「うぐっ……!?」
突然の出来事に対応が遅れる。
咄嗟に出来たことは自身の目と顔を覆えただけ。
目の前に大量の燐粉のようなキラキラした物が舞っていた。
それは私の周りだけでなく、遥か遠く。魔物の群れも巻き込んで視界が夥しい量の燐粉に支配される。
「ハヤト! とにかく今は息を止めてこの粉のようなものを出来るだけ吸わないようにするのじゃ!」
「――――っ」
私は声には出さず頷きだけで彼女の提案に肯定を示した。
バルも流石にこの行動は読めなかったらしい。私達はとにかく変な影響が出る前に一度この燐粉の範囲から抜け出そうと走り出した。
「皆! 集まって!」
事態を察した椎名が風を纏い、いつの間にか接近していた。
すぐに私の体は浮遊感に包まれ遥か上空へと逃れた。魔物の群れが豆粒程の大きさになる。
その頃には周りに散らばっていた燐粉もなくなり、範囲の外へと抜け出ていた。
周りには美奈もアリーシャもいて、私は安堵した。
「――ぷはっ」
と同時に肺の中に新鮮な空気を取り込む。
咄嗟に息を止めたので燐粉を吸うことは何とか免れられた。
「ふう……ここまで来れば問題ないわ」
眼下を見下ろしながら呟く椎名は相当疲弊しているように見えた。
無理もない。ここまでずっと戦いっぱなし。風の能力も相当駆使してのことだ。
それにどれ程のマインドを要するのかまでは定かではないが、決して余裕を持てる労力ではないことははっきりと伺い知れた。
かなり無理をさせてしまっているという自覚はあるがそれでも今の私にはどうしようもできない。
自分が情けなくもなるが今は彼女に頑張ってもらうしか手立てがないのだ。
「にしても一体何だったのだ」
眼下に目を落とせば夥しい数の魔物が蠢いているのが見えた。
「――まさか」
そこで私はその動きに違和感を覚える。先程よりも活発化しているように思えるのだ。
「うん。魔物たちが凶暴化してるみたいね」
椎名が私の意図を組んで、それに頷き肯定を示す。
「なるほど、そういう技だったのか」
彼女は感知の能力もあるのでより正確にそれを捉えられたのだろう。
先程の魔族の燐粉を取り込んだ魔物は凶暴化してしまう。そういった自爆技だったのだ。
確かにあれだけの数の魔物が全て凶暴化するとなれば、三級魔族一体よりも脅威ではある。
「どうする? 戦う? それなりにはやっつけたけど、正直簡単に勝てるような数じゃないわよ? むしろ部が悪い」
眼下に広がる魔物はまだ数えきれない程いる。それこそ百や二百では利かない。
美奈もアリーシャも大きな怪我こそ無いものの、相当疲弊している。
こんな状態であれだけの数の魔物と一戦交えるなど自殺行為だ。
「ハヤト、このままヒストリア王国まで行ってはどうだろうか」
思案しているとアリーシャがそう告げた。実を言うと私もそう考えていた。
「うむ、私も同意見だが――」
椎名の方を見ると彼女は大仰にため息をついた。
「は~……分かったわよ。結局こうなるのね」
椎名は心底面倒くさそうにそう答えた。
彼女に無理を強いていることは申し訳なく思うが、今は踏ん張ってもらうしかない。
「よし、では決まりだ。このままヒストリアを目指そう」
「りよーかい。じゃあ早いとこ行くわよ! ……って美奈、大丈夫?」
椎名が呼んだので美奈の方を向く。今まで一切話に加わっていなかった彼女は、少し血色が悪かった。
「美奈!? まさか今ので何か影響が出ているのではないか!?」
慌てて声を掛けるが美奈は笑顔で首を横に振った。
「ごめん。少し疲れただけだから、大丈夫」
「そ、そうか」
疲れた表情に見えたのはほんの束の間で、彼女は疲労は見えるものの花のような笑顔を咲かせた。
懸念するようなことはなさそうではあるが、先程の戦いで美奈はかなりの魔力を消耗したはずだ。
そう思った私は懐からあるものを取り出した。
「美奈、受け取れ」
「??」
「それはピスタの街で購入したマジックポーションだ。飲めば魔力を回復する効果があるらしい」
「ん、そっか。隼人くん、ありがとう」
美奈にマジックポーションを二本共渡し、残り一つはそのまま彼女に所持してもらうようにした。
マジックポーションを飲んだ美奈は、先程よりも幾分顔色が良くなったように見えた。
「中々気が利くわね。他にはないの?」
「うむ、これも皆に渡しておく」
椎名に聞かれたタイミングで買ってあったもう一つの回復アイテム、ポーションも取り出した。
「こっちは体力を回復するものだ。皆、一応飲んでおくといい」
「ありがとうハヤト」
アリーシャも笑顔でポーションを受け取ってくれた。そこから一旦小休止。空中ではあったが皆小瓶にはいったそれを煽る。
ポーションは青い色をしており、薬のような味を想像していたが、思ったより清涼感のある爽やかな味で飲みやすかった。
飲んでいる最中に体全体が青い魔力の光に包まれた。
同時に体にあった疲労感が嘘のように消えていく。
ほうっと口からため息が溢れた。
こんな空の上とはいえ、私達は一度ここでほんの少し息をつくことが出来たのだ。
ポーションを飲んで一息ついた頃。椎名が私をちらと見て、呆れたようにため息を吐いた。
「で? 隼人くん。その娘はいつまでそうしてるのかしら?」
「は?」
椎名にそう言われ、彼女の視線の向く方を見た。
ちょうど私の腰周り。そこにはバルがしっかりとしがみついていたのだ。
余りにも軽いので気にも留めず忘れかけていた。
「構わなくてもいいのじゃ! ウチとハヤトは一心同体。いつも一緒なのじゃ!」
椎名に突っ込まれ、バルはじたばたと足を振りながらそんな抗議の声を上げた。
駄々っ子のようなバルの挙動に椎名は完全に呆れているようだ。
「てゆーかさ、隼人くんてその精霊に契約してもらえないくらい嫌われてたんじゃなかったの? なんかめちゃくちゃ好かれてない!?」
