一年前、私が見ていたのはぬけるような碧空だった。未来なんて、どうでもよくなるような、きれいな空だったよね、沢海君。
 お昼休みの十三時。賑わう、その日の遊び場だった屋上。
 飛び降りても、地面には叩きつけられそうにない空だと思った。飛べそうな空だと思った。あの時、さえずりながら追いかけまわしている雀たちのように飛べそうだと。屋上のドアの前で、監督している先生にバレないように、ドアから離れたところに移動した。
 下には、花壇も何にもなかった。頭から落ちたら、頭蓋骨骨折くらいはいくだろう、と(おぼろ)げな頭で考えていた。
 だから私は誰にもばれないように、フェンスに足をかけた。別に自殺したかったわけじゃない。なんとなく、だけれど、明日なんて生きているか分からなかった。
 今にも、私は死にそうだったから。私には明日が見えなかったから。
 なのにさ、君は。
「お前、何してんの」って。学級委員だったけど、君とは話したことはなかった。目さえも合わしたこともなかったのに。
 ねぇ、君はいつごろから‘そう’だったの?あの時はまだ、違かったでしょ?今更だけど、疑問に思っているよ。
 ねぇ、あの時、私はなんて答えたんだっけ?
 嗚呼、思い出した。
「別に。空を眺めていただけだよ」
 そう、空を眺めていただけ。今と同じように。
 ったく、あの時と日にちは同じなのにね。時間だってほとんど同じなのに。あの時はあんなにも綺麗な碧空で、今はこんなにもどんより雲で、雨が降っているよ。それも、大雨。
 あの時、君は何と答えたんだっけ?別に思い出せないわけじゃないよ。今でもはっきり覚えている。
 あの時の言葉も、あの時の感情も。でも、問いたいんだよ、誰かに。本当は君が良いけれど。
 あの時、君は、嘘だな、って言った。そして私は、嘘だよ、と答えた。
 何も変わっていないはずなのにね、何故か懐かしいんだ。
「で、本当のところは?」
「空があまりにも碧いから、飛べそうだなって」
「飛ぶなよ」
「いま、はまだ、飛ばないよ」
 だって年齢の数が偶数で、素数じゃないんだもん。とても些細な理由だけどね。
 あの時はまだ、好きな数字なんてなかった。好きなのは、素数だけだった。けれどね、あの時君が私を止めた時刻は、何時だったと思う?それはね……やっぱり、やめた。
 そして、あの時はまだ、死ぬ覚悟なんてできていなかった。
 でもあの時、君は止めてくれたね。正直に言うと、嬉しかったんだ。今まで、止める人は大人ばかりで、みんな、希死念慮や自殺願望の気持ちなんて踏みにじる人達だったから。同い年の子が、まだ話したこともない子が、自殺を止めてくれこと。
 本当はあの時、自殺するつもりはなかったけれど、君は止めてくれたでしょ?助けてくれたでしょ?
 あの時、思ったんだよ。私には止めてもらえる価値があるのかもしれないってさ。うぬぼれているのは分かっていたけどね、思わずにはいられなかった。
 ずっと、仮面を被り始めたときから、自分には価値がないと思っていたから。
 テストで悪い点をとるたび、頭の中で誰かが大声で「お前は出来損ない」と叫ばれるから。
 誰でもいいから気付いてほしかった。
 ずっと、助けを求めていたから。
 たすけて、と言おうとしていたから。
 けれども、やっぱり、その四文字は、心から出て、喉までは通るのに、口の中で迷子になって、消えてしまう。いつだって、口走るのはうそ偽りの言葉だけ。
 何度も、その四文字を言おうとしたのに。
 やっぱり、勇気がでなくて、言えなかった。
 いつも、心の中では泣いていたのに。
 誰も気付いてはくれなかった。
 すごく息苦しくて、生き苦しかった。
 すごく痛かった。身体的にも、精神的にも。
 死にたいって、楽になりたいって、生まれたくなかったって、早く死なせてって、泣き叫んでいたのに。
 誰も気付いてくれなかったから、あの時、沢海君が止めてくれて、涙が出るくらい嬉しかった。
 初めて、誰かが手を差し伸べてくれたから。
 それから、一週間後ぐらいにさ、席替えがあって、偶然にも隣になって。しかも、五回連続とかさ。我ながらすごいと思う。だって、五回だよ?すごくない?
 それからさ、私、運命って言葉信じられずにはいられなくなったんだよ。
 あーあ。ホントにどうしてこんなことになっちゃったんだろうね。ねぇ、残り少ない私の時間を君に使ってしまったよ。ほら、もうあと二十分しかない。
 ねぇ、いつか口喧嘩した君。本当だったよ。君の言葉通りだった。私が思っているより、世界は愛に溢れていたよ。私も助けを求めていたら、誰かが助けてくれて、今、自殺なんて図ることもなかったかもしれない。未来に怯えなくて済んだのかもしれない。すべては、私が助けを求めなかったから、誰も信用しなかったから、こんな事になってしまったんだよね。
 そういえば、羅月さんは、私の残した謎を解いたのだろうか。いや、あの娘のことだから、必死に頭を回転させているね、多分。
 ねぇ、羅月さん。いつの日か君は聞いたね。どうして私は他人を下の名前で呼ばないかって。今も昔も、幼馴染以外は下の名前で呼んだことがないんだよ、私は。
どうしてか、分かる?
