”自然保護区”と銘打って隔離された海辺。
 能力者だけが立ち入りを許されたここに観光客の姿はない。
 そんな砂浜に足を踏み入れたのは、野外訓練真っ只中の霞月(かげつ)の4人だ。

 指導者の穏平(やすひら)を間に挟んで左に大紀(だいき)、右に清光(きよみつ)元晴(もとはる)が向かい合う。
 距離をとった両者はこれから始まる模擬戦に対象的な表情を浮かべていた。

「清光、元晴。予定通りに頼む」

「はい」

「任せとけって!」

 穏平の言葉に清光は静かに返事を返し、元晴は声を張り上げて笑った。
 対して、視線を交えた大紀は表情を曇らせ続けている。

 両者に目くばせした穏平が頭上に掲げた手を振り下ろすと、それを合図に清光が能力を発動させた。
 地面から大量の人影が伸び、武器を構えて大紀に向かう。
 大紀は黒い影から次々と繰り出される攻撃をかわしながら力を打ち消し、大群の中をすり抜けた。
 その間に印を結んでいた元晴の目が見開くと、大紀目掛けて雷が落ちる。
 元晴の攻撃に容赦は無く、雷を落下させる位置は常に的確だ。大紀の行く先を阻むように地面を打って黒く焼き付けた。
 しかし大紀の身体能力はそれを上回り、軽々と避けて2人との距離を詰める。

 落雷をくぐり抜けた大紀が清光の目の前まで迫って拳をふり上げる。清光が微かに眉を顰めると、大紀の体はためらうように動きを止めた。
 その隙を見て、体を瞬時に黒く染めあげた清光が溶けるように地面に落ちる。流れるように地面を滑り、また実体化する。
 清光の術に目を引かれた大紀の死角から元晴が現れた。
 躊躇うことなく大紀の腹に蹴りをいれるが、大紀は咄嗟にそれを受け流して後ろに大きく飛び退いた。元晴が追いかけ、間合いに入っては拳を振るうが大紀はひらりとかわしてどんどん後退してしまう。

「オイ!」

 元晴が怒りにまかせて声を張り上げた。

 三人の戦いを黙って見ていた穏平が頭を抱える。
 しばらくは模擬戦の中断を渋っているようにも見えた穏平だったが、後退していく大紀の姿が目で確認するには小さくなってきたところで遂に終了を告げた。

「はい終了~~~! 終了、終了~!」

 その声にホッとしたような表情で大紀が足を止めると、元晴が勢い余って胸に飛び込んだ。思っていた以上の勢いに大紀がバランスを崩して後ろへ倒れると、慌てて元晴の顔を覗き込む。

「大丈夫!? 怪我はない!?」

 心配して安否を確認した大紀の瞳に映ったのは、眉を吊り上げて怒る元晴の顔だった。

「お前! また逃げやがったな!」

 元晴は叫び、大紀の頬を力いっぱいつねり上げる。

「ひょんひゃほひょひゃいっへ!」

 つねられる痛みに涙を浮かべながらも大紀は元晴の手を腕力で無理やり剥がすことはしない。ただ必死に口で抗議する大紀に、元晴の怒りはエスカレートしていく。

「そんなら今すぐ殴ってみろよ!」

「ひゃや!」

「ちょちょちょ、そんなに引っ張たら大紀のほっぺが取れちゃうって!」

 清光が慌てて止めに入るが元晴の気持ちは収まらない。

「しるか! こいつが逃げるのが悪ぃんだ!」

「それでも大紀のほっぺに罪はないでしょ! こんな事ばっかするなら元晴と一生口聞かないから!」

「なっ……!?」

 清光が叫びながら元晴の腰に腕を回して引っ張ると、動揺した元晴はあっけなく剥がされた。
 放心する元晴をホールドしたまま清光が大紀に声をかける。

「大紀、大丈夫? ごめんね。こいつ熱くなるとすぐこうだから」

「あ……いや、僕こそ、その……」

 大紀が口ごもると、元晴が清光の腕を振り払って立ち上がる。

「あぁ、もう!お前のそういうとこ!!」

 元晴はそう言うと、怒りに任せてその場を離れた。
 その様子を目で追っていた清光が大紀に手振りで謝り、その後を追う。
 大紀はじんわりと痛む頬を両手で押さえると、眉尻を下げて口元に笑みを作った。