彼女の言うことは最もだ。
私もバルに対する認識は嫌われている、だった。
だが今はどうだ。私の腰周りにしがみつき、尚も力を込めて全く離れる様子がない。
実際空の上なので離れると危ないという理由はあれど、それでも込められた力の強さがバルの私に対する好感度を物語っていた。
「ああ、私も正直戸惑っている。バル……あまりくっつかないでくれないか」
するとバルは首をぶんぶんと振り乱した。
「ハヤト! ひどいのじゃ! ウチをこんな体にしておいて、男として責任を取るべきなのじゃ!」
「え……隼人くん。その娘に何したの? ふつーに引くんデスケド……ていうかロリコンだったの?」
「いや、何もあるわけなかろう……」
「ハヤト! 酷いのじゃっ!! ウチはお主のせいでこんな体になってしまったのじゃ! もうウチはお主無しでは生きてはいけぬ体になってしまったのじゃ! その責任を取っておんぶや抱っこくらいするべきなのじゃ! ハヤト! お願いじゃ!」
「は……はああ??」
何故か半泣きになるバル。
おいおい、何だそれは。その言い回しは。
椎名はというと、先程の疲れは何処へやら、いつになく嬉しそうだった。
「隼人くん~、女の子泣かしちゃいけないんだ~。バルちゃん可哀想~」
「……」
私はため息混じりで、半ばヤケクソ気味にバルをお姫様抱っこする事にした。
ここで言い争いをしても、自分にいいように働く気がしない。
「おっ!? そうじゃハヤト! ウチは疲れやすいのでな。戦い以外の時は抱っこかおんぶで頼むのじゃ!」
そう言って嬉しそうに首筋抱きついてくるバル。いや、こそばゆいから。
まあ子供に好かれて悪い気はしないのだが……、だがこれは正直大分恥ずかしい。
「……椎名、早く行ってくれ」
「くくく……おもしろ」
椎名は新しいおもちゃを見つけたと言わんばかりに口元に手を当てほくそ笑んでいる。
全くこういう時だけ妙に元気になるのは椎名の悪いクセだ。まあ元気がないよりはよっぽどいいのかもしれないが。
「椎名……もう勘弁してくれ」
「はいはい、じゃあ行くわよ!」
素直に負けを認めると、案外すんなりと引いてくれた。
椎名の操る風はようやくヒストリアへと向かう突風と化す。
ふと空を見上げる。
果てしなく広がる空はどこまでも青い。
消耗は激しかったがヒストリア王国に到着する前に大幅な総合力アップが出来た事は間違いない。
バルも予想を遥かに上回る強さであった。
アリーシャの技には更に磨きがかかり、美奈の魔法も強力だ。
これは先々の戦いにおいてかなりの収穫となるだろう。
私はふと気になり美奈の顔を伺った。というのもここまでのやり取りにも一切参加してこなかったからだ。
彼女の横顔はいつになくぼうっとしているように見えた。
ポーションで回復したとはいえ、予想以上に消耗が激しかったのだろうか。
そうならばこの先しっかりとフォローしてやらねばならない。
当初の予定とは色々違った形とはなってしまったが、一行は間もなくヒストリア王国へと到着となる。
椎名の風の能力で遥か遠くに見えていたヒストリア王国があっという間に目の前へと迫ってくる。
彼の国は斜陽でキラキラとどこまでも輝いて見えた。
そこに魔族が待ち受けているとは到底思えない程に。
「……んあ……?」
目を開くと、目の前は真っ暗でここがどこかも分からなかった。
周りには誰もいなくて朧気な記憶をたぐり寄せようとするけれど、一体何がどうなってこういう状況になったのかさっぱり分からない。
それでもしばらくすると最初はぼんやりとしていた景色はやがてある程度の形を形成していき、数メートル先にあるものが鉄格子なのかもしれないと気づいた。
「――牢屋……なのか?」
呟いた声はやけに空間の中に響いた。
身を捩った拍子にガシャッという金属音が後ろでして。振り向こうとしたんだがやけに身動きが取りづらかった。
そこで初めて俺は今、自分の両手両足に鎖が繋がれているんだと気づく。
後ろにはうっすらと暗がりの中に石造りの壁が見える。
両隣も同じように壁があって、どうやら俺はこの牢屋の中で体の自由を奪われ拘束された状態なのだと理解した。
「――何だよこれ。つーか俺は確かピスタの街に向かってその途中で……」
記憶を手繰り寄せるようにして気を失う前の出来事を順に辿っていく。
だがピスタの街に向かっていたことくらいしか思い出せはしなかった。
一体どうしてこうなってしまったのか。
「――ここはどこだっつんだよ?」
あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。
椎名やアリーシャ、隼人や高野は無事なのか。
というか人の心配をしてる場合か。現状一番危険な状態なのはこうして拘束されちまってる俺じゃないか。
「クソッ! 何だってんだよっ!」
身の自由を確保しようと一度力任せに鎖を引っ張ってみる。
だけど壁に打ち付けられた鎖はびくともせず、結局限られた長さの中だけでしか身動きが取れなかった。
「チッ、だったら――」
俺は意識を集中させる。周囲の壁を自身の能力で変形させようと試みるのだ。
「――――っ」
だが結果はどうだ。
いくらやっても何の変化も起こすことが出来なかった。
「……?? 何でだ? どういうことだよ!?」
周りの石を変形させるどころか、震えすら起こらない。
いつもなら自身の地属性の能力で壁を変形したり、地続きな場所を感知したりすることは造作もない。
なのにどういう訳か、今は何も反応しない。何も感じられないのだ。
これではまるで覚醒する前と同じだ。
そこで俺は手首に巻かれた金属に目を向ける。
「……もしかして力を封じられてるとか?」
そんな可能性に思い至る。ということは十中八九敵に捕まったってことなんだろう。
