ここ『黄昏食堂(たそがれしょくどう)』は、名前の通りいつも黄昏時に開店する。

 飲食店として、客のかき入れ時であるランチタイムをスルーするのはどうかと思うけれど、朝や昼に営業したところで、きっとお客なんて一人も来ないだろう。
 何しろ、店に辿り着くには幾分ややこしい手順が必要なのだ。

 表通りのアーケードから数えて三番目の路地を左に曲がって、十五歩歩いたら四歩下がる。
 そうして五度手を叩いて上を向いたら、大きな鴉が一羽、鳴き声を響かせながら羽ばたいていく。
 鴉の鳴き声はその時によって変わるから、ぴったりその長さと同じ分だけ息を止める。
 そのまま片足立ちで四歩進んで、両足を地面に着いたら、その後ろを片足をなくした黒い猫が横切っていく。
 左側から振り向いてその猫について行くと、猫はその内、細く暗い路地の前で立ち止まる。
 猫がにゃあと鳴いてからその道をしばらく進むと、次第に霧が出てくる。
 そしてその長い霧が晴れて拓けた先に、ようやく『黄昏食堂』は現れるのだ。

 うっかりひとつでも手順を間違えると辿り着けないし、最初からやり直す羽目になる。
 だからこの店には、滅多に新規客はやって来ない。来るとしても、常連さんの紹介だ。

 そして、この店の常連さんというのは……

椿姫(つばき)ちゃーん、こっち、油揚げ定食まだー?」
「はぁい、少々お待ちくださーい!」
「椿姫ちゃん、椿姫ちゃん。ちょっとだけでいいから、僕に血を吸わせてくれないかな?」
「はぁい、出禁にしますねー!」
「……!? じ、冗談! ははっ、牛の血ワインは美味しいなぁ……! 次は羊の血のワインを頼むよ!」
「三時間ほどお待ちくださーい!」
「僕にだけ当たりが強い……!!」

 十人も入れば満席の、木造の古くて狭い店。開店と同時に半分の席が埋まった店内で、わたしはこの『黄昏食堂』の看板娘として、一風変わった常連さん達に料理を運ぶ。

木津根(きつね)さん、お待たせしました。『油揚げ定食』ですね! 油揚げたっぷりの油揚げ丼にミニきつねうどん、油揚げと豆腐のお味噌汁、デザートに甘いお揚げでお間違えなかったですか?」
「そうそう、これこれ! いやあ、この店の照明に照らされたつやつやの油揚げの神々しさ……! たまらないよね!」
「ふふっ、お味噌汁は熱いので気をつけてくださいね」
「はあい、いっただきまーす!」

 常連さんのひとり、木津根さん。先程までキリッとした面持ちの真面目そうな女性だったのに、好物の油揚げを目にするなり、文字通り尻尾をぶんぶんと振り目を輝かせる。
 そしてぴょこんと生えたお揚げと同じ色をした三角の耳を揺らして、まずは一口油揚げ丼を頬張った。

「ん~! ジューシーなお揚げに炊き立ての白米……甘辛い味付けがたまらない!」

 木津根さんは気が緩んだように完全に変化を解いて、ふわふわの毛並みのきつねの姿になる。そして器用に前足で箸を使って、至極幸せそうに料理をかき込んでいた。

「よかったです。今日のお味噌汁はわたしが作ったので、良ければそっちも感想ください」
「えっ、椿姫ちゃんが作ったの!? 若い女の子の手作り……心が洗われる……、うう、聞いてよ椿姫ちゃん、うちの会社のオッサン共がさぁ!」

 美味しいご飯に身も心も緩んだらしい木津根さんは、お酒も入っていないのに泣き上戸だ。
 お味噌汁、感想を貰う前に、涙で塩気が増してしまいそう。

 何となく離れるタイミングを見失い、ついつい溢れる仕事の愚痴を聞いていると、不意に後ろの席から声がかかる。

「すみませーん……」
「はぁい」

 振り向くと、先程雑にあしらってしまった鑼木(どらき)さんが恐る恐るといった様子で手を上げていた。

「つ、椿姫ちゃん、あの、羊の血のワインを……」
「鑼木さん、わたしがグラスを置いた瞬間に、首に噛みつこうとしません?」
「し、しない、よ……?」
「……目が泳いでますね?」
「くっ……大丈夫、目を閉じる! きみの首筋もうなじも見ないようにするから! 白い肌に牙を突き立ててそのまま……とか欲望に負けないようにするから!」
「……ついでに退店まで、口もガムテープとか貼って塞いでおきます?」
「それじゃあ羊の血すら飲めないね!?」

