明継(あきつぐ)

 明継は、前をゆく緋咲(ひさき)の声を自分の背後から聞いた気がした。

 緋咲の背中は見えている。彼女の声が背後からするはずがない。

 その異常な状況を確認するように、明継は振り向いた。
 そこには誰もいない。
 嫌な予感がしてすぐに視線を前に戻すと、緋咲はいなかった。



「明継」



 また後ろから緋咲の声がする。
 恐る恐る振り向くと、そこに立っていたのは緋咲だった。

「緋咲、どうして……後ろに?」

「さぁ? なぜかしら」

 微笑みを浮かべたまま歩み寄った緋咲は、身構える明継に擦り寄った。

「隠れるのに良い場所を知っているの。早くいきましょう?」

 耳元で囁かれ、明継の体が震える。
 声も姿も緋咲で間違いない。だが雰囲気が違う。
 訝しげな視線を送る明継に目の前の緋咲はいたずらっぽく笑った。

「しょうがないなぁ」

 その笑顔に、円樹村にいた頃の緋咲を重ねた明継は思わず気を抜いた。
 その隙をついて緋咲が手を掴む。
 走り始めた緋咲に引かれるままに林を抜けると草原が広がっている。夕暮れのような穏やかな日差しが二人を包み込んだ。

「花の香りがする?」

 緋咲の問いかけに、蜜のような甘い香りを感じて明継が口を開く。

「甘い――」

 答えようとする明継を緋咲が押し倒した。
 指を絡ませて両手を繋ぎ、明継を見つめる。その瞳は期待を帯びてキラキラと輝いていた。

「好きよ。明継」

 重ねられた緋咲の唇は蜜のように甘い。
 明継の意識が遠のいていく。
 まるで眠りに落ちる時のように瞼は重く、その心地よさに身を任せてしまいたかった。

「緋咲……」

 名前を呼ばれた緋咲は微笑み返し、明継の体を優しくなぞる。
 緋咲の細い手が、頬から首筋、胸、腹へと滑ってゆく。

「そのまま眠ると良いわ」
 明継はその優しい声に包まれて、ゆっくりと瞼を閉じた。


『大事な女が死ぬぞ』


 それは明継の脳内に響き渡る、”何者かの声”だった。
 突き動かされるように明継の指に力が入り、目を見開く。
 そうして視界に現れたのは、空虚と化した顔だった。

「うわあああああああああああっ!」

 それは眼前でばっくりと口を開けて、明継の体から黒い何かを引きずりだそうとしている。
 パニックを起こした明継が腕を振り回して突き飛ばした。

 やせ細って乾燥した皮膚、ガサガサの髪の毛。その体が四つ足で動き回る姿はミイラの化け物のようだ。
 魔法が解けるように明継の視界から穏やかな草原が消え、うっそうとした深夜の森が戻ってきた。
 その夢を見せていた化け物は今もしゃがれた声で明継の名を呼び続けている。それは人間というより、嗣己(しき)やクグイが言っている”ペット”に近いものがある。

 ”任務に失敗した処刑直前の人間”

 緋咲に伝えられた事が真実ならば、この化け物も霞月(かげつ)の里で任務に就いていた人物という事になる。

 ならばなぜこんな姿かたちをしているのか?
 力を引き出した結果がこれだとしたら?
 刑罰の可能性はないだろうか?

 疑問と憶測が明継の頭の中を駆け巡った。

「こっちよ。こっちよ」

 ミイラの化け物が名前以外の言葉を発し始めた。

「そこは危ないわ。こっちへ来なさい」

 その言葉はわが子を心配する親の言葉にも思えた。
 明継が化け物を凝視すると、四つ足で歩くその胴体に小さな体がもう一つついている。それは子供のミイラのようにも見えた。

「くそ……」

 目の前の化け物を見て思考が追い付かなくなった明継は、言葉に怒りを乗せて呟いた。

 緋咲と一緒に居られるならと、言われるがままに訓練を続けてきたが、この試験を通過したとして、この後一体何をやらされるのか?
 本当にこの里のいいなりになっていいのか?