そう思った途端、記憶の片隅にピスタに向かう道中に後ろから何か強い衝撃を受けて気を失うということがあったような気がしてくる。
「……まじかよ」
だとしたら自分は何て間抜けなのだろう。発した声は少しかすれていた。
こんな事をする相手はきっと魔族だろう。
「……人質ってことかよ……参ったな……」
がっくりと肩を落とす。それと同時に自身の運命を考えてしまって頭の中に恐怖が去来しようとしていた。そんな折の出来事だった。
「ん?」
不意に何かが右足に当たった。
ふとそちらに視線を向けると、足元に黒っぽい塊が見えた。
「おわっ!? な、何だこりゃっ!?」
思わず声を上げ、俺は慌てて足をずらした。
するとそこにいたのはグレイの小さな犬のような生き物だった。
どうやら眠っているみたいで、今は俺の足元ですやすやと丸まって穏やかな寝息を立てている。
フォルムは犬のようだが犬ってわけじゃなさそうだ。
明らかに犬には無い小さな2本の角が頭に生えていた。
見た目はほぼ子犬だが、こちらの世界の何か別の生き物なのだろう。
「ん?」
よく見るとその生き物も俺と同じ鎖に繋がれている。
その姿を見て今の自分と重ねたからか、特に害は無い気がした。
足から伝わってくる温もりにも、妙に安心感を覚えてしまっていたりもする。
その犬っころを観察していると、そいつは急にパチリと目を覚ました。
「……クゥン」
子犬は起きるや否や俺の顔をじっと見て、足にすり寄って来た。
顔を擦りつけながら気持ちよさそうな表情をしている。
よく分からないが懐かれているらしい。
「犬っころ、お前も捕まったのか?」
「クゥン……」
犬っころは俺の言葉に答えるかのように声を発し足にすり寄ってくる。
「そっか、お互い災難だな。とにかくよ、これも何かの縁だ。仲良くしよーぜ」
「クゥンッ」
何となくそう告げると、その犬っころは元気に尻尾を振りながら俺の足に頬をこすりつけた。
うむ。中々かわいいヤツだ。
目が覚めてからどれくらいの時間が経っただろう。正確なところは全然わかんねえが、もうすでに一週間はここにいる気がする。
不思議なことに、その間はほとんど寝ないで過ごせたし、何も飲まず食わずだというのに腹が減った程度で済んでしまっている。
この空腹の感じだとせいぜい一日食事を抜いた程度の感覚だろうか。
覚醒してから体は超人的になりタフにもなった。
だが毎日腹は減っていたし、急にこんな状態になった理由は何なのか。
カラクリはよくは分からないが、とにかく飢え死になんてことにならずに済んで助かった。
そんな間にも犬っころは俺の傍らにいつもいてくれた。
状況が状況だけに、こんな犬っころでもいてくれた方が気が紛れて良かった。
ただでさえ暗がりで身動きが取れないのだ。周りの景色も変化はなく、時間の感覚も分かりづらい。
一人ぼっちならばかなり心細くもなっていただろう。
「犬っころ、あんがとな!」
「クゥンッ」
俺と犬っころはすっかり仲良しになっていた。
どういうわけか最初から懐いてくれてたしな。
コイツもこんな所に一人、いや一匹で心細かったんだろう。俺たちは同士ってやつだ。
ずっとここにいて少しだけ分かったことがある。
この場所は薄暗いのもあるが、世界に色がない。全てが灰色に見えるのだ。
まるで白黒写真の世界にでもいるように、肌の色でさえもそう見える。
ここはかなり常軌を逸した場所なのかもしれない。
それこそ歪んだ空間の中とかそんな感じ?
もしかしたら時間の流れとかも違っていて、それで腹があんまり減らねえのかもとも思った。
なんてったってここは異世界だからな。漫画やゲームの中で起こり得るような事が普通に起こっちまう世界だ。
そんな嘘みたいな発想も満更間違ってないように思うんだ。こんな時だけど、そういうのってわくわくするよな!
あともう一つ。
この場所にいるのはどうやら俺と犬っころだけではないみたいだ。
耳を澄ますと遠くの方で何者かの気配がするのだ。
時折雄叫びのような、人ではない何かの咆哮のようなものも微かに聞こえてくる。
それもかなりの数のものだ。
ここはたぶん、人が寄りつくような安全な場所ではないんじゃねえだろうか。
「クゥン?」
俺の考えが分かるとでも言うように心配そうな表情を向けてくる犬っころ。
こういうところはすげえ可愛い。
「そんな心配そうな顔すんな」
思わず俺は笑顔で犬っころに話しかける。
人の言葉が理解できるわけはないとは思うのだが、なぜかコイツには通じている気がするのだ。
「クゥン」
再び俺の足にすり寄ってくる犬っころ。
いや、もしかしたら本当に俺の言葉を理解してんのかもしんねえ。
常識にとらわれんのは良くないからな。
「ありがとなっ、犬っころ!」
「クゥンッ」
もふもふの毛並みの感触が肌に心地いい。そんなコイツの姿を見ていると心底ほっこりする。
しかし出来ることなら何とかここを抜け出さないとと思う。
俺は離れてしまった仲間に思いを馳せる。
あいつらは今どこでどうしているのか。無事なのか。無理をしていなければいいが。
特にあのお調子者は。
不意に頭の中に浮かぶアイツの顔。
『バカ工藤!』
無事再会できたらこんな風に怒鳴られるんだろうなと思いつつ、それが現実のものとなる未来を思い描く。
「クゥン……」
再び犬っころが俺に声を掛けてくる。心配そうな顔に心が痛む。
「すまねえな。犬っころ。うだうだ考えるのはやめだ! 女々しいったらありゃしねえ!」
少しでも気合いを入れ直そうと俺は声を張り上げた。
こんな時、弱気になるのは一番良くないことだ。
この先どうすればいいかは全く分からないが、気持ちだけは強く持とうと思った。
その時だ。
こちらに近づいてくる足音がする。
コツ、コツと石畳を踏みしめる靴音。
遂に何者かがこの場所におでましのようだ。
俺は牢屋の外を見据えながら体に力を入れて身構える。