 接客業にはあるまじき態度だと自覚してはいるものの、やれやれと溜め息を吐きながら、わたしは鑼木さんの前に羊の血の注がれたワイングラスを置く。
 そして念のため、噛みつかれる前にとすぐに距離を取った。

 今はこうして冗談の応酬を楽しめるだけの理性はあるけれど、お酒が回ると彼はその尖った牙で噛みつこうとして来るから、油断ならない。

「わ、芳醇な良い香りだね……これは三百年ものかな?」
「いえ、店長が今朝の搾りたてだって言ってました」
「そ、そうなの? ええと、フレッシュな香りがまた魅力だね!」
「あ、間違えました。これ千年ものです」
「!?」

 ワイングラスを揺らしながら香りを堪能する鑼木さんは、今時珍しい典型的な黒いマントに白いヒラヒラシャツの吸血鬼ファッションで、首元に巻かれたワインレッドのリボンも似合っている。異国風の明るい髪色をした、病的なまでに色白の美形だ。

 けれどその黙っていても画になるような貫禄も今はなく、窓から夕暮れの光すら入らない隅の席でうじうじとしている。カビでも生えそうだ。

 得意のワインを当てられなかった悔しさからか、しばらくグラスをくるくる揺らしていたけれど。結局何年ものだろうと、何の血であろうと美味しくいただく主義らしい。
 しばらくして口に含んでは、満足そうな表情をしていた。

「やあ、椿姫ちゃん。空いてるかい?」
「あ、いらっしゃいませ、河田(かわだ)さん。お好きなお席にどうぞ! 頭のお皿が渇かないように、水を張った桶をご用意しますね!」
「おっ、気が利くねぇ。頼むよ。外は乾燥してしかたないんだ」

 暖簾をくぐり入って来た河田さんは、メガネにスーツ姿の細身の中年男性だ。頭頂部がとても煌めいていて、あんまり凝視しては悪いかと思ってしまうけれど、あれは彼の大切なチャームポイントだった。
 席について、リュックタイプの鞄を下ろして、その中からメガネ拭きを取り出す。そして頭のてっぺんから丸く光るお皿を外して、丁寧に拭いていた。
 ちなみにその下にも髪の毛はないから、正直見た目はそう変わらない。

「お待たせしました。桶、こちらに置いておきますね」
「ああ、ありがとう。注文はいつもので頼むよ」
「はい『キュウリ定食』ですね。少々お待ちください!」

 きつねの木津根さんに、吸血鬼の鑼木さんに、河童の河田さん。
 それに、先程から天井付近をふわふわ漂う一反木綿の木綿樹(ゆうき)さんや、長い鼻にイカリングをたくさん通して一個ずつ食べる独特な楽しみ方をする天狗の松明(たいまつ)さん。

 そう、ここの常連さんは、みんな変わり者……ではなく。ひっそりと人間社会に溶け込んで暮らしている、あやかし達だった。

 昼間は人間の姿に化け、人間と共に社会生活を送る彼らは、日が落ちるとこのあやかし御用達の『黄昏食堂』に足を運ぶ。

 人目を気にせず本来の好物を飲み食いし、異形しか居ないのだからと束の間本来の姿に戻るのは、重たい鎧を外すようなものだ。
 時には愚痴を溢し、時には客同士励まし合ったりして英気を養い、店の閉まる朝にはまた、人間の世界に戻る。

 慣れない人間ばかりの世界で暮らす彼らの、日々の疲れは計り知れない。『黄昏食堂』は、ただ食事をするための食堂というよりも、彼らの第二の故郷ともいえる憩いの場所だった。

