「――とりあえず状況を整理しようか」
私は美奈を背負い山を下りながら皆に声をかける。
幸い木々はまばらに生えており、枝葉も少なく日当たりがよくて見通しがいい。
皆靴下しか履いておらず、ほとんど裸足みたいな状態だったが、落葉が絨毯のように敷き詰められており歩きづらくはなかった。
私達は今は木々に視界を阻まれて見えなくなっている村の方向に当たりをつけながら、緩やかな山道を一列に並んで歩いた。
「私達は先程まで、美奈の部屋で夏休みの宿題をしていた。だが、気がつけば四人共この山の中腹にいた。飛ばされた……というべきか?」
「うん。そうなんだと思う。四人揃って夢遊病や記憶障害、幻覚なんてことになるわけないし、今もほんとは美奈の部屋に四人いる、なんて集団催眠みたいなこと、あると思う?」
椎名はすっかりと元気を取り戻し、先頭を歩く私の後ろをすたすたと小気味良いリズムでついてきている。
「……いや、そうは思えない。今が夢を見ていたり現実でないと言うにはあまりにも意識がはっきりし過ぎている。だがそれでも夢ではないと説明できないようなことが起こり過ぎているのも事実だが……」
「……そう……だね」
「あー! おまえら何真剣に考えこんでんだよ!そんなん考えるだけムダじゃねーか! こんなのもうどう考えても異世界に飛ばされたんだよ! 異世界っ! こんなのどう考えても異世界転移に決まってんだろーがよっ!」
「は?」
真面目な話をしていると工藤が横から割り込んできた。
工藤は何だかどや顔で得意気に鼻をこする。
見ると工藤はいつの間に拾ったのか、その手には先程の石と、もう片方の手に頑丈そうな太い木の枝を所持している。
「何を言っているのだ工藤。そんな事……」
「いや、工藤くんの言う通りかも」
「――な……椎名まで」
食い気味で椎名も工藤のぶっ飛んだ発想に同意する。
そんな事を言われても俄には信じようがない。
非現実的過ぎる。正直素直に受け入れるなど無理な話だ。
椎名は髪を掻き上げふふんと鼻を鳴らす。
「だってさっきの生き物、どう見てもおかしかった。見たこともないし動物園にいるような、そんな可愛いげのあるものじゃない。私たちを殺そうとしていたし。あんな怖い野生動物普通駆除されるでしょ? それに今向かっている村だって、さっき上から見た感じだと、どう見ても日本の家じゃない。煙突があったり、レンガ造りだったり。それとも外国にテレポートしちゃった? まあどのみちこの先問題は山積みなんだし、いっそのことそんな突拍子もない考えでいた方がいちいちパニクらなくて済んで楽かもよ?」
「……」
突拍子もない考え。確かに椎名の言うことも一理ある。
どのみちどう考えようと今のところ答えは出ないのだ。
確かにそれくらいの気構えでいた方がいいのかもしれない。
ここは異世界で私達は突然こちらの世界へと連れて来られた。
直後運悪く魔物に遭遇し、美奈が怪我を負った。
とまあそんな感じか。
何にせよとにかく今は前に進むしかない。
うだうだ考え込むにしても、如何せんまだまだ情報が少な過ぎるのだ。
「あとね、私――ちょっと試したいことがあるの」
椎名が急に小走りで私を追い抜き、とことこと前に出てきて一度足を止めて振り向いた。
「試したい事?」
「うん」
椎名は頷くとおもむろに上を向き、ある一点を見つめた。
視線の先には針葉樹の枝。そう思った矢先、彼女はそこ目掛けて飛び上がったのだ。
「なっ!?」
私は思わず声を上げてしまう。
その行動自体は何をしているのか、程度の事だったのだが問題はその高さだ。
おそらく優に三メートルは跳び上がったのだ。
椎名は枝をタッチしたかと思うとふわりと地に着地した。
とさりと地を踏みしめ再び立ち上がる。
「やっぱりね」
「は? ……ど、どうなっているのだ椎名っ!?」
「おいっ、一体なんだよ今の!?」
二人は驚きを通り越して呆れのような表情で椎名を見ている。
椎名は嬉しそうにひらひらと手を振る。
そこには先程枝についていた枯れ葉が一枚握られていたのだ。
「私、さっきの光が治まった後から感覚がおかしいの。研ぎ澄まされてるっていうか、体が軽すぎるっていうか。多分だけど、今までの五倍から十倍くらい身体能力が高くなってる気がする。今だって、軽く跳んだだけだよ? それで自分の背丈よりも高く跳べるなんてありえないよね?」
「――っ!」
椎名の言葉に私は衝撃を隠しきれなかった。
どういう原理が分からないが、まさかそんな事があり得るのだろうか。
「てゆーか何で椎名だけ!? もしかして俺もそうなってんのかよ!?」
工藤はあっけらかんとしてそんな質問を投げかける。
「……わからない。でも多分、あの光が原因だと思うから、私だけなんだと思う」
椎名は腕を組み、考えこむ仕草をした。
そこで私にはある疑問が浮かんでくるのだ。
「椎名、何故椎名はあの時光に包まれたのだ?」
「う~ん……」
椎名は腕を組み考んだまま更に低く唸ってしまった。
彼女が言うようにその光が原因なのであれば、これから私達も同じような体験をする可能性がある。
ならばできるだけそれに関する情報を掴んでおきたいのだ。
椎名の状態に危険がないとは言えない。
同じような現象がこの先私と工藤に起こるとしても、それはできれば意図的なものとして扱っていきたいという思いがあった。
「う~ん。多分だけど、あの時私は美奈にあの生き物から庇ってもらって、そのせいで美奈が怪我を負ったじゃない? その現状に私はものすごく悔しくて、腹が立って、もやもやして。心の底からこんなの嫌だって思ったの。そしたら急に体が熱くなってきて。だからそういう感情の起伏? みたいなものがきっかけになったんじゃないかな?」
「で? 椎名は体に何か異変は感じないのか? 酷く疲れるとか。そんな感じはないのだろうか?」
「ん? それはないかも。どっちかっていうと、すこぶる元気よ? めちゃくちゃ調子いいっ」
椎名の言う事はおおよそ予想通りの回答だった。
