*****

 土曜日の正午前。天気は晴天。俺は友達の優とデパートのゲームセンターに遊びに来ていた。
「優。俺トイレ言ってくる」
「おう、行ってこい」
 クレーンゲームに夢中の優を置いて、俺はキラキラと光るゲームセンターをあとにした。トイレから出ると、どんっと誰かと鉢合わせる。
「おっと! すみませんって深森じゃん」
「ごめんなさい」
 一瞬誰かわからなかった。
 深森は頬を少し赤らめた。俺は食い入るように上から下まで深森を凝視した。私服姿の新鮮さで、なぜか俺の心臓がドキリと跳ねた。
 長い漆黒の髪を軽くカールさせ、ピンクのリボンが結われている。清楚な真っ白なワンピースを着こなし、鞄は意外な真っ赤だった。
 こわ。女は化けるな。
 その以外な可愛さに、なんだか心がそわそわした。俺はまぎらわすように目を泳がせ
「深森ってピンクが好きなのな」
 と聞いた。
「えっ……」
「だってリボン」
 ぎょっとする深森。俺はそのときほんの少し違和感を感じた。
「失礼します」
 小さな声が俺をすり抜けていく。
「──って深森。そっちは男子トイレだって」
 ビクリとして振り返る深森。ますます顔を赤らめる。なんだか可笑しくて俺は盛大に笑った。
「ははは。なんだ深森って、おっちょこちょいなんだな。しっかりマーク見ろよ」
 何気ないその言葉に深森は、ぎゅっと口を引き結び涙目になった。
「今度から気をつけるね」
 言って深森は走り去ってしまった。
 ぼつりと残され、俺は沈下した炎のようにブスブスと嫌に燻る感情がベタつくように張り付いていた。
 なんだよ。なんでそんな泣きそうな顔になるんだよ。
 一気に興が冷めた。
 傷つけるようなこと言ったか? ちょっと笑っただけじゃん……。
 涙目の深森が脳裏に焼き付いた。
 悪いことをした罪悪感がしこりのように心に残る。しかし、まったく深森が理解できず俺はだんだん腹が立ってきた。
 変な奴。変な奴。変な奴。──怒りをぶつけるように俺はクレーンゲームに没頭した。
「駆、なにかあったのか?」
「別に」
「愛想笑いが崩れてるぞ」
「……」
 優に言われたが、優相手にわざわざ疲れる愛想笑いが出来るわけがない。
 そのあとは散々だった。乱れた心のせいで、ひとつのクレーンゲームに三千円も投入してしまった。
 どよん。
 あんなに晴れていた空もいつの間にか厚い雲に覆われ、俺の晴れやかな気分は反転した。
 俺の三千円返せよ深森!
 っと理不尽に心のなかで罵倒したのだった。
*****

「なぁ、深森ってどんなやつ」
 クラス委員の陽子に聞いてみた。陽子は要領よく、なんでもこなし、クラスのことをよく見ている。しかし率先して面倒ごとには首を突っ込まない。わかっていても助け船を出すタイプではない。聞けば答えてくれるので女子のことで聞きたいことがあれば、だいたいみんな陽子に聞いていた。
「さぁ。なんか幽霊みたいな子かな」
「幽霊?」
 意外な答えに俺は驚いた。
 空気みたい。っと答えると思ったのだ。
「だって気配を感じると居るって感じなんだもん。普段は視界に入らないのに、時々、目につくの」
「へぇー。例えば」
「そうね……。そうだクリスマスの日にさ、家庭科で小さなクリスマスケーキ作ったよね」
「そんなこともあったな」
「スポンジは用意されてて、生クリームとイチゴを載せてデコレーションしたでしょう。あのときさ、深森さん、山盛りにあったイチゴの中から、青い苺ばかり選ぶんだよ。全部じゃないけど、何でって目についたんだよ」
「残り物が青かっただけだろう」
