狩りをしていた山のふもと近く、穏やかに流れる川の傍に明継はいた。
明継は到着すると、しばらく河原に座り込んで水の流れをぼんやり眺めていたが、時間になっても姿を現さない相手に待ちくたびれて靴を脱いだ。
冷たい川の中に足をつけると、流水の中で泳ぐ魚を見つけて微笑んだ。
その脳裏には緋咲と過ごした円樹村での日々が浮かんでいる。
明継は自然豊かなこの土地に訪れてから、たびたび円樹村の事を思い出していた。村から連れ去られて2年が経とうとしている今、さすがに霞月の風習にも慣れたが、やはり故郷は特別だ。思い起こすだけで笑みがこぼれる。
明継が川の中で故郷に想いを馳せていると、唐突に人の気配が生まれた。
「今から入水自殺か?」
明継の幸せな時間をぶち壊す声の主はいつも嗣己だ。
「誰がするか! ていうか遅い!!」
明継は空間移動で現れたであろう嗣己を指さして叫んだ。
「忙しいんだ。早く来い。あとうるさい」
「遅刻しておいて、そういうこと言う!?」
文句を言いながらも大股で川から上がり、明継が足元を整える。
準備が整うと同時に嗣己が口を開いた。
「昨日はひどい結果を残したそうじゃないか」
「さっそく心の傷をえぐるな!」
会って早々に痛いところを突かれて明継が胸を押さえる。
だが明継を揶揄う嗣己の表情はいつも楽しげだ。
「獣の一匹も捕まえられないとは不甲斐ないやつらだな」
何も言えずに明継が唸ると、嗣己は満足そうに笑った。
「そんなお前らを叩きなおすために俺がいるんだ。昨日失敗した印を結んでみろ」
「ええ……また地形変えたくないんだけど」
明継の脳裏に昨日の失態が浮かぶ。しかも今日は川のそばだ。決壊する姿を想像し、眉間に皺を寄せた。
「今のお前にそんな力は無い。言う通りにしろ」
「く……俺は言ったからな!」
さらりと言い退けた嗣己に念を押して背を向けた明継が渋々印を結び始める。
どうかこれ以上、力が暴走しませんように。
そう念じながら地面に手のひらを叩きつけた。
「……」
「……」
長い沈黙が流れる。
明継は恐る恐る目を開けたが、そこには穏やかに流れる川が変わらずにあった。
静けさの中に小鳥たちの可愛らしい鳴き声が響く。
助けを求めるように明継がゆっくりと振り向くと、耐えられずに吹き出した嗣己が視線を逸らした。
「だーっ! お前、今、笑ったな!?」
明継は湧き出る羞恥心を感じて、それをぶつけるように嗣己に突っかかった。
しかし嗣己は笑いを漏らして明継を揶揄うだけだ。
「くそー! 昨日と今日の違いは何なんだ!」
全く相手にしてくれない嗣己から聞きだすのを諦めた明継が体を投げ出して言うと、ようやく真面目な声が聞こえた。
「お前の力は危機に迫られるほど増幅する」
「え、なにそれ?」
先ほどまで嗣己に怒りを向けていたはずの明継がガバっと身を起こし、丸くした目を向ける。
コロコロ変わる明継の表情に穏やかな笑みを零しながら嗣己が問う。
「クグイからも防衛本能の強さは聞いているだろう。いい加減、自分でも感じているんじゃないか?」
「え……うん?」
曖昧に返事をする明継の顔には”考えたこともなかった”という言葉が貼りついている。
「あいかわらず鈍感なやつだ。昨日だって獣に襲われそうになって咄嗟に発動したんだろう?」
「確かに……」
「霞月に来たばかりの頃に比べたら力の操作も多少マシになったが、今のままでは力に使われているようなものだ。いつ飲み込まれるか分からん」
明継は過去にも同じような事を嗣己に言われていた。その時は自分の力にぼんやりとした恐怖を感じていたが、今は少し違う。
それはきっと、明継が危機に迫られた事を条件に増幅する力が結果として彼を護って来たからだ。
「確かお前、どの性質もいけたよな?」
思考を巡らせていた明継に嗣己が問いかけた。
「あぁ、うん。教えてもらったのは全部」
「上位の能力者でも二種類の性質を持っていれば十分なはずだがな。お前はどこをとっても規格外だ」