これから椎名や私達がどうなっていくのかはかなり手探りだが、この現象の事は早い段階でどうにかしていくべきだろう。
「なるほど、大体の事は分かったのだ。とにかく今は先を急ごう。美奈のことを最優先に考えたい」
「うん、もちろんそうね。だけどさ、隼人くん。美奈は私が担ぐわ。だってあなた、相当辛そうなんだもの」
「━━む……だが」
見透かされたか、というのが本音だ。
女の子でそこまで重くないとはいえ、ずっと背負いっぱなしは流石にきつい。
だが本当に任せてしまって大丈夫なのだろうか。
「大丈夫よ。ほんとに今までとは全然違うの。今の私は超人よ。美奈を背負うくらいリュックを背負うようなものだから心配しないで?」
「……分かったのだ」
私は少しためらう気持ちもあったが、椎名にそう言ってもらえたことで素直に従うことにした。
正直先程からもう手足が限界だったのだ。汗も凄い。
美奈を背負ってから三十分も経っていないと思うが、最早疲労困憊で腕も足もガクガクしてしまっていた。
こんな状態で斜面を麓まで下るなど、到底無理な話だった。
「すまない椎名。では頼んだ」
「ん」
少々情けなくもあったが、美奈をそのまま椎名へと渡す。
そんな折、椎名は悪戯っぽい笑みを浮かべ私の顔を覗き込んだかと思うと、嬉しそうに口元に手を添えた。
「うふっ。美奈のおっぱいの感触が味わえなくなって残念だったわね!」
「――は、はあっ!??」
不意に放たれた一言に、私は急に頭が沸騰してしまう。
「なっ!? 何を言っている!? こんな時に! 不謹慎だぞ!?」
「だってさっき美奈をおんぶする時の隼人くんの顔ったら見せてあげたかったわよ。美奈、やわらか~いっ、て顔に書いてあったもの」
「くっ……う、うるさいっ!」
「え!? 否定しないんだ!?」
「――あ……!!?」
こうして私はいつものように、まんまと椎名の口車に乗せられてしまうのであった。
昔から、といってもまだ出会って一年ちょっとの関係ではあるが、よくあるのだ。
椎名に鎌をかけられて、本音を白状してしまうといったような事が。
結局からかわれるような事を思わなければいいだけなのだが、そこは男としてやはり無理があると感じているのが本音だ。
結果いつもこういう時は私は早々と白旗を上げるしかないのだ。
「……椎名、頼むからもう黙ってくれ」
「ははっ! 隼人ってやっぱりムッツリスケベだよなっ! よしっ俺にもおんぶさせてくれ!」
「キモいっ! このオープンスケベッ!」
ここぞとばかりに工藤も乗っかってくるがそれには椎名がジト目を向けぶん殴った。
「いてっ! おまっ! 今ゴリラ化してんだからもっと加減しろっての!」
何の気はなしに放った肩パンチを大袈裟に痛がる工藤。
その様子から演技である事は分かるが、今までの流れだと少し洒落にならないような気もするのも確かだ。
「だ、誰がゴリラよっ!? せめて雌ゴリラにしてっ!」
「え? ゴリラは否定しねーのかよ!?」
「……悲しいけど否定できない」
「……椎名、自分で言ってて悲しくならないか?」
勢いでそういう流れになってしまったとは言え、私の突っ込みに少しばかり罰が悪そうに顔をしかめる椎名。
「……うるっさいわねっ! 隼人くんまで!! もういいからっ! とにかく先を急ぐわよっ!」
そう言って椎名は美奈をおんぶした状態で、すたすたと先へ行ってしまう。
先程言っていた通り、私の時よりも遥かに軽い足取りだ。力が増しているのがよく分かる。
いつも通りの言い合い。
時間を浪費してしまったものの、私は少し気持ちが軽くなったように感じていた。
こんな状況ではあるけれど、やはり一人ではないという事はとても心強いものだ。
悲観的に考えてもしょうがない。
とにかく皆一緒にいられているという事に感謝したいと思った。
それから約一時間程が経った。とはいっても時計がないので感覚でしかないのだが。
椎名は依然として軽々と美奈を背負っている。
先程の発光で超人的な力を得たというのは俄には信じ難かったが、まざまざと事実を見せつけられると認めざるを得なかった。
始めは山を下りるのにも一苦労かと思っていたが、現在の椎名の力もあり、順調に山の麓にまで差し掛かった。
この辺りは先程と違い、木々は葉っぱが生い茂り、雑草も多く、見通しも悪くなっていた。
一応村の大体の場所は把握しているが、辿り着くにはまだもう少し時間がかかりそうだ。
――――そんな折のことだ。
「――やっぱり来たわね」
椎名がふいに立ち止まり、腰を低く構え辺りを警戒し始めた。
「工藤くん、その石貸してくれない? あと隼人くんと二人で美奈をお願い」
そう言って椎名は美奈を木の根本に下ろして座らせた。
美奈は苦しそうに頬を赤く染め、手は力なくだらりと垂れて地に落ちた。
「あっ!? もしかしてさっきのやつか!? 俺も一緒に━━」
事情を察した工藤。共闘を買ってでるが椎名は首を横に振る。
「ううん、大丈夫。私が何とかするよ」
「……だ、大丈夫なのかよ? いくらパワーアップしたからって……」
「工藤くんありがと。でも、私が一人でやるのが一番確実だと思う。それに美奈のことをこんなにしたやつを許せないからさ。――それからあんな魔物にびびってしまった臆病な私自身も」
静かにそう呟く彼女の瞳には怒りが滲み出ているような気がした。
そのまま茂みの方をキッと睨みつける椎名。
こんな彼女の姿を見るのは初めてで、ほんの少したじろぐ気持ちもありながら、やがて件の者達が姿を現した。。
「……二体か」
茂みの中から出てきたのはやはり、先程の二体の獣だ。
「――何なのだ……? 一体あの生き物は……」
一見すると虎のようだが、口の両端から20センチ程の鋭い牙が生えている。
縦長の赤い目は三つ。宝石のようにギラついた輝きを放ち、瞳と呼ぶにはやけに無機質に見えた。
体色はグレイ。古代の獣――サーベルタイガーを彷彿とさせる。
低く唸り声を上げ、口から涎を垂らし、明らかに私達を獲物だと認めている。