「違うよ。左から順番の席から5個持っていきなさいって先生が言ったじゃん。永田君忘れちゃった」
「そうだったっけ」
「そうだよ。始めの方に取りに行ったのに、なんで不味そうな苺を選ぶんだろうって、やけに目についたんだぁ。他の子はクスクス笑って幽霊だから青いのがいいのかなって言ってたけど」
 それを聞いて、陽子の友達が机に肘をついてクスクスと意地悪く陽子の陰に隠れるように笑っている。
 感じ悪い奴ら。
 それにしても、そうだったのか。幽霊と言われてたことすらまったく気がつかなかった。俺はそれほどまでに深森に興味がなかったのだ。
 幽霊か。
 目の端で深森を捉える。
 窓際のちょうど外の壁が凸になっていて深森だけが日陰になっている。さんさんと光りは注ぐのに、そこだけ陰になっていて深森が幽霊みたいに、ぼうっと浮いているように見えた。
 その馬鹿な考えに俺は頭を振った。
 深森は生きてるつーの。
「永田君、何かあったの」
 興味津々に目を輝かせ、やけににやにやと陽子は俺を見上げた。これは絶対に恋愛ごとと結びつけようとしている目だな。
 冗談じゃない。
 俺は曖昧に答えてその場を逃げた。
 うーむ。変な噂が立たなければいいけど。それにしても深森咲楽かぁ。
 ピンクの筆箱を拾ってから俺はずっと深森が気になり自然と目で追っていた。
 純粋な好奇心だ。
 目の隅にいる深森は、いつでもひとりでいた。それこそ放課も、移動の時間も、体育の授業も。
 なんであんなに人と距離を置くんだろうか。
 暗い教室の片隅で、自分の机ばかり、にらめっこしている深森。なんでだろう。目が離せない。──そうして必ずデパートで鉢合わせたときのことを思い出す。
 泣きそうな顔。
 ツキン。
 心臓にトゲがぶすりと突っ込んできた。
 なんだよ。俺は陽子たちみたいに陰で笑ったりしてないぞ。ましてや幽霊なんて言ってないぞ。
 しかしあのあと深森は隠れて泣いていたのだろうか。俺は陽子たちよりも深森を傷つけることをしたのだろうか。
 だぁー! やっぱりわかんねー。
 俺は頭を掻きむしった。女の気持ちなんてわかるはずがないのだ。

*****

「──ばか野郎。信号赤だぞ。死にたいのか」
 下校の帰り道、赤信号を渡ろうとした深森が、口喧しい太郎じぃに怒鳴られていた。交通安全だとかで自主的に活動している変わったじぃさんだ。俺も車通りが少ないからいいやって思って渡ろうとしたら、こっぴどく叱られたことがあった。
「すみません」
 萎縮しながら深森は謝る。どうやら技とじゃないらしい。太郎じぃは安堵し「気をつけなさい」と言い、深森の肩を2度、励ますように叩いた。
 やっぱり深森はどんくさいと思う。
 俺は寒さで鼻を擦りながらその様子を遠目で見ていた。
 深森はまたしても、うつむき、青いマフラーを顎辺りまで引き上げ信号待ちをする。パッと青になる。それなのに信号を渡ろうとしない。
 まったく。下ばかり見てるから気がつかないんだよ。
 俺は深森の横を友達の優と喋りながら通り越した。ようやく気がつき深森も信号を渡る。
 変な奴だ。

「──ってことがあったんだよ兄ちゃん」
「お前なぁ。勉強聞きに俺の部屋に来たんだろう」
「だってさ、深森の奴マジで、どんくさいんだって、見ててイライラする」
「ふーん」
 夕食後。数学の宿題を思いだし、兄の真司の部屋を訪れた。兄とは5歳違いだ。雑で騷しい俺の性格と反対で、兄はおっとりとしている。なんにしても父なんかよりも、側にいると落ち着くので、もっぱら兄のもとばかり訪れる。
 兄はゆっくりとしたバラード曲を聞きながらスマホで彼女にメールを送っていた。打ち終わるとすぐに話を聞く体制をしてくれた。
