緋咲(ひさき)を抱きかかえた明継(あきつぐ)が洞窟から出たのは夜が明けてすぐのことだった。
 目の前に嗣己(しき)が現れると緋咲を渡し、緊張の糸が切れたように自分の意識も手放した。


 明継と緋咲は医務室へ運ばれ、クグイが診察を始める。それを離れたところで指導者の二人がぼんやりと見つめていた。

「どうして試験の内容を教えてやらなかったんだ?」

 ふと、白髪の男――穏平(やすひら)が嗣己に問いかける。

「内容を伝えたところで死ぬやつは死ぬ。時間の無駄だ」

「お前は――」

「ドライだねぇ。お気に入りのくせに」

 作業を終えたクグイが穏平の言葉を遮った。

「それより緋咲くんが問題だよ。こんな子、任務に出して本当に大丈夫なの?」

 机に向かって書類を書き始めたクグイが穏平に片手間に聞く。

「まだ発展途上なだけさ。センスはある。それに明継の執念が緋咲を殺させない。この試験がそれを証明しただろ」

 明継が嗣己に指導されてきたように、緋咲の成長は穏平が見てきた。
 情が厚く面倒見のいい穏平は礼儀正しく努力家の緋咲の事を気に入り、師弟という枠組みを超えて可愛がっていた。

「ま、死んでも検体として役には立つからさ。安心して」

 そんな穏平を前にしてさらりと言いのけたクグイに、普段は温厚な穏平も顔をしかめた。
 緋咲にクグイの元で学ぶよう勧めたのは穏平だ。緋咲はむやみに火種を生むこともない。彼女との関わりを持てば彼も何か変わるのではないかというお節介も含めた提案だったが、人の生まれ持った性質というものは簡単には変わらないようだ。