獰猛な二体の猛獣を、果たして椎名一人に任せてもいいものだろうか。
「――や……やばくねーかあれ? あんなの倒せんのかよ……やっぱり俺たちも加勢した方が……」
工藤も私と同じような感想を漏らした。
普段は元気な彼もこの時ばかりは流石に恐怖に戦いている。
あんなものが迫ってきたら誰だって驚き縮こまってしまうのは当たり前だろう。
たとえ三人でかかろうがひとたまりもないだろうと思えた。
今からでも遅くはない。三人で共闘すべきだ。
しかし私自身、そう思いながらも足がすくんで動かない。
声を掛けようにも口の中は渇ききって絞り出せる言葉も浮かばない。
命が危険に晒されているのだと切に感じる
これが本物の恐怖というやつなのか。
「グルルルル……」
今私達との距離はせいぜい五メートルぐらいだろうか。
近づく程に恐怖で身がすくむ。
私は唾を飲み込みゴクリと喉を鳴らした。
そんな音は届きはしないだろうが、その魔物はまるでそれを合図にしたように左右に別れ、更にこちらとの距離を詰めてきた。
一気に襲い掛かって来ないのは慎重というよりも、弱者をいたぶる嘲りのように感じられる。
恐ろしい。
私と工藤の少し前方に椎名が立っている。
彼女からすればもうほんの2、3メートルの距離。
そんな状況においても椎名は静かに足を肩幅程に開いて立ち、勇猛であると感じる。
女の子に守られるなど何とも情けない。
そうは思いつつも、やはり今の私には彼女の前に立ち塞がり、せめて最初の攻撃の弾除けくらいにはなろうなどという勇気すら湧いてこないのだ。
ふと視界に彼女の細く白い腕が入った。それが微かに揺れている。いや、震えているのだ。
当たり前だがやはり椎名も怖いのだ。
高校生の女の子なのだ。魔物と戦った経験だって勿論ない。
私よりも非力な彼女が懸命に自分達のために前に出て、恐怖の感情を押し殺し、自身を奮い立たせ、魔物の前に立ち塞がっている。
何が勇猛だ。そんな事はない。
彼女も必死になって私達を守ろうと努力しているのだ。
果たして私はこんな事でいいのだろうか。彼女の姿が私の心の琴線を刺激する。
目の前にいるのは赤の他人ではない。私の大事な友人だ。
そんな彼女を見殺しにするような真似が許されると思っているのかと。
いや、断じて違う。
そうでは無い。
私は何を馬鹿な事をしている。大馬鹿だ。
前へ出るのだ。恐くとも、動かなくとも、そんな事は関係ない。
ただの都合のいい言い訳だ。
そんなもの全てかなぐり捨てて、今動かなければ私はこの後必ず後悔する。
私はここに来てようやく覚悟を決めるに至った。
「うおっ!」
私は気合いと共に動いた。咄嗟に手近な拳程の石を足下に確認し、それを投げつけてやろうと拾い上げた。
「はああーーっ!!」
そんな折、突然椎名が叫んだのだ。
今の私のように自分を奮い立たせたのだろう。
烈迫の気合いと共に声を発した。
気のせいかもしれないが周りの空気が椎名を中心に広がっていくように感じた。
「やあっ!」
椎名は持っている石をまず左側の魔物に向かっておもいっきり投げつけた。
椎名の声を聞いて一瞬動きを止めた魔物に向かって物凄いスピードで石は飛んでいった。
いや、物凄いなんていうものではない。
プロ野球選手も真っ青だろう。
昔バッティングセンターで120キロというスピードに挑戦した記憶があるが、その時ですらこんなスピードではなかったのだ。
椎名の投擲したそれは見事魔物の眉間に命中し、ボンッという音を立てて頭ごと吹き飛ばした。
「んなっ!? 嘘だろ!?」
工藤が思わず驚き声を上げる。
しかし驚いている場合ではない。
戦いはまだ続いているのだ。
完全に事切れた左側の魔物を見て、右側の魔物は一瞬怯んだが、「ガウッ」と吠えながら椎名に跳びかかった。
椎名との距離を詰めていたその獣は、ひとっ跳びで獰猛な牙を剥き出し彼女に迫った。
彼女の首筋が無惨にもその獣に噛み千切られる。
だがそうはならなかった。
実際はそう見えたのだ
だがそれよりも速く、椎名は左に跳んでいたのだ。
噛みつかれたと思ったそれは椎名の残像であった。
「やあっ!!」
「ギャウンッ!」
椎名はそのまま反復横跳びのようにして反動をつけ、魔物の体に横から体当たりを食らわせたのだ。
それを受けた魔物は何と五メートル程も吹き飛び、その先の大木に当たり、「ギャンッ!」と声を上げて地面に転げた。
「隼人くん! その石貸して!」
「! ……そらっ」
自分でも変な返事だと自覚しつつ、椎名に先程拾った石を放る。
ダメージを受けつつもふらふらと立ち上がった獣に向けて、椎名はその石を受け取ると直ぐに投擲した。
再び石は砲弾のように獣の体を貫いた。
「ボンッ」、という音を立てて大穴を開けたその獣はそのまま地に崩れ落ちるように横たわったのだ。
「……ふう。なんとかなったみたいね」
「……いや……圧勝だろ」
短く息を吐く椎名。
冷や汗を浮かべた工藤が、震えた声で呟くように声を漏らす。
そこには少なからず怯えのような色も混じっているように感じられた。
そんな工藤の態度も正直分からなくはない。
確かに今の椎名は凄まじかった。
私達の知っている彼女とはまるで別人だと思える程に。
「まあ結果的にはね。とにかくこれで村までの懸念はなくなったわよ? 行きましょ? ――て、あれ――?」
今まで平然と喋っていた椎名の膝が突然折れて、ガクッとその場にへたりこむ。
そのまま彼女の膝が震えだした。
「な……なんか、私――安心しちゃったら……急に力が抜けちゃったみたい……」
彼女の顔を見れば瞳からは一筋の涙が零れていた。
その直後から身体が戦慄(わなな)き小刻みに震え始める。
瞳からは瓦解したようにぽろぽろと大粒の涙が溢れては流れ落ちていく。
「椎名っ!」
工藤が慌てて椎名に駆け寄り両手を握る。
「う……ああああ……」
椎名は顔を歪めながら俯き声を上げた。
私は先程彼女に抱いた感情に強く後悔した。
何が別人だと思えるだ。椎名は椎名だ。