「お前も女に興味を持つ年になったんだな」
「なっ。違うわ。だいたい俺は深森が苦手なんだよ」
「ははは。そのわりにはよく見てるようだがな」
 俺の顔が火照った。
「もういい、兄ちゃんに相談したのが間違いだった」
 青いベッドの前にあるちゃぶ台を、どんと手をついて俺は立ち上がる。
 自分は彼女がいて女の子に余裕があるからって、その物の言い方はないじゃんかと腹が立った。
「怒るなって、いいからちょっと座れ」
「うるさいな」
「駆」
「……」
 兄が真剣の表情をする。決まってそういうときは兄の言うことを聞いた方がいいっと経験上わかっていた。
 俺は怒りを抑えてぶちぶちと文句を言いながら、ちゃぶ台の前に座り直した。兄は余裕しゃくしゃくで顎に手をあて、目をつぶり、何かを考えている。立ち上がると本棚から何冊か出しペラペラとめくり出した。
「兄ちゃん?」
「その子、もしかして色覚異常(しきかくいじょう)なんじゃないか」
「なにそれ」
「お前。眼科の子供だろう。それぐらい知っとけよ」
 本気で驚いた顔をする兄に、俺は拗ねたように頬をハムスターのように膨らませた。
 ふーんだ。兄ちゃんが眼科の跡を継ぐんだから興味もないんだよ。いいだろう知らなくたって。
 兄は呆れたような顔をして「まぁ、この時代だから仕方がないか」なんて言った。
「色覚異常とは色の見えかたが普通と違って見える人のことだよ」
「そんな病気あるの」
「大きくわけると、先天性のものと、なにかの原因でなる後天性のものがあるそうだよ。──病気なんて色々あるさ。って言ってもこれを病気と言うのはどうかと俺は思うけどな。まぁ、個性だろう。色の見えかたが違うだけなんだから」
「どう見えるんだよ」
「そうだな。色覚異常の人は赤と緑の区別が見えにくいらしいぞ。ほらこの本を見てみろよ」
 兄に進められ本を見た。カップを置くコースターのような丸のなかに、水玉の模様が散りばめられ、赤や緑や茶色などのトリックアートのような色盲検査の図柄を見せられた。
「色んな色が見えるだろう」
「うん。真ん中に数字が書いてある」
「そうだ。通常の人はたくさんの色に見えるけど、色覚異常の人はこれらが灰色に見えるらしいぞ」
「えっ」
「次のページめくるぞ──ほら、信号見てみろよ」
「なんだよコレ。赤と緑の信号の区別がつかないじゃん」
「そうだ」
「あっ」
 そこで今日の深森の行動と合点がいった。──まてよ。じゃあ、あいつはおっちょこちょいなんかじゃなくて〃見えにくかっただけ〃なのか。
「苺は赤。美味しそうな赤と、まだ青い苺の区別がつかなかったんじゃないのか」
 俺は驚き口を抑えた。
「可愛そうにな。個性なのに陰で笑われ、幽霊なんてあだ名付けられて。お前。この前その子とトイレで鉢合わせしたって言ってたよな」
 俺は心臓をばくばくさせながら顔をあげた。兄はしっかりと俺を見て
「トイレのマークは何色だ」
 と問うた。
 はっとした。──そうか女子のマークは赤。見えにくかったんだ。そして俺は思い出す。『ははは。なんだ深森って、おっちょこちょいなんだな。〃しっかりマーク見ろよ〃』と笑い飛ばした。ああ、だから深森は傷ついて涙目になったんだ。
 知らず知らず俺は赤の見えにくい深森を馬鹿にして笑ってたんだ。
「俺、そんなつもりじゃなかったんだ」
「だろうな。きっとその子もわかってるさ」
 もやもやとする。
「なんだよ、だったら深森の奴。言ってくれればいいじゃん」
 兄は渋い顔をする。
