そして、もうあと数日で二年生になる。

 四月の始業式の日が近づいていく。近づいていくたび、私の心臓が嫌な音を立てる。
 大丈夫、大丈夫。四月からは、学校に行ける。きっと、あのいじめっ子からも解放されるから。大丈夫、大丈夫。きっと、あの娘と、 また‘曄の海’の話もできる。大丈夫。大丈夫。
 念仏のように、大丈夫と心の中で唱える。
 きっと、明日は起きられる。起きられるから。
 
 ジリリリリ、とアラームの音が部屋中に鳴り響く。
 アラームなんて鳴らなくとも、とっくの昔から目は覚めていた。
 けれど、やっぱり、今日も、身体がだるくて、起きられそうになかった。それでも、起きなければならない。だって、もうこれ以上、休んではいけないから。
 カーテンの隙間から、忌々しい朝陽が覗く。ぴしゃりとカーテンを閉めて、殆ど一年ぶりの制服に手を通した。
 あの娘に会った日と同じ時間の電車に乗る。あの娘に会えれば、今は重い身体でも、軽くなるだろうから。
 けれども、学校の最寄り駅が近づくにつれて、呼吸が速くなっていく。ただでさえ重い身体に、とても重い何かがのし掛かる。
 身体がいうことを聞かない。
 電車のドアが開くというのに、足を前に踏み出せない。周りの人はやっぱり、舌打ちをして通り過ぎてゆく。
――だれか、たすけて
 また、私だけ時間が止まっている。前に進めない。足が前に出ない。震えてしまう。心臓が早鐘のように打つ。
 でもそれは、一瞬のこと。誰かが、またあの日のように、私の背中を力強く押した。そして、私が確認するよりも前に手が引かれる。
 あの日の少女は振り向いて、笑った。あの日と同じように、とても綺麗だった。顔立ちも、雰囲気も、佇まいも。
「久しぶり、羅月心優さん」
 彼女は私の名前を紡いだ。
「どうして……」
「どうして、名前を知っているのかって?それは……君が可愛いからだよ」
「……はい?」
「ね、学校、行く?」
 彼女は笑顔で、軽く私に聞く。彼女の質問に首を振りたい。けれど、今日は行く。行かなければならない。
「行かなくちゃ」
「じゃあ‘曄の海’の話をしながら一緒に行こう」
 彼女は私の手を引いて言う。その言葉に、コクリ、と頷く。
「ね‘曄の海’の中で誰が好き?」
「ユナ王女……です」
 彼女といると、何故か敬語になってしまった。
「ユナ王女、かぁ。うんうん。可愛いものね、ユナ王女。じゃあ、三巻目好きでしょ?ユナ王女と婚約者のカーム皇子との恋。私もあそこ大好きなんだよ。カーム皇子が命懸けでユナ王女を助けるトコ。あそこ、マジでキュンキュンするよね」
「はい。カーム皇子のサーベルを抜くシーンにグワっとなりました。あとカーム皇子の天敵で、ユナ王女のことが好きなアイレット王子も好きです。私はどちらかと言うと、アイレット王子とくっついてほしかった……です」
「わかるー、ていうか敬語やめてよ。タメ口で話そう。同い年でしょ、私達。あ、そっか!君は私の名前を知らないのか!そういえば私、自己紹介まだだったよね」
「あの……」
「自己紹介が遅れました。永川笑愛(ながかわえま)です。これからよろしくね、と言ったところで学校が見えてきた。見て、人が溢れかえっているよ。おおー、人がごみクズのようだ」
 彼女は、うわさの娘だった。
 彼女は誰かが言った言葉を言って、端正な顔がまるでカエルが押しつぶされたような顔をする。
「げぇ、あの人ごみの中に行きたくないぃぃぃ」
「あの」
「うん?」
「学校、あと少しで遅刻です、じゃなくて……遅刻だよ」
 彼女は、静かに、そして平坦な声で。羅月さん、と呼ぶ。
「……はい」
「よくできました。そして、走ろう。あの人ごみの中に入ろう!でないと新学期早々遅刻する!」