普通の高校生の女の子で、私や工藤なんかよりずっとか弱くて脆い。
「マジでありがとなっ! お前がいなかったら俺たち今頃どうなってたか」
「――怖かったっ! 私っ、……とにかく必死でっ……!」
「うんっ、分かってる! すまねえ椎名!」
「うわああああっ!!!」
椎名は大粒の涙を流しながらそのまま工藤の胸にコツンと倒れ込み、慟哭した。
震えは一向に治まらず、彼女の頬をたくさんの涙が伝う。
工藤はしばらくの間、彼女が落ち着くまで背中をぽんぽんと叩いてやっていた。
嘘みたいだが、やはりこれは現実なのだ。しっかりと受け止めなければ。そして覚悟を決めなければ。
世界は私達の心の有り様などお構いなしに様々なものを奪い去っていくに違いない。
そうならないように。そうならないために、まずは私達が生きていくことを考えるのだ。
そう思いながら、顔を上げ前を向く。
「――??」
不意に視界にさっきの魔物二体の亡骸がある場所が目に入った。
だがそこに魔物の姿はもうない。消え去っていたのだ。
代わりに魔物が倒れていた場所には宝石のようにキラキラと輝く石が幾つか落ちていた。
私はそこに歩みより、手に取ってみる。
それは赤い長さ十センチほどの縦長の宝石であった。
合計二つ。一体につき一つという事だろう。
「どうした隼人?」
振り向くと、工藤と椎名が並んでこちらを見ていた。
椎名は少し目を赤く腫らしてはいるが、いつもの調子に戻ったようだ。
その様子に私はホッと胸を撫で下ろす。
「魔物が消えて、代わりにこれが落ちていたのだ」
私はその石を二人に見せた。
工藤はふむふむと言いつつ、一人妙に納得した様子だ。
鼻を擦ると得意気な顔をした。
「なるほど。魔物を倒すと現れるドロップアイテムみたいなもんだろ。魔石とかそんな感じじゃねえか?」
魔石。
妙に物知り顔で宣うが、私もそんなことだろうかと思案していたところだ。
工藤のその知識はおそらくゲームなどから来るものなのだろう。
だがその知識もこの世界では満更でもなく、割と役に立つのかもしれない。
「とりあえずそれ、そのまま拾って持っていきましょ? もしかしたらお金になるかもしれないし。ほら、私たち無一文だし」
椎名は笑顔こそ見えないが、普段の調子を戻していた。
それが今は、とても嬉しく感じる。
「うむ、分かったのだ。これぐらいならポケットに入れて持ち運べるしな」
「うん、それは隼人くんが持ってなよ。とにかく日が暮れないうちに村まで急ぎましょ? 村で色々聞ければいいんだけど――って人間の村かもわかんないけどねっ」
「椎名それ、洒落になってないから」
「何よバカ。工藤くんのクセに生意気よ?」
などと言い工藤の肩を小突く椎名であったが、私もさらっと縁起でもないことを言うという感想を抱いた。
確かにここが異世界ならば、さっきの魔物といい、人間以外の種族がいても不思議はないのかもしれない。
「――隼人くん? 行くわよ?」
気がつくと椎名はすでに美奈を抱え、少し前を歩いていく。
「椎名?」
「うん? 何よ」
「――その、大丈夫か?」
「あ、うん。さっきはごめんね? 取り乱しちゃって。……なんか恥ずかしいな……でもさ、もう大丈夫だから」
そう言い彼女はにこやかな笑顔を見せた。
それは何とも頼もしくもあり、同時に危ういとも思ってしまうのだ。
私としては別に少しくらい休憩しても良かったのだが、工藤もそれに次いでいるので素直に後を追うことにした。
そうして私達は再び歩みを進め始めた。
まだまだ何一つ安心出来ることはない。
むしろ不安だらけで、どうにかなってしまいそうだった。
だが、だからといってそんな気持ちに押し潰されたり負けそうになっている場合ではないのだ。
今は少しずつでも前に進む。
それだけを胸に私は息を短く吐き出した。
空を見上げると太陽が大分西に傾いている。いや、ここが地球でない限り、あれが太陽かも分からない。
ましてや太陽が傾く方向が西なのかどうかさえも。
今のこの状況、考えれば考える程不確かな事ばかり。
ならばせめて、友人達とは互いに助け合い、補い合っていきたい。
そんなことを空を見上げながら強く願った。
椎名の活躍もあり、目的地である村へと思っていたよりもずっと早く辿り着くことができた。
森林を抜けて来たからか、道中は思いの外涼しく、夏の名残りは無いように思えた。
照りつける日差しもまだ高い位置にあるというのに気温は初秋のそれを感じさせる。
私達は村には直接向かわず、一旦入り口が見通せる木陰に隠れ、遠巻きながら様子を確認していた。
「――門番が二人いるわね」
椎名が頭の後ろでそう呟く。
日陰になる場所に美奈を下ろし、今は工藤と椎名の三人で草場の陰から覗いている。
ちらと後ろを見ると彼女は思いの外近くにいて、健康的な白い肌が目に飛び込んできた。
彼女は夏場という事もあり、短パンにTシャツと何ともラフな格好をしているのだ。
スラッとした出で立ちと露出の多さ、そして女性らしい曲線が相まって、何とも言えない扇情的な雰囲気を醸し出していた。
しかし本人には全くそういう自覚は無いようで、いつも隙の多い振る舞いが度々男性陣の男的な部分を逆撫でするものだから質が悪い。
各言う私も度々椎名の柔肌に目が行ってしまい、そういう時に限って勘の鋭い美奈のにこやかなプレッシャーに冷や汗をかかされる羽目になった事も少なくはないのだ。
――話を戻そう。
私は改めて逸れてしまった思考を修正する。
現在村の入り口に門番が二人。
最悪の場合、人外を想像していたがどうやら見た目は人間らしいのでその点は安心出来た。
だが問題なのは二人共に簡素な槍を持っている事だ。
見張りなので当たり前な事かもしれないが、こちらは丸腰だ。
万が一戦闘にでもなればこちらは三人とはいえ戦いの素人の集まり。
圧倒的に不利だと思われた。
「問題は言葉が通じるかと、私達に対して友好的なのかどうかだな」
