村を出てから暫くして、ふと歩みを遅め木陰に立ち止まる。
見上げた空は腹立たしいくらいに澄みきっている。
――――美しい空だ。
こんな気持ちの中で見るには、本当に息苦しすぎる。
胸の中がざわざわとして、落ち着かないのだ。
「――全く、急に走って行っちゃわないでよね」
ふと振り返ると美奈、椎名、工藤の三人の姿がそこにあった。
皆それぞれ三者三様の表情で私を見つめている。
すぐに追いかけてきてくれたのだろう。
私はそんな彼らを見て、少しだけ冷静な気持ちを取り戻した。
途端に今度は先程までの自分自身の対応に、恥ずかしさが込み上げてくる。
「――すまない……皆」
「断っちゃうの?」
椎名の反射的なその質問に、私は言葉を詰まらせてしまう。
美奈は顔を曇らせている。
工藤は何だかいつも通りだ。
彼女達を見つめながら、私はふうっと一つ深呼吸をする。
瞬きをしながら上を向き、目を閉じる。
――光が――眩しい。
「…………正直話が壮大過ぎて、私達ではどうする事も出来ないと思っている」
「はっ!? マジかよ。てか別にやってみなきゃわかんねえじゃねえかよ」
工藤の予想通りの答えが返ってきた。
あっけらかんと言い放つ彼の言動には清々しささえ感じられる。
それが酷く羨ましくて、腹立たしい。
元々この世界に肯定的であったし、覚醒によって特別な力に目覚めたのだからそう考えるのも分からなくはない。
それはそうなのだが――。
「私達は覚醒によって特別な力を得た。だが、特別な力を得た事と自分が特別だと思うことは別問題だ」
皆黙って私の言葉に耳を傾けてくれていた。
そこに皆の優しさを感じてしまって胸が熱くなる。
私自身は一体何のためにこんな気持ちを感じているのか。それが分からなくなりそうなほどに。
日射しが斜めに差し込み、体を包む空気はほんのりと温かい。
「私達は特別でも何でもないのだ。ただの平凡な高校生だ。これまでの戦いも、たまたまうまくいっただけ……もしかしたらこの中の誰かが欠けていたかもしれなかったのだ。もしこの先、そんな事になってしまったら……。そう思うととてもやりきれない気持ちになってしまうのだ」
「ああ……まあ……な。……う~む……」
珍しく工藤が私の言葉に考え込むように腕を組んで下を向いた。
私の言葉を受け、流石に彼も彼なりに現実を慮(おもんばか)ったのだろう。
「それに、こちらの世界の人々もどうかしていると思うのだ。予言にあったとはいえ、別世界から現れた私達に世界の命運を託すなど、少なくとも私ならそんな考えは抱かない。とてもではないが正気の沙汰とは思えないのだ」
別に彼らを責めたいわけではない。少なくとも今回の事には大いに感謝している。
だが私の価値観ではどうにも受け入れがたい動向だ。
「私ならもっと、自分の力でどうにかしたい」
「う~ん……言いたいことは分かるよ。だけどさ、だからって私たち、この先どうすんのさ」
今度はここまで黙って話を聞いていた椎名が呆れたように肩を竦(すく)めてみせた。
「……では椎名はこの話を受けるべきだと?」
彼女は私の発言にふうとため息を吐く。
眉根を寄せて、くしゃくしゃと頭を掻いて。
少しだけ乱れた髪を今度は手ぐしで直しながら、ちらと私の目を見た。
「う~ん……。何て言うかさ、そもそも私達ってこれからどうするべきなわけ? 世界を救うのはほっぽっといて、帰るあてもなくこの村で暮らさせてもらうの? のほほんと?」
「それはまた別の問題であろう。帰る方法は探すべきだと思う。だが世界を救うために戦うなんて危険な轍(てつ)を踏む必要は無いと言っているのだ。私達は自分達の事で手一杯なのだからな」
「んー。まあ解るけどさ。でも結局似たようなものじゃないの?」
「――似たようなもの?」
「うん。多分だけどね、そもそも私達って、どこにいてもこれから魔族との戦いは避けられない気がするのよ。だってあの魔族、私達のこと知ってたじゃない? 方法は分からないけど、たぶんある程度私たちの居どころも割れてる可能性も捨てきれないのよね」
「……それは私も思っていた事だ。魔族との関わりはこれからも続いていくと考えておいた方が賢明だろう」
「うん、そしたらきっとこれからもグリアモールみたいな魔族が私たちの目の前に現れるわ、私たちを狙って」
確かに奴等魔族は私達を狙っているのだろう。
先の戦いでそれは嫌という程実感した。
これからもきっと、グリアモールのような魔族が私達の前に立ち塞がるに違いないという予感は、私の胸の中にもある。
それにどう対処していくかは私達にとって最も重要な課題となる。
「それにね、世界を救うためにがんばりま~すっ! て言っておけば、何かとこの先便利だと思うの。私たち勇者様ご一行ってことでしょ? 色々親切にしてもらえると思うし、協力者は多いに越したことはないわ。まだまだ知らないことだって沢山あるんだし」
椎名は大げさに身振り手振りを交えながら説明する。
彼女の話を聞きながら、一理あるとは思ってしまう。
「ね? そう考えると世界を救うことも案外メリットあるでしょ?」
「……」
椎名らしい考え方だ。
それに何だか今の彼女はいつも通りに楽しそうだ。
一時は危ぶまれる部分もあると感じたが、しっかりと持ち直したらしい。
まあ確かに悲観的になり過ぎても、いい方向に転ぶものも転ばなくなってしまうとも思う。
それもそうなのだが――。
結局私は、私が最も恐れていることはそんな事ではないのだ。
「――私は……私は皆が危険な目に合うのが嫌なのだ」
「……隼人くん……」
私が嫌だと思っている事は結局それに尽きる。
皆を危険な目に合わせたくない。
皆と笑って過ごしたい。
皆を絶対に、失いたくはない。
「この世界に来た途端、美奈が命の危険に晒された。皆が皆、昨日の今日で何度も危ない橋を渡ってきたのだ。私は……今こうして四人でいられることが奇跡なのではないかと思っている」
「――まあ……それはそうだけど……」
椎名は苦い顔をし、罰が悪そうに頭を掻く。
ここまでの辛い出来事を思い起こさせてしまったのかもしれない。