「中学1、いや、もうすぐ2年生かぁ。お前、小3のときにホラー映画見て、怖くてトイレに行けなくなって、膀胱炎(ぼうこうえん)になったことあるだろう。あれ、みんなに理由を言ったか」
「は……恥ずかしくて言えるわけないだろう」
「だろうな。もしかしたら、その子もそう思ってるんじゃないのか」
 俺は黙った。
 前髪を伸ばし、いつも下を向く深森。
「もしかしてみんなに知られたくないのか」
「だろうな」
 パタンっと兄は本を綴じた。
「今の時代、色覚検査は廃止されている。その理由が検査によって発見された色覚異常の子供が虐めに合うことがあったからだ」
「そうなの」
 これは2012年時点の話だ。のちに知ることになるのだが、色覚検査が廃止されたことにより色覚異常が発見出来ず就職先や進学に影響がでたことから2014より小学生の色覚検査が再開された。今の俺たちは知らないことだ。
──兄は簡単に
「その子の力になってやれよ」
 なんて言った。
 俺の心は砂嵐のように荒れ狂っていた。
 力になれったって、どうすればいいんだよ。
 だって知られたくないんだろう。下手に声をかけたら俺が知ってるってバレちゃうじゃん。
 また、涙目の深森が浮かんだ。
 なんだよ。泣くなよ。
 さりげなく傷つけたことに大きなトゲが何度も俺の心を容赦なく刺してくる。ぶす。ぶす。ぶす。
 わかってるよ。助けてやりたいよ。でもどうすればいいんだよ。
 その晩。ベッドに横になり俺は悶々としていた。布団にくるまり考えた。でもなにも浮かばず無情にも時間だけが過ぎていった。俺はその日からカタツムリのように殻に引きこもった。
 なにも出来ず、ただ触角だけを伸ばし深森を遠目で観察する毎日だった。
 3月。
 ニュースでは花粉情報が飛び交うようになっていた。
「駆。お前、成績落ちたって母さんから聞いたぞ。兄の真司を見習え、まったく遊んでばかりで、父さんがなにも言わないからって眼科の息子がこんな点数とるな」
 きたよ。
 父のイライラがこっちまで伝わってくる。俺は「わかってる」と言い。不機嫌に朝ごはんを食べ、さっさと学校に向かった。
 どうにも父親が苦手だ。
 ついつい父が顔を出すと逃げ出してしまう。俺はため息をした。
 いつから父の顔を見ると逃げるようになったんだろうか。子供のころは父を尊敬する時期もあったのに。
 空を仰ぐ。まだ蕾もつけない桜の木が風に煽られて揺れている。
 そういえば家族で花見なんてしたこともなかったな。なんてどうでもいいことを思った。
 っと。
 とぼとぼと歩いていると信号待ちの深森がいた。目を細目、必死で信号機を睨んでいる。
 どうしよう。
 声をかけるか悩む。しかし深森のその必死さに俺は悩んだあげく、声をかけた。
「まだ、赤だよ」
「えっ」
 真相、驚いたようすで深森は俺を見た。俺は冷静な振りをしているが内心はドキドキだった。
「ほら、いま青」
 深森は放心状態になった。
「遅刻するぞ」
 俺はさっさと信号を渡る。深森はしずしずと俺のあとをついてきた。そして暫くすると深森が小さなボソボソ声で話しかけてきた。
「永田君、さっきのって」
「あのさ、もしかして赤、見えにくい」
 俺は意を決して言った。深森は立ち止まり愕然とする。
「知ってたの」
「なんとなく──俺、眼科医の息子だし」
 深森は握りこぶしをつくり、悪いことをしたように下を向いた。
「前向けよ。別に悪いことじゃないんだろう」
 悩んでいたのが馬鹿みたいに、すらすらと言葉が出てきた。深森は驚き、顔をあげた。すると前髪で隠れていた意外なほど大きな綺麗な瞳が俺を見つめた。
 一本。