「元晴のことは清光に任せるかぁ」

 大紀の耳に入った呑気な声は、3人のやり取りを眺めていた穏平のものだ。

「やり方にはちと問題があるが、模擬戦に関しては俺も同意見だ」

 苦言を呈してどうしたものかと笑って見せた穏平に、大紀がすがるような視線を向ける。
 穏平は手を差し出して、大紀を立ち上がらせた。




 流木で作った簡素なベンチに古ぼけた屋根。砂浜に建てられたちょっとした休憩所だ。
 穏平はそこへ大紀を呼んで横に座らせると、海を眺めながら問いかけた。

「模擬戦、どうだった?」

「……」

 何と答えればいいのか迷って大紀は沈黙を選んだ。

「清光と元晴は寂池村(じゃくちむら)にいた頃よりずいぶんと戦えるようになっただろう」

「……はい。武術も印も。連携だって良くなってる」

 2人の話になると、大紀の口元が綻ぶ。

「そうだろ? あいつらだって周りに追いつこうと必死なんだ。大紀が好戦的じゃないのは知ってるが、いい加減ちゃんと向き合ってやらなきゃな」

「はい……」

 すっかり意気消沈した大紀とどう話をしていこうかと、穏平は思考を巡らせて頭を掻いた。

「うーん。できればもう少し、お前の胸の内を聞きたい」

 大紀は返事の代わりに首をかしげて穏平を見た。

「お前の戦い方を見ていると、どこか不安そうに見えてな。大抵は痛いのが嫌だとかそんな恐怖で怯えるもんなんだが、お前はそれとは違う。対人的な恐怖心を持っているように見える」

 一瞬、大紀の瞳が揺れた。

「……僕にもわかりません。でも、僕には大した力も無いし、印だって発動できないし。頭も飲み込みも悪いし。持ってる能力だって身体能力と、相手の力を打ち消すだけ。だから……無力で……」

 大紀は口元に笑みを作るが、穏平にはそれがひどく痛々しく見えた。

「どうしてそんなに自分を卑下するんだ?お前の能力は劣等感を感じるようなものでもないぞ。第一、任務参加は誰よりも早かったし、俺は霞月にお前の能力が乱用されるんじゃないかと心配で護身術を叩き込んだんだ」

「そう……ですか。なんででしょう。わかんないや」

 大紀が顔をひきつらせたまま笑う。
 穏平は大紀を指導する中で、この表情を何度も見てきた。彼が自分の気持ちを隠すときによくする顔だ。

「……自分を大切にできない理由は、二峯村(ふたみねむら)の環境にあったかもな」

 膝を抱えていた大紀の両手が”二峯村”という名前に反応して落ち着きを無くした。
 二峯村は大紀にとっての故郷だ。だがそれは明継(あきつぐ)円樹村(えんじゅむら)に抱くような、温かい想いばかりではない。
 大紀は二峯村の事を脳裏に浮かべるとき、必ず胸のどこかに黒くてひんやりとした、仄暗い何かが突き刺さる。
 大紀の手に、穏平の大きな手が重なった。驚いたように大紀が穏平を見るが、その視線は穏やかな海を見つめている。
 大紀は胸をなでおろし、穏平の手の温度を感じながら海へ視線を逃がす。

「自分を大切にするにはな、自己肯定感ってのが大切なんだよ。そのままの自分でいいんだと、自分が認めてやることだ」

「そのままの……自分」

「二峯村では色々あっただろ。母さんのこと、春瑠(はる)のこと、お前が置かれた立場。浴びせられてきた言葉。それに刺激が強すぎる出来事もたくさんあった」

 大紀の手が震え始めると、重ねられていた穏平の手のひらに優しく力が入り、握り込んだ。

「あの時こうしていれば、もっと自分に力があったら。自分がこんなんだからダメなんだ。って、自分で自分を責め続けてる。お前は何も悪くないのにな」

 目の奥のじんわりとした熱に気づいて大紀が瞬きすると、その大きな瞳から涙がこぼれおちた。

「あ……、どうしよう。先生ぇ」

 穏平が大紀の体を引き寄せる。
 その温かさを感じながら、大紀は二峯村での生活を思い浮かべた。

 母と春瑠と過ごした穏やかな日々は、二峯村に住み着いた怪物――栖洛(すらぐ)に見初められたことで徐々に崩壊していった。
 栖洛に支配された世界の大人は幼い大紀を追い詰め、心を疲弊させた。
 母のように慕った人を殺し、春瑠を奪い、大切な人を救えない事への無力さを突きつけた。そして無意識の中で作り上げた”無力な自分”という像は、いつしか呪いになり、大紀を縛り付け、全力で何かを成し遂げることへの恐怖を植え付けた。
 負の連鎖を抱えた大紀は更に自信を失い、不甲斐ない自分を他人に見せることへ恐怖を抱え、自分とも、他人とも向き合う事ができなくなってしまった。