だがそれでしっかりと現実を見てくれるのならばそれでいい。それがいいと思った。
「こんなことは……もう終わりにしたい。――嫌なのだ。わがままだと言われてもいい。皆が危険な目に合うよりは、よっぽどマシだっ……」
私は話しながら胸が熱くなり、言葉に力がこもる。
その熱量が両の頬へと込み上げてくるのを感じ、歯を噛みしめ、固く、強く拳を握りしめる。
そんな私を見て椎名は再びため息を吐いた。
「はあ~……。隼人くんのネガティブラー、そしてバカ。でもまあ――……よし、美奈お願い」
「――え!? き、急に!? ……」
今まで黙って会話を聞いていただけだった美奈は、急に話を振られて困ったように眉根を寄せた。
美奈は私と目が合うと、しばらく目を左右に泳がせ、ふうと短く息を吐いた。
それからゆっくりと体を私の方へと向け、前に立つ。
すすすと数歩前に歩み寄り近づき、上目遣いで遠慮がちに私を見つめたのだ。
恥ずかしそうにして、両の手をもじもじと弄びながら、何かを言おうと頬を赤くする。
その一連の仕草があまりにも可愛らしくて、一瞬惚けたようになってしまう。
やがて彼女はふっと花のように微笑んだ。
「……っ」
それだけで私は言葉を失ってしまう。
彼女の瞳はいつもと変わらない、優しさに満ち溢れた温かなものだ。
私の心を何度も照らし続けてきてくれた。
確かな輝きを持つそれは、私の心を掬い上げる一筋の光なのだと思える。
「……あの、さ? えっ……と……私もみんなが傷つくのは見たくないよ? だけど……さ? この世界が大変なんだよね? みんな、困ってるんだよね? 私たちなら、もしかしたら助けてあげられるかもしれないんだよね?」
美奈は私の目を見つめたり、逸らしたりしながら頬を赤らめている。時折かち合う瞳が私の心の奥底を掴みとっていくようだ。
美奈に見つめられる。
たったそれだけのことがひどく特別なことのように思えて。
きっと誰しもその瞳の前では、例外なく優しい気持ちになってしまうのではないかと思える。
少なくとも私はそうだ。
そのくらい彼女の眼差しは、慈悲と慈愛に満ちているのだ。
私は小さく息をつく。
「……うむ、そうかもしれない。可能性は……低いかもしれないが」
「じゃあさ、みんなで助け合ってみたらどうかな?」
彼女は胸の前で手をぱちんと叩き、小首を傾げにっこりと微笑んだ。
「……美奈」
「どうやったってさ、上手くいかなかったり、つまづいたりすることって、あると思う。何が正しいかはわからないよ? けど私は、自分が正しいと思うことをしたい。苦しいことも皆で分け合って、助け合って乗り越えていけばいいんじゃないかなって」
最初の内こそたどたどしかった言葉が今は流暢に彼女の口から溢れていた。
彼女の瞳の揺らめきがどうしようもなく愛おしいのだ。
「私たちは一人じゃないから。4人もいるんだから。皆で力を合わせて世界を救って、必ず元の世界に帰ろうよ……ていうのはダメ? わがまま……かな?」
正しいと思うことをしたい、か。
美奈はいつもそうだ。
結局そうして自分の事よりも周りを優先してしまう。
今回も椎名を庇って毒に侵されて、自分の命が危険に晒されたのだ。
そんな目に合っておきながらも、再び周りの困っている人達を助けたいと願う。
私は誰よりも、美奈に傷ついて欲しくないというのに……。
しかしそれでも、いつだって私は美奈の言葉に、誰よりも心が動かされてしまうのだ。
誰よりも大切だから。守りたいから。
それはわがままなどではない。
私にとっても、――大切な願いなのだ。
「ん~、うんうん。さっすが美奈。分かりやすい! 私も隼人くんもさ、打算的過ぎなのよっ!」
「よっしゃ! 俺もよくわかったぞ! お年寄りには席を譲れってことだろっ!?」
「あんたが喋ると何かムカつくのよっ!」
「え!? 最早ただの悪口だよね!?」
やかましく言い合う工藤と椎名を横目に、ふうっ、と私は今日何度目かの深いため息を漏らした。
やはりとは思ったが、どうやら逃げ場はないようだ。
決意を固め、とは行かないまでも、ある程度私も覚悟は決まった。
「――ではいいのだな?」
私の言葉に椎名は口角を上げてこちらを振り向いた。
「てゆーかさ、結局反対してたのって隼人くんだけな気がするんだけど?」
人差し指で襟足をくるくると弄びながら、呆れ顔でため息を吐く。
彼女の口元にニヤリと挑戦的な笑みが零れた。
私は思う。
つまるところ、こんな皆のことが好きなのだ。大切な、大切な友人なのだ。
彼らにこう言われてしまえば最早断ることなどできるはずもない。
「……それもそうだな。私は本当にわがままで、臆病者だったらしい」
椎名につられてか、観念すると笑みが零れてきてしまった。
胸の中は今も不安で一杯なのだ。
だが先程とは違い、やってやろうではないかという気概も溢れていた。
ふと繋いでいた手がきゅっと握られて、顔を前へと戻した。
――そこにはもちろん、すぐ近くに美奈の顔があった。
「わがままなんかじゃないです。隼人くんの優しさは十分伝わったから。私も……私たちもあなたの願いに応えたいんだよ?」
「――っ」
彼女の笑顔はどこまでも輝いて見えた。
私はそんな彼女の笑顔に心から破顔してしまう。
――――大好きだ。
私は彼女の掌に指を絡め、きゅっと優しく握り返し、見つめ続けた。
そんな視線を彼女は優しく受け止めて微笑んでくれる。
私達の心はしっかりと繋がっているのだと確信できる。
「……えっと……急に世界に入り込まないでくれるかなあ~……」
「「っ!!??」」
そんな私達を見て椎名はこほんと大袈裟に咳払いした。
それにより綻んだ笑顔は露と消え、私達は慌てて繋いだ手を放した。
ちっ、という軽い舌打ちが耳に届いた。
「ったく……ちょっと近づくとす~ぐイチャイチャするんだからっ……ここまでのやり取りがバカらしくなるんデスケド」
「す、すまない……その、色々と、反省している」
私は顔に熱を帯びるのを自覚しながら、冷ややかな椎名の視線に胆が冷える。
再び椎名の大袈裟なため息が漏れた。