 心のトゲがすっと抜けたような気がした。深森は優しく微笑んだ。
「ありがとう。そんな風に言ってもらえたの初めてで嬉しい」
 ああ、やっぱり深森は色のことを負い目に感じていたんだ。
「いつから」
「産まれたときからだよ」
「そっか。誰かに言わないのか」
「……私ね。幼稚園のときに桜の絵を書いたことがあるの。そのとき私は他の人と色の見えかたが違うなんて思わなくて見たままの色を塗ったんだ」
 悪い予感がした。
「嫌になっちゃう。友達に笑われて、汚いって、言われたの。だって私には桜の花は茶色で木は緑に見えたのよ。だからその通りに塗ったら、友達は、こんなの生きてない、死んだ桜みたいだって言われて、みんなに苛められたわ」
 ああ。兄ちゃんが言った通りだった。色覚異常だと知られて虐めに合う奴がやっぱりいるんだ。
「両親に言わなかったのか」
「うん。お母さんには言ってたから、たぶん薄々気がついていたんじゃないかな? でも病院で検査してもらう前に、お母さん交通事故で亡くなっちゃったんだ」
 俺は痛ましそうに顔を歪めた。
「お父さんは」
「お父さんは気づいてないんだと思う。私ね。ずっとお父さんに育ててもらったんだ。お父さんお仕事が忙しいから家にあまりいなかったし、それに心配させたくなくて。私、ずっと黙っていたの」
「困ること沢山あるだろう」
「そうだね。でも桜はピンクって知ったから、写生大会とかあるときはピンクって字の絵の具を見て塗るようにしてたりしてるんだ。知識さえ身に付ければ、世間一般では赤、緑、ピンクなんだって合わせれば、なんとかなるんだよ」
「そっか」
「でもね。服は色の明示されてるからいいんだけど。たまに小物とか載ってないから、白だと思ってたらピンクだったってことはあるんだよ」
 そこで、デパートで「ピンク好きなんだな」って聞いたとき、深森がぎょっとしたことを思い出す。
「もしかしてリボン」
「うん。白だと思ってた。ついでに筆箱も白だと思ってたんだ」
 ああ、だからピンクの筆箱、誰のだって聞いたとき反応がなかったのか。
「ありがとう永田くん。このことを人に話たの初めて」
 もう一本トゲが抜けた。なんだこんなふうに、さっさと話せば良かっただけなんだ。
「あのさ、なんでクラスでひとりでいるの」
「だって、誰かと一緒にいると目のことバレちゃうでしょう。そしたら、もしかしたらお父さんの耳に入るかもしれない。私、知られたくないの、普通の子じゃないなんて」
 父親を大切に思ってるんだろうな。父が苦手な俺には心が痛い。
「でもさ、深森の父さん再婚したんだろう。新しいお母さんとかも出来たんだし、言ってみたら? 俺さ色覚異常のこと調べたんだ。ちゃんと色が認識できるメガネってのが、あるんだっ……」
「やめて」
 悶々と考えているあいだ。俺はスマホや兄の部屋の本棚をさばくって調べた。それを自慢げに提案しかけたが、深森は鋭くその言葉を切り込み遮った。
「言えないよ」
「なんで? 家族だろ」
「言ったら、お父さんが嫌な思いをするだけよ」
「そんなことないと思うけど」
「いいの、このままで。──それにやっと再婚できてお父さん幸せになったんだから煩わせたくない」
「でもさ」
「それに新しいお母さんも良くしてくれるの。妹の秋ちゃんも可愛い」
「なら、なおさらさ」
「普通じゃないなんて知られたくないの。それにメガネって色が着いたメガネでしょう。そんなの着けたら私が色覚異常者だってまわりに教えているようなものじゃない。そんなのみんなの噂の餌食にされるわ。また苛めに合うじゃない」
「でもさ、信号とかあぶな」