見た感じどちらも服装こそ布製の地味な物であるが、一見どちらも真面目な風だ。職務をしっかりと全うする感じに見えなくはない。
まあ人は見かけに寄らないとも言うが、もし普通に話し掛けて、途端に捕らえられてしまう可能性も十分にあるな、などと考えていたその矢先の事であった。
私の言葉を聞いた途端、後ろに控えていた工藤が動いたのだ。
「は!? そんなことで隠れてたのかよ! わかった。俺が行ってきてやるよ! しゃーねーなっ、あのお~、すんませ~んっ!!」
「――お、おいっ! ちょっと待てっ!」
私の静止を気にも留めず、スタスタと門番の方へと駆けていってしまう。
「あっのバカッ……」
椎名も工藤の軽率な行動に毒づく。
工藤の考え無さを考慮に入れなかった私の失態だ。
もう手遅れだと観念する私を余所に、警戒されなかったのか、工藤は何やら門番と話をし始めた。
チラチラとこっちを見ながら喋っている所を見ると、そこまで問題はなさそうだ。
普通に話している所を見ると言葉も通じるのだろう。
「……何とかなりそうかしら?」
「……あ、ああ。そうだな。……やれやれだ」
「はあ~……びっくりさせないでよね……あのあほ」
椎名がそう呟き脱力気味にへたりこむ。
肩に彼女の手が乗せられ、コツンと背中におでこが当たった。
先程の椎名の姿が思い出され、私は内心ドキリとしてしまう。
「おーいお前ら! こっち来いよ!」
その時、もう話を終えたのか工藤が私達を大声で呼んだ。
振り向くと村の入り口から何人か出てきたようで、工藤の周りには既に数人の男女が取り巻いてこちらを見ている。
私と椎名は目を合わすと、何とも言えない表情で頷き合い工藤の元へと駆けていった。
「――これはどうやらグレイウルフの毒にやられましたな」
私達はあの後すぐに村の中へと入れてもらい、ネムルさんという村長の元へと通された。
村人達はTシャツや短パン、ワンピースといった格好の私達を見て怪訝な表情をしていたが、丸腰だったし、怪我人も抱えていて敵意はないと判断してくれたようだ。
そもそも余所者を敵と見なしたりする思考があるのかどうかも分からない。
そもそも私達の国であればそんな事は考えない。
そう思えば先程の門番に対する自身の警戒も、過度だったように感じた。
「治せますか?」
美奈は今この場所、ネムルさんの孫娘のメリーさんの部屋のベッドに寝かせてもらっている。
息遣いは荒く、辛そうだ。
「……治す手段はありますが……危険ですぞ?」
村長は私達を試すような目を向けてきた。
一瞬ちくりと胸に緊張感が走る。
私は膝の上の拳を強く握りしめた。
「構いません。方法を教えて下さい」
固い意思をもって村長にお願いした。
じっと私の瞳を見つめるネムルさん。逸らしてはいけないような気がして私は彼の瞳を一層強く見つめ返した。
ネムルさんはやがてふうと短いため息を吐き、椅子に座りなおした。
「……その前に、あなた方は何者なのか教えて頂けませんか? あなた方は皆、この辺りでは見ない変わった格好をしておられる。それにこんな辺境の村にその装備で一体どうやって辿り着いたのでしょうか」
私はこくりと唾を飲み込む。
「はい。……事情を説明させていただくつもりなのですが……話して信じてもらえるかどうか。あと、私達も現状がどういうことなのか把握しきれてはいないので、先に少しだけ質問をさせて頂いてからお答えしても構いませんか?」
美奈のことを少しでも早くなんとかしたい気持ちもあるのだが、自分達には情報が少な過ぎるのだ。
それに話し合いを進める上でお互いに安心して臨みたいのは山々だ。
「……なるほど。けっこうです。では、お聞きしたいこととは何ですかな?」
ネムルさんは少し怪訝な表情を見せたものの、私達の話を聞いてくれるようだ。
それを聞いて私はホッと胸を撫で下ろす。
「まず、ここは何処の国ですか? 後、年数と日付なども教えて頂けませんか?」
そんな根本的な質問が来るとは思わなかったのだろう。ネムルさんはさらに怪訝な表情になる。しかし、これは私達にとってとても重要なことだ。
「むう……? ここはヒストリア王国領にあるネストという村ですじゃ。年数と日付ですが、ヒストリア歴499年の10の月、20日ですが?」
「――――っ」
さも当たり前のように話すネムルさんの言葉に私は固まってしまう。
後ろで一緒に話を聞いていた椎名と工藤の体がぴくんと動いたのが分かった。
――これで確定だろう。
予想してはいたがやはり、私達は全く違う別世界に迷いこんでしまったらしいのだ。
もうこれは紛れもない事実であり、――現実だ。
だがここで立ち止まってはいられない。
私達はそんな事を確認するためだけにここを訪れたのではないのだから。
私はこの村の人達の人柄から、今の私達の状況を話すことに大きな問題はないのではないかと既に判断ししていた。
念のためチラッと椎名の方を振り向くと、彼女は私の意図を察してくれたのか、こくんと強く頷いてくれた。
もう一度私は大きく息を吐き出す。
「――ネムルさん。もしかしたらこれから私達が話すことは信じてもらえないかもしれません。ですが私達がここまで辿り着いた経緯を聞いていただけますか?」
掌が汗ばんでいる。ネムルさんの瞳が淡く輝いているように見える。
ドクドクと心臓が高鳴った。
「……ふむ。信じるかどうかは別として、事情はお聞きします。それで構いませんか?」
ネムルさんは私達に微笑んでくれた。
それだけで私の緊張の糸は少し緩やかになったのだ。
「はい。それで十分です」
私は一つ深呼吸して、ゆっくりと話し始めた。
「まず、私達はこの世界の住人ではありません」
「――は? この世界の住人では――ない?」
ネムルさんの目が見開かれた。
私はとにかくありのままを伝える。