「……まあいいわ。とにかくさ、隼人くん。そういうことだからっ。でもね、あんまり私たちが無茶しすぎてたりしたら、ちゃんとブレーキを掛けてもらわないとなんだからね? その辺は冷静なあなたの仕事。頼むわよ?」
そう言いつつ、最後にはぴしっとサムズアップを決める椎名。
そんな彼女も陽光に照らされて充分過ぎるほど綺麗だと思った。
「ああ、任せておけ。私が全力で皆を守ってやる」
「ふざけんなっ、隼人! 俺が守ってやんだよ!」
「だからあんたが喋ると何かムカつくのよっ!」
「え!? 椎名! ただの悪口傷つくんですけどっ!?」
「ふふっ、めぐみちゃん、あんまりはっきり言うと工藤くんが可哀想だよ?」
「え? 高野、否定してくんねえの!?」
森の中に笑い声が響き渡る。
陽光が眩しくて、鳥の囀りが心地良くて、この津々とした森の中で、初めて穏やかな時間が流れている。
自分達で出来る範囲で魔族との戦いに身を投じる。
それが今の私達の結論だ。
大それた事は言えない。言いたくもない。
世界を救うとか、勇者として扱われるとか、そんな事は深く考え過ぎない。
だが結局魔族との関わりからは逃れられない畏れがあるのだ。
そうなれば当然降りかかる火の粉は払っていくし、勿論世界を旅しながら元の世界に帰れる方法も探していくつもりだ。
だからこれは利害の一致、という言葉が一番しっくり来るのだろうか。
ネムルさんも、そんなこちらの都合のいい話を受け止めてくれた。
そもそも自分達に私達の行動を強要する権利などなく、それで構わないと。
ネムルさんや村の人々も実際五百年前の事は半信半疑な部分もあるのかもしれない。
だがそれでも予言を信じ、決して安全とはいえないこの場所に、こうして村を構えここに居続けたこの人達は単純に凄いと思った。
それにもし彼らがこの場所に居続けてくれなかったならば、きっと私達は今頃この周辺での垂れ死んでいただろう。
そんな風に考えてしまうと、酷く恐ろしい気持ちになるし、改めて彼らに感謝の念を抱かずにはいられないのだった。
さて、それでは改めて私達これからについて――。
当面の直近の目的だ。
どうやら既に、王国であるヒストリア王国からの使者がこちらへと向かっているという話をネムルさんから聞かされた。
というか昨日の内に私達が魔族とワイバーンを撃退したという報告を伝書鳩で送ったらしいのだ。
まだ返事は受け取っていないらしいが、手筈通りなら毎月初めに王国からこの村に防御魔法を施したり、物資を支援してくれる馬車が来る。その時に使いの者が一緒に現れて、ヒストリア王国へと案内されるのだとか。
ある程度準備していただけあって、手並みはかなりスムーズだ。
当然ながら、次の目的やこの先の当てがあったわけではない。
よって断る理由などないのだ。
皆異論はなく、先ずはその王国へ行ってみようという事になった。
――ヒストリア王国。
そこは剣術で栄えた騎士の国。勇者ヒストリアの名前を冠してつけられた。
そこへ赴けばこの世界について、より深く知る機会に恵まれるだろう。
――そこで、だ。
ヒストリアの使者が来るまではおおよそ少なく見積もっても一週間から十日程の時間があるらしい。
ただただ何もせずに待っているだけというのも勿体ない。
それまでの間、私達は各自、自分達がもっと強くなるために力を磨く、という事になった。
いわゆる修行、というやつだ。
私達四人の中で真っ先に覚醒した椎名は、たった一日程度で風の扱いが相当進化した。
しかも彼女曰く、『私、まだまだ強くなれそう――』とのことらしいのだ。
そこから他の三人も同じように、とんでもない成長速度と可能性を秘めていると思ったのだ。
魔族は強い。
正直まだまだとてもではないが敵う相手ではないというのが本音なのだ。
だがそれは今この段階での話。
今は魔族に敵わなくとも、いずれそうなれるよう自分達の伸びしろを充分に埋めておくべきだと考えたのだ。
そう考えるとこの動きは必然のような気がしてくる。
すぐに動こう、と。
そこまで決めると工藤は行動が早かった。
「山籠りしてくるぜっ!」
彼は一言そう告げて、少ない荷物だけ持ってさっさと村の外へ出ていってしまったのだ。
正に思いつきの行動。
工藤らしいと言えば工藤らしいのだが――。
まさか本当に求道者のような行動に出るとは思わなかった。
私達は苦笑しながらもまず彼を見送った。
一人で大丈夫かとも思ったが、今の工藤ならばその辺の魔物に対しても危険はないだろう。
万が一強敵に出くわしても、一人なら逃げる事も雑作ないと思ってしまうのだ。
それに椎名も寝泊まりは村でしてはいるが、日中は村の外で何やら色々試すようであった。
そんな彼女の行動から、何だかんだ言って工藤が心配なのではとも思った。友達想い、もしくはそれ以上の感情から来るのかもしれない。本人には間違っても言えないが。
美奈はというと、この村の人達にこの世界での戦い方というものを聞いているようだった。
特に興味を示していたのが魔法と弓。
村の人達と一緒に弓矢を持って狩りに付き添ったり。夜に村の灯りを魔法で点けて回る事に付き合ったりしていた。
私も魔法には興味があったので、一緒に話を聞いて試してみた。
だが、残念だが使う事は出来なかった。
この世界でも、魔法は全ての人が使えるものではないらしい。
魔力を様々な属性の魔法に変換して行使するものらしいのだが、そもそも魔力を持っている人自体がそう多くはないらしいのだ。
それに魔力をどの属性の系統に変換出来るかどうかも人それぞれというのだから、思っていたより万能ではないようだ。
魔法はある程度に止め、私は私でそれなりに色々試したい事もあった。
それを実行しつつも、村の人達にこの世界の事を聞いたり学んだり、情報収集をメインに行った。
魔法の事もそうだが、世界の国や種族。多岐に渡る一般的な知識は収集しておきたかった。
ヒストリア王国に行ってからの方が詳しく学べるかもしれないが、今知れる情報は仕入れておいて絶対に損はない。
そんな事をしている内に、あっという間に時間は流れ――――。
――――遂にその日は訪れたのだ。
「――要するに、だ」
