霞月の里に夕暮れがきた。
 仕事を終えた明継(あきつぐ)は部屋へ戻るため民家の立ち並ぶ地域に足を踏み入れた。
 屋敷のふもとに密集した民家の集まり。それを抜ければ屋敷にたどり着ける。
 たったそれだけの事だった。

 帰れないわけがない。

 明継は根拠のない自信を持って歩き始めたが、歩けど歩けどその距離は縮まらなかった。
 巨大な迷路に迷い込むように民家の間を歩き回る明継に、焦りが見え始める。

 なぜ帰れない?

 その疑問を抱えたまま、気づけば日も暮れてしまった。

 誘いこまれるようにたどり着いた古びた民家の密集地。
 明継はその不気味さに身を縮こめた。
 足早に歩けば、何かに見られているような、殺気ともとれる空気を感じた。
 いつの間にか駆け足になった明継は、民家の格子状の窓にちらりと目をやる。
 その深い闇の奥にあったのは、ぎょろりと動く複数の目玉。
 背筋に冷たいものを感じて大声を上げそうになった瞬間、

「お前は何をしているんだ?」

 と聞き覚えのある声が耳に届いた。

「あ! あーーーー!!!!」

「バカ。静かにしろ」

 突如、目の前に現れた嗣己(しき)を指さし、すがるように駆け寄る。
 声にならない声を上げた明継に、嗣己が呆れた様子で体に触れた。

「世話が焼ける」





 次に明継の目に入ったのは、緋咲(ひさき)と約束した部屋の襖だった。
 訳も分からずに襖を開ければ、緋咲が笑顔で出迎える。
 呆けた顔をしていた明継は、それを見てへなへなと座り込んだ。

 眉を顰めた緋咲が駆け寄って、明継の表情を覗き込む。

「……怖かったね。でももう大丈夫よ」

 明継がゆっくり緋咲の顔を見て、抱きついた。

「ちょっと休もうか?」

 その問いかけに、何度も頷いた。



 落ち着きを取り戻した明継は、机の向こうで黙り込んだ緋咲を前に、ただじっと待っていた。
 話をすると切り出したのは緋咲のはずだが、どこか覚悟を決めかねているような、そんな空気が漂っている。

「……私ね、幼い頃から人の心の声が聞こえるの」

 長い沈黙を破った緋咲の言葉は、明継が思っていた内容を易々と越えた。
 発しようとした単純かつ否定的な言葉を一度飲み込む。
 それくらい、緋咲の瞳は真剣だった。

「じゃあ俺の心も……」

 仕切りなおしてまた言葉を発したが、それもすぐに途切れた。
 緋咲の告白は明継にとって、それほど不可解で衝撃的な事だった。
 人の心の内は分からないのが前提で、だからこそ人はそれぞれの感情を巡らせる。それを知らず知らずのうちに知られていたというのだから当然だろう。

 緋咲にどんな言葉をかければいいのか。
 自分の過去に過ちはなかったのか。
 緋咲はその力によって傷つく瞬間がどれほどあったのか。

 明継には想像もできない。

「ごめん。反応に困るよね。でも、5歳くらいからコントロールできるようになって、無闇に聞いたりはしてないから」

 居心地悪そうにする緋咲の姿に、明継の顔が思わず曇る。

「明継は優しいね」

 緋咲はそう言って、目を伏せた。

「……それはいつから?」

 ようやく口を開いた明継に、緋咲が微かに笑みを作る。

「物心ついた頃にはもう聞こえてた。でも村の人たちの反応を見て、普通じゃないんだって知った。だから自分でコントロールを始めたの」

「そうか……」

「これは嗣己が言っていた力……だと思う」

 緋咲が複雑な表情を見せる。

「嗣己も私と同じ力を使ってるみたい。この里では珍しくないのかな」

 明継はその言葉を受けて自分の過去を振り返ってみたが、やはり思い当たることはなかった。
 そもそも、今ですら人の心の声など聞ける気がしないのだ。

 ”全ての人間が覚醒できるわけでは無い”

 嗣己が言ったその言葉を思い出すと、

 自分にはそんな力は備わっていないのかもしれない。

 という結論に至ってしまう。


「俺はそんな力を感じたことがないからなぁ……」

 独り言にも似た呟きに、緋咲がもの言いたげに明継の表情を覗き込んだ。
 明継がどうしたのかと聞けば

「きっと明継にもあるはず。嗣己はそれだけ大きな期待を持っていたもの」

 と、言った。

 心が読める緋咲だからこそ信頼のおける情報だが、何の変哲もない人生を歩んできたつもりの明継にとって、それは俄に信じがたい話だった。