そこにあるのは様子を窺う3つの目と、巨大な猪だ。
 巨大と言うのは他の個体と比べて、という話では無い。四つ足の状態で成人男性の背丈を優に超える、という意味での巨大さだ。
 その異様ともいえる大きさの猪を執拗に追いかける3つの目――明継(あきつぐ)緋咲(ひさき)大紀(だいき)は、山の中で野生動物をターゲットにした捕獲作戦を実行している。
 彼らは何度かのアイコンタクトを交わし、全員の準備が整ったのを確認すると、リーダーである明継が茂みから手を伸ばした。
 あらかじめ決めておいたゴーサインを静かに掲げる。

 それを合図に最初に動いたのは緋咲だ。
 彼女が投げたクナイはターゲットの足元を的確に突き、逃げ道を塞いだ。
 ターゲットが驚いて怒りをあらわにすると木の上から大紀が飛び降りてその背中に跨った。

「よし! 大紀いけ!」

 明継が声を上げてガッツポーズする。
 が、大紀は体の動きを止めて何かを注視し始めた。
 明継が視線の先を追うと、そこにいたのは小さなウリ坊だ。

 大紀は眉尻を下げて震えるウリ坊たちを見つめていた。振り上げたクナイを降ろすこともできず、ただただそのウリ坊たちと瞳で会話し、彼らと母猪との関係性に瞳を潤ませている。
 もちろんその間も母猪は暴れているのだが、大紀の身体能力はその揺れを感じさせないレベルで安定していた。

『おい大紀! お前の身体能力はわかったから早く実行しろ!』

『大紀、大丈夫!?』

 明継と緋咲からの精神感応が次々と送り込まれる。しかし大紀はウリ坊の存在を確認した瞬間、既に、この猪を”ターゲット”ではなく”保護するべき存在”にすり替えてしまっていた。

「どうしたらいいんだー!」

 大紀が頭を抱えて叫ぶ。

「大紀ーーー!」

 明継の叫びもむなしく、心の隙をついた母猪が大紀の体を突き上げた。そして宙を舞う大紀を追い、牙をむき出しにして狙いを定める。
 明継との連携も忘れて緋咲が持ち場から飛び出した。
 空中で大紀の体を捕らえた緋咲が近くの木を軸に方向転換しその場から消える。
 興奮した母猪は怒りの矛先を失い、ぐるぐるとその場を旋回した。

『明継!』

「任せとけって!」

 緋咲の精神感応を受けた明継が思わず大声で返事をすると、標的を明継に変えた母猪が興奮した状態で走り出した。

「うお! こっち来た!?」

 母猪の突進速度に逃げ場を失った明継が焦りながら印を結んで大地に手を付ける。

 ドゴン!

 と、爆発音のような地鳴りとともに大きく大地が揺れた。

「ひ、え!?」

「きゃ……」

 三人の足元を突き上げるように山が揺れる。
 山の動物たちが何かを察知するように一斉に逃げ出した。

「明継! どうなってるの!?」

「わかんねー! でもこれ」

「「「やばいってのはわかる!」」」

 大きな土砂崩れを起こし、山は大惨事になった。



 明継たちが崩壊させたこの山は、霞月(かげつ)から3里程離れた場所にある。
 ここは霞月を統治する国の領地内にある山で、鉱泉地があったり海が近かったりと好条件が重なって観光地や療養地として盛んに利用されている。
 しかし、一部の山や施設は「自然保護区」という名目で隔離され、霞月の能力者専用の”能力向上施設”として人知れず利用されている。
 特に明継たちが狩りを行っていた山は野生動物たちの異常ともいえる成育が確認されており、一般人の立ち入りを禁止していた。


 土砂崩れを起こして地表を丸出しにした山で、明継・緋咲・大紀が正座をしながら首を項垂れていた。
 そんな3人の指導者、穏平(やすひら)は彼らの前を何度か往復すると、静かに息を吐いた。


