人里離れた深い山の中。
 その斜面を穏やかに流れる小川があった。
 川の中に足を入れて、冷たさに体を震わせたのは10代半ばの少女、”緋咲(ひさき)”だ。

明継(あきつぐ)! 魚がいっぱいいる!」

 彼女は、美しい小川を泳ぎ回る魚の姿に目を輝かせた。
 名前を呼ばれた”明継”という2つほど年上の青年は、そんな緋咲を追って川に足をいれる。

「は!? 今日の川の冷たさ尋常じゃない! 通り越して痛い! 魚どころじゃない!」

 両足を突っ込んで青ざめたまま、身動きが取れなくなった明継に緋咲が笑いながら近づく。

「弱すぎ! しょうがないなぁ。上がって仕掛けでも見に行こう?」

 明継は声にならない声をあげながら、緋咲に引っ張られ、なんとか河原にたどり着いた。



 2人は”円樹村(えんじゅむら)”という小さな集落からやってきた。
 集落と言うだけあって、その土地面積と人口はごく僅か。
 ひっそりと自給自足の暮らしを続けている円樹村の人々は、この小川を訪れては魚を捕って村に持ち帰っている。

「どうして稽古なんてしなくちゃいけないのかしら」

 その帰り道、緋咲の口から大きなため息が漏れた。
 円樹村で生まれた子供たちは武術稽古を毎日受けなくてはならない。それが村の仕来りだ。
 緋咲は決して運動神経が悪いわけでも、センスがないわけでもない。むしろその潜在能力の高さは幼少期から共に稽古を受けている明継には痛いほど伝わっている。
 それでも緋咲がため息をつくのは、その武術稽古が護身術と言うより体術の部類に入るからだ。

「何のための稽古なんだろうな」

 考えたこともなかった。
 とでも言うように明継が呟くのを見て、緋咲が不思議そうに問いかけた。

「明継は辛くないの?」

「えぇ? ……俺は……まぁ……」

 珍しく歯切れの悪い様子に緋咲が食いつく。

「明継も小さい頃は泣いてたじゃん。なのにどっかで急に意欲的になったよね?」

「いや、もういいよ」

「良くない! 私だって前向きにやりたいもん! 参考にさせて!」

「えぇ……俺は師範に……」

 躊躇いながら口を開いた明継に、緋咲の視線が注がれた。

「緋咲を護れるって言われたから」

「えっ」

「……」

 キョトンとした緋咲が、その意味を飲み込むと同時に口元を緩めた。

「どうして急にかっこいいこと言うの?」

「そうやって揶揄われるから言いたくなかったんだよ!」

「えー?」

 耳まで真っ赤にした明継が、逃げるように緋咲に背を向けて歩き始める。
 緋咲は満面の笑みを浮かべながらその背中を追いかけた。





 2人が歩き続けた先に、円樹村(えんじゅむら)の門が見えた。
 その見慣れた光景に二人はいつも胸をなでおろすのだが、今日は何かが違う。
 この時点で明継は自分が何を感じとっているのかわからなかった。それでも明らかに何かが違うのだ。

「明継……」

 背後から聞こえた不安げな緋咲の声に、明継は彼女の手を取って慎重に門をくぐり抜けた。
 村の一本道を進む間にもその不安は増していく。
 普段なら縁側に座る老父や遊ぶ子供、畑仕事や水仕事をする働き盛りの男女がせわしなく動き回っているはずだが、今は右も左も人気のない家が立ち並ぶ。

 2人は捕った魚を水場に置いて、また手を繋ぐと自分の家を目指して歩いた。
 不安からか、緋咲は先ほどよりも強く手を握って体を寄せた。

 あともう少しで家に着く。

 見慣れた風景を目で捉えた頃、見慣れない人影がゆらりと現れた。

「おかえり」

 その男は金に輝く美しい瞳を細めてそう言った。

「誰だ?」

 明継の質問に、今度は表情を消して沈黙を貫く。
 なんの根拠もなかったが、明継はこの男が円樹村を変えたのだと思った。

「村の人たちをどうした?」

 明継の問いに微動だにせず、冷たい視線を送り続ける男に、緋咲と繋いだ手をさらに強く握り込む。

「送った」

 ようやく開いた男の口は、短く言葉を放った。
 明継は思考を巡らせながら相手をじっと見つめ、そして1つ瞬きをする。
 すると目の前の男は消えて、同時に、握っていたはずの緋咲の手の感触も失った。
 振り返れば緋咲は男の足元で横たわっていて、その体はピクリとも動かない。
 目を見開いた明継の瞳に、男の笑みが映る。

 明継は体の奥底からグツグツと煮えたぎる何かが湧くのを感じた。そして脳みそを揺さぶられるような強い感覚に、

 ”このまま意識を手放してしまえば気持ちよくなれる”

 そう感じた。

「お前にそ力が使えるか?」

 生気を感じなかった男の声に、初めて感情が乗った。

「緋咲を返せ!」

 明継が叫んだと同時に、その瞳に漆黒の炎が浮かび上がった。
 髪が逆立ち、前のめりに体を曲げる。唸って威嚇をする姿は獣のようだ。
 体からは黒い霧のようなものが立ち上がり、手や足を覆った。

 男はその様子を窺いながら意識を失った緋咲から距離を取るように数歩、横に動いた。
 明継が視線で追うと、それに沿って漆黒の炎が燃え上がる。家や木などはもちろん、燃え移るはずのない土や水にまで炎は回り、それらを黒く焼き尽くした。
 焦るそぶりも見せずひらりと避ける男の姿に明継は眉間の皺を更に深く刻み、腕に纏った霧を大きくしていく。
 ざわざわと柱状の形を造ったその霧が、彼の腕を鋭く光る大きなナイフに変えた。

「ぅがあああああっ!」

 獣のような声をあげて男に突進する。
 黒い霧を纏わせた明継の足は一気に加速し、人とは思えぬスピードを出した。
 微かに笑みを見せた男が姿を消すと、間髪入れずに明継の背後に現れた。
 振り向く暇も与えず、明継の脇と肩越しから手を差し込み、襟を引き寄せて抱き込むように締め落とす。
 身をゆだねた明継を見つめ、強く抱きしめ呟いた。

「帰ろう」


 明継を緋咲の横に寝かせた男が2人の体に触れると、3人は一瞬で消えた。