「「く、くま……?」」

 そのありきたりな名称に疑問符が付くのも無理はない。目の前に現れたのは三メートルを軽く超える、巨大な熊だったからだ。
 血の匂いを嗅ぎつけたそれは目の色を変えて突進してきている。

「マジでこの森どうなってんだよおおおお!?」

「ああああ明継! なんか出してよ!?」

「あ!? よし! うん! え!? 印ってどうやって結ぶんだ!? 飛んだ!」

「何言ってんの!?」

 パニックに陥った明継に影響されて更にパニックを加速させる大紀が叫んだところに、緋咲から冷静な指示が届く。

『私に考えがある。2人はとにかく逃げて』

『『そうします!』』

 緋咲は2人が走り出したのを持ち場から確認すると、木々を伝って移動していく。
 目標の真上にたどり着くと足元の木を蹴って勢いをつけた。
 熊の頭上を降下する緋咲の目に紫の炎が宿る。
 構えた拳に力を付与して目標目掛けて突き刺せば、山が大きく震えた。

 全速力で駆け抜けていた明継と大紀は突き上げられるような振動に体を投げ出され、着地するとすぐに身を伏せた。
 辺りが静けさを取り戻し始めると、2人は体の上に乗った土を跳ねのけて恐る恐る後ろを振り返る。

 そこには腰に手を当てた緋咲の後ろ姿があった。
 満足そうなその様子に、彼女の視線の先を覗き込めば大きなクレーターの真ん中に先ほどの熊がぐったりと寝そべっている。

 明継が恐る恐る聞いた。

「あのー……。あれは緋咲さんの能力による現象でしょうか?」

 少しの間をおいて、緋咲が体を震わせた。手は固く握られ、小さくガッツポーズしているように見える。

 ああ。彼女にはもう逆らえないな。

 明継はその姿に今後の緋咲との力関係を悟った。
 そんな明継の気持ちを知ってか知らずか、緋咲は満面の笑みで振り返る。

「大・成・功♡」

 笑顔の横にはピースサインが掲げられていた。




 3人が帰路につく頃、寄宿所の軒先では穏平(やすひら)がそわそわと歩き回っていた。
 その近くには清光(きよみつ)元晴(もとはる)もおり、

「ちょっとは落ち着けよ」

「きっと大丈夫ですよ」

 と、穏平を落ち着かせるように声をかけていた。

 というのも、今日は野外訓練最終日だ。
 このあと嗣己(しき)やクグイも集まって今後の方針を共有するのだが、彼らは、最終日まで狩りに失敗し続けている明継・緋咲・大紀の三人に難色を示していた。
 穏平は3人をかばい続けたが、嗣己とクグイは呆れかえり

「最終日の狩りが上手くいかなければあいつらは捨てて帰る」

 と、言い出した。
 いくら何でも冗談であることは穏平も理解していたが、クグイの目だけは笑っていなかった気がしてどうにも落ち着いていられなかった。
 そんな理由で穏平は2人より先に寄宿所に訪れていたのだ。