”性質”と言うのは、印を結ぶ事で能力者が発現させる自然現象の種類の事だ。
その種類は土・木・水・氷・火・雷を主軸に、その主体を変えて能力者の個性が現れる。木を例に挙げれば主体が木なのか、葉なのか、といった次第だ。
明継の能力を調べたところ、彼は6つ全ての性質を発現させた。そのうえ、闇や光などの比較的珍しい性質も使用でき、その先の分岐となる主体の素材も変えられる。印を結ぶだけでもそのバリエーションは豊かだ。
「まずは……」
と、言って嗣己が明継の背後に回る。明継の両手を持ち上げ、視線の先に差し出す。
「ちょっ」
「なんだ?」
嗣己の問いに何と答えれば良いか迷った明継が口を噤む。
今から何をするのか説明してくれれば良いものを、嗣己の指導はいつも唐突に始まる。
明継の対人距離は狭いほうではないが、普段、明継と肩が触れ合うだけでも露骨に距離を取る嗣己に唐突に距離を詰められると、さすがの明継もこれから何が起こるのかと気が気でなくなるのだ。
「自分の体から力を放出するイメージをしろ」
「え? う、うん?」
二人の視線の先で嗣己の細く長い指が明継の手を包み込んで、ゆっくりと印を結ばせる。
ここまで嗣己に密着されたことがなかった明継は体の動きを露骨に鈍らせたが、嗣己はそれに気づかず淡々と事を進めた。
「集中しろ」
「しゅ、集中……」
「俺のイメージが見えるか?」
頭の中に流れ込むように炎のイメージが湧く。
明継は印の指導をされるのだとようやく理解し始めたが、彼の五感はすっかり嗣己に奪われて集中できるような状態ではなかった。
背中を擦る嗣己の体の感触や、嗣己から漂う柔らかな香りが明継の思考回路を支配している。
「いや、あの」
「どうなんだ」
珍しく口ごもる明継にようやく違和感を持った嗣己が眉を顰めた。
「み、見え……」
「明継?」
不思議に思った嗣己が明継に視線を向けると、ちょうど名前を呼んだ吐息が明継の耳元にかかった。
瞬間、明継の心の中で、違う意味での危機感が爆発的に高まった。
感情が大きくぶれた明継の力は暴走し、印をかたどっていた手の内から爆発的な炎が噴き出した。手をかざしていた川の向こうに生えた木々は一瞬にして炭化し、元からそんなものが存在しなかったかのように全てを焼き払った。
「……どうなっているんだ?」
自分の密着が発端となった事に理解が及ばず、嗣己は戸惑いの声を上げた。
明継が頭を項垂れてため息をつく。
「俺の力に精神状態が関わってるの、何となくわかった気がする」
自己嫌悪に陥っている明継をしばらく見つめていた嗣己が体を離し、明継の胸に手のひらを置いた。
「少し見せてみろ」
「何……」
美しく輝く金の瞳に見つめられ、明継がたじろいだ。
嗣己は何か言いたげなその口に人差し指を当てて静かにさせると、目を瞑って精神を集中させる。
――そこにあるのは暗闇だ。
吹き荒れた風にさらされながら嗣己が周りを見渡す。
暗闇の先に浮かびあがったのは黄金の瞳。力強いそのまなざしは侵入者を警戒するように唸った。
嗣己が自分の指先に黒い霧を纏わせてゆっくりと染めていく。肘まで黒く染め上げると唸りを上げる金瞳に手を伸ばした。風はさらに強く吹き荒れ、拒むように大地を揺らす。嗣己は構うことなくさらに手を伸ばしたが、唸る金瞳に指が到達しそうになった瞬間、それが真っ赤な口を開いて牙をむき出しにすると――
噛みつかれるような錯覚に、嗣己の目が見開いた。
「嗣己!?」
名前を呼ぶ明継の声で嗣己は現実に引き戻された。
明継は嗣己の手首を掴んで胸から引き剝がすと、放心している嗣己の名をもう一度呼んだ。
「嗣己!」
嗣己の意識がようやく明継に移る。
「大丈夫か……?」
明継が不安げに問いかけた。
「……明継……か。……問題ない」
そう言った嗣己の額には冷や汗が浮かんでいた。
明継が心配そうに顔を覗き込むが、嗣己はそれ以上の事を告げることはなかった。