ゆっくりと、灰色の蝋燭の灯りのようなものが揺らめきながら足音と共に近づいてくる。
友好的なやつならいいのだが。
俺は淡い期待を頭の片隅に抱きつつ、ゴクリと喉を鳴らした。
やがてその者は牢屋の前に立ち止まり、手に持った灯りをこちらへと向ける。
光が俺の顔を照らし、眩しくて顔をしかめる。
俺が起きていることを確認してそいつはニヤリと笑ったようだった。
「勇者だな?」
そいつは思っていたよりちゃんとした格好をしていた。
王宮が似合いそうな豪奢な衣装に身を包み、しかし顔に張り付いた笑みはどす黒い蛇のように俺に絡み付いてきて怖気が走る。
俺はその瞬間確信した。
「魔族か」
その言葉にそいつは嬉しそうな笑みを讃え。
「出ろ……準備は整った」
そう言って扉を開けた。
俺は今鎖に繋がれている。身動きを取れない状態だ。
だがせめて、それでも相手をおもいきり睨みつけた。舐められたら終わりだ。
この期間の間に今の状態で手足の届く範囲は把握してる。間合いに入ったらぶち倒してやる。
そんな決意を心の内でしている間に、男は牢の中に入り俺に近づいてきた。
完全に油断してやがるのかニヤついた笑みを張りつかせたままに。
間合いに入ってきた瞬間が勝負だ。その一瞬に思い切り蹴り飛ばして即倒させてやる。
そんな折、不意に俺の視界が揺らめいてぼやけた。
「え……? なんだ!? しまっ……た」
気がついた時にはもう遅い。
手にした灯りからは煙が立ち上っている。
それを吸い込んだ俺は体から力が抜けていって……。
「クゥンッ!!」
犬っころが足に噛みついている。
寝ないように刺激を与えてくれているらしい。
だがそんな痛みすらも夢見心地。意識は朦朧としてしまっている。
遠のく意識の中で、何度も吠え続ける犬っころの声が子守唄のように頭の奥に木霊した。
ヒストリア王国。
そこは西に海を臨み、周りを河川に囲まれた天然の要塞の様相を持つ国であった。
約五百年前。勇者ヒストリアと共に魔王と戦った剣士、アレクシア・グランデが築いた王国。友であり勇者であるヒストリアの功績を讃え、国の名前も、剣術の名前すらもヒストリアと名付けた。
それについては剣士アレクシアが余り表舞台に立ちたがらない人柄であったとか、ヒストリアの事を心底気に入っていた。何なら愛していたのではないかという変わった噂まで諸説あったが、実際の所は最早定かでは無い。
魔王の封印に成功した後、自身の剣術を国に広め、国を守る騎士達を育て、その後も廃れること無く剣術の大国として繁栄の一途を辿った。
現在ではおよそ三十万人の人々が暮らし、約一万の一般兵と千人の精鋭であるヒストリア流剣術を扱う騎士達が、来るべき戦いに備え、或いは今の暮らしを守るため、日々剣の研鑽に励んでいる。
その一方で町の人々は、海に面しているこの国の立地を活かし、その多くは漁業を生業にしていた。
また船を利用し、北に位置するインソムニアとの交易を行ったり、また剣の鍛治士の職を持つ者も少なくはなかった。
隼人達はヒストリア王国の姫アリーシャと共に、捕らわれた工藤とフィリアを救うため、そして二人を拐った魔族の陰謀を阻止するため、ここヒストリア王国の城下町に足を踏み入れていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「……納得がいかないのじゃっ」
「いや……納得してほしいのだが」
先程からずっと膨れっ面をしているバル。
私達は石畳の道を手を繋いで歩いていた。
契約をしてからというもの、バルは一向に私の元から離れようとしなかった。
私達二人の関係性は端からどう見えているのだろう。
仲の良い兄弟か、それともそれ以外か。
そんな事を考えていると少々気が気ではなくなるのだ。
私自身普段からあまり人とスキンシップを取る方ではない。恋人の美奈とでさえこんなにもベタベタすることはないのだ。
この状況で正直私は落ち着きなく周りの目を気にしてしまうのであった。
ヒストリアの城下町は思いの外人々でごった返している。
アリーシャに魔族が出没する事件の話を聞いていたので、もっと仰々しく兵士が彷徨いているものと思ったが、そうではないらしい。
町の人々も当然のように不安に駆られ、暗い顔をしているのかとばかり思っていたのだが、行き交う人々には笑顔に溢れ、子供達も楽しそうに町中を走り回っていた。
ここ最近は特に何事も無かったのか、そんな感じで所々兵士はいるものの切迫した雰囲気は一切感じられなかった。
ヒストリアへの侵入は念のため町を取り囲む十数メートルの高さの壁の上を乗り越えるやり方にしておいた。
正規の手順ならば川に架かっている大きな橋を渡り、入り口の大門にて検問を通過して入国することになる。
だがそれにより、魔族に私達が来たことがバレるのはどうかという椎名の意見だった。
工藤とフィリアを人質に取られている以上、出来る限り隠密に行動しようと。
一旦はその意見に便乗したのだが、本音ではそんな事は無駄だろうと思っている。
どういう訳か私達の動向は不思議と魔族側に筒抜けのように思えるからだ。
ピスタの街での事、ケルベロスとの遭遇。どう考えてもタイミングが良すぎるし、その可能性は高いと考える。
そうしたらこんな侵入方法は大して意味は成さないだろう。
だがそれでも出来る限りの事はしておきたい。
後であの時やはりこうしておけば良かったと、何も考えずに思い知るよりはずっとマシだとは思うのだ。
「ハヤト――おん」
「だから駄目だといっているだろう。諦めろ」
私は先程からちょくちょく同じ願いをせがんでくるバルの事を最早食い気味に否定する。
「ちっ……ハヤトはけちなのじゃ」
「何とでも言え」
バルは拗ねた子供そのまんまにふてくされて俯いていた。