心地よい日差しの照りつける昼下がり。
窓から差し込む光でぽかぽかと暖かく、穏やかな陽気に包まれてともすれば眠気に襲われそうになる。
隣に座る美奈なんかは一応起きてはいるが、頭が回らずぼうっとしてしまっているのではないだろうか。
先程からその小ぶりな頭が振り子のように、右へ左へと揺れている気がするのだ。いや、間違いなく揺れている。
まあ、そんなところはとても可愛いらしいので私としては大いに良しとしてしまうのだが。
「魔法とは人の持つ魔力を媒介にマナをかき集め、具現化させる方法を取っていると。そしてそれぞれ異なる属性があり、大きく分けて六つ――地・水・火・風・光・闇の属性に分かれるということなのだな?」
私は目の前の男、チャドルにここまで聞いた講義についての要約を話した。
「ああそうだ。あと魔力そのものを放つ無属性なんてのもあるが、これは基本中の基本だから属性とは呼ばねえ、とこんなところだな」
チャドルは私の話にうんうんと太い腕を組み、頷きながら満足げな表情を浮かべた。
彼、チャドルは今私達が滞在しているネストの村の一番の魔法使いらしかった。
年の頃は四十過ぎ。魔法使いというには似つかわしくない逞しい肉体をしている。
ボサボサの茶髪を短く乱雑に切られ、申し訳程度に口周りに生やした髭は年相応と言うべきか。
普段は魔法というよりも、村の力仕事や狩猟を主に受け持っているらしい。
魔法使いと述べはしたが、村で一番魔法に詳しいだけで、いわゆる魔法を噛った程度の気のいいおっさんといったところだ。
午前中は狩猟に付き合い弓の扱いを教わり、午後は彼の家で獣肉のスープや蒸し焼きなどをご馳走になった。
その後こうして彼の魔法の講義を受けているというわけだ。
魔族を撃退し、ワイバーンを倒してからおおよそ三日が経っていた。
「隼人くんすごいっ。もうそんなに理解したんだね!」
嬉々として私を褒める美奈。
彼女は私の恋人であり異世界での旅の道連れとなってしまった女の子。
隣でふらふらと舟を漕いでいるようだった彼女だが、私の話した理論に突然表情をぱあっと明るくさせ小動物のような笑顔を見せる。
本当にコロコロと表情が良く変わる娘だ。
そんなところも可愛いのだが。
「いやいやミナちゃんっ、こんなの大したことねえよっ! 誰だってすぐに理解できらあっ!」
そんな美奈の褒め言葉をやけに否定するチャドル。
どうやら自分がお気に入り美奈が、事あるごとに私を褒めるのが気に入らないようだ。
会ってそこまで時間の経っていない私達だが、こんな時にはいつもうざ絡みしてくるのだ。
そんなチャドルさんの挙動にも流石に少し辟易してきた頃合いであった。
本当に、いい大人なのだから勘弁してほしいものだ。
「え……でも、私、その大したことない部分がまだあんまり理解できてないですよ?」
「あっ!? ちがっ……ほらっ、ミナちゃんは頭で理解するより体で理解するタイプだからいいのっ! それに、ほらっ! 可愛いしっ!」
美奈は頭の回転が早い方ではない。
特に理論的な物事を理解するのはめっぽう弱いのだ。
それにより、私を褒める美奈。それを否定するチャドル。それにより美奈が否定された気持ちになる。チャドルが慌ててフォローする。
といった図式がしょっちゅう成り立っていた。
それもこれも美奈が可愛いから仕方ないことなのだと片付けるが、可愛いからなんでもありだ。
その辺の気持ちはチャドルとは共通していると言える。
「ああもういいやっ! 理論の講義はここまでだっ! こんなの理解したところで何の役にも立たねえよっ! とにかく外出て魔法ぶっぱなそうやっ!」
「いや……ぶっぱなすのはちょっと……」
最後は投げやりにこう締めた。本当に荒々しく適当な男である。
私の言葉など聞いてはいない。
チャドルはミナのフォローが苦しくなってきたとあって、未だ俯く美奈を元気づけるように一際大きな声でそう告げ、外へと私達を誘おうとした。
「チャドル、その前に」
「ん? 何だよハヤト! ミナちゃんが悲しんでるってのにようっ」
私は手を上げチャドルを見たが、彼は案の定私への語気を荒げ睨みつけてきた。
「もう一度昨日やった魔法適正を試したいのだが」
「――はんっ! んなの一回やったらそれまでなんだよっ。往生際が悪いやつだなあっ。それでも勇者かってんだっ」
「あ、チャドルさん。私もそれ、もう一回やってみたいですっ」
「よしっ! やろう! 今すぐやろう!」
私の提案に難色を示したチャドルであったが、美奈がやりたいと言った途端、手際よく動いて準備をし始める。
そんなチャドルを見ながら私は苦笑し、ふと美奈と目が合う。
すると彼女は控え目に、どこか悪戯っぽいこやかな笑みを注いでくれるのだ。
いや美奈さんそんな笑顔も破壊力抜群ですね。
それは全てのマイナスごとを吹き飛ばす、天使の笑みであったのだ。
さて、講義は唐突に終わりを告げ、次にやるのは魔法適正の儀式だ。
儀式と言うと仰々しく聞こえるが、実際そこまで大したものではない。
やる事と言えば至って単純明解。目の前のテーブルに置かれた木の葉に念を込める、以上なのだ。
だからそうだな、これは検査という方が一番しっくり来るかもしれない。
「じゃあさっさとやっちまえよハヤト」
「――うむ」
私は椅子に座り直し姿勢を正すと、改めて目の前の葉っぱへと視線を注ぐ。
何の変哲もない緑色の葉っぱだ。
この世界の特別製とかそういうものではない。
そこら辺に生えている木の葉を千切って持ってきただけ、ただそれだけのものなのである。まあ異世界のものという時点で私にとってはレアリティの高い代物なのかもしれないが、これを私達の元いた世界に持って帰られれば、という条件付きだ。
私はこくりと喉を鳴らすと掌を葉っぱの周りにかざし、目を閉じむううと念じてみた。
私の中に流れる魔力で以てマナに干渉し、その力を葉へと伝える。
先程習った理論を元に、そんなイメージを膨らませながら実践してみるのだが――。
「――やっぱ無理だな。ハヤト、おめえに魔法の才能はねえよ」
「うぐっ……」
チャドルにそう突っ込まれ、幾らか精神的ダメージを受ける。
