春瑠(はる)は額に汗をにじませながら唸っていた。
 化け物に触れられる瞬間は何度経験しても全身が粟立つ。
 耐えるように強く目を瞑り、体を震わせた。

 二峯村(ふたみねむら)で大神様と崇められている化け物――栖洛(すらぐ)の顔には大小の触覚があり、10数本並ぶ大触覚の先には目がついている。その下には小さく平べったい小触覚、そして横に大きく広がる口。体の色は漆黒で、背中にはてんてんと赤色の斑点が浮かんでいた。全身に粘り気のある体液を纏い、月明かりに反射してぬらぬらと光る様はナメクジのようだ。
 その小触角を春瑠の足に滑らせながら少しずつ上に這い上がる。触角の下に開いた穴から触手を伸ばすと口の中にねじ込んだ。
 春瑠の体が桃色に発光すると、触手を通して光が吸い取られていく。春瑠はめまいと吐き気を催しながら意識を手放さんと必死に耐えた。

 以前意識を飛ばしたとき、春瑠が目を覚ますと一糸纏わぬ姿に透明の液体が纏わりついていた。それは体の表面どころか内側まで浸食し、体を動かすたびに中から溢れだした。自分の体に何をされたのか想像する事すら恐ろしく、余りのショックに毎日泣き続けた。
 だが意識があれば、栖洛は口以外を侵すことは無かった。

 口から触手を引き抜いた栖洛は、今度は春瑠の体を這って下へ下へと降りていく。小触角が下腹部で止まると春瑠は青ざめながら両足に力を込めた。その先を探るように小触角を押し込む栖洛に春瑠が必死に抵抗する。

「こちらの方が力を吸い上げやすい。力を抜きなさい」

「嫌!!!それだけは嫌!!!!!」

 何降りかまわず身を捩り抵抗する春瑠に、栖洛は複数の大触覚を春瑠の眼前に並べて言った。

「お前が大切にしているあの男を殺してやろうか?」

 春瑠の脳裏に大紀(だいき)の顔が浮かんだ。
 2人でこっそりと作り上げてきたあの時間も、栖洛には筒抜けだった。

「…………大紀を巻き込まないで」

 春瑠は大粒の涙をいくつも流しながら、全身から力を抜いてそれを受け入れる意思を見せた。

「いい子だ」

 栖洛は春瑠の体にねじ込むための触手をゆっくりと伸ばし始めた。
 春瑠は震える小さな手で顔を覆い隠した。



「もう我慢ならない!」

 その言葉と共に飛び込んだのは漆黒の衣装を身にまとった緋咲(ひさき)だった。
 天井から飛び降りると振りかぶった小刀で栖洛の頭を真っ二つにたたき割る。着地と同時にひらめく羽織を外して春瑠に投げ渡した。

「これを着て逃げなさい!」

 呆気に取られていた春瑠が緋咲を見つめたが、もう一度怒気を含ませた声で催促すると慌てて部屋を飛び出した。
 その間にも栖洛の頭は再生されていく。
 緋咲は舌打ちをしながらも春瑠が立ち去るのを見て微かに安堵の表情を見せた。


「旅の者……か。お前には強い力を感じていたが何者だ?」

「お前みたいな虫ケラに言う必要などない」

「あぁ、恐ろしい。だが……実に旨そうだ」

 栖洛が歯をむき出しにして笑う。

「アンタみたいに女を虚仮にする化け物が一番ムカつくのよ!」

 緋咲が小刀を構えて突進すると、栖洛の体中から触手が現われた。薙ぎ払いながら床を踏み込んで飛び上がり、一振りで目玉の着いた触角を全て切り落とす。
 ぼとぼとと音を立てて落ちた触角は意思を持ったようにうねうねと動き回り、着地した緋咲の体を浸食しようと纏わりついた。
 しかし緋咲は躊躇うこともなくそれらを鷲づかみにするとぶちぶちと引きちぎる。

「女の体に気安く触んな」

 その冷ややかな視線からは栖洛への嫌悪がありありと感じられた。
 枯れて縮んだ触角を捨て、踏みつけるともう一度栖洛に向かう。胴体を切り付けるが、桃色に発光した状態での自己回復力の速さは尋常ではなかった。切り落としたはずの触角も元の状態まで復元されている。

「家畜に過ぎん人間風情が!」

 体を再生させながら怒りに任せて緋咲を薙ぎ払うと、口の横からメリメリと皮膚を割いて複数の槍を出した。
 緋咲は片膝を着いた状態で放たれた槍を小刀で弾くが、大腿にそれが掠ると足元がグラついた。
 栖洛の体で生成された槍には体液と共に毒がまとわりついている。それは傷口からしびれを起こさせ感覚を鈍くしていった。

 ゆっくりと近づく栖洛に、隠し持っていた針を飛ばすもそれすら体に取り込んでしまう。

「こんなに手こずった女は初めてだ」

 口からよだれをだらだらと垂らしながら、緋咲の上にズシリと乗り上げた。

「お前なんかに誰が降伏するものか……!」

「まだ強がるか。愛いやつめ」

 密着した部分から触手が次々に生み出される。それは体をまさぐり服の隙間を探して蠢いた。

「気色悪い!」

 袖から取り出したクナイで触手を切り落としながら、もがき続ける。

「春瑠の母を思い出すなぁ。あいつも最後はひどく暴れていた」


 緋咲は春瑠の母親の事を嗣己伝てに聞いていた。
 こんな化け物を相手にしていたのだ。娘の運命を知った母の抵抗は想像を絶するものだっただろう。
 緋咲は脳裏にその姿を浮かべ、胸の奥で燻ぶる黒いものを感じた。

「あいつは口の中で溶けていきながら娘の名前を呼んでいた……護りたかったんだろうな」

 過去を振り返るようにぼんやりと天を仰いだ栖洛が喉奥を鳴らした。それからいくつもの目玉を細めて口元に笑みを浮かべると、嫌悪の視線を向ける緋咲に向かって叫んだ。

「娘の体は俺が隅々まで味わったけどなぁ!」

 栖洛の笑い声が部屋中に響く。
 その口の奥にはびっしりと並んだ歯が見える。それは喉の奥まで続く、途方もない数だ。
 この中に引き込まれた母親がどんなに傷ついた体で抜け出し、彼女の家まで這い回ったのか。
 緋咲は母の想いを想像して体を震わせると、瞳に紫の炎を宿した。

「いい加減にしなさいよ」

 声を絞り出すと同時に、緋咲の瞳は黒く、丸く変形していった。瞳孔は紫に染まり縦に長細く刻まれ、皮膚には鱗のような模様が薄っすらと浮かび上がる。
 押しつぶされて身動きを取れなかった緋咲の下半身が、服と皮を残してずるりと引き抜かれた。
 そこに足はなく、蛇のような胴体がうねうねと地を這っていた。