扉の前に辿り着くと、左腕でお盆を抱え直し、余った方の手でそっとノックしてから扉を開く。

彼女が驚かないようにするための俺なりの配慮。


「清水さ……」


反射的に声を止める。いや、正確には言葉を失った。

扉の向こうにいた清水は、髪を後ろで一つに括り、(りん)とした姿で正座をしていた。

教室ではいつも俯いているくせに、背中に棒でも通されたかのように背筋を伸ばして胸を張る。

俺に一切意識を向けることなく、ただ目の前の食器に集中している。動いているのは筆を動かしている左手だけ。

それ以外のものは、まるで時が止まっているかのような静寂(せいじゃく)が漂う。俺だけ別世界に取り残されているようだった。

俺は(たたず)んだまま清水を見る。圧倒されていた。

筆先から生み出される線は形を造り、やがて一匹のうさぎになった。

まるで命を生み出す瞬間を目の当たりにしたような神秘的な光景。狂気的な集中力から、こんなにも柔らかい動物が生み出されるなんて。

やがて清水は俺の気配に気が付いたのか、ゆっくりと振り向いた。鋭い眼光が容赦(ようしゃ)無く俺を刺す。


「あ……瀬谷君。お疲れ」


俺を認識すると気が付くと、さっきまで(まと)っていた緊張感をふっと緩めて手に持っている筆を丁寧に置いた。


「ごめん。手伝うね」


お盆を持ったまま間抜けに立ち尽くす俺に、清水は慌てて駆け寄った。

高鳴った心臓の鼓動をどうにかおさめようと思って、別の話題を考える。


「あ、うん。えっと、清水さんって左利きなんだ」

「え……?」


本当にどうでも良いことしか思いつかない。


「ほら、だって、いつも右手で絵を描いてなかったっけ」


言ってから余計に恥ずかしくなる。なんか、俺が毎日教室で清水を見ているような。


「……すごい。私が右手で絵を描いてるの知ってるんだ」


そんな俺のよくわからない質問に、なぜか清水は嬉しそうに答えてくれた。当たってたんだ。


「私、もともと左利きなんだけど、小三の時から右手で字や絵を描くようにしているの」

「どうしてそんなことを」

「泣かないため」


そう言って清水は部屋の隅に立てかけられている丸いちゃぶ台を持ってきてくれた。

いかにも昭和って感じのものだと思ったけれど、当然ながらそんな時代に生まれてすらない。テレビで刷り込まれた情報を元にイメージしただけだ。