「これで何回目だ?」

 穏平の問いかけに緋咲が歯切れ悪く答える。

「……3……回目です」

「お前たちは自分の飯さえ満足に狩れんのか?」

 穏平の言葉に3人の放つ空気がどんよりと重くなった。
 中でも穏平に憧れの念を持っている緋咲は、より暗いオーラを放って身を縮こませている。

 穏平はその空気を痛いほど感じながらも足を止め、まずは大紀に視線を向けた。

「大紀。いい加減、敵に同情するのを止めろ。お前が死ぬぞ」

「すみません……」

 散々泣いて目元を赤く腫らした大紀が声を震わせた。


 次に、緋咲に視線を向けて口を開く。

「緋咲。このままだと嗣己(しき)からのクレームに反論できなくなる」

「はぃ……」

 穏平に向ける顔が無いと、緋咲は顔を手で覆い隠してか細く返事した。

 最後に、すっかり地形の変わった山を見回してから明継に言った。

「明継。この山に恨みでもあるのか?」

「なぜこうなったのかを俺が聞きたい!」

 明継は穏平に掴みかからんとする勢いで叫んだ。


 三者三様の反応に、穏平はもう一度長いため息をつく。

「お前らの弱点がわかったという意味では良かった……が、食料調達をおんぶにだっこではいい加減恥ずかしいぞ」






 獲物を逃がして穏平に窘められた3人はすっかり気を落として帰路についた。

 彼らの寄宿先は大型施設の個室などではなく和風建築の一棟貸しのようなものだ。元々観光資源として造られた施設を急遽買い上げて能力者の寄宿先としたためその雰囲気は民宿に近い。

 この寄宿先を使用する能力者たちは、基本的に山で獲物を捕り、自炊をし、野外訓練期間を同期と共に過ごす。
 今回は新しく霞月に入った清光(きよみつ)元晴(もとはる)らも加え、明継・緋咲・春瑠(はる)・大紀が同じ屋根の下で生活をする。

 明継たちは宿が見えてくると、もう一度ため息をついた。宿の玄関横に備えられた野外水場で清光と元晴が捌いた獲物の後始末をしている姿が目に入ったからだ。
 3人が気まずさを感じながらも歩を進めると、それに気が付いた元晴が駆け寄ってくる。何事かと身構えれば、元晴が心配そうに皆の顔を覗き込んだ。

「おい、さっきすげぇ地震があっただろ? お前ら大丈夫……」

 彼はそこまで言いかけて、三人が暗い空気を放っている事に気が付いた。

「……まぁた失敗したのか」

 心配そうにしていた表情が嘘だったかのように顔を顰めて容赦なく聞くと、後を追ってきていた清光が咄嗟に元晴の口を塞いだ。

「お、お疲れ様! 狩猟だけが目的の合宿じゃないしさ。まだ日数もあるから気にしないでよ」

 清光の優しさを感じながらも三人の表情が晴れる事はなかった。

「本当の事を言って何が悪いんだよ? こいつら、ここに来てから俺たちの獲物だけで生活してんだぞ」

 苦笑いするしかない清光を前に、意気消沈している緋咲と大紀を置いて明継が叫んだ。

「くそー! 俺だって捕まえたい! あんなでかい獲物、どうやって捕まえてきてるんだよ!?」

 明継は元晴たちが持ち帰った獲物を指さして迫った。
 明継たちと同じ山で同じように狩りに出ている元晴たちの獲物はやはり異常な大きさをしている。しかしこの小柄な二人はそんな獲物をものの数十分で捕まえてしまうのだ。明継はその方法が不思議でならなかった。

 元晴は迫って来た明継の顔を押しのけて、何が不思議なのかと言いたげに答える。

「俺が獲物を操って、この近くで清光が捌くんだよ。簡単だろ?」

「ええ! めちゃくちゃ便利じゃん! 俺もその力欲しい!」

「欲しいっつって手にはいるモンじゃねーだろ」

「元晴……」

 もう何も言うまいと名前を呼ぶ清光の声に、被せるように入ってきたのは春瑠だった。

「おかえりなさ~い!」

 猫撫で声の春瑠が抱きつく先は緋咲だ。

「美味しいご飯できてますよ♡ 緋咲さんのために作りました♡」

 桃色のオーラを纏わせて緋咲の体の傷を一気に治癒すると、その大きな瞳で緋咲の顔を覗き込んだ。
 二峯村(ふたみねむら)の一件ですっかり緋咲に憧れてしまった春瑠の視線はキラキラと輝いている。

「私に食べる資格なんてないわ……そんな目で見ないで……」

「そんな事ありません! 緋咲さんなら絶対にやってくれるって、私は信じてます!」

「もうその辺にしておいてやれよ……」

 自己嫌悪に陥った緋咲を不憫に思い、珍しく元晴が同情の念をもって制止すると、ようやく皆の存在を認識したかのように春瑠が振り返った。
 そして小首をかしげてふんわりと微笑む。