明継は到着すると、しばらく河原に座り込んで水の流れをぼんやり眺めていたが、時間になっても姿を現さない相手に待ちくたびれて靴を脱いだ。
冷たい川の中に足をつけると、流水の中で泳ぐ魚を見つけて微笑んだ。
その脳裏には緋咲と過ごした円樹村での日々が浮かんでいる。
明継は自然豊かなこの土地に訪れてから、たびたび円樹村の事を思い出していた。村から連れ去られて2年が経とうとしている今、さすがに霞月の風習にも慣れたが、やはり故郷は特別だ。思い起こすだけで笑みがこぼれる。
明継が川の中で故郷に想いを馳せていると、唐突に人の気配が生まれた。
「今から入水自殺か?」
明継の幸せな時間をぶち壊す声の主はいつも嗣己だ。
「誰がするか! ていうか遅い!!」
明継は空間移動で現れたであろう嗣己を指さして叫んだ。
「忙しいんだ。早く来い。あとうるさい」
「遅刻しておいて、そういうこと言う!?」
文句を言いながらも大股で川から上がり、明継が足元を整える。
準備が整うと同時に嗣己が口を開いた。
「昨日はひどい結果を残したそうじゃないか」
「さっそく心の傷をえぐるな!」
会って早々に痛いところを突かれて明継が胸を押さえる。
だが明継を揶揄う嗣己の表情はいつも楽しげだ。
「獣の一匹も捕まえられないとは不甲斐ないやつらだな」
何も言えずに明継が唸ると、嗣己は満足そうに笑った。
「そんなお前らを叩きなおすために俺がいるんだ。昨日失敗した印を結んでみろ」
「ええ……また地形変えたくないんだけど」
明継の脳裏に昨日の失態が浮かぶ。しかも今日は川のそばだ。決壊する姿を想像し、眉間に皺を寄せた。
「今のお前にそんな力は無い。言う通りにしろ」
「く……俺は言ったからな!」
さらりと言い退けた嗣己に念を押して背を向けた明継が渋々印を結び始める。
どうかこれ以上、力が暴走しませんように。
そう念じながら地面に手のひらを叩きつけた。
「……」
「……」
長い沈黙が流れる。
明継は恐る恐る目を開けたが、そこには穏やかに流れる川が変わらずにあった。
静けさの中に小鳥たちの可愛らしい鳴き声が響く。
助けを求めるように明継がゆっくりと振り向くと、耐えられずに吹き出した嗣己が視線を逸らした。
「だーっ! お前、今、笑ったな!?」
明継は湧き出る羞恥心を感じて、それをぶつけるように嗣己に突っかかった。
しかし嗣己は笑いを漏らして明継を揶揄うだけだ。
「くそー! 昨日と今日の違いは何なんだ!」
全く相手にしてくれない嗣己から聞きだすのを諦めた明継が体を投げ出して言うと、ようやく真面目な声が聞こえた。
「お前の力は危機に迫られるほど増幅する」
「え、なにそれ?」
先ほどまで嗣己に怒りを向けていたはずの明継がガバっと身を起こし、丸くした目を向ける。
コロコロ変わる明継の表情に穏やかな笑みを零しながら嗣己が問う。
「クグイからも防衛本能の強さは聞いているだろう。いい加減、自分でも感じているんじゃないか?」
「え……うん?」
曖昧に返事をする明継の顔には”考えたこともなかった”という言葉が貼りついている。
「あいかわらず鈍感なやつだ。昨日だって獣に襲われそうになって咄嗟に発動したんだろう?」
「確かに……」
「霞月に来たばかりの頃に比べたら力の操作も多少マシになったが、今のままでは力に使われているようなものだ。いつ飲み込まれるか分からん」
明継は過去にも同じような事を嗣己に言われていた。その時は自分の力にぼんやりとした恐怖を感じていたが、今は少し違う。
それはきっと、明継が危機に迫られた事を条件に増幅する力が結果として彼を護って来たからだ。
「確かお前、どの性質もいけたよな?」
思考を巡らせていた明継に嗣己が問いかけた。
「あぁ、うん。教えてもらったのは全部」
「上位の能力者でも二種類の性質を持っていれば十分なはずだがな。お前はどこをとっても規格外だ」