「はい。私達は地球という星の、日本という国から来ました。服装が皆さんと違うのもそのためです。ついさっき。――お昼頃……でしょうか。山の中腹に気がついたらいたのです。本当はそこにいる美奈の、友人の家で四人集まっていたのですが、気がついたらです。そこでグレイウルフに襲われて、美奈が怪我をして意識を失いました。そんな中、山の中腹からこの村が見えたので、何か解決の糸口を見つけられないかとここまでやって来たわけです」
私はここまで一気に話してネムルさんの顔色を伺う。
村長は驚いたような、納得がいったような、複雑な表情をしていた。
無理もないとは思うが。
自分の価値観なら何を馬鹿なことを言っているのだと思うだろう。
それでもネムルさんは真剣に、何か考えこむようにして顎に手を当てている。途中二度程頷いていた。
「わかりました。……事情は俄には信じられませんがそなたらは決して悪い人間であるようには見えません。まあ良しとしましょう」
私達は目を見合わせてほっと安堵の息を漏らした。
この世界の人達は私達が思っている以上に親切なのかもしれない。
あと考えられることとしては、他の世界から放浪者が来ること自体は珍しくはないという可能性だろうか。
そもそもがそういったことに慣れているという可能性だ。
さすれば別段見たことのないような格好をしている者達を目撃したとしても、それ程驚きはしないのではないか。
その辺りのことは聞いてはいないので予想の範疇でしかない。
単純に私達が村に害を及ぼす存在には見えないのかもしれない。
全員丸腰であるし、野盗の類いにも見えないだろうし。
まあ、そんな事は今はどうでもいい。
「それで、美奈の毒のことなんですが」
私は再び話を切り出す。
悠長に今の状況に安堵し、喜んでいられるような暇(いとま)はないのだ。
まずは元気な状態で四人、一緒にいれることが最優先なのだ。
だが次のネムルさんの言葉は私達を本当の意味で絶望感に追いやることとなる。
「はい。この毒はけっこう厄介でしてな。このまま放っておくと、やがて3日から遅くとも5日程度で死に至ります」
「……!!」
死ぬ?
美奈が……死ぬ……?
私は頭の中が真っ白になった。自分の大切なものが、この世界に来て、こんなにも簡単に失われようとしている。
「治す方法はないんですか!?」
一歩後ろに控えていた椎名が身を乗り出してきた。彼女も相当血の気が失せている。
「うむ。ありますとも」
「じゃあっ……」
「うむ。ミナさんの体の毒はココナという花の花弁から出るエキスを飲ませる必要があるのです」
「分かりました! すぐ取ってきます! それってどこにあるんですかっ!?」
「椎名?」
椎名がいつにも増して必死なのがその様子から伝わってくる。
すごく焦っていて、なんだかいたたまれない気持ちになるのだ。
彼女は拳を握りしめて、俯いていた。
「……ごめん。だって、私のせいでこんなことになったんだし。苦しんでる美奈をこれ以上見てるの、辛いの」
悲壮感の漂う椎名とは裏腹に、ネムルさんは微笑みを浮かべた。
「ふむ。あなた方はとてもお優しい心の持ち主のようじゃ」
ここまでのやり取りを見て大きく破顔したのだ。
少し不謹慎ではあるが、椎名の必死さがこの人の警戒を完全に解いてくれたらしい。
「それでネムルさん、結局のところ、そのココナという花のある場所は?」
「うむ。ここから東に15キロ程ですじゃ。そこにある洞窟の奥に咲いております」
「そっか。それくらいの距離なら数時間で戻ってこれそうだな」
ここまで静観していた工藤が後ろで安堵の声をあげた。
だがネムルさんの表情は先程と違い固い。私は胸に嫌な予感が駆け巡る。
「それはそうなのですが。その花を取ってくるにあたり、一つありますぞ」
「……はい」
やっぱりそうか。先程の試すような視線。
ネムルさんはゆっくりと言ってほしくない言葉を連ねたのだ。
「その洞窟は今は魔物の棲みかになっておるのです」
――やっぱりか。
冷静な呟きが心の中で木霊する。
予想が当たってしまったからか、はたまた驚きを通り越して焦る気持ちが失せたからか。
とにかく今はもう、私の心の中は妙に静かに凪いでしまっていたのだ。
村にはすっかりと夜の帳が下りていた。
この村には文明の利器というものが存在しないようで、灯りといえば火か光の魔法くらいなのだとか。
村の中はかなり薄暗い。
人はもう家に籠り、ほとんど出歩くこともないようだ。
代わりにというか、夜空には満天の星々が輝いていた。
当たり前のことなのだが、月は夜空に存在していない。
代わりに目視できる大きな惑星がところどころまばらに見えた。
本当に、異世界なのだな。
そんな達観したような気持ちが胸に宿る。
この世界には科学の力は無くとも、魔法というものがまことしやかに存在する。
それはまるで夢のようで、私達のいた世界よりもずっと便利なのではないかと思う。
原理はまだよくは分からないが、いつでも火や光が出せるのだ。
他にも水や土、風といった自然現象を操ることが出来るとするのならば、これから旅をする上で格段に便利になるのではないだろうか。
私達も使うことが出来るのかは未だ不明だが、美奈が元気になり、状況が落ち着けばその辺の事も是非とも聞いてみたいと思った。
そんな事を考えつつ、私達はネムルさんと話をした後、明日について色々と準備をしていた。
魔物の巣窟。
今日遭遇したような魔物が棲みついている場所ということだ。
そんな場所に赴くなど、はっきり言って自殺行為だ。
だが美奈を救う手だてがそれしかないのであれば私達に選択肢はない。
美奈を助けるため、危険を承知で飛び込んでいく所存だ。
美奈の体を蝕んでいる毒は早ければ三日、遅くても五日程でその者の命を奪うという。
そうでなくともこんなに苦しそうな美奈の姿を目の当たりにして、私は常に落ち着かない心持ちで気が気では無かった。
いきなり突きつけられた死の宣告。
夢ならば覚めてほしい。
これが夢で無いというのならば、私達は命懸けの冒険を強いられる事になってしまった。まるで悪夢だ。
一体どうしてこんな事になってしまったのか。