「あ。元晴の分もあるよ? 一応ね♡」

「獲物を持って帰ったのは俺と清光だからな!?」

 分かりやすい挑発に乗った元晴に春瑠は笑顔で応えると、緋咲の腕を引っ張って宿へ押し込んだ。



 食事の部屋には芳ばしい香りが立ち込めていた。
 机の上には人数分のサラダや温かいスープ、柔らかく煮込んだ肉料理が用意されている。
 目を輝かせた明継が並べられた料理に食いついて声をあげた。

「すげー! 春瑠って本当に料理上手だな!」

 この宿で共同生活をするようになってから明継は既に何度か春瑠の料理を食べているが、いつも初見のように感激して見せる。
 その度に照れ笑いする春瑠を見て、大紀は口元を綻ばせていた。

「何でお前の顔がへにゃへにゃになってんだよ」

 それに気が付いた元晴がきつい口調で言いながら、大紀の柔らかな頬をこねくり回し始めた。元晴は何かと理由を付けて大紀の頬をつねるのだが、その大半は柔らかさを堪能するのが目的である。

「お前ひとりで作ってんのか?」

 されるがままの状態になった大紀の頬を未だ堪能している元晴が問うと、春瑠が満面の笑みで答えた。

「まさか。クグイさんが一緒に作ってくれてるの。私1人じゃこんなに作れないもん」

「へー。アイツってそんな事もできるのか」

 感心するように返した元晴の後ろで緋咲と明継が囁き合った。

「クグイ先生って、そんな特技持ってたの?」

「俺も初耳。アイツが料理してるところなんて想像つかないし。ていうか変なもん入ってないだろうな?」

 訝し気な表情をして器の中を覗き込む緋咲と明継を見て春瑠が目を細めた。

「どうでしょうね? 私とクグイ先生にはお互い狙ってる人がいますから♡」

 春瑠の可愛らしい顔が意味深な笑みを刻み、緋咲が青ざめた。

「ね? ひ・さ・き・さん♡」

「そそ、それはどういう……」

「もちろん――」

「くだらね~」

 じゃれあう二人の前を元晴が通り抜けると、席に座った。

「どうせ席だって決まってねぇんだから仕込みようがないだろ。俺は食うぞ」

 手を合わせてサッサと食事に手を付けようとする元晴を春瑠はつまらなそうに見たが、

「確かに」

 と、言って納得した緋咲が席に着くとその横の椅子を慌てて確保した。



「そういえば、地震ありませんでした?」

 春瑠が悪気なく選んだ最初の話題に原因となった3人が体をびくりと揺らした。
 苦笑いをする清光の横で、元晴が話題を変える。

「俺たちが出てる間、春瑠はクグイとずっとこっちにいるんだろ? いつも何やってるんだ?」

「私は霞月で教わってることとあまり変わらないかな。あ、でも結界の張り方は教えてもらってるよ」

「結界?」

 最初の一撃で顔を暗くしていた明継が話に食いつく。

「はい。クグイ先生の術の補助で必要になるんだとか」

「春瑠とクグイって戦闘時の相性もいいんだな」

感心するように言った明継の言葉に、春瑠が思考を巡らせるように視線を上げた。

「うーん。というより、回復役は戦闘になったら基本的に後方なので都合が良いってだけだと思います。だから遠隔の清光も結界の指導受けてるよね」

 春瑠に視線を送られた清光が微笑んで首を縦に振ると、春瑠が思い出したように続けた。

「清光って、結界の張り方がすっごく上手なんですよ! 複雑な結界もすぐ習得しちゃうし、とにかくすっごいの!」

 春瑠が声を弾ませて明継に言うと、元晴が得意げな顔をする。

「清光は何をやらせてもセンスが良いからな」

 そう言った元晴に肩を抱かれた清光が恥ずかしそうに顔を赤くする。

「なぁんで清光の能力で元晴がえばるかな?」

 春瑠が呆れたように口を尖らせて言うと、元晴が舌を見せて揶揄った。

「お前らって本当に仲がいいよな」

 二人のやり取りを見ていた明継がスープをすすりながら言うと、春瑠と元晴が顔を真っ赤にして

「「良くない!」」

 と、ハモりながら立ち上がった。
 皆が笑う中、視線を交わして唸り合った二人が同じタイミングで顔を背けた。