”性質”と言うのは、印を結ぶ事で能力者が発現させる自然現象の種類の事だ。
その種類は土・木・水・氷・火・雷を主軸に、その主体を変えて能力者の個性が現れる。木を例に挙げれば主体が木なのか、葉なのか、といった次第だ。
明継の能力を調べたところ、彼は6つ全ての性質を発現させた。そのうえ、闇や光などの比較的珍しい性質も使用でき、その先の分岐となる主体の素材も変えられる。印を結ぶだけでもそのバリエーションは豊かだ。
「まずは……」
と、言って嗣己が明継の背後に回る。明継の両手を持ち上げ、視線の先に差し出す。
「ちょっ」
「なんだ?」
嗣己の問いに何と答えれば良いか迷った明継が口を噤む。
今から何をするのか説明してくれれば良いものを、嗣己の指導はいつも唐突に始まる。
明継の対人距離は狭いほうではないが、普段、明継と肩が触れ合うだけでも露骨に距離を取る嗣己に唐突に距離を詰められると、さすがの明継もこれから何が起こるのかと気が気でなくなるのだ。
「自分の体から力を放出するイメージをしろ」
「え? う、うん?」
二人の視線の先で嗣己の細く長い指が明継の手を包み込んで、ゆっくりと印を結ばせる。
ここまで嗣己に密着されたことがなかった明継は体の動きを露骨に鈍らせたが、嗣己はそれに気づかず淡々と事を進めた。
「集中しろ」
「しゅ、集中……」
「俺のイメージが見えるか?」
頭の中に流れ込むように炎のイメージが湧く。
明継は印の指導をされるのだとようやく理解し始めたが、彼の五感はすっかり嗣己に奪われて集中できるような状態ではなかった。
背中を擦る嗣己の体の感触や、嗣己から漂う柔らかな香りが明継の思考回路を支配している。
「いや、あの」
「どうなんだ」
珍しく口ごもる明継にようやく違和感を持った嗣己が眉を顰めた。
「み、見え……」
「明継?」
不思議に思った嗣己が明継に視線を向けると、ちょうど名前を呼んだ吐息が明継の耳元にかかった。
瞬間、明継の心の中で、違う意味での危機感が爆発的に高まった。
感情が大きくぶれた明継の力は暴走し、印をかたどっていた手の内から爆発的な炎が噴き出した。手をかざしていた川の向こうに生えた木々は一瞬にして炭化し、元からそんなものが存在しなかったかのように全てを焼き払った。
「……どうなっているんだ?」
自分の密着が発端となった事に理解が及ばず、嗣己は戸惑いの声を上げた。
明継が頭を項垂れてため息をつく。
「俺の力に精神状態が関わってるの、何となくわかった気がする」
自己嫌悪に陥っている明継をしばらく見つめていた嗣己が体を離し、明継の胸に手のひらを置いた。
「少し見せてみろ」
「何……」
美しく輝く金の瞳に見つめられ、明継がたじろいだ。
嗣己は何か言いたげなその口に人差し指を当てて静かにさせると、目を瞑って精神を集中させる。
――そこにあるのは暗闇だ。
吹き荒れた風にさらされながら嗣己が周りを見渡す。
暗闇の先に浮かびあがったのは黄金の瞳。力強いそのまなざしは侵入者を警戒するように唸った。
嗣己が自分の指先に黒い霧を纏わせてゆっくりと染めていく。肘まで黒く染め上げると唸りを上げる金瞳に手を伸ばした。風はさらに強く吹き荒れ、拒むように大地を揺らす。嗣己は構うことなくさらに手を伸ばしたが、唸る金瞳に指が到達しそうになった瞬間、それが真っ赤な口を開いて牙をむき出しにすると――
噛みつかれるような錯覚に、嗣己の目が見開いた。
「嗣己!?」
名前を呼ぶ明継の声で嗣己は現実に引き戻された。
明継は嗣己の手首を掴んで胸から引き剝がすと、放心している嗣己の名をもう一度呼んだ。
「嗣己!」
嗣己の意識がようやく明継に移る。
「大丈夫か……?」
明継が不安げに問いかけた。
「……明継……か。……問題ない」
そう言った嗣己の額には冷や汗が浮かんでいた。
明継が心配そうに顔を覗き込むが、嗣己はそれ以上の事を告げることはなかった。