これが先程三級魔族であるグレイシーを一瞬にして葬り去った精霊と同一人物なのかと戦慄しつつも、心の中では思った以上に彼女の柔らかな態度に戸惑いと安堵がないまぜになった気持ちを味わっていた。
だがどうしてこうもバルは私と密接する事をせがんでくるのだろう。
本当は何か大きな理由があるのか。
私は彼女のむくれっ面を見ながらそんな事を思い始めていた。
「む、何なのじゃハヤト。ウチの顔ばかり見つめて」
「いや、何というか……思っていた以上に子供だなと思って」
「むむっ!? それは聞きづてならんのじゃっ! こう見えてウチはハヤトより年上じゃっ!」
何の気はなしに漏れでてしまった本音。それにバルは目を見開き食いついてきた。
「一体いくつなんだ?」
「――ん~……100才くらい??」
「いや、何故疑問系なのだ」
私の問いにバルは思案顔で小首を傾げ、自信なさげにそう呟いた。
「うるさいっ! とにかくっ、いっぱいじゃ! それくらいは余裕で生きておるのじゃ! だからおんぶっ!」
「それはない」
「ぐっ……ぐぬうぅ……強情なやつじゃっ」
そう言いまたそっぽを向く。だが手はしっかりと繋いだまま。
バルについて不思議に思うことは多い。
だが今はそんな思考には一旦蓋をし、まずは目の前の事を優先させようと思うのだ。
今私達は二人、ヒストリアの城下町を歩いている。
というのも先のケルベロスと三級魔族、グレイシーと魔物の群れとの戦いで椎名と美奈はかなり消耗してしまっていた。
アリーシャは言うまでもなくこの国の姫であり有名人だ。
帰国が悟られない事と、少しでも体力の回復も兼ね、現在三人とも町外れの宿屋で休んでもらっているのだ。
私は今バルと共に町の様子を見つつ偵察、というわけだ。
ここで一つ、解せない事案が発生していた。
バルは私と契約した精霊なのに、常に外に出た状態だということだ。
本来ならば精霊は基本主の中に滞在し、常に感覚を共有している状態だと聞く。椎名とシルフの関係がまさしくそれだ。
だかバルに関しては全くそれが当てはまらないのだ。寧ろ常に外にいる状態でなければいけないのだとか。
離れる事はバルが難色を示した。
離れるとバルの活動自体が危うくなると言う。
精霊は本来精神世界の住人。単体ではこちらの世界で存在を維持することすら難しいのかもしれない。
だとすればこの過剰な接触も、納得出来なくもなかった。だから何だかんだ言いつつも、私はバルと密着する状況を甘んじて受けている。
どのみち私一人では危険だ。二人での行動がやはり今はベストなのだと思う。
ただ独りっ子の私がこうして幼なく見える女の子とと手を繋いで町を練り歩くのは、何とも恥ずかしくもあり、むず痒い心持ちであった。
歩く度に椎名の面白そうに『お似合いよ? 隼人くん』という笑顔が思い出されぐぬぬとなる。
「ハヤト、あれはなんじゃ?」
「――ん?」
不意にバルが何かに興味を示したのか、突然立ち止まりある方向を指差した。
そちらへ目を向けると屋台のようだった。
そこから風に乗って肉を焼いたような香ばしい匂いが鼻腔をくすぐってくる。
「屋台だな」
「屋台?」
バルは不思議そうな面持ちで私を見る。
その表情はやはり幼い少女そのものだ。
「ああ、お金を払って食べ物をその場で渡してくれる所だろう。一つ食べるか?」
聞いておきながら、ふと精霊は人と同じように食事を取るのだろうかと思う。
「ん、ハヤトと半分こなら食べるのじゃ」
「……分かったのだ」
心配は杞憂に終わったようだったが、私にとっては中々ハードルの高い要求をしてくる。
だがそれくらいいちいち気にしている場合でもない。
私は内心で意を決した。
「おやじ、一つくれ」
「あいよ。銅貨一枚だ」
バルを連れ添い屋台のおやじにお金を渡し、一つ購入してみた。
それは何かの肉に火を通し、甘辛いタレをしっかりと染み込ませた串肉だった。
肉の塊は三つついており、上の一つを頬張って残りをバルに渡した。口に入れると中から肉汁がじゅわっと出て来て、それがタレと混ざりあって絶妙な味だった。というかかなり旨いっ!
「ほらバル、食べてみるのだ」
「はむっ……」
バルは私が差し出した串に噛みつきもごもごと咀嚼する。
だがしばらくすると彼女は動きを止め、そのままの体勢で固まってしまったのだ。口に合わなかったのだろうか。
「?? ……大丈夫かバル」
私が声を掛けるとバルは閉じた口をそのまま開き、そっぽを向いてしまった。串を見ると肉は全く口をつけていない状態だった。てっきり噛んだと思ったが――――。
「バル?」
「ウチはいらんのじゃ」
私らその挙動ですぐに一つの可能性に思い至る。
「まさか……食べられないのか?」
私の問いかけにバルはこくんと頷き肯定を示した。
その表情が残念そうに見えて、私は少し悪いことを聞いたかと反省した。
「あ~……バル……大丈夫か?」
バルの反応に色々と不安な考えが頭を過る。何というか、バルは色々精霊として未成熟過ぎはしないだろうか。
身体の大きさや記憶、私の内に入れない事や今のように食事が出来ない事など。
バルの状態は果たして本当に精霊として問題が無いと言えるのか。
そんな考えがどうしても頭に過ってしまっていた。
バルはふと顔を上げ、にっこりと笑う。
「ハヤト、心配は無用なのじゃ。とにかくせっかく買ったのじゃ。冷める前にハヤトが食べてくれ。すごく気に入ったのじゃろう? 旨そうに食べておったしな」
「――ああ……では遠慮なくいただくとする」
何となくバルの笑顔が寂しげに見えて、私はそれ以上考えるのを止めてしまう。
とにかく今は目的を果たす事に集中すればいい。
彼女が精霊として私の力になってくれること、大きな力を持つことに変わりはないのだから。
色々何か理由があるのかもしれないが、その内色々分かってくる筈だ。