「僕は能力の研究者だよ? 仕方ないじゃない」

 穏平の気持ちを見透かすように言ったクグイに嗣己が口を開く。

「クグイは人としては最低だが、仕事への熱意と捉えれば俺も見習う部分がある」

 その言葉にクグイは顔をほころばせ、穏平は呆れかえった。

「この2人はもう大丈夫だよ。緋咲くんは傷も浅いししばらく安静にすれば元気になる」

 書類を書き終えてそう告げたクグイの視線は明継へ向いていた。

「死んだらお前のものだ。安心しろ」

 その視線の意味を汲み取って嗣己が言うと、クグイが優しく微笑んだ。

「楽しみにしてる」

「緋咲は俺が連れて帰るぞ」

 2人の会話を聞いていた穏平が緋咲の元へ足早に向かった。

「緋咲くんは点滴があるから連れて帰っちゃダメだよ?」

 クグイはクグイで穏平の気持ちを見透かして意地悪く言うと、穏平は体を止めて、クグイのすぐそばに置いてあったイスにどっかりと座り込んだ。

「じゃあ終わるまでここで待つ!」

「はぁ!? ここに長居していいのは嗣己だけだから!! 帰れ!」

「いいじゃねぇか。俺の事好きだろ?」

「地球上で一番嫌いだよ!」

 満面の笑みでクグイに詰め寄る穏平と、嫌悪感をむき出しにしたクグイの攻防の横で嗣己が呆れてため息をついた。

「明継は俺がもらっていく」

 そう短く言い残すと明継だけを抱えて消えた。






 目を覚ました明継は天井をぼんやりと見つめた。相変わらず記憶は薄く、自分が今どこにいるのかすらも理解できない。

 まずは目だけで周りを確認する。
 障子から軟らかな陽が差し込んでいる。
 その障子は見慣れた自分の部屋のもので、寝ている布団も見慣れたものだった。

 それから記憶を振り返る。
 一番最後の記憶は洞窟から出て嗣己の姿を確認したところ。
 つまり今回もまた、嗣己が部屋まで連れて帰ってきてくれたのだと結論付ける。

 そうして体を起こして横を向けば、予想通り嗣己が座っている。だが今回は首をうなだれて目を閉じていた。明継が眠りから覚めるのを待ちかねて眠ってしまったのだ。

「珍し……」

 陽の光で透き通った長いまつげが端正な顔に相まってより美しく見える。明継はその顔に見惚れて声をかけるのも忘れていた。

 しばらくの静寂の後、唐突に嗣己の目が開く。

「うわっ」

「人の顔をじろじろ見るな」

「起きてたのかよ」

 明継が眉間に皺をよせて気まずそうに言った。

「お前が余りにも見るから目を開けるタイミングを失ったんだ。それより体はどうだ」

 明継は改めて自分の体を見る。
 微かに残っている記憶をめぐらせば、腹を切られ、突き刺され、散々な目にあっている。しかしその形跡はどこにもなく、夢でも見ていたのかと錯覚してしまいそうだった。

「夢じゃない。腹は避けて内臓が見えてたし突き刺されたときは原形をとどめていなかった」

「やめろ!!!!!! あと心を読むな!!!」

「元気そうで安心したよ」

 教えられていたはずの感情の遮断も忘れて声を張り上げる、いつも通りの明継に嗣己は優しく微笑んだ。


「あ! そう言えば」

 明継が急に大きな声を出した。

「お前、何で試験の内容言わなかったんだよ!? 緋咲は知ってたぞ!」

「お前に言ったところで何か変わるか?」

「変わるだろ! しかも俺の力の事全部敵に流したろ! もうお前の事は信用しないからな!」

 ころころと変わる明継の表情を楽しみながら嗣己は思考を巡らせた。
 試験の内容を言わなかったのはわざとだが、明継の力の事を受刑者に流した覚えは無い。恐らくそれをしたのはクグイだ。研究材料にしたいとは言っていたがわざわざ情報を流すとは。
 嗣己はそこまで考えて、感心したように言った。

「お前、ずいぶんと欲しがられているな」

「だからどういう意味だよ!」

 憤慨する明継に嗣己は笑うだけで、それ以上の説明はなかった。




「今日は休め。緋咲の体が回復したら任務に行く」

 切り替えるように嗣己がそう言うと、明継はかぶせるように

「緋咲は大丈夫なのか?」

 と聞いた。

「血液量が足りなくてな。今は医務室にいるが少し安静にすれば回復する」

 それを聞いて表情を緩ませた明継の頬を嗣己がつねる。

「緋咲よりお前の初任務だ。不安はないのか?」

 つねられた頬を擦りながら、さすがの明継もその言葉には表情を曇らせた。

「そりゃ不安はあるよ。でも何をするのか教えてくれなきゃ深刻にもなれない」

「……能力者がいる村の情報を得た。能力持ちの女を回収しに行く」

「村の人たちはどうするんだ?」

「そいつらが能力持ちであれば連れて帰るが……ないなら働き手として村に残す」

 明継の表情が微かに明るくなる。しかし嗣己は「例外として」と付け加えた。

「村人が歯向かうというのなら殺す。まぁ……残るのは半分くらいだろうな」

 その言葉に明継は、ひと気のなくなった円樹村(えんじゅむら)を思い出した。
 緋咲は大丈夫だと言っていたが、あの時、嗣己に抵抗する人は本当にいなかったのだろうか?
 連れ帰られたのだとしても、霞月(かげつ)の中で円樹村の人々を見たことがなかった。

「能力者の力の元は何だと思う? 普通の人間同士を掛け合わせて、お前のような力を生み出せると思うか?」

 眉間にしわを刻んで黙り込んだ明継に、嗣己が問う。
 明継は意図が分からず相手の表情をうかがったが、その眼差しに冗談の色は無い。

「能力を開花させた今、お前は自分の事を人間だと言い切れるか?」

「何……言ってんだよ……?」

 戸惑い、混乱する明継の表情をしばらく見つめていた嗣己が、諦めるように視線を外して静かに息を吐いた。

「病み上がりのお前にこれ以上言っても負担になるだけだな。どうせその村に行けば色々と知ることがあるさ」

 そう言うと唐突に消えてしまった。

 急に静まり返った部屋で明継は固まった。
 そして、体を投げ出す。

「なんだよあいつ! すげーもやもやする!!」

 大声を出して転げまわる明継の声が部屋中に響き渡った。