私は自分のこんな運命に歯噛みし、それでも逃げ出したい気持ちを必死に圧し殺しつつ、半ば心ここに有らずな時を過ごしていった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
私達は今晩は四人で先程のメリーさんの部屋に泊めてもらうことになった。
流石に男女別れるべきだと主張したのだが、椎名が笑顔で諭(さと)してくれた。
「一緒にいられる時間を大切にしないと」
そう言われてハッとなった。
こうなってしまった以上、誰もが常に死と隣り合わせ。
今が一緒の時間を過ごせる最後の刻かもしれないのだ。
私としても椎名にそう言ってもらえた以上、断る理由などもうなかった。
ネムルさんから話を受けた後、正直一刻も早く出発したいのは山々だった。
美奈を苦しみから一秒でも早く脱してやりたい。
だが冷静に考えて夜は視野も狭く、魔物も徘徊しやすい。
皆で話し合った結果、明日の朝早くに発とうという事になったのだ。
ネムルさんは私達にとても親切だった。
服や靴など、一通りの生活用品を用意してくれ、武器となる剣なども与えてくれた。
晩ごはんには野菜のシチューとパンをご馳走になった。
思えばこの世界に来て初めての食事。
質素ではあるが十分に心も身体も温かくなる美味しいものであった。
こんな時は豪奢なご馳走よりも、このように素朴で家庭的なものの方がよっぽど心が落ち着く。
空腹から解放されると人は思考が冷静になる。
穏やかな気持ちにもなれるものだ。
ネムルさんやこの村の人達の気遣いが本当に嬉しく感じられて、本当に胸が熱くなった。
流石に少々気が退けて、せめてネムルさん達にはお礼が出来ないかと思ってしまう。
考えた結果、昼間倒した魔物から出てきた魔石を渡すことを提案してみた。
するとどうやら。魔石には幾つか種類があって、魔法の道具の材料として使われたりもするらしく、お金にもなるらしいのだ。
直ぐ様私達は魔石を二つ共に渡そうとした。
だが思いの外高価な代物らしく、一つで充分だと断られてしまった。
あの様子だと魔石一つでも相当な価値があるようだ。
確かに魔石を手に入れるためには獰猛な魔物に立ち向かわなければならなくなる。
それは必然的に命懸けだ。
予想の範疇(はんちゅう)でしかないが、一月に一つ手に入れれば暮らしていけるぐらいの価値くらいないと割に合わないのではと思う。
もしこの状況を切り抜け、落ち着く事が出来ればその辺の事も詳しく聞いてみようとふと心の片隅に留めておくのだった。
開け放たれた窓の外から、「ルールー」という聞き覚えのない音が聞こえる。
虫の音だろうか。それとも何か小さな生き物の鳴き声か。
だがどんな場所でも夜の涼しげな宵の虫のや小動物の鳴き声というのは、悪い気はしないものなのである。
私達は四人、簡素な燭台にろうそくの火だけが灯された薄明るい部屋の中。一時のささやかな静かな時間を過ごしていた。
「本当に……まだ夢なんじゃないかって思っちゃうわ」
椎名が眠り続ける美奈の顔を見ながら、同じベッドに腰掛け呟く。
美奈はというと先程よりは少し落ち着いたのか、冷や汗は出ているものの、安らかな寝息を立てていた。
「そうだな。……今日の昼には私達四人、美奈の部屋で夏休みの宿題をしていたはずなのだからな」
「――私達……帰れるのかな。あそこに」
私は言葉を詰まらせる。
それに対する正着な答えは持ち合わせていない。それは椎名も同じ。
答えが決まりきっている質問をするなど椎名らしくない。
最も初めから答えなど求めていなかったのかもしれないが。
椎名は、美奈の手にそっと自身の手を重ねた。
彼女の丸まった背中を見ていると、少しいたたまれない気持ちになってくるのだ。
今回のこと、美奈に対し彼女は相当の責任を感じている。
それは今日一日、嫌というほど感じさせられた。
私は特段責任など感じる必要はないと思っている。
だがそう声をかけたとして、果たしてそれが彼女を安心させる結果になり得るだろうか。
「……さあな。今んとこそういう兆しは一切ねえもんな」
工藤が会話を引き継ぎ言葉を紡ぐ。
それから工藤が、もそもそと動いているのが目に映る。
落ち着きなく頭をぽりぽりと掻いたり、何か言い出そうとしているのだけは分かった。
私はそれを視界に入れつつ、黙って彼の動向を見守っていた。
やがてふうと短い息を吐く。
「あのな、椎名」
工藤は不意に椎名の名前を呼んだ。
「??」
次の瞬間顔を上げ、まっすぐ彼女を見据えたのだ。
「言っとくけど、高野のことは皆の責任だからな。お前が一人でしょいこむ事じゃねえ。俺だって、何もできなかったんだ。それを言ったら俺の方が役立たずで、クソだ」
「そんな事……」
「思ってねえんだろ? だったらそれでいいじゃねえか。椎名は悪くない。椎名は今日よく頑張った。お前は、偉いよ。俺も、隼人だって認めてるよ」
「うむ」
ちょっと乱暴な言い方だとも思う。
だがそれは私が言いたかったことでもあって。けれど彼女の気持ちを慮ると言い出せなかったのだ。
いや、ただ単に私が臆病なだけなのかもしれない。
それを言ったら嫌な顔をされるとか。泣かれたらどうしようとか。
そんな打算的な気持ちが私の言葉に歯止めをかけたのだ。
だが工藤は多少の逡巡はあれど、それをしっかりと伝えた。
単純に、そんな彼が羨ましい。
「……分かったわよ。工藤くんのクセに……バカ」
この時ばかりは椎名も言い返すことはなく。素直に工藤の言葉を飲み込んだ。
「ん」
工藤はそれ以上は何も言わなかった。
そこからはこの話は終わりとばかり、視線を村の人に貰った護身用の鉄の剣へと移して弄んでいた。
鼻唄など歌いつつ、刃渡り一メートルはあるだろうか。鞘に収めた重そうなそれを、両手で交互に持ち替えたり上下に振ったりし始めた。
何というか、かなり違和感のある光景だが。
改めてそういう世界に来てしまったのだと思わされた。
ふと再び視界の端に椎名の姿を捉える。
今度は椎名の方が落ち着かなくもそもそしているのだ。