私は葉っぱわ握りしめガクリと項垂れたのだ。
改めて葉っぱを観察しても何も変わった様子は見受けられない。
くりくりと目の前で回して眺めてみるが、これっぽっちの変化も起こっていないようであった。
やはり、ダメか。
「そのようだな。では次は美奈、やってみてくれ」
私はこの事案はきっぱりと諦め気持ちを切り替えることに決めた。
さて、次は美奈だ。
「え? あ、――うん」
彼女は私の言葉を受けてちょっと戸惑うような複雑な表情をしながらも、私が明け渡した席へとちょこんと座った。
そうして私の時と同じように、手を葉っぱの周りへと持っていく。そのまま目を閉じ、精神を集中し始めたのだ。
「――――」
突如美奈の体が、淡い光を放っているように感じられた。
今は昼間。部屋の中とはいえかなり明るい。
だからはっきりとは分からないが、恐らく本当に彼女の体は今薄い光の幕で包まれているのだろう。
程なくして光が収まり、美奈はそっと手をのけた。
「――ふう」
「おおっ! 昨日とおんなじだっ! 流石俺のミナちゃんだぜっ!」
どさくさに紛れて俺の美奈ちゃん呼ばわりはかなり聞き捨てならないが、それは今は措いておくとして。昨日と同じく葉っぱの様相が変化しているのを見て私は感嘆の息を漏らした。
――葉っぱが薄い光を放っているのだ。
「へへっ! ミナちゃんはやっぱり光属性の適正があるみてえだなっ! さしづめ光の女神ってとこだっ」
「えへへ……そんなことないです」
このおっさん良くそんな臭いセリフ言えるなと思いつつ、頬を朱に染めはにかむ彼女の笑顔があまりにも眩しくて、尊いとは思うのだ。
――うむ。光の女神。確かに。
「ところで女神よ、その感覚とは一体どういった感じなのだ?」
美奈は私に女神と言われ、嬉しそうにするかと思えば若干ムッとした表情を見せた。
それがまためちゃめちゃ可愛い。
チャドルさんなんか「うはっ……」とか完全に胸を射抜かれたような声を上げた。
「えっと……普通だよ? なんかこう、身体の中を流れる血液を感じて一体になるっていうか。とにかく目を閉じて自分の中にある不思議な力を感じるの。あとはそれをうまくイメージしながら動いてくださいってお願いするみたいな?」
――うむ、よく分からん。
流石私の美奈なのだ。
頭で考えるより体が勝手に理解し、そう動けてしまう。
天才というやつだな。
「なるほど。まあその辺の感覚は人それぞれなのかもしれないな」
「ハヤト、ミナちゃんの才能に嫉妬するなよ? ミナちゃんはもしかしたら天才魔法少女かもしんねえんだからなっ。ガッハッハッハッ!」
そうして言い馴れ馴れしく美奈の肩に手を置くチャドルさん。
私は少しめんどくさくなり、曖昧な返事を一つ返すに止めた。
さて、この魔法適正の結果とそれに対する属性の見分け方なのだが。
――至ってシンプルだ。
地属性ならば葉が何らかの形で成長する。
水属性ならば葉が潤う。
火属性ならば焦げたり燃えたりする。
風属性ならば宙に浮いたり舞い上がる。
闇属性ならば葉に黒い靄がかかり、枯れたりする。
光属性ならば今のように淡く光るといった風なのだ。
私の場合は昨日に続き今回も何も起こらなかったので、そもそも魔法は使えそうにないのだとか。
ちなみに椎名も工藤も私と同じ結果であった。
彼らはそれぞれ風の能力と地の能力を持つ。
その属性の魔法は使えるだろうと思っていただけに、かなり意外であった。
やはり彼らの能力は本来の魔法とは全く違った性質のものなのかもしれない。
まあしかし、この結果も悪いことばかりではない。
椎名と工藤も魔法が使えるとあれば、魔法適正がない者が私だけとなり、仲間外れ感、疎外感みたいなものに苛まれたに違いないのだ。
今もチャドルさんに何を言われていたか分からない。
この人は割と思ったことをずけずけ言うタイプのようだからな。
そういった意味では助かったと言えるのかもしれなかったのだ。
「あの……隼人くん」
「ん?」
一人思考の海に耽る私の袖をくいくいと引っ張って、美奈が私の名を呼んだ。
何の気なしに振り向くと、美奈は申し訳なさそうな表情でこちらを見ていた。
「あの……ごめん、ね?」
自分だけが魔法適正があったことを気に病んでいるのだろう。
私はそんな彼女ににこりと微笑む。
「美奈、そんな事で気に病む必要はない。これはお前がこのグラン・ダルシで得た素晴らしい才能だ。これに賞賛を送ることはあれど、嫉妬や劣等感などといった感情を抱くことは一ミリも無い。本当に、私の彼女はすごい人だ」
私の言葉を目を見ながら最後まで真剣に聞きつつ、徐に目を逸らした。それから彼女は頬をほんのりと朱に染めたのだ。
「――あ……えと……ありがと」
「――っ」
「……隼人くん?」
「あ、ああ。いや、何でもない」
「??」
私は若干言葉を失いつつ目を背けてしまう。
変に思われただろうか。いや、でも勘弁してほしい。そういったはにかむような表情は反則だと思うから。
私は一人、薄明かるい室内で二人から顔を背けつつ額に手を当て思うのだ。
――女神越えてる、と。
そんなこんなで私達は魔法の適正検査を終え――。
三人は一度外へと足を運び、広場まで場所を移そうということになった。
今はチャドルさんのところから移動の途中だ。
それにしても――。
「あっ、ミナちゃんおはよう」
「ミナちゃん体調は大丈夫かい?」
「ミナちゃん今日も可愛いねえ」
「あっ、お姉ちゃん! 遊ぼっ!」
広場に来るまでの道すがら、村の人々は老若男女その全てがすれ違う度に美奈へと声を掛ける。
その度に彼女ははにかみ手を振り相づちを返すのだ。
ふむ――。
我が恋人があまりにも愛らしく可愛いすぎるとはいえ、この差はなんだろうか。
私もすぐ隣にいるというのに。
そこまで私は存在感が希薄なのかと多少ヘコんでしまいそうになる。
そんな私の内心を知ってか知らずか、不意に服の袖口をちょいちょいと掴まれ顔を上げるとにこやかな美奈の笑顔。
「――――っっ」
破壊力半端ないっ!!
そんな気づかいも出来るとか、本当にこの娘は一体どこまで天使なのだっ!