彼女とはこれからきっと長い付き合いになるだろうしな。
私は二つ目の肉の塊を頬張った。
やはり旨い。絶品だ。色々解決すればまた皆で食べに来よう。
そんな事を思いつつ、繋いだ手の温もりは彼女の存在を私にしっかりと伝えてくれていた。
「のどかじゃの~」
「うむ。確かに……長閑過ぎる程にな」
バルが不意に緊張感とは無縁な台詞を呟いた。
陽光に照らされる石造りの町並みを二人、手を繋いで歩いく。そうしていると不思議と和やかな心持ちになるのだ。
この国が魔族の手によって、今正に平和が脅かされようとしているなどとは決して思えない程の優しい空気が流れている。
私もゆったりとバルと散歩をしに来たような気分になってしまっていたのだ。
いやいや。首を振りつつ我に帰る。
今も魔族はこちらの様子を伺っている可能性すらあるのだ。
常に周りに気を張り巡らせ、少しでも異変や異常がないか。そういった事を見過ごさないようにするべきだ。
今更ながらに私は改めて気を引き締めようと踏み出す足に力を込めた。
そのまま暫く進んで行くと、やがて少し拓けた広場へと出た。
ここも他と同じように人々で賑わっている。
ベンチに座って日向ぼっこをしているお年寄り。追い掛けっこをしている子供達。先程のような屋台もけっこう展開されていて、ともすれば小さなお祭りのようにも見える。
更に視界を広場の奥地、東の方向へと向ける。
するとこの場所から建ち並ぶ町の建物の隙間から、重厚にそびえ立つヒストリア城が見えた。
流石に数十万の民が暮らす国の王城だけあって圧巻のスケールだ。
高さこそ私達のいた世界の高層ビルなどには敵わないが、石造りの青と白を基調にしたコントラスト。
お城ならではの尖塔の美しさには目を奪われずにはいられない。
それにこの位置から見える部分が城の全体のどのくらいなのかは定かでは無いが、窓の数は優に百を越えているだろう。それだけで城の大きさが計り知れないものと想像できた。
敷地内には騎士の訓練場や大広間、礼拝堂なんかもあるとアリーシャから聞いていた。
少なくともこの城だけで軽く千人以上の人が暮らしていける広さなのではないだろうか。
「ん? ……どうしたバル?」
思考の海に沈んでいると、急にバルが立ち止まり一点を見つめている。
彼女の視線を辿ってみるとそこは広場の中心にある騎士の像であった。
全長五メートル程。この国の創始者、アレクシア・グランデだ。
「アレク……」
「バル?」
バルが今この像を見て確かにアレクと口走った。
バルはこの男の事を知っている?
そう思って呼び掛けたが彼女は像を見てぼうっとしているようで、私の呼び掛けには全く気付いてはいないようであった。
その時だ。
広場にざわめきが生まれ、城に通じる大通りから数名の兵士と騎士がこの広場へとやって来た。
その表情は険しく、一体何事かと町の人々も様子を伺っている。
やがて彼らはアレクシア像の前に立ち止まった。
「皆の者! 聞くがよい!」
騎士の一人が大声を張り上げた。
それにざわめきが一瞬にして鎮まる。
「本日の夕刻、六の時に予言の勇者と思しき者を西の広場で処刑する!」
勇者ということは十中八九工藤の事だろう。
騎士の宣告に町の人々もざわつき始める。
「勇者様を処刑? 一体どういう訳なんだい!? 勇者様ってのは魔族に対抗し得る希望だってえことは、国民の誰もが知る常識だと思ったんだけどねえ?」
恰幅のいいおばさんが得心のいかない様子で兵士へと疑問を投げ掛ける。
「ピスタの街で昨日魔族の群れが大量発生するという事件が起こった。その首謀者がアリーシャ姫率いる予言の勇者の一行だという事が判明している」
「勇者が首謀者!? それにアリーシャ様までも!?」
広場に強いどよめきが走った。
感心している場合ではないがなるほどと思う。
こうして魔族は私達に不利な状況を作り出す魂胆なのだろう。
更にこうした情報操作をする事で私達が町の人々や騎士達と結託して魔族と戦う事をさせないという事にも繋がる。
さあどうするか。
疑いを晴らすにしても証拠が不十分だ。
勿論私達が裏切り者だという証拠も無いが、人を疑心暗鬼にさせるにはそれで十分なのだ。
それに今私がここで勇者だと名乗り出て、私は裏切ってなどいないと主張したとして、更に疑心暗鬼にさせる結果にしかならないだろう。
「そして我々は、ピスタの街で警護に当たっていた副団長率いる騎士団でそれを収め、多大な被害を被りながらも勇者を一人捕らえたのだ。奴等はその者を追い掛け、裏切り者のアリーシャと共に現在この国に潜伏中とのことだ。よってこれから我々騎士団は町の警護に当たる。皆はこれから外を彷徨かず、家の中で待機するように」
そこで騎士からの伝達は終わったようであった。
だが数人の町人が騎士達へと群がり、身動きが取れずにいるようである。
抗議の声を上げる者、疑問を投げ掛ける者、様々であったが確実に納得している人は余りいないように見える。
その証拠に騎士達の指示通り家へと帰っていく人は殆ど見当たらない。
私はこの一連の流れを確認しながら一度皆の元へと戻り、作戦を立てるべきだと思った。
「バル、一旦皆の元へ戻ろう」
「うむなのじゃ」
身を翻し来た道を戻ろうとする。
「おいお前」
その時後ろから声を掛けられた。振り向くと兵士が一人私達を見ている。
私はその兵士を見て戦慄した。
その男は魔族だったからだ。
明らかに皆と違う心の色をしている。
どす黒く、深い闇が底知れず胸に渦巻いているのだ。
その兵士は私を見てニヤリと笑う。
「少女連れのツーハンデッドソードを携えた男、お前が予言の勇者だな!?」
その男の声は何故か広場によく通った。周りの視線が一斉にこちらに集まったのだ。
そこで完全に謀られたと気づく。
私が町を彷徨いていた事は全てお見通しだったのだと。
