昔の夢を見た。あいつとの夢を。
あいつが、誰もいない校舎で、うずくまって、泣いている姿の夢を。
あの時、彼女を見つけた時、彼女が小さく震えて、声を押し殺して、泣いていた夢を。
いつも、明るくて笑顔なあいつとは、想像もつかないくらい弱っている姿を、一体誰に言えようか。
ただ一人で呻吟していた。
そして、とても痛い声で、
「楽に、なりたい」と呟いていたことを、誰に言えよう。
長袖のワイシャツを肩までめくっていて、彼女の腕からは血が流れ出ていたり、彼女が握りしめているカミソリからは、血が滴っていたりしていた。
きっと、俺以外の人がここにいても、誰も彼女には話しかけられない。
「死にたい、生きたくない、楽になりたい」
耳を澄まさなければ、聞こえなさそうな、とてもか細い声で、掠れたような声で。少しだけ嗚咽が混じったような声で。とても痛々しい声で。こちらも思わず泣いてしまいそうな。
一年前に彼女と姉が口喧嘩したときのような、生きたい、と思っているような姿は、どこにもなかった。
ただ、死ぬことを、救いとしているような。死ぬことに、縋っているような、そんな声。
こんな彼女に、生きていたらいいことがある、だとか、頑張れ、だとか、そんな無責任な言葉はかけられない。それでも、見て見ぬふりはできなかった。きっと、ここで何も言わずに去ってしまったら、なんとなく、いけない気がするから。
だから、背中をさすった。
頑張ったな、よく耐えたな、と言った。それしか、言葉が思いつかなかったから。
これがきっと、本当の彼女の姿だ。いつも、明るく笑っている姿は彼女自身が作った仮面。
きっと、ここで泣いているのは、限界だったからだろう。自分を偽っているのが。
中学一年生ももうすぐ終わる。一年も学校の中で仮面を被っているのは、疲れるに決まっている。
それも、彼女は一度もボロを出していない。明るく振る舞っているのが彼女の本性だと思わせるくらいには。
こんなに、ボロボロになるまで頑張っていた彼女、誰が、頑張ったな、以外の言葉をかけられるのだろう。
彼女の嗚咽が治まってきて、彼女は、ごめんね、と言いながら、笑う。
その笑顔も、痛々しかった。
それでも彼女は明るく振る舞おうとして、言う。
「ねえ、沢海君。君、血は大丈夫な人?」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかったが、すぐに理解して、ああ、と答える。
「じゃあ、ちょっと手伝って」
彼女はどこからともなく救急箱を取り出した。
「お前、どこからその救急箱取り出した?」
「……秘密」
彼女はかわいらしく手を唇に当てながら、また笑った。
「ねえ、ちょっとここ、抑えていて」
救急箱から取り出した大きなガーゼを、傷口に当てる。
「永川、ちょっとここで待っていろ」
彼女は不思議な顔をしながら、自分の腕を、また抑える。
それでも彼女の流血は止まらない。
俺は、とある場所へとダッシュで向かって、水を買う。
医者には走るな、と言われているが、あいつのためだ。どうでもいい。
「ほらよ」
彼女に、先程買った水を二本、手渡した。
「この水、どうしたの」
「買いに行った」
「そんな時間、かかってないよね?どこ行っていたの」
「自販機?」
「自販機なんて、ここの辺りにはないでしょ」
「それがあるんだな。……俺がどこに行っていたかなんて、もういいだろ。さっさと傷口を洗え」
未だに流血が止まらない彼女の腕を見て言う。鮮やかな色をした血液が彼女の腕から痛々しく流れ出ている。
「でも、これ、天然水でしょ。私の傷洗うのには勿体ないよ」
「いいから、洗え」
何度言っても躊躇う彼女に呆れながら、俺は、彼女から先程自分が手渡したペットボトルを奪って、彼女の傷口に豪快に流し込む。
「痛くないか」
「神経、切れているから」