やはりこの笑顔を見ていると大きく納得をしてしまう。
私の目の前にいるのは女神なのだからそこは仕方ないかとも思ってしまったのだ。
うむ。何せ神なのだ。人とは異なる。
私のような凡人が神を目の前にして何とも烏滸(おこ)がましい考えを抱いてしまったものだ。
何と傲慢な思考か、本当に自分がめちゃくちゃ恥ずかしい。
「すみませんでした」
「え!? 隼人くん、どういうこと!?」
突然腰を折り謝罪する私に、戸惑いツッコミを入れる美奈。
うむ。そんな美奈の慌てた顔もグッドだな。
「よおし、何かわかんねえけどハヤトの謝罪っていういいもんも見れたことだし、いっちょやってみっかっ」
「え!? 今の時間て隼人くんの謝罪待ちだったんですかっ!?」
チャドルさんの機転の利いたギャグに戸惑いツッコミを入れる美奈。
私が変な謝罪をしてしまったがために空気がおかしくなってしまった。
それはちょっと反省だ。
実はとっくに広場には到着していた。
にもかかわらずその場に留まり周りを眺めたり何するでもなくぼんやりとした時間を過ごしていたのだ。
「いやな、ハヤトみてえな羨ましい男はいっぺん土下座で謝罪でもしてもらわねえと俺の気が済まねえってもんでなっ! ガハハハハッ!」
「……はあ……??」
美奈はわけが分からず頭の上にはてなを浮かべ続けていた。
いや、流石に土下座はしないから。
それにあまり美奈をからかうのはやめてほしいものだ。半分は私のせいなのだが。
未だに豪快に笑い続けるチャドルさんを、冷ややかに眺めていた。
美奈はこのやり取りには到底ついていけず、かなり辟易した表情を見せた。
彼の豪快な笑いにも飽きてきたのでふうと短いため息を漏らしジト目を送る。
「とにかくチャドルさん、ここまで来たんだから先へと進めて欲しいのだが……」
「あん? まあ、そだな。わーったよ。ハヤトの謝罪も見れたしな。いよいよ実践訓練と行こうじゃねえか。ガハハハハハハッ」
チャドルさんはそう言い再び豪快に笑うと、耳をほじほじとしながら前に出て、広場に生えている木の前で立ち止まる。
そうして静かになったかと思うと、手を目の前にかざし、目を閉じた。
「大気に漂いし風のマナよ 我が手に集いて大いなる風となれ」
精神を集中しているチャドルさんの周りに薄ぼんやりと光の幕が出来る。
チャドルさんを中心に突風が吹いた。
「ウインド!」
力ある言葉と共に、突風はチャドルさんの前方へとびゅおうっ! と吹き荒れた。
視線を先へと向けると目の前の木の葉が、木そのものがガサガサゆらゆらと揺らめいていたのだ。
木の葉は幾らかの細い枝ごと吹き飛ばされ、宙を空高く舞い上がった。
数秒の間隔を置いて、とさりと地に落ちる枝葉の数々。
「ま、ざっとこんなもんよ」
チャドルさんはこちらを振り向き得意気に鼻を擦ってみせた。
「うんっ、すごいです! 魔法って」
先程までの辟易した様子はどこへやら。
美奈は嬉々とした表情で胸の前でぱちぱちと手を合わせる。
「だろう? まあこれは初歩的な魔法だから威力はそこまでだが、それでも人1人を十数メートル吹き飛ばせるくらいの威力はある」
美奈が半ば興奮気味にチャドルさんに詰め寄ったものだから、彼は更に得意気になった。
いや、別に構わないのだが、美奈ちょっと感心しすぎではないだろうか。いや、別に構わないのだが。
「おしっ、じゃあ次はミナちゃんの番だぜ?」
「え? 私ですか?」
突然自分に振られると思っていなかったのか、美奈は戸惑い眉根をひそめる。
「ああっ、もう習得は成ったんだからなっ。あとは実践あるのみだぜっ」
そう言いチャドルさんは木の下にあった大きさ五十センチ程の岩を広場の真ん中まで運んだ。
やはり中々の力持ちである。
「ミナちゃんっ、的はこの岩だ。いっちょやってみてくれっ」
「あ……はい」
自信なさげにしつつ、とことこと歩を進める美奈。
岩との間隔を五メートル程開けて、そこで立ち止まる。
ちらとこちらを見やる美奈はかなり不安そうであった。
「大丈夫だ。美奈ならきっとできる」
「……うん、やってみるよ」
私の言葉に目を見開き、やがて決意を固めたようにキリッとした表情を浮かべた。
うむ。頑張る彼女は凛々しく美しい。
さて、ここから彼女は昨日習得した魔法の詠唱に入ることになるのだが、その時の事を述べておこうと思う。
時間は昨日の未明に遡る――。
「うわっ、埃すっごいっ……」
けほけほと鼻と口を塞ぎながら中へと足を踏み入れる。
椎名は眉をへの字に曲げながら涙目になっていた。
かくいう私もあまりの埃の凄さに若干むせていた。
美奈も辛そうではあるが彼女の衣服は私と椎名とは違い、袖に余裕がある。
そこを上手くマスクのように当てがって、そこそこ難を逃れているようだ。
「ガハハハッ! こんなの慣れればどうってことねえ――ガハッ! ……うごほおっ! ごほっ!」
「いや……むせてんじゃん……」
椎名のジト目を受けつつ、豪快に笑った際に思い切り埃を吸い込んだのだろう。
チャドルさんは涙目になり苦しそうに咳込んだ。
「まあ……俺もここに入るの久しぶりだしなっ! ガハハハッ……ごほっ! ごほっ!」
「いや、だからそんな笑い方するからでしょ……」
「――だなっ! げほっ、げほっ」
「――ったく。変な人」
椎名は呆れたように流し目を送りながら苦笑いを浮かべる。
それでもチャドルさんも椎名もどこか楽しそうだった。
まあ楽しいならば何よりだ。
異世界に来て、始めの頃はこんなのんびりとした時間を過ごせる時が来るとは全くもって思えはしなかったのだから。
さて、私達が今いるこの場所は村の倉庫である。
様々な備品や武器、防具なんかも置いてある。
一度色々拝見してみたいものだが今は埃まみれのこの状況から抜け出したい気持ちが勝つので、早く用件を済ませたいところであった。
中はそこまで広くはない。
窓もないので昼間にも関わらず見通しが悪い。
今は若干目が慣れてきたせいもあり、大体の物の陰は見えるので大丈夫だが、足の踏み場もないほどに物が置かれていて、四人も人が入っているので狭いことこの上なかった。
「――お、あったあった。ここだっ」
倉庫の最奥の書棚の上に重厚な本が何冊か積まれていた。
百科事典のようなその本の中から幾つか物色した後、チャドルさんは一冊の本を手に取った。
床に近い場所で丁寧に埃を払う。