 簡単な理由なんだ。単純な理由なんだ。たったの八文字で表せる。
――みとめてないから
 今も昔も、私は認めてなかったの。麗名のことだって、下の名前では読んだことはなかった。だって、ただ仲がいいクラスメイト、でしかなかったから。同級生だってそうだよ。友達だなんて認めてない。
 ホントはね、君のことも、認めたくなかったんだ。けれど、関わっていくうちにさ、クラスメイト以上の存在になっていて、ただの仲のいいクラスメイト、だなんて表せない関係になっていて。本当は認めたくなかった。けれど、認めるしかなくなっちゃったみたい。   
 ううん。本当は認めたかったのかもしれない。けれど、私は怖がりだから。君が私から離れていくのが怖かったから、当てはまらない言葉で当てはめて、無理やり当てはめて、こんなことになっちゃった。君が、友達でいてほしいだなんてさ。腹の虫が良すぎるよね。あんなに認めたくなかったのに。同類から始まって、こんなことになって、どうしちゃったんだろうね、ホントに。
 我儘(わがまま)だけど、私は君の名前を呼びたい。苗字じゃなくて、下の名前で。
 だからさ、私が贈った五文字で、ここまで辿り着いてよ。君を名前で呼びたいから。
 だって、君は、私の唯一無二の友達だから。
 大雨に叩きのめされながら、彼女が辿り着くように、と願う。
 あとそうだ、懺悔しないといけないことがあるんだ。
 実は手紙と言う名の遺書に、下の名前で書いてしまったこと。あれだけ呼びたくなかったのにね、ごめんね。
 嗚呼、あと十分だ。
 再び沢海君のことを思い出す。
 ったく、沢海君、君は何なんだね?さっきも出演したというのに。一度で済ませ給え。
 そうそう。君は私を腹黒、って言ったけど、私はそんな人よりもずっと質の悪い人間だよ。
 だって、私の左手には‘あるもの’が握られているから。君は気付いているかな。私はまだ、十二問しか質問してないことに。
‘さいご’の一問はもうじき分かるよ。
 ねぇ、沢海君。私、ずっと思っていたことがあるの。君の名前のこと。繋、っていう字。君にふさわしいと思って。
 繋。意味は、つなぐ。結びつける。続ける。連ねる。つながる。関係する。そして、きずな。
 君は、きずな、という意味を知っているかな。動物をつなぎとめる綱っていう意味もあるけれど、もう一つあるんだよ。断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。係累。人と人との結びつき。
 いい名前だよね、(きずな)君。私は、けい、よりも、きずな、のほうが好きだよ。
 だって、君は、私を繋げてくれたでしょ。私を明日へと繋げてくれたでしょ。君と、関係を築くことができたでしょ。君は私を助けてくれたでしょ。
 もしかしたら、私は君に恋をしていたのかもしれない。恋かは分からないけど、君のことは好きだったよ。一人の人間として。君が隣にいると、少しだけ、息抜きをすることができて、安心した。ドキドキとか、そういったものはなかったけれど、すごく安心したんだ。
 もう少しだけ頑張れると、思えたんだ。
 神様、私はずっと、神様はいじわるだと思っていたけれど、たまにはいいことをしてくれたじゃん?
 心優と、繋君と出会わせてくれた。
 少しだけだけど、感謝しているから。
 嗚呼、もうすぐだ。もうあと少しだけ。私が死ぬまで、あともうすぐ。
 さっきから、少しずつ、雨が強くなっているね。ごめんね。君にトラウマを植え付けさせようだなんて。
 でも、もう私は生きたくないよ。
 これ以上生きていきたくない。
 生きるのが怖いの。
 生きるのが苦しいの。
 生きるのが、とても、辛いの。
 涙の跡を隠して、必死に仮面をかぶって、我慢しているのが辛いの。
 リスカを制限されているのが辛いの。
 本当は切りたくて仕方がないのに、我慢して溜め込むのが、疲れるの。
 心が、もう限界なの。
 早く、解放されたいの。
 楽になりたいの。
 でもね、本当は、生きていたい。
 ずっと、ずっと、ずっと生きていたい。
 自殺なんてしたくない。
 死にたいだなんて、思いたくなかった。
 普通の人みたいに、笑って、楽しく生きたかった。
 こんな感情に囚われたくなかった。
 ただ、幸せでありたかった。
 泣きたいときに泣ける、素直な子になりたかった。
 辛いときに辛いと言える、勇気ある子になりたかった。
 助けてと、助けを求められる、強い子になりたかった。
 誰かに泣きつけたり、誰かに寄りかかれたりすることのできる子になりたかった。
 本当は、本当は、死にたくなんてなかった。
 だけどね、私は自殺する。
 月原先生、ごめんなさい。私はもう無理です。もう、我慢なんて、できない。もう、耐えられない。
 でも。死ぬのだって、本当は怖い。怖くて、怖くて仕方がない。生きるのと同じくらい怖くて、今も足が震えている。
 ただ一歩を踏み出せば、フェンスを蹴れば、それだけで、それだけでいいだけなのに。怖くて、足が竦むの。怖くて、その一歩を踏み出せない。
 今はまだ。
 でも、あと少し、あと少しだから。あと少ししたら、きっと足を踏み出すことができる。
 バン、と屋上のドアが乱暴に開かれる。心優が肩で息をしながら、私の名を呼ぶ。
 けれども私はそれから逃げるように、最後の勇気を出して、竦んでいた足を前へと出す。
立っていたフェンスを強く、強く蹴って、(そら)に浮く。