 と、今更ともとれる疑問が湧いてきた。
 不安や怒りにも似たその感情は、明継の中の黒いものを増幅させた。

 明継は静かに腕に霧をまとわせて、より鋭く、より凶悪な物へと変形させる。
 ゆっくりと化け物のもとへ歩み寄り、震えて縮こまるその体へ、鋭い刃物を突き刺した。
 化け物は自分の腹に張り付いた小さなミイラを護るようにうずくまって死んでいく。
 それを見つめる明継の瞳に光はなかった。

 緋咲を探そう。

 明継はその思いだけで足を進めた。
 しばらく歩いた先で、明継はふと、空を舞う黒いものが視界に入り視線を上げた。
 そこには異常な数の蝙蝠が頭上を飛び交っている。その異常さに身構えると、蝙蝠たちが一斉に明継目掛けて飛びかかった。
 咄嗟に腕で防いた明継に蝙蝠たちが荒々しく体にぶつかり、飛び去る。やがてそれらが1箇所に集まると、人間の姿に生まれ変わった。

 スラリとした長身。白銅色の長髪が月夜に輝く。
 肩からかけた外套は蝙蝠の羽のように彼の体をすっぽりと包み込んでいる。

「なんだか手ごたえのなさそうな奴だな」

 明継を無遠慮に見た後、その男――楼淡(ろたん)は気の抜けた声で言った。

「無駄な抵抗は止めたほうがいい。痛い思いをするのは嫌だろう?」

 終始無言で睨みつけていた明継に、首を振る。

「女は研究材料にはならないから好きにしろと言われているが、お前は殺さず持ち帰れと言われているんだ」

 ようやく明継の瞳に動揺が見えた。

 嗣己はそのために試験の内容を黙っていたのだろうか?

 憶測が脳内を過る。

「それに私のパートナーが女の方を気に入っていてね。キミが身を引くなら彼女は私たちが責任をもって引き取ろう。そうしたら皆幸せなんじゃないか?」

 明継はその言葉を聞いて、緋咲の笑顔を思い浮かべた。
 しかしその瞳に映る敵意が薄れることは無い。

「見知らぬ男の言葉を鵜呑みにするほどバカじゃない」

「交渉決裂か……」

 小刀を抜いた明継を見て楼淡がぽつりというと、刀をすらりと抜く。そして反対の手で円を描き、その腕が複数の蝙蝠となって明継の顔に飛びかかった。
 反射的に瞬きをしたその一瞬、明継の目前まで迫った楼淡が刀を振り下ろす。明継の肩から腰へ、刃先の後を追うように血が吹き出していく。
 その一瞬の出来事に呆気にとられた明継は、自分の体が倒れていく事すら制御できなかった。

「だから言ったのに」

 見下ろす男の顔に感情はなかった。
 明継は瞳に黒い炎を揺らめかせたが、視界が霞み、相手を見つめることすらままならない。

「その能力も聞いているよ。上の人間はキミの体がどうしても欲しいんだろうな」

 脳裏にぼんやりと嗣己の姿が浮かんだ。
 明継の体は徐々に冷たくなり、視界も狭くなっていく。
 楼淡は燃え尽きそうな炎を見つめた後、肩からかけた外套をばさりと翻し、空を見上げた。

『どうせ見ているんだろう? 早く回収しないと本当に死ぬぞ』

 視線を感じて楼淡が精神感応を試みたが、彼らがその場から動く気配は無かった。
 明継の肉が裂け骨が砕けたのを楼淡は刀ごしの感触で確信している。

 なぜ彼を回収しに来ない?

 疑念に眉を顰めると、後ろで物音が聞こえた。
 振り向けば、そこには血を滴らせた明継が立っている。
 その血液は血だまりを作るほどの量だ。だが明継はよろめく事もせず、しっかりと地に足を付け男を睨みつけていた。

「……何故立てる?」

 楼淡は眉間にしわを寄せて呟いた。
 明継の白目は黒く、虹彩は黄金に輝いている。
 切り裂かれてぱっくりと口を開けていた胸の傷は跡形もなく消えていた。
 明継の体が徐々に漆黒に染まるのを見て、これが言われていた”力”だと確信した。
 だが回復能力があるとは聞いていない。
 あえて伝えなかったのか、それとも彼が成長し続けているのか。

 彼に知る術はなかった。