「ほらよ、ミナちゃん」
「あ、ありがとうございます」
徐に渡された本を手に取り、まじまじと見つめている美奈。
椎名も彼女の肩にちょこんと顎を乗せ、美奈の腰に手を回し、後ろから珍しそうに覗き込んでいる。
「ふ~ん。何か変な文字が書いてあるわね」
「古代文字だからな。俺にも殆ど読めねえ。でもたぶんそれで合ってるはずだ」
「で? これをどうするわけ?」
「簡単だっ、本を開いてぱらぱらとページをめくりゃいい。適正があるなら本が対象に反応して魔法の知識が流れ込んでくるはずだ」
「へえ~っ」
チャドルさんの話に感心したように声を上げる椎名。
「美奈、やってみてよ。ちなみにせっかくだから私もこのまま覗いててい? もしかしたらワンチャン修得できるかもしれないしさ」
「ガハハハッ! シーナちゃんは無理だなっ。さっきも属性の適正はなかったんだからっ」
「むむ……ふんっ、念のためよっ」
チャドルさんに笑われて少しむくれた椎名だったが、美奈と共に魔法の本は見るつもりらしい。
先程属性検査の際に、私と共に魔法の適正がないことは確認済みだがどうしても諦めきれないのだろう。
「――じゃ、いくよ?」
そんな椎名を気づかいつつ、一緒に見ようと二人は横に並んだ。
「あ、隼人くんも見る?」
「――私はいい、そのままやってみてくれ」
一瞬悩みはしたが、この狭い空間だ。二人とかなり密着した状態にならなければいけない。
流石にそれは少し気が引けるのだ。
「ふ~ん……あっそ」
椎名はそれに気づいてかは分からないが素っ気なく私の言葉に従ったようだ。
美奈はそのままえいと本をとめくってみせた。
「――っ」
途端に本がほんのりと輝きだした。
うっすらとした光が本からは浮かび上がり、そのまま美奈の体へと移っていったのだ。
光は吸い込まれるように彼女の体へと入っていった。何とも幻想的で不思議な現象だ。
当の美奈はというと、不思議そうな顔で自分の掌を見つめている。
「美奈、大丈夫か?」
「あ、うん。ごめんね? 問題ないよ?」
「ガハハハッ! うまくいったみてえだなあっ! ガハハハッ」
「かあ~っ、おっきな声っ!」
椎名は耳を塞ぎながらしかめ面を作る。
そうしながらちゃっかり他の魔法書もパラパラめくって見ている辺りが流石だ。
そのどれを見ても、美奈と同じような結果は得られていなかったようだが。
とにかく美奈は何事もなかったように微笑んでいる。
これで魔法の修得が成ったとは、不思議なものだ。
一体どういう原理なのか、私には全く知る由もないが、異世界に来て、始めてしっかりとその文化に触れたような心持ちとなり、胸がドキドキしていた。
「はあ~。よく分かんなかったけど、私はやっぱりダメだったみたいね。でも何となく理解はしたわ。じゃ、私はここからは自分のことに専念するから、あとは二人で頑張ってっ。チャドルさん、ありがとねっ」
「お、おうよっ」
椎名はそう言い笑顔でサムズアップを決めた。チャドルさんもニヤリとサムズアップを返していた。
この二人は中々気が合いそうだなと思う。と言っても椎名は元々誰とでもうまく立ち回る奴なのだとは思うが。
彼女はそのまま倉庫を後にし、去っていった。
そんな彼女の背中を見送りつつ、本当に風のような奴だなと思うのだった。
広場にはチャドルさんのウィンドの魔法の音で、何人かの村人が集まってきていた。
私達勇者が修行しているのを見物したいという想いからか、それは分からなくはない。
だが初めての魔法。それを眺める人々。
美奈にとってそれはかなり緊張感の高まる状況であり、彼女の表情には明らかな戸惑いの色が浮かんでいた。
「美奈、大丈夫そうか? 無理しなくとも、まだ修行は始まったばかりなのだ。時間はまだまだある」
「あ、うん」
私の言葉に彼女は俯いた顔を上げ、それから深呼吸を1つ。
「明日にしてもかまわないのだぞ?」
懸念して掛けた言葉に、けれど美奈は微笑み首を振った。
「ううん。大丈夫、やってみるよ」
とはいえ落ち着かないのか、もう一度深呼吸。
「はあ~、ふう~」
そんな仕草も愛らしく可愛らしい。
一生懸命頑張ろうという様が伝わってきて、応援したくなる気持ちが自然と湧いてくるのだ。
それでもこちらとしては気が気でないのは確か。
何というか、子を見守る保護者のような気持ちか。
「お姉ちゃんっ、頑張ってっ」
唐突に少し離れて事を見守っていた少女がそんな声援を送ってくれた。
美奈は微笑みこくりと頷く。
「ありがとう。頑張ってみるね?」
彼女の言葉に気持ちが和んだのか、やがて意を決したように美奈は真剣な表情になった。
「――チャドルさん。私、やってみます」
「おう、いつでもいいぜっ。ぶちかましてみせてくれやっ」
ニヤリと笑うチャドルさん。
今は茶化すことなく静かに美奈の動向を見守っている。
やはり自身も魔法を使うだけあってここは黙っているべきだと判断したのか。その辺の気づかいはまあ、流石と言っておこう。
美奈はもう一度ふうと短い息を吐いた。
そのままぴたと動きを止め、今度こそ岩を見据え、精神を集中させるように目を閉じたのだ。
それに呼応するように周りに静寂が訪れる。
直後、美奈の体がぼんやりと輝いているように見えた。
――息を飲む私やチャドルさん、そして村の人達。
「この身に宿りし光のマナよ この手に集いて一条の光の矢となれ」
美奈の詠唱が始まり一息に言いきった。その最中から、淡い光はより強い光となったのである。
光が彼女の手の先へと集まり、指先で留まったかと思うと、それは光の球体となりビクンと力強く脈打った。
「ライトニングスピア!」
力ある言葉と共に光は矢となり一直線に飛んでいった。かと思えば次の瞬間には目の前の岩へと直撃していた。
当たった衝撃で光は一層その輝きを増し、ズドンッ、と落雷のような大きな音を辺りに響かせた。
その光景に思わずどよめく観衆。さんざめく残響。
音の余韻が途切れたら、静寂が訪れ――やがてその静寂はすぐに歓声へと変わったのだ。
「すごいぞっ! ミナちゃん!」
チャドルさんも感心したように寄ってきて美奈の肩を叩く。
「えへへ……できちゃいましまね」
未だ自分が起こした事象が信じられないのか、美奈は頭をぽりぽりと掻きながらはにかんだ笑みを浮かべていた。
そんな折、ちらとこちらを見た彼女と視線がかち合う。