それを分かった上で今まで踊らされていたのだろう。
「――くっ!」
私は考えるよりも先に体を動かした。
とにかく今は全速力で来た道を戻る。
「待てえっ!! おいっ! あいつを捕えろおっ!! 勇者だっ!!」
私は後ろを振り返る事なく今来た道をひた駆ける。
町には長閑な空気が一変、驚きとどよめきの声が溢れかえっていた。
「待てっ!」
追手を撒いてこの場から去り、皆と合流する。
ヒストリアの兵士を装う魔族に追いかけられながら自身の目的を頭の中で反芻していると、いつの間にか私の背に乗っかっていたバルが耳元で囁いた。
「アイツ、殺さないのか?」
彼女は精霊だからなのか、不思議と気配や重さを感じさせない。
囁かれて初めて背中にいる事に気づかされる程だ。
「――そんな事をしたら完全に私は裏切り者となってしまう。相手の思うツボだ」
可愛いらしい外見に見合わないバルの発言を即座に否定する。
魔族を倒したいのは山々だが、そんな事をしたら人殺しの罪まで被せられてしまうおそれがある。そうなったら今よりも更に状況が悪くなってしまうのだ。
「うむ、分かったのじゃ。――めんどうくさいのじゃ」
私の意図を察し、渋々頷いくバル。
「――だな。今はとにかく追っ手を撒くのが先決だ」
「いたぞっ、あいつだっ! あの者を捕らえよ!」
そうこう話をしている内にわらわらと兵士が集まってきた。
「な……なんだなんだ!?」
道行く者達も私達を見ては戦いたり後退ったりしている。
こんなに注目を浴びていては逃げる場合ではないようである。だがヒストリアの人々を安易に傷つけるわけにもいかない。
人混みの合間を、まだ半信半疑のような人々の脇を全速力で駆け抜ける。
私は内心舌打ちした。
人が多すぎる。それに思っていた以上に騎士の身体能力は高い。
今の覚醒した私の身体能力を以てしても、全く引き離す事が出来ていないのだ。
彼らは統率された動きで私を見失うことなく着実に距離を詰めてきている。
このままでは追いつかれて捕まるのも時間の問題か。
逆に人混みだからこそ下手に攻撃出来ずまだ捕まっていない節すらあるのではないか。
正直なところこのままでは逃げ切る自信は無い。
内心でかなり焦りを感じていた。
「――――っ!?」
ふと今しがたすれ違った男が魔族だということに気付く。
その男は道の真ん中で不自然にふらふらとぐらつきながら立ち止まった。
かと思うとそのまま頭を抱えてうずくまったのだ。
その様子に私は違和感を覚える。
「――ぐ……あ」
「おい、どうした? 大丈夫か?」
男は更に苦しみを増すように体をわなわなと震わせる。そこに先程の魔族がタイミングよく声を掛けた。
「う……く、苦しい……たす……けてっ! うあああああっ!!」
「――なんだとっ!?」
兵士は大袈裟に驚き目を見開いた。
その目の前で男は突然レッサーデーモンへと姿を変えたのだ。
当然これはただ単に人間の姿から元の魔族の姿に戻っただけなのだが、周りの人間からはそうは見えない。
「キャアアアアアアッッ!!」
それを目撃した一人の女性から悲鳴が上がる。
それを皮切りに周りの人々は混乱し、恐怖と戸惑いでざわめき立った。
突然の事に周りの兵士達も驚きを隠せないでいる。
魔族はというと姿を変えた途端に醜悪な笑みを浮かべ、瞳をギラつかせた。
「はっはあっ!! 何だこの力は! とても気分がいいっ! 力が溢ぎるぞっ! これが魔族の力ってやつかっ!!」
「なっ!? なんだとっ!?」
完全にしてやられた。そう思っても最早どうしようもない。
彼が最初から魔族だと解っていたのは当然ながら私だけだ。
こいつのさも始めて魔族の力を実感するような口振りに、周りの人々はある仮定を立て始めるのだ。
「まさか……この勇者、人を魔族に変える力を持っているのか!?」
誰かが放ったその言葉に注目の目が私の方へと移動し、人々の不安と恐怖の連鎖が始まる。
人は一度疑い出すと、どこまでも疑心暗鬼になってしまう生き物だ。
この場の空気は魔族がおおよそ思い描いた通りとなってしまったのだろう。
魔族がニヤついた笑みを顔に貼り付けながらこれで仕上げだとばかりに腕を奮い、手近な男を一人吹き飛ばした。
「がはっ!」
男はそのまま数メートル先の壁にぶち当たる。
グシャッと肉が潰れるような音を響かせ、ひび割れるレンガ造りの壁。ずるずると重力に従ってずり落ちる男は、地に足をつける頃には完全に事切れていたのだ。
「きゃあああああああーーーーーーーっ!!!」
割れるような悲鳴が人々から上がる。
これを皮切りに、他の場所でもあちこちで同じような悲鳴やざわめきが聞こえてくる。
恐らくここ以外でも同じように魔族が発生し始めたのでは無いだろうか。
「こ、これも貴様の仕業なのか!?」
一人の騎士とおぼしき男が私に向かって叫んだ。
だが最早疑いというよりもその瞳は確信めいた輝きを放っている。
「違うっ。私ではないっ!」
「嘘をつけっ!!」
私の返答に対して、思った通りの言葉が返ってくる。
何とかしたいのは山々だが思考がいつも通りに働かないのだ。原因は分かっている。
私は生まれて初めて今、人の死というものに直面してしまった。
それが思っていた以上にしんどいのだ。人が死ぬ瞬間の表情を意図せず目の当たりにしてしまった。
明らかに動揺して冷や汗が吹き出てきている。
体が震え胸が張り裂けそうなほどに気分が悪い。
それでも人の死を目の当たりにすると初めは吐いてしまうと聞く。
そこまでならないのはやはり覚醒により精神が鍛えられているからだろうか。
――人が死んだ。
ここに来て改めて実感する。
この世界では当たり前のように、こんなに身近に命のやり取りが行われている。
今まで奇跡的に巡り合う事が無かったが、遂に人が死んでしまうという事が起こってしまった。
この世界が美しい?
