霞月の里

 微かな物音を感じ取り、緋咲(ひさき)を見張っていた女――茅翠(ちすい)は洞窟の入り口へ向かった。
 外へ出るとしばらく夜空を眺め、ふと、何かに誘われるように歩き出した。

 彼女が向かった先には小さな獣が横たわっていた。腰を下ろして優しく拾い上げると愛おしそうにキスをする。
 獣はそれに呼応するように光り、人の形を取り戻した。

「ひどい傷」

 茅翠の膝の上で、白銅色の髪が輝く。
 その男――楼淡(ろたん)がゆっくりと瞳を開けた。

「何もしてやれず……すまない」

 茅翠の顔が悲し気に曇った。美しい黒髪を揺らして首を振る。

「元はと言えば私がしたことだもの」

 楼淡の白い手が茅翠の頬に触れ、伝いおちる涙を指が拭った。

「お前のしたことは間違っていない。泣くな。誇りを持て」

 楼淡が笑うと、ガラスが割れるようにその身が砕けた。

 茅翠はいくつか涙をこぼしたが、次に顔を上げた時には凛とした表情が見て取れた。
 立ち上がると洞窟へ振り返り、歩みを進める。
 見慣れた入口が視界に入る頃、彼女は表情に嫌悪感を表した。

 その視線の先には明継(あきつぐ)が立っている。
 洞窟に気を取られているのか茅翠に気づく気配はなかった。
 彼女は息を殺して近づきながら爪を尖らせていく。
 明継の背後に迫り、腕を振り上げた。


「緋咲はどこだ」

 ぽつりと明継が言った。

「知る必要はないわ。彼女は私のものになるの!」

 茅翠は構うことなく手を振り下ろした。

 確実に仕留めた

 と、思った指先が空を切る。
 途端に茅翠の視界は反転し、気が付けば地面に叩きつけられていた。

「こういうやり方がアンタの趣味?」

 後頭部に与えられた強い衝撃でめまいを感じながらも、精一杯の敵意を向ける。
 それでも何の反応も示さない明継に訝し気な視線を向けた茅翠が着物に視線を移せば楼淡の太刀筋を感じさせる複数の裂け目が残っていた。
 茶色く濁った着物は多量の血で染まったものだと容易に想像がつく。
 茅翠が眉をひそめた。

「どうして生きてるの?」

「緋咲はどこだ」

 同じ言葉を繰り返す明継に、茅翠の怒りが湧き上がる。

「いい加減に……」

「緋咲はどこだ」

 会話が成り立たない相手に彼女の怒りは沸点を超え、その怒りを叫びに変えた。

「だまれ!」

 森中に響き渡った声が大地を揺らす。
 衝撃をまともに受けた明継の両耳から血が流れ出た。
 茅翠は明継の力が緩んだ隙をついて突き飛ばし、肩甲骨を大きく歪めた。それは茶色く染まり、いずれ蝙蝠の翼となって皮膚を裂いて現われた。

「ムカつく男」

 茅翠は吐き捨てるように言うと翼を大きく広げ、骨の先全てを明継の体に突き刺した。

「バッカみたい」

 明継の腕がだらんと垂れたのを確認した茅翠が骨を引き抜いて翼を畳む。
 顔に嫌悪感を貼り付けたまま、原形をとどめていない明継の体を見下す。

「アンタのお姫様は私がいただくわ」

そう吐き捨てた茅翠の耳に、声が届いた。

「お前が攫ったのか?」

 茅翠が明継の死体を凝視する。大きな空洞が並んだ体がみるみるうちに元の形状へ戻っていくのを目の当たりにして目を見開いた。
 それは人の形に戻ると這い上がり、何事も無かったかのように地に足をつけて茅翠を睨みつけた。
 一瞬で眼の前に迫り、彼女の細い首に手を伸ばした。
 黒く染まった掌が、じりじりと首を拘束していく。

「なんなの、あんた……!?」

 困惑する茅翠を見つめる明継の瞳には深く黒い感情が渦巻いている。
 つま先が浮きはじめた茅翠は、首を拘束する手を解こうともがくが、明継の黒い指先が伸びて首にきつく巻きつくと、恐怖で涙を零した。

「離しな、さ……」

 骨が軋み、その圧に耐えられなくなった首が地面に落ちた。




「緋咲……」

 唐突に呟くと、茅翠の体を無造作に落として洞窟の中に視線を移した。
 ”人らしさ”を失った明継はそれ以上の言葉を口にすることはなかった。だがその足を動かすのは”緋咲を救わなければいけない”という、彼自身の潜在意識だ。
 洞窟の中を足早に進み、縛られた緋咲の姿が視界に入ると明継の虹彩が徐々に黄金から柔らかな茶褐色へ塗り替わる。
 緋咲に近づけば近づくほど、呪いのように張り付いた黒い霧が体から剥がれ落ち、元の姿に戻っていった。

「緋咲!!」

 緋咲を抱きかかえ、名を呼ぶ。
 その声を聞いた緋咲は薄っすらと目を開け、力なく微笑み、また眠りに落ちてしまった。



 二人の元に微かに日が差し込む。
 試験の終わりを告げる日の出だ。