害虫駆除を終えて暇を持て余していた嗣己(しき)は、緋咲(ひさき)の戦闘が終わるのを遺跡の外で待っていた。
 中へ入って応戦してもいいが、それでは面白みに欠ける。
 それが理由だ。

 しかし大きな衝撃を感じた後、光輝く蝶が遺跡から逃げ去るのを見た嗣己は遂にくつろいでいた足を解いた。

 一瞬で姿を消した嗣己が次に姿を現したのは遺跡内、祭壇のある部屋だ。
 遺跡というだけあって人が寄り付かないこの建造物には灯りなど存在しない。
 はずだが、この祭壇に限ってはいくつかの蝋燭が置かれ、辺りをぼんやりと照らしていた。
 先ほどまで知能を持った化け物がここで儀式を行っていたのだろうと推測した嗣己が視線を向けると、やはり祭壇の前には明継(あきつぐ)が横たわっている。
 そしてその近くには”化け物”が立っていた。

「緋咲……か」

 嗣己はその化け物を瞳に映して呟いた。
 彼女は全身を赤黒く染め上げたうえ、人間らしい思考を捨てているように見えた。
 その証拠に、明継の体によだれを垂らし、今にもかぶりつかんとしている。


「そいつはお前が大事にしている男だぞ。食っていいのか?」

 嗣己が緋咲に聞くと、息を荒くして視線を返した。

「緋咲にこんな力を渡したのは誰だ。まだ早すぎるだろう」

 ギラギラとした緋咲からの視線を受けた嗣己は面倒くさそうに呟いた。
 が、次の瞬間には体を横たえて、馬乗りになっている緋咲に発光する瞳を向けられていた。

「う、うま……うま、そう……?」

 喋ることもままならなくなった緋咲が嗣己の顔を覗き込む。
 嗣己が冷めた様子で彼女の目を真っ直ぐに見ると、一瞬、緋咲の体が揺れて動きが止まった。

「……多少の意識はあるのか?」

 面倒くさそうに寝そべっていた嗣己が急に目を輝かせた。
 頭を抱え、葛藤するように唸る緋咲を腹に乗せたまま、ようやく上半身を起こす。

「ウゥ……キライ……タベ、タベタ、クナイ」

 緋咲の心の叫びに笑いながらも、嗣己は躊躇することなく彼女の首を両手で掴んだ。
 葛藤を見せていた緋咲は思い出したように暴れたが、嗣己は素知らぬ顔で手に力を込める。

「う……ぐうぅ!」

 背を反らせて苦しむ緋咲を前に、嗣己の口元が喜びで吊り上がった。

「あぁ、興奮する」

 嗣己の口から欲情に駆られた声が零れると、緋咲の体が大きく震えた。
 赤黒く染まっていた体の浸食部分が肩まで一気に引いた。

「キッッッモい!!!!!!!!! マジで!!!!!!!」

 緋咲の絞りだした声が遺跡中に鳴り響いた。
 面食らったような顔をしている嗣己を睨みつけ、
 とにかくコイツから離れなければ。
 という本能的なものを感じて緋咲が必死に身をよじる。しかし当の本人は何がおかしいのか、今度は声を出して笑いだす。
 緋咲は破顔して笑う嗣己を宇宙人でも見るかのように凝視した。するとその隙をつくようにもう一度浸食が始まる。

「うああっ!」

「お前らは本当に面白いな」

 心配するそぶりも見せず嗣己が嬉しそうに眺めていると、緋咲が顔を歪めて叫ぶ。

「笑ってないで、たす……け、んかい……!」

 緋咲の意識が遠のき始めた。

「はいはい。お望みの通りに」

 嗣己は首を絞めていた手を緩めて緋咲を自分に引き寄せた。噛みつくように口づけると緋咲の中で渦巻いていた黒い霧が二人の結合部分を伝って流れ込む。
 全てが嗣己に吸い込まれると、緋咲の意識が途切れた。