馬鹿を言うな。
この世界は余りにも単純で、余りにも残酷なのだ。
こんなに簡単に命の灯火が消えてしまう程に。
「――とにかくあの少年を捕らえろ!」
「――っ!!」
一人の騎士の怒号で我に帰る。
今は動揺している暇など無い。ここで捕まるわけにはいかないのだ。
今はこの状況を切り抜けることが最優先だ。
「ハヤト?」
バルが心配そうに私を見つめている。
そんな彼女の瞳を見つめ返しながら私は体に力を込める。
克服しろ、何もかもを。立ち止まっている暇など無いのだ。
「大丈夫だバル。それより力を貸してくれ」
「――っ。もちろんなのじゃ!」
そうして私に花が咲いたような笑顔を向けてくれる。
バルの笑顔を見て自然と顔が綻んだ。
大丈夫だ、行ける。
私はこれからやるべき事を瞬時に頭の中で整理する。
まずは目の前の魔族を倒す。それにより魔族だという正体をばらし、騎士達の疑いを晴らす。
そうすれば結果的に関係のない人々を救える筈だ。
これ以上犠牲者を出させはしない。
「待てっ! 大人しく捕まってもらうぞ!」
私が思考している時間は実際そう長くはなかったが、ほんの数秒もしない内に周りにら既に五人の騎士と兵士が集まってきていた。
その中に魔族はいない。魔族は私とは距離を取り、今の状況を静観しているようだ。
魔族を何とかしたい私としては身動きが取りづらい。
ここまでのやり取りで騎士は隊長クラスでなくとも私と同等以上に強い。
このままでは捕えられて終わりだ。
何とか隙をついて魔族に近づき速攻で倒す。
思考するのは簡単だが実際に実現できるかどうかは正直かなり怪しい。でもやるしかない。
これはできるできないの問題ではないのだ。
やるしかなければやるだけだ。
私は身体に力を込めて騎士達を見据えた。
バルが背中越しにきゅっと力を込めた。今はその温もりが妙に心地良かった。
こちらへと向かって来た五人の騎士達。
彼らは腰に携えたロングソードを抜き放ち、私の数メートル手前で立ち止まった。
「貴様! 大人しく我々に投降しろ!」
騎士達はそう言い放つもののかかっては来ない。
その様子を見て、私はやはりと思うのだ。
「いいのか? 私に近づくとどうなるか分からないぞ?」
「――くっ……」
そう言い放ち私は大袈裟に手を前に出し何かを放つ前振りのように構える。
途端に騎士達の顔に焦りが見え、顔面蒼白となり後退った。
彼らは今、私が人を魔族に変える力を持っていると思っているのだろう。
にも拘らずそうする条件や方法等は一切分かってはいない。
迂闊に近づいて自分達も魔族に変えられてしまうのを恐れている。
だから私からは距離を置き、取り囲むに止めているのだ。
「何故こんな事をする! 町の人を魔族に変えるなど!」
真ん中にいた騎士が叫んだ。
この男は隊長か何かだろうか。周りの騎士も彼に従って動いているように感じる。
ここに来て皮肉にも相手と話す機会を得た。これを好機と捉え私はその騎士に語りかける。
「私は隼人。この国を救いに来た勇者だ」
「な、何を言っている? こんな事をして今更勇者だなどと。ふざけるなっ!」
「何故分からない。この国は魔族に利用されているのだ。今町で暴れている魔族も人が魔族に変化したのでは無い。元々人の皮を被った魔族だったのだ。お前達は騙されている。倒すべきは私では無い。魔族だ」
私は下手な小細工は止めて騎士を説得にかかる。
上手く行けばこの状況を難無く切り抜けられるかもしれないのだ。
「――うぐう……、そ、そんな事が信じられると思うのか!? 我々を謀(たばか)るつもりだろう!?」
「そうでは無い! 現に副団長のライラは魔族だ! 何年も前からこの国は魔族が支配するよう準備されてきたのだ! 私がアリーシャと行動を共にしているのが何よりの証拠! 私はアリーシャと共にこの国に侵入した魔族を倒すためにやって来たのだ!」
説得材料としてライラとアリーシャの名を出したが、選択ミスだったようだ。
言葉選びも悪かった。
私の言葉を受けた騎士はその表情に怒りと嫌悪を滲ませた。
「ライラ様が魔族だと!? ――貴様っ! 我々騎士をそこまで愚弄するかっ! それにアリーシャはもう国を裏切っていると聞いた! アリーシャは反逆者だなの! 元々闇の資質を持って生まれた奴には資質があったのだ! アリーシャは我々の裏切り者だ!」
「それが間違いだと何故分からん! お前はアリーシャと接した事がないのか!? 私も長い付き合いではないが分かる! 彼女は気高く誇り高く、優しさと強さを兼ね備えたこの国の素晴らしい王女だ! そんな訳がないだろう!」
気がつけばアリーシャの事を必死に叫んでいた。
それにほんの少し驚かされながらも間違いなく自分自身の本心だと自覚して、騎士を睨みつける。
騎士はそれに狼狽えているように見えた。
「――き、貴様! 我々を侮辱するのか! 我々騎士はこの国に仕えている以上、この国の意向に準ずる! 貴様の話は我々を謀るためのものだと判断する! もう聞く耳は持たぬ! かかれっ!」
「「はっ!!」」
「――くそっ!」
やはり私の言葉等ではどうする事も出来なかった。
それを皮切りに五人が一斉に襲い掛かってくる。
仮に私がどんな能力を有していようと、国のために命を投げ出してでも私を止めるというのだろう。
騎士というだけあって洗練された動きで無駄がない。今も私の行き場を全て塞がれている。
傷を負うのは最早止むを得ない。私は後ろへと少しでも傷を浅くしようと跳躍したその時だった。
「――よく言った隼人くん」
聞き覚えのある言葉と共に私の目の前に見えない風の壁が生まれ、騎士達の剣を全て弾き返した。
「うぐっ!? 何だ今のは!?」
急な攻撃に彼等は数メートル向こうへと吹き飛ばされた。
だがやはり手練れの騎士達。不意を突かれてもバランスを崩す者は誰一人としていなかった。
こちらを見据える騎士の目には私の前に立ち塞がった彼女が映り込んでいた。
「――貴様っ! そいつの仲間だなっ!?」
「そうよ、文句ある?」
挑発的な笑みを溢す彼女。
「椎名!」
「間一髪ってとこかしら? あんまり騒がしいんで様子見に来て正解だったみたいね」
混乱を聞きつけてやってきてくれたのだろう。私の友人は、やはり頼りになる。