「よくここまで切れるな」
「いつも、深く切らないように、とは思うけど、気持ちが昂っていると、つい、深く切っちゃうんだよね。だから、最初はカッターで切るんだけど、すごく物足りない感じがするから、カミソリで切っちゃうの。グッサリ切って、血がたくさん出ると、なんか、スッキリするから」
よく、自傷行為をしている人は、ただ単に目立ちたいからだとか、構ってほしいからだとか、言われていたり、死ぬ勇気もない弱い奴がやるもの、と言われていたりするが、こいつを見て、そう言っている奴らは本当に同じ言葉が言えるのだろうか。
確かに、彼女に死ぬ勇気がないかもしれないが、必死に生きている彼女を見て、同じことを言えるのだろうか。
きっと、彼女には話せる相手も、助けてもらえる相手もいないから、自分に当たることしかできないのだろう。
「リスカを始めたときは、いつでも自分は死ねるっていう証明?みたいな感じだったんだけど、いつの間にか、生きるための手段になっていたんだよね。リスカじゃ、死ねないと分かっているから」
永川は自嘲の笑みを浮かべる。
「それでも、やっぱり死にたいから血管に沿って深く切るようにしたんだけど、やっぱり怖くて。これくらいしか血が出ないんだよね」
これくらい、と言っているが、結構な量だ。隣で永川が、あ、ワセリン開けて、と言う。
彼女は器用に自分の傷口にワセリンを塗って、ジャンボサイズの絆創膏を貼る。
「なんでワセリンなんか塗るんだ」
「消毒液って乾燥しやすくなるから、ワセリンで保湿するの。止血作用もあるし、跡も残りにくくなるから。まあ、私には殆ど効果ないけどね……あ、包帯開けておいて」
永川はどんどん自分の腕に包帯を巻いていく。一人で巻いたなんて言ったって信じられないくらい、キレイに。
「きれいだな」
「慣れているから」
永川は自分の巻いた包帯のことを言っているのかと思ったらしい。
「違う、お前が」
「どこが⁉」
永川は一見なんともなさそうに見えたが、よく見ると耳がほんのり赤く染まっていた。
言うのも恥ずかしいし、面倒臭いから、話をさっさと逸らす。
「永川、自販の場所、教えてやるよ」
そういって、先程水を買った場所へと案内する。自販機は学校の敷地内にある。教員しか知らなそうな場所に。
「ほら、ここ」
「こんな所に自販機あるんだね。ていうか、安くない?全部値段二桁じゃん」
「だろ?何が欲しい?」
「校則に、金銭の持ち込み、受け渡しは禁止って書いていなかったっけ?」
「書いてはあったが、俺が校則を守る奴に見えるか?で、お前は何がいい?」
「何でもいいよ。あ、私払うよ」
何でもいい、という彼女の答えを聞いて、俺はボタンを押す。
そして、先程言われた言葉をそのまま彼女に返す。
「永川、校則に、金銭の持ち込み、受け渡しは禁止って書いていなかったか?」
「書いてはあったけれど、私が校則を守る奴に見える?」
永川も永川で俺が先程言った言葉をそのまま言う。
「ほら、スポドリで塩分補給しとけ」
「気が利くね、ありがとう」
「あと、麦茶。これも飲んどけ」
「こんなに飲めないよ」
「あんなに泣いたんだから、これくらい余裕だろ」
永川は、少しだけ恥ずかしそうに俯いて、ありがとう、と言う。
「なあ、永川。泣くことは恥ずかしいことじゃないぞ。無理に笑うなよ。苦しかったら、声をあげてもいいから、泣け。誰も、笑わないんだから」
永川がまた泣き出しそうなのを見て、俺は告げる。
「もうすぐ授業始まるから、俺は戻る。先生には、お前が体調悪そうだったから保健室にいるとでも言っておくから、保健室にいとけ。きっと今日は養護教諭いないぞ、出張だから」
「養護教諭が出張なら、保健室は開いていないんじゃないの」
「ピッキングして開けておくから」
永川が泣きそうな顔を目にした。俺は永川を一瞥して背を向けながら手を振って、教室に向かった。