私も彼女に近づきにこやかな笑みを見せた。
「美奈、本当に凄いのだ」
「……へへ。嬉しいな」
美奈は賞賛の言葉に恥ずかしそうにしながらも、素直に喜び笑顔を浮かべていた。
嬉しそうな彼女の顔を見ていると、こちらまで幸せな気持ちになってしまう。
思わず彼女の手を取り見つめ続けてしまう。
「美奈」
私の熱い視線に応えるように頬を上気させて見つめ返す瞳は憂いを帯び、吸い寄せられるようだ。
「……隼人……くん」
「おいおいっ、皆見てるんだがっ!?」
「「おわっ!?」」
完全に自分達の世界へと入り込みそうなところをチャドルさんに止められ私達は慌てて離れた。
「……たくよお」
恨めしそうなチャドルさんの声を聞きながら流石に反省する。
場所をわきまえねばな。
そう思いつつちらと横を見ると美奈はやっぱりこちらを見ていて、にこやかに微笑んでくれていた。
それが堪らなく可愛らしくて愛おしいと思ってしまうのだ。
今回は私自身、魔法という能力を得られなかった。
それは勿論残念なことではあるが、美奈にはその才能があった。
そのことが今は、自分のことのように誇らしい。
さて、私もここからは自分自身の特性を活かした修行に切り替えていくとするか。
そんな事を思いながら空を見上げる。
陽の光はどこまでも晴れやかで、空は空気の淀みが一切ないかのように澄みきっている。
空は私の心をスッと穏やかに、心地よくしてくれるのだ。
私こと椎名めぐみはつい最近、この異世界グラン・ダルシに足を踏み入れた。
と言ってもどういう仕組みか、自分がいた地球からこの場所にいきなり転移してしまう、という何とも非現実的な方法でたどり着いたのだ。
そして飛ばされてきたこの世界で、私が余りにも可愛かったものだからいきなり目の前に現れた虎みたいな魔物が涎を垂らして襲い掛かってきた。
けれど、風の力と超人的な身体能力を得たクールビューティーな私。何だかんだで障害を華麗に乗り越えて、今ではそこら辺の魔物なんて相手にならないくらい強く成長したのだ。
だけど、本当に怖いのは魔物なんかじゃない。この世界を滅ぼそうとしている種族、魔族だ。
現在私はその魔族に命を狙われている。
もちろんそれは私が可愛いすぎるから。
時に類い稀なる才能と美貌というものは敵を作ってしまうものなのだ。
こんな私に嫉妬した悪の権化たる魔族が、この世界に私を無理矢理引き入れて、私の全てを奪おうとしているのぴえん。
でも、私だってそれを黙って手を拱(こまね)いて見ているつもりは毛頭ない。
魔族を見事討ち滅ぼして、絶対に元の世界に帰ってみせる!
そしてその目的のために、私は更に強くなってみせる!
そんな事を思いながら、私は今日も修行に勤しむのだ。
うんうんこんな感じかな。
我ながら中々ドラマチックなあらすじになったんじゃないかしら。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ひゃっほーっ!」
ごうごうと私の耳を劈(つんざ)く風切り音と共に、私の体はどんどん上へ上へと上昇していく。
風を操る能力に目覚めてから、早いものでもう一週間以上が過ぎた。
私は最早、意のままに風を操り、鳥のように自由に空を滑空する事ができるようになった。
いや、空を滑空どころか、これはもう泳いでいると言っても過言ではない。
「ふんふふんふふ~ん♪」
鼻唄混じりに空を泳いでいく私。
最初の頃こそちょっと怖かったけれど、いざ慣れると本当に気持ちいいものだ。
この雲一つない異世界の澄みきった空を、今私だけが縦横無尽に駆け巡っているのだ。
と、思いきや。
ここから約二キロメートル程東の空に、中型の魔物を察知した。
察知と言っても雲一つないこの空を飛んでいる中型の魔物なのであれば感知能力に頼らなくてもすでに視界に捉えてはいるのだけれど、今特筆すべきはそんなことじゃない。
最初の頃はせいぜい三十メートルがやっとのことだった風による感知能力も、この一週間で半径五キロ圏内程にまでなったのだ。
その感度に達したのが二日前。そこからはさらに感度が上がるということはなくなったので、もしかするとこの辺で感知スキルは限界に達したのかもしれない。
けれど五キロ先の動向まで解るのならそれで充分と言えた。
私は風を操ってまっすぐにその魔物の方へと向かう。
「ギャアアッ!」
見通しのいい空に似つかわしくないしゃがれた鳴き声にその成り。
それは体長五メートル程のうす黒い大鷲のような魔物だった。
私の接近に気づいた魔物は、その場で大きく羽ばたいてこちらに突風を見舞ってきた。
挨拶もなしに攻撃してくるとかほんとデリカシーのないヤツ。
私は左手を一薙ぎして風を相殺。次に右手を振り上げて、風の刃を発生させた。
その風で魔物をあっという間に真っ二つ。
その魔物は一瞬にして完全に事切れて、森の中へと落下していった。
魔物は森へ到達する前に魔石へと変わり、私はその先に回り込んでそれを受け止める。
「ふう……もうこの辺の魔物じゃ相手にならないわね」
私はこの一週間でだいぶ強くなった……と思う。
現に始めの頃こそ苦戦したものの、ここ最近では魔物相手に終始楽勝ムードで戦えるようになったし、その分風の扱いも見違えて上手くなったと思える。
元々能力との相性が良かったのか、一日二日で出来るようになったことはたくさんあったけれど、それでもあの頃とは使える能力の規模も、威力も精度も比べ物にならない。
「……何か、そろそろ退屈かも」
私は風にぽしゅんと乗っかり、仰向けになって青い空を見ながらポツリと呟いた。
あと二日もすれば、王国からの使者が私たちのお世話になっている村、ネストにやって来る。
そしてそのまま四人揃って王国へと旅立つ予定なのだけれど、さすがに暇を持て余してきていた。
「ふ~む……」
私はあごに手を当て思案顔を作りながら、ふと周りの感知を始める。
空気の流れから様々な状況が脳裏に飛び込んでくる。
木々の揺れる様。動物。村の人々。
実際のところそこまで精密に把握できるわけじゃないのだけれど、ここかは半径五キロ圏内の風の感知により感じられる存在、動くものは余り多くない。
だから私は目的の彼をすぐに捉えることが出来た。
「せっかくだからちょっとちょっかい出しにいくか」
私は暇潰しにでもと、彼の元へと飛んでいくのだった。