私はいつかの会話を思い出していた。初めてできた友人――桜希(さき)との会話を。
「ねぇ、心優。心優はさ、ママのこと、好き?」
 一歳年上の桜希はいつだって笑顔だった。けれど、この時は、無表情だったのを覚えている。
「うん」
「叩かれたり、蹴られたりしても?」
「痛いけど、私が悪いから、仕方がないって思う」
「心優は、優しいんだね。羨ましい」
 桜希はそう言って羨望の眼差しで私を見た。
「桜希はママのことが嫌い。世界で一番嫌い」
「なんで?」
「叩かれたり、蹴られたりする。桜希、悪くないのに、殴られる。前はビール瓶で殴られた。その前は五日間水しか出してもらえなくて、冷蔵庫の中にあった葡萄を二粒食べたら、首を絞められた。あんな女、死んじゃえ、って思ったし、今も思う。思っちゃいけないって分かっているけど。でも、心優は、ママに何されても嫌いにならないんでしょ?だから、心優は優しい。心優の優しさが羨ましい」
 桜希はいつも笑っているのに、涙をポロポロと流しながら、体育座りをして顔を埋めた。
「ママはいい人ぶるのが上手。自分はいい親ですって他の人に見せるのが上手。でも、本当は、とても悪い人。平気で桜希を殴る。笑いながら蹴り飛ばす。桜希の髪の毛を力いっぱい引っ張る。担任の先生に、少し前にママのこと言っても、信じてもらえなかった。見える場所に傷がないから。ママは見えない所に傷を負わせるのが上手。身体もそうだけど、心とかにね。だから、誰も桜希を信じてくれない。助けてって言っても、誰も助けてくれなかった。痛いって言っても、ママはやめてくれない。首を絞められて、あとちょっとで死んじゃいそうだった。その時に、お兄ちゃんが助けてくれた。お兄ちゃんが来てくれた。だから、ここに来られた。でも……」
 彼女は、嗚咽の混じった声で、続けようとした。けれども、涙が邪魔をして、続けられそうになかった。
 私にはただ、彼女の背中をさすることしかできなかった。
 少し時間がたって、桜希の嗚咽が治まってから、彼女は先程の言葉の続きを紡いだ。
「ママはきっと、児童相談所の人の訪問とか、尋問?みたいなもの、簡単にすり抜けちゃう。ママって、とんでもない女狐。だから、桜希はきっともうすぐ、この施設ともお別れ。今度こそ、死んじゃうかも」
 桜希の言葉の途中で出てきた、ジンモンとかメギツネとかの意味が分からなかった。けれど、理解した精一杯の範囲で彼女に自分の気持ちを伝える。
「桜希が死んだら、私は悲しい」
「桜希は早くママとお別れしたい。死んじゃったら、ずっと会わなくてもいいから、桜希は死んじゃいたいな。きっと、桜希はママに殺されると思うけど」
 桜希はもう生きるのが嫌だというように言い放って、笑う。
「お兄ちゃんは大学生で、桜希のお家に住んでないの。だから、お兄ちゃんがどこかに行っちゃったら、桜希は絶対に死んじゃう。もう、ここでも、あと少ししか、過ごせないだろうから」
「おーい、心優に桜希!そんなトコで辛気臭い顔していないで、ケイドロやるぞ!」
 少し離れたところで叫ぶお調子者の男子が、私たちの間に漂っていた重い空気を薙ぎ払った。
 お調子者に呼ばれて、私と桜希はキョトン、として、顔を見合わせて笑ってから、ケイドロに参加した。
 遊んでいた桜希の姿は先程とは全く想像もつかないくらい生き生きとしていて、楽しそうだった。ケイドロに参加する前、桜希は最後にこう言った。
「心優。桜希、お家に帰って、生きていたら、お手紙を送るね。頻繁には送れないけど、二か月に一回くらいは、はがきなら送れると思う。だから、待っていてね」
 彼女の言葉に、私は笑って頷いた。
 きっと、桜希は死なないと、思えたから。
 桜希は、その一か月後に、施設をあとにした。
 彼女を迎えに来たのは児童相談所の人と、綺麗な、優しそうな女の人。桜希はその女の人に肩を叩かれながら、施設を去った。その時の桜希の表情は、とても強張っていて、必死に助けを求めているようだった。

 あれから、どれくらい経っただろう。
 桜希からの手紙が来たのは、最初の三か月ほどだった。それから、全く来ていなくて、彼女の住所に手紙を送っても、返事も何も来なかった。
 桜希は、どうしているのだろう。
 桜希は、私を忘れてしまったのだろうか。
 分からない。何もかもが分からない。
 彼女が昔、優しいって言ってくれた意味も、自分が今、どうしてこんなことになっているのかも。何も分からない。
 分かるのは、今の自分は、出来損ない、ということ。