あいつが、誰もいない校舎で、うずくまって、泣いている姿の夢を。
あの時、彼女を見つけた時、彼女が小さく震えて、声を押し殺して、泣いていた夢を。
いつも、明るくて笑顔なあいつとは、想像もつかないくらい弱っている姿を、一体誰に言えようか。
ただ一人で呻吟していた。
そして、とても痛い声で、
「楽に、なりたい」と呟いていたことを、誰に言えよう。
長袖のワイシャツを肩までめくっていて、彼女の腕からは血が流れ出ていたり、彼女が握りしめているカミソリからは、血が滴っていたりしていた。
きっと、俺以外の人がここにいても、誰も彼女には話しかけられない。
「死にたい、生きたくない、楽になりたい」
耳を澄まさなければ、聞こえなさそうな、とてもか細い声で、掠れたような声で。少しだけ嗚咽が混じったような声で。とても痛々しい声で。こちらも思わず泣いてしまいそうな。
一年前に彼女と姉が口喧嘩したときのような、生きたい、と思っているような姿は、どこにもなかった。
ただ、死ぬことを、救いとしているような。死ぬことに、縋っているような、そんな声。
こんな彼女に、生きていたらいいことがある、だとか、頑張れ、だとか、そんな無責任な言葉はかけられない。それでも、見て見ぬふりはできなかった。きっと、ここで何も言わずに去ってしまったら、なんとなく、いけない気がするから。
だから、背中をさすった。
頑張ったな、よく耐えたな、と言った。それしか、言葉が思いつかなかったから。
これがきっと、本当の彼女の姿だ。いつも、明るく笑っている姿は彼女自身が作った仮面。
きっと、ここで泣いているのは、限界だったからだろう。自分を偽っているのが。
中学一年生ももうすぐ終わる。一年も学校の中で仮面を被っているのは、疲れるに決まっている。
それも、彼女は一度もボロを出していない。明るく振る舞っているのが彼女の本性だと思わせるくらいには。
こんなに、ボロボロになるまで頑張っていた彼女、誰が、頑張ったな、以外の言葉をかけられるのだろう。
彼女の嗚咽が治まってきて、彼女は、ごめんね、と言いながら、笑う。
その笑顔も、痛々しかった。
それでも彼女は明るく振る舞おうとして、言う。
「ねえ、沢海君。君、血は大丈夫な人?」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかったが、すぐに理解して、ああ、と答える。
「じゃあ、ちょっと手伝って」
彼女はどこからともなく救急箱を取り出した。
「お前、どこからその救急箱取り出した?」
「……秘密」
彼女はかわいらしく手を唇に当てながら、また笑った。
「ねえ、ちょっとここ、抑えていて」
救急箱から取り出した大きなガーゼを、傷口に当てる。
「永川、ちょっとここで待っていろ」
彼女は不思議な顔をしながら、自分の腕を、また抑える。
それでも彼女の流血は止まらない。
俺は、とある場所へとダッシュで向かって、水を買う。
医者には走るな、と言われているが、あいつのためだ。どうでもいい。
「ほらよ」
彼女に、先程買った水を二本、手渡した。
「この水、どうしたの」
「買いに行った」
「そんな時間、かかってないよね?どこ行っていたの」
「自販機?」
「自販機なんて、ここの辺りにはないでしょ」
「それがあるんだな。……俺がどこに行っていたかなんて、もういいだろ。さっさと傷口を洗え」
未だに流血が止まらない彼女の腕を見て言う。鮮やかな色をした血液が彼女の腕から痛々しく流れ出ている。
「でも、これ、天然水でしょ。私の傷洗うのには勿体ないよ」
「いいから、洗え」
何度言っても躊躇う彼女に呆れながら、俺は、彼女から先程自分が手渡したペットボトルを奪って、彼女の傷口に豪快に流し込む。
「痛くないか」
「神経、切れているから」
「よくここまで切れるな」