「心の傷ってのはやっかいだ。少しずつ向き合っていくしかない」

 穏平が大紀の柔らかな髪を優しく撫でる。

「自信がなくなったら、自分が救ってきた人のことを思い出せ」

「僕が……?」

「神殿の中にいた時の春瑠も、あの気難しい元晴も、笑顔にしたのはお前だろ?」

 あの時、必死に手に入れようとした二人の笑顔が脳裏に浮かぶ。

「先生……」

 穏平にしがみついた大紀が声を殺して涙をこぼした。
 心の中でモヤモヤとしていたものが、ハッキリと言語化されたような、そんな心地だった。

「感情が豊かなところもお前の可愛いところだよ」

 泣きじゃくる大紀の背中を優しく包み込んだ穏平が穏やかな声色で言う。

「お前はお前らしくやったらいい。沢山頑張ってんのは俺が知ってる。あの頃と違って十分強いんだから。もう誰もお前の前からいなくなったりしねぇよ」

「はい……」

「まずは何事もあきらめない事。自分はできると念じろ。努力して、失敗しても気にせず突っ走れ。明継のように!」

「はい! あ、明継?」

 涙を拭いて意を決したように表情を引き締めた大紀が返事をするが、そこに提示された人物の名前に思わず気の抜けた声を出してしまう。

「あいつって失敗しようが何だろうが、何降りかまわず前に突き進むだろ?」

「あ、あぁ。……はい?」

 煮え切らない返事に穏平が声を出して笑う。

「まぁ、とにかくなんか1個。ガムシャラに頑張ってみろってことだ。安心しろ。失敗したって凹んだって、俺がそばにいてやるから。辛くなったら今日みたいに泣きついてこい。いつでも抱きしめてやる」

 そう言って笑った穏平は、我が子を可愛がるように大紀の肩を抱いた。
 父親がいなかった大紀にはそれがとても暖かく、揺るぎない大きな存在に思えた。
 屈託のない穏平の笑顔に大紀の顔も自然と綻んでいく。




「穏平先生……と、大紀! よかったぁ。まだいてくれて」

 砂浜を駆けてきた清光が休憩所に二人の姿を見つけると、安堵の表情を浮かべた。

「おー、清光。ご苦労さん。元晴は……どうだ?」

 清光はのんびり歩いている元晴へ視線を向けて苦笑いを浮かべると、駆けていって強引に手を引っ張った。
 眉間に皺を寄せた元晴が休憩所に現れると、大紀の視線が彷徨う。
 その態度に元晴の眉間の皺はさらに深く刻まれるが、清光にしつこく催促され、渋々口を開いた。

「どうもこうもねぇよ。大紀がこのままなら俺はもう付き合わねぇぞ」

 吐き捨てるような口ぶりに大紀は躊躇ったが、その背中を穏平が叩いてアイコンタクトを飛ばすと意を決したように頷いた。
 穏平がふらりと立ち上がってその場から離れると、大紀が背筋を伸ばして立ち上がった。

「清光、元晴」

 いつになく真剣な声色に元晴が大紀を見たが、すぐにその視線は離れた。
 それでも大紀は怯まず、大きく息を吸ってから勢いよく頭を下げた。

「ごめん!」

 頭を下げられ清光は戸惑ったが、元晴は相変わらずそっぽを向いたままだ。

「僕、二人にちゃんと向き合えなくて、ずっと失礼な事をしてたと思う。まだ人と本気でぶつかるのは怖いけど……まだ、上手にはできないけど……でも、頑張ってみたい」

 微笑む清光の後ろで、元晴が大紀の瞳をまっすぐに見つめた。
 大紀の瞳は苦し紛れに笑うことも、泳ぐこともなくまっすぐに元晴を見つめ返している。

「……勝手にしろ」

 しばらく見つめ合った元晴はそう言うと、顔を背けて穏平の元へ歩いていく。

「え、あの……」

 その言葉をどう捉えればいいのか分からず大紀が清光に助けを求めると、彼は穏やかに笑った。

「大丈夫。あいつ、素直じゃないだけだから」

 目を瞬かせていた大紀の体から力が抜けて、表情がふにゃりと緩む。

 大紀の表情が、ようやく晴れた。