 緋咲と大紀はすっかり見慣れた寄宿所が目に入ると、同時に穏平の存在にも気が付いた。
 あからさまに表情を明るくした二人が声を張り上げる。

「「穏平先生ー!」」

「お! 帰ってきたな!?」

 二人同時に胸に飛び込むと、身構えていた穏平が大きな手でぎゅうと抱きしめた。

「先生に教えてもらった力のコントロール、うまくできました!」

「僕も! 猪をやっつけたんですよ! 褒めて!!」

 緋咲は興奮気味に報告し、大紀はピョンピョンと跳ねながら年相応の笑顔を輝かせている。

「そうか……! そうか! 頑張ったな、お疲れさん!」

 満面の笑みを浮かべた穏平に頭を撫でられた2人は、ふにゃふにゃと緩み切った表情を見せた。

「キャーッ!! ショタコン! セクハラ!」

 するとそこに、緋咲を出迎えようと寄宿所から慌てて出てきた春瑠(はる)が叫んだ。わなわなと体を震わせ青ざめながら穏平の背中をポコポコと叩き始める。

「やめてぇ! 緋咲さんにべたべた触らないで! 穢れる!」

「まてまて! 俺は可愛い弟子たちを心配してだな……」

 宥めるように穏平が言うと、今度は元晴が怒りのオーラを放ちながら大紀と穏平の間に腕をねじ込んだ。

「何でお前は穏平にべたべたすんだよ!」

「え、な、なんでって……先生の事が好きだから……かな?」

「お前は誰でも良いのか!?」

「えっ!? そんなことないよ! どうして怒るの!?」

 徐々に収集がつかなくなってきた4人をにこにこと見つめていた穏平が、思いついたように清光の名前を呼ぶ。

「清光、ちょっと来い」

「え? は、はい」

 傍観者に徹していた清光が戸惑いつつも駆け寄ると、穏平は大きく両腕を広げて皆まとめて抱きしめた。

「可愛いやつらめ! みんなで帰るぞー!」

「せ、先生、無茶苦茶です……苦しい」

 無理やり巻き込まれた清光は困り果てた表情で訴える。

「イヤー!」

「やめろー!」

 春瑠と元晴は悲鳴を上げて抗議したが、穏平はただただ幸せそうに笑った。

「おいおい、ここは保育所か?」

 そこへ現れたのは、呆れた表情のクグイだ。

「可愛いだろ? クグイちゃんも混ざりたい?」

 穏平が伸ばした手をクグイが顔を顰めて弾き返す。

「さわんな。小児性愛野郎」

 その一言で、その場の空気が凍る。

「止めろよ!? みんな純粋なんだから信じちゃうだろ!?」

 慌てる穏平に構わず、クグイはツンとした顔を背けてサッサと行ってしまう。
 そんなやり取りを見ていた春瑠と元晴はスーッと距離を置き、清光は苦笑を浮かべ、大紀は

「しょうにせいあいって何?」

 と、キラキラした瞳で穏平に問いかけ続けた。
 それでも緋咲は穏平に抱きつき続け、幸せをかみしめていた。


 皆がわいわいとじゃれ合っている間、明継は珍しく一人きりで、少し離れた場所でそわそわと視線を彷徨わせていた。

 予定の通りならここに嗣己も現れるはず。

 そんな期待を胸に持っていた明継は、歪みはじめた空間を見つけて体を固くした。
 それは空間移動を使用する嗣己がまもなく現れる合図だ。

 明継の頭の中では狩猟成功報告の言葉が何通りも生まれては消える。
 普段は嗣己に反抗的な明継も、緋咲や大紀が穏平に「上手く力が使えた!」と報告して褒められている姿を見れば、それを自分に重ねて羨ましく思う事もあるのだ。

 いよいよ嗣己が現れる。
 胸の中で期待を膨らませながら明継はその瞬間を待っていたが、いざ嗣己が現れてみると気恥ずかしさから地面に足が貼りついてしまった。
 明継の存在に気が付いた嗣己に視線を送られたが、なぜか体が勝手に背を向けてしまう。

 このままでは何も言えずに嗣己が行ってしまう。

 嗣己の動向が分からなくなった明継は焦り始めた。
 何事もなかったかのようにするべきか、気恥ずかしさを捨てて話しかけるべきか。
 明継が二つの行為を天秤にかけて固まっていると、嗣己はすれ違いざまに

「よくやった」

 と短く言って明継の頭に優しく手を置いた。
 思ってもいなかった嗣己の行為に顔を上げた明継が呆気にとられた様子でその姿を目で追いかける。嗣己はそれすら想定内とでも言うように振り向き、微笑みかけた。
 耳まで顔を赤く染めた明継の可愛らしさに、視線を戻した嗣己が口元を緩める。

 ニヤけともとれる笑顔のまま嗣己がクグイの元へ向かえば、いつもなら彼を待ちわびているはずのクグイが不機嫌そうにしている。

「どうした?」

 表情を戻した嗣己が不思議そうに首を傾げて聞いた。

「別に」

 明らかに何かあるのに意地でも答えたがらない。拗ねたような素振りのクグイに、嗣己はしばし考えた。
 そしておもむろにクグイの腕をつかんで引き寄せる。

「えっ」

 動揺するクグイをしっかりと抱き、その背中をぽんぽんと優しく撫でながら、子供をあやすように優しく囁いた。

「よし、よし」

「え、あ……」

 どういう結論での行為なのかクグイには理解できなかったが、何となく明継に勝ったような気がして今の状況に悪い気はしなかった。

 僕の方が嗣己との付き合いは長いんだからね。

 などと、大人げない気持ちを巡らせながら、先ほどまで口を尖らせていたクグイの顔が緩んでいく。
 しかし、その時間は長くは続かなかった。

「うお!? めちゃくちゃ甘えてんじゃん!」

 二人の耳に届いたのは穏平の声だ。

「うわ! ち、違う!」

 顔を真っ赤にしたクグイが慌てて体を離した。

「穏平。クグイも労ってほしいようだ」

 お前もやってやれと言わんばかりの嗣己に、穏平は頭を抱えつつも笑ってしまった。

「嗣己ってクグイの気持ちに対してはマジで鈍感だよな」

「なに……? 違ったのか?」

 意味が分からないとでも言うように眉間に皺を寄せた嗣己の横で、穏平はもう一度クグイに手を伸ばす。

「俺ならいつでも労ってやるのに。お前ってやつは」

「うるっさい」

 しかし、その手はクグイによって再び弾き返されるのであった。








 嗣己は皆を集めると野外訓練の終わりを告げた。
 明継は指導者らの話を聞きながら、この訓練の日々を思い出す。

 緋咲はもちろん、春瑠や大紀、清光や元晴と過ごした共同生活は”円樹村(えんじゅむら)”という居場所を無くした明継にとって特別なものだった。皆と笑い、ぶつかり、協力し、涙を見せあう。
 霞月(かげつ)で出会った面々と深く交流を持ち始めたことで、明継の居場所は徐々に円樹村から霞月に移っていた。

 そしてその回想は仲間と過ごした日々だけでは終わらなかった。
 この合宿で感じた、自分の体の中に潜む力の強大さ。
 しかもそれは大きいだけでなく、ひどく邪悪であることも薄々感じていた。
 この力はいつか災厄を引き起こす。
 それはその力を抱えてきた明継だからこそ感じる漠然とした不安だった。

 思考を巡らしていた明継はいつの間にか表情を曇らせていた。
 隣に立って話を聞いていた緋咲は明継の顔を見ることはなかったが、その雰囲気を感じ取ったようにそっと明継の指に自分の指を近づけた。
 二人は躊躇うことも、恥じらうこともせず、その行為が当然の事のように指と指を結んだ。
 目を合わせることも、言葉を交わすこともなかったが、二人はお互いの指のぬくもりに心地のよさと、その居場所を見つけていた。



 周りはその行為に気づく事はなかったが、唯一、クグイの瞳だけはそれを捉えていた。