「いつも、深く切らないように、とは思うけど、気持ちが昂っていると、つい、深く切っちゃうんだよね。だから、最初はカッターで切るんだけど、すごく物足りない感じがするから、カミソリで切っちゃうの。グッサリ切って、血がたくさん出ると、なんか、スッキリするから」
よく、自傷行為をしている人は、ただ単に目立ちたいからだとか、構ってほしいからだとか、言われていたり、死ぬ勇気もない弱い奴がやるもの、と言われていたりするが、こいつを見て、そう言っている奴らは本当に同じ言葉が言えるのだろうか。
確かに、彼女に死ぬ勇気がないかもしれないが、必死に生きている彼女を見て、同じことを言えるのだろうか。
きっと、彼女には話せる相手も、助けてもらえる相手もいないから、自分に当たることしかできないのだろう。
「リスカを始めたときは、いつでも自分は死ねるっていう証明?みたいな感じだったんだけど、いつの間にか、生きるための手段になっていたんだよね。リスカじゃ、死ねないと分かっているから」
永川は自嘲の笑みを浮かべる。
「それでも、やっぱり死にたいから血管に沿って深く切るようにしたんだけど、やっぱり怖くて。これくらいしか血が出ないんだよね」
これくらい、と言っているが、結構な量だ。隣で永川が、あ、ワセリン開けて、と言う。
彼女は器用に自分の傷口にワセリンを塗って、ジャンボサイズの絆創膏を貼る。
「なんでワセリンなんか塗るんだ」
「消毒液って乾燥しやすくなるから、ワセリンで保湿するの。止血作用もあるし、跡も残りにくくなるから。まあ、私には殆ど効果ないけどね……あ、包帯開けておいて」
永川はどんどん自分の腕に包帯を巻いていく。一人で巻いたなんて言ったって信じられないくらい、キレイに。
「きれいだな」
「慣れているから」
永川は自分の巻いた包帯のことを言っているのかと思ったらしい。
「違う、お前が」
「どこが⁉」
永川は一見なんともなさそうに見えたが、よく見ると耳がほんのり赤く染まっていた。
言うのも恥ずかしいし、面倒臭いから、話をさっさと逸らす。
「永川、自販の場所、教えてやるよ」
そういって、先程水を買った場所へと案内する。自販機は学校の敷地内にある。教員しか知らなそうな場所に。
「ほら、ここ」
「こんな所に自販機あるんだね。ていうか、安くない?全部値段二桁じゃん」
「だろ?何が欲しい?」
「校則に、金銭の持ち込み、受け渡しは禁止って書いていなかったっけ?」
「書いてはあったが、俺が校則を守る奴に見えるか?で、お前は何がいい?」
「何でもいいよ。あ、私払うよ」
何でもいい、という彼女の答えを聞いて、俺はボタンを押す。
そして、先程言われた言葉をそのまま彼女に返す。
「永川、校則に、金銭の持ち込み、受け渡しは禁止って書いていなかったか?」
「書いてはあったけれど、私が校則を守る奴に見える?」
永川も永川で俺が先程言った言葉をそのまま言う。
「ほら、スポドリで塩分補給しとけ」
「気が利くね、ありがとう」
「あと、麦茶。これも飲んどけ」
「こんなに飲めないよ」
「あんなに泣いたんだから、これくらい余裕だろ」
永川は、少しだけ恥ずかしそうに俯いて、ありがとう、と言う。
「なあ、永川。泣くことは恥ずかしいことじゃないぞ。無理に笑うなよ。苦しかったら、声をあげてもいいから、泣け。誰も、笑わないんだから」
永川がまた泣き出しそうなのを見て、俺は告げる。
「もうすぐ授業始まるから、俺は戻る。先生には、お前が体調悪そうだったから保健室にいるとでも言っておくから、保健室にいとけ。きっと今日は養護教諭いないぞ、出張だから」
「養護教諭が出張なら、保健室は開いていないんじゃないの」
「ピッキングして開けておくから」
永川が泣きそうな顔を目にした。俺は永川を一瞥して背を向けながら手を振って、教室に向かった。