ちらちらと工藤の方を見つつ、そわそわとしている様子が見て取れた。
工藤の方はそれには気づかず相変わらず剣へと視線を落としている。
今の工藤の言葉が気に入らなかったのかとも思ったが、その意図するところはすぐに判明した。
「あの……工藤くん」
「ん?」
名前を呼ばれ、剣を弄ぶ手を止めて、工藤は再び椎名の方を向く。
椎名は俯き両手を膝の上に置き、爪先をパタパタとしながら落ち着かない。
やがてピタと足の動きを止め、横を向いたかと思うとぽしょりと呟いたのだ。
「その……ありがと」
「お――おう……」
暗くとも彼女の顔が赤いのは容易に想像できた。
あまりに唐突で、工藤もこれには戸惑いどもる。
工藤もきっと、横を向けた顔は茹でダコのように赤くなっていることだろう。
ふむ。予想と反して中々に妙な空気が流れたものだ。
二人の間の雰囲気を眺めつつ、私自身ここにいていいものかと思ってしまう。
もちろん喧嘩されたり険悪なムードになるよりはずっといいのだが。
私だけが貧乏くじを引いた心持ちになる。
勇気を出さずに一人ひよってしまった罰だろうか。
「ルールー」と何物かの鳴き声は終始外から響いてきていた。
「ルールー、ルールー」
すっかり生き物の声音に馴染んだ頃。
部屋の空気はようやく落ち着きを取り戻した。
見ているのが微笑ましくもあったが、やはり男女間のじれったい空気というものはこそばゆく面映ゆいものだ。
私もようやくこれで一息つけるというものだ。
「先の事も考えなきゃだけどさ、とにかく今は四人が元気な姿で揃う事が先決よね」
そんな折、椎名の声が部屋に響いた。
その声音はいつもの元気な彼女のものであった。
発言も現実的で、ポジティブな色が感じ取れる。
それが今は素直に嬉しい。
「そうだな。私もそう思う」
「ん、そうだな」
私も工藤も微笑み頷く。
本当に、仲間がいるというのは何とも心強いものだ。心からそう思う。
ここにいるのが私一人だけでなくて本当に良かった。
そんなのは考えただけでもゾッとする。
一人こんなところへ紛れ込んで、今自分が正気でいられる自身はない。
「あの、それでさ? 私、もう少しあなたたちに共有しておきたいことがあって」
――共有。
そう言われると私自身思い当たることは一つしかない。
「それは今の力のことか?」
椎名は身体能力が10倍近く向上している、と言っていたが、何か他にもあるのかとそんな思考を巡らせる。
彼女は私の言葉にこくりと頷く。
「うん。昼間は半信半疑な部分もあって言わなかったけど、ちょっと試したい気持ちもあるから外に出てもいいかしら?」
「外? ここでは駄目なのか?」
「うん。力がどの程度か見当もつかないから」
「? ……ふむ、分かったのだ。工藤、行くぞ」
「ん? ああ」
私は素直に椎名の提案を受けることにした。
何だかんだ言って明日は、結局椎名の力に頼ることになってしまうだろう。
彼女の力が実際どの程度なのかを目の当たりにし、把握しておく事は重要なのことなのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ネストの村の就寝は皆早いようだ。
村の皆は一人も外をうろつく者はおらず、家の中へと引っ込んでいるようであった。
最も村の入り口では昼間のように、未だ見張りをしている門番くらいはいるかもしれないが、それでも他には人っこ一人見当たらないくらい村の中は閑散とし、静かであった。
先程も述べたが村の灯りは壁に掛けたランタンの中に、魔法の光が灯っているものがポツポツとある程度。
歩けない程ではないがかなり薄暗かった。
「うわあ……綺麗……」
椎名が空を見ながらそんな呟きを漏らす。
ふむ。私もそれは同感だ。
夜空には赤や黄色や白と様々な砂を散りばめたような満点の星空が広がっていたのだ。
都会では絶対に見られないような星々の煌めき。
見慣れない空だが、私達の心を癒やすには十分な輝きがそこにあった。
「ヤベえな」
「うん、やべえわね」
月並みな感想を漏らす工藤の言葉をそっくりそのまま復唱する椎名。
しばらく歩くのも忘れ皆で星空を眺めてしまっていた。
「あ――じゃなくてっ」
不意に思い出したように再び歩を進めていく椎名。
星があまりにも綺麗でほんの数秒とはいえ当初の予定が頭から抜けてしまっていた。
私と工藤も苦笑しながら彼女の後をついていく。
椎名はすたすたと真っ直ぐ村の中を進み、程無くして広場になっている所でようやく足を止めた。
彼女はこちらに背を向けたまま。
何か考え事をしているのだろうか。
その表情までは伺いしれない。
「――で、一体何なのだ?」
早速本題を問う。
部屋には美奈を一人きりにして置いてきてしまったのだ。
彼女の要望に従いついてきたものの、やはり美奈が心配だ。
そこまで長居はしたくはない。
呑気に星などを眺めてしまった自分を戒めつつそんな事を思う。
「うん、私ね。身体能力が上がったのは教えたけど、どうやらそれだけじゃないみたいなのよね」
椎名はくるっと振り返り、私達と向かい合うと笑顔を見せた。
何となくその表情は得意げに見えなくもない。
「は!? まだなんかあんのかよ!?」
工藤の声はあまりにも大きかった。
周りには私達以外誰もいないが何だかびくついてしまう。
外に出てはいけないと言われてはいないが、こんな暗闇の中勝手に外に出て、何となく悪い事をしているような心持ちがしてしまうのは私だけだろうか。
「工藤くん、声が大きいっ。みんな寝てるかもしれないのに、非常識よ」
そう思った矢先、椎名も同じようなことを思ったのか、慌てて工藤を諫める。
「あ、わりい。つい――な」
「ま、別にいいけど」
「で? 一体何なのだ?」
改めて椎名に問うと、彼女はにこりと白い歯を見せた。
「うん。まあ、見せた方が早いかな。そのためにこんなところまで連れ出したんだし」
そう言って椎名は目を閉じる。
カサカサと木々の葉が擦れる音が、静かな夜の村にやけに大きく響いたのだ。