「重い」

 嗣己の体に寄りかかっていた緋咲の体を乱雑に落とす。
 すると、どこからか震えた声がする。

「おおおおま、おま、おおお」

「やっと気が付いたか」

 震える声の主は意識を取り戻した明継だ。
 彼は顔を真っ青にして叫んだ。

「緋咲に何してんだ!?」

 その大声は遺跡の外まで鳴り響き、木々から鳥たちを一斉に飛び立たせた。







 緋咲が目を覚ましたのは、それから数十分ほど後の事だった。
 めまいや体の痛みを感じながら体を起こすと明継が駆け寄ってくる。

「緋咲、大丈夫か!?」

「……私は大丈夫。それより明継は無事? 良かった……」

 安堵の表情を浮かべた緋咲に明継もまた、笑顔を見せた。


「私どうなったんだっけ……嗣己が大笑いしてね、本当にびっくりして……」

 曖昧な記憶を探るように額に手を当て、辺りを見回した。そして助けを求めるように明継に視線を向けたが、彼は眉間にしわを寄せてむくれているだけだ。
 傍にいた嗣己が何も言わない明継をしばらく見つめたが、諦めたように首を振ると緋咲に視線を向けた。

「あの力、誰に与えられた?」

「ちか……ら……。あ……」

 飲み込んだ薬品の事を思い出して心拍数を上げた緋咲に嗣己の視線が突き刺さる。

二峯(ふたみね)の娘か?」

 押し黙る様子を見て、薬品を渡したのが春瑠(はる)だと確信を持った嗣己はそれ以上を問い詰める事はなかった。
「使うのは勝手だが、死んでも知らんぞ」
 突き放すように言った嗣己に明継が眉を吊り上げた。

「お前が仕事を放棄したからだろ!?」

「緋咲が死にかけてる間、グースカ寝てた奴に言われたくないな」

「俺は気を失ってたんだ!」

「お前、いつも意識が飛んでいるよな?」

「うるせえ! 穏平(やすひら)と同じ煽り方すんな!」

「アイツと一緒にされるのは心外だ」

 明継とじゃれ合う嗣己を見つめていた緋咲が、ふと記憶を蘇らせた。
 思わず指で唇に触れると、ワーワーと叫んでいた明継がピタリと動きを止めた。
 その視線を追いかけた嗣己が、明継に耳打ちする。

「……覚えているようだな」

「あぁ……やっぱり! セクハラで緋咲が苦しんでる! 緋咲が許しても俺が許さん!」

 取り乱した明継に体を揺さぶられた嗣己は、不服そうに眉をしかめた。

「俺はあいつの命の恩人だぞ?」

「やり方が問題だって言ってんだろ!」

「幼稚だな」

 嗣己はそう吐き捨てて話を終えるつもりだったが、心の整理を付けられない明継の様子を見ると、その場から離れられなくなってしまった自分にうんざりした。

「……お前の力は特殊なんだ。のんびり吸いだしていたら緋咲が死ぬ。あんなもの、人命救助でする人工呼吸のようなものだろう」

「う……」

 そう言われては騒ぎ立てた自分が不純に思えてくる。
 明継は納得せざるを得ないという感情を顔に張り付けながら、それでも心の整理ができなかった。

「頭では分かってる! けど! 相手が嗣己なのがなんかすっげー嫌なの!」

 八つ当たりにも似た感情で心のモヤモヤをぶつけた明継に、嗣己が口元を隠す。

「おい、笑うな!」

「心配するな。意味は伝わっている」

 心を落ち着けるから待ってくれ。
 そう言うように、明継の目の前に手のひらを向けて表情を隠し続ける。
 中々見ないその様子に不安になった明継が自分の言葉を反芻したが、その理由は分からなかった。



 どちらかと言えば2人のイザコザの原因となった人物のはずなのに、なぜかずっと外野状態で見せつけられていた緋咲が2人のやり取りに耐えられなくなりようやく口を開いた。

「あー……お取込み中のところごめんね?」

 気まずさを感じながら話しかけると、明継は助けを求めるように、嗣己は不満そうに視線を返す。

「私の心は傷ついてないし、体も無事。明継を取り戻せたし、嗣己は幸せそうに笑ってる。何の問題もないわ。ただ霞月(かげつ)は行方不明者の報告を心待ちにしているはずよ。だからもう帰りましょう。私が変な趣味に目覚める前に、一秒でも早く。ね?」

 明継と嗣己は緋咲の言葉を聞いて顔を見合わせると、あっさりと同意した。

 三人が帰路につく頃には、朝日が昇り始めていた。