 それ故に、複雑な手順を踏んでしか辿り着けないように、店にはまじないがしてある。
 つまり、正式な手順を知った常連さんの紹介等でないと入れない、ある意味会員制の食事処だった。


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「ねぇ、椿姫ちゃん。表に行き倒れっぽいのが居たわよぉ」
「はい!?」

 ある日、常連のひとりである猫娘の寧々子(ねねこ)さんが店に来るなり、ゆるやかにウェーブした髪を揺らしながら、その綺麗なネイルの施された指先を表に向ける。
 そのいつもながらに甘ったるい声は、僅かな困惑に揺れていた。

「ちょーっと汚かったから、そのまま置いてきたけどぉ……もし店に入れるなら、裏からにした方がいいわねぇ。ご飯を食べるところに入れる格好じゃないわぁ」
「えっ、ちょ、ちょっと見てきますね! お好きな席にどうぞ!」
「はぁい。……あら鑼木ちゃん、久しぶりねぇ」
「げっ、寧々子さん……!?」

 店の奥の厨房に立つ店長へと一声かけ、わたしは急いで表に出る。すると寧々子さんの言っていた通り、少し先に誰か倒れているのが見えた。
 伸びきった黒い髪にぼろぼろの服、見るからに汚れた格好をしたその人に、わたしは慌てて駆け寄る。

 この敷地に入って来たからには、この人もまたお客さんだ。放っておくわけにはいかなかった。

「だ、大丈夫ですか!?」
「う……」

 声かけに反応はあるけれど、起き上がるだけの力はなさそうだ。長い髪に隠されて、目が開いているのかすらわからない。けれど声の低さと身体の大きさからして、成人男性と思われた。

「ちょっと待っててくださいね!」

 わたし一人で彼を運ぶのは無理だ。少し考えて、わたしは一度店に戻り、ふわふわと空中浮遊していた木綿樹さんの尻尾を鷲掴む。

「んん!?」
「ちょっと手伝ってください!」
「えっ、ちょ、何……!? つばきちゃん、そこ引っ張らんといて~!」

 木綿樹さんは、一反木綿。つまり布だ。それも自在に飛べる。わたしは行き倒れの彼の身体に、木綿樹さんを巻き付けた。

「え、ほんま何なん? これ誰?」
「知らない人ですけど……ここに来たからにはお客さんです。なので、お店に運ぶの手伝ってください」

 戸惑いながらもされるがままの木綿樹さんをきっちり結んで、彼の身体を運んで貰う。
 さすがに人ひとりは重たいのか、いつも空気のように漂っていた木綿樹さんは、ふらふらと危なっかしく飛んでいた。

「んん。しゃあないなぁ……ほな、あとでつばきちゃんの手洗いで付いた汚れ洗ってや~」
「ちゃんと店の洗濯機に入れますね!」
「!?」

 何とか店の裏手まで運んで貰うと、普段わたしが休憩スペースにしているバックヤードのソファーに彼を寝かせて一息吐く。

「ふぃ~、これでええやろか?」
「ありがとう、木綿樹さん! 洗濯機はそっちに……」
「遠慮しときます~!」

 逃げるようにしてお店に戻ってしまった木綿樹さんを見送り、後で一品サービスしようとぼんやり考えていると、不意に袖を緩く引かれるのに気付いた。

「……つば、き……?」
「え……」

 木綿樹さんに呼ばれているのを聞いたのだろうか。名前を呼ばれて驚いて視線を落とすと、長く乱れた髪の隙間から、目が合った。
 わたしは慌ててしゃがみ、目線を合わせる。呼吸も正常だし、意識もはっきりしているようだった。ひとまず安心だ。

「気が付いたんですね、良かった……。大丈夫ですか? あなた、店の前で倒れてたんですよ」
「店……」
「はい、『黄昏食堂』です。常連さんのご紹介でしょうか? 初回にひとりでいらっしゃる方は珍しいです」

 わたしの問い掛けにしばらくの間を置いて、彼はぽつりと告げる。

「……、何も、思い出せない……」
「えっ!?」

 これがわたしと、記憶喪失の青年『アキラくん』との出会いだった。


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