「永田君にはわからないのよ」
 言葉にカチンときた。
 ああ、わかんないよ。でもさ俺だってお前を思って色々調べたんだ。なんだよ頭ごなしに……。
「あのさ、お父さんは仕事ばかりしてて気づかないかもしれないけど、新しいお母さんは一緒に暮らしている以上、違和感に気がつくんじゃねーの。だったら自分から言えばいいじゃん。悪いことじゃないんだからさ」
「やめてよ。普通の人には私の気持ちなんてわかりっこないんだから」
 そう言って今にも泣き出しそうな表情で深森は怒り学校へ走っていった。
 正直。言いすぎたと思った。
 折角抜けたトゲが倍に増えて突き刺さった。
 傷つけるつもりじゃなかったんだ。
 最後の冷たい北風が、びゅうっと二人の間を通り抜けた。
 学校についてもお互い話すこともなく。目を合わすこともなかった。そしてとうとう俺たちは喧嘩したまま春休みに突入したのだった。
「なぁ、兄ちゃん普通ってなに」
 兄はベッドに寝っ転がりスマホを弄っている。俺は床に座り背をベッドにあずけた。兄はスマホを触るのをやめ脇に置いた。
「なんだろうな難しいな。普通って定義にするから難しいんだろうな。俺から言わせれば普通じゃなく、風変わりって言い回しになるんだけどな」
「兄ちゃんが言うと、なんか説教ぽいよ。ねー。目の見え方が違うのって親に言えないことなのかな」
「さぁな、その子の考え方だろうな」
「深森は言えないんだって、黙ってて辛くないのかな」
「それがその子の優しさなんだろうな」
「うん」
 俺はそれ以上言葉が見つけられなかった。
 そうなのだ。優しいから親には言えない。でも隠し通すってどれだけ大変なのだろうかと、ない脳ミソで考える。
 きっと辛くないわけがない。
 俺なら兄ちゃんに相談する。でも深森はずっと兄弟がいなかったんだ。母もいない。相談できる人がいない。ようやく出来た新しい家族。
 ああ、嫌われたくないよな。
 学校でいつも下ばかり見ている深森。
「深森が上を向いて生活できるようになれればいいのに」
 ぼそりと言うと兄は優しく笑って、俺の頭を撫でくりまわした。
「やめろって、なんだよ兄ちゃん」
「お前は可愛いな」
「ああ。喧嘩売ってんの」
「あはは」
 それでも兄は俺の頭を撫でるのを止めなかった。こんなときはマジで鬱陶しい。

──ピンポン。
 家のチャイムが鳴った。すぐに母に呼ばれ、俺はぶつぶつと文句を言いながら髪の乱れを手櫛で直し玄関に出た。
 息が止まるかと思った。目の前には深森が立っていたからだ。
「永田君。ごめんなさい」
 突然、謝られて俺は焦った。
「ちょ、ちょ。なに? どうしたん」
 深森は顔をあげて、言いにくそうにしていたが、心が定まったのか、すらすらと話だした。
「あなたの言う通りだったの。その……新しいお母さんがね、異変に気がついてたんだ。それでね。わかったうえで話してくれて、私の目のこと普通の子だって言ってくれたんだ」
 俺は嬉しさが込み上げてきた。
「良かったじゃん」
 深森は嬉しそうに微笑み頷いた。
「お父さんとも話し合ったの。気づいてあげられなくてごめんって逆に謝られちゃった。私が隠してたからいけないのに」
「それは、深森の優しさからだろう」
 深森は大きな目を見開いたあと、柔らかく細め、ちいさな手のひらを組んだ。
「ありがとう永田君。もっと早くにお父さんに話てればよかったって今は後悔してるんだ。それでね、色覚補正メガネを作ろうって話になったの」
「そうなんだ」
 前向きな深森は初めて見る。
「私知りたいの、桜の花の本当の色」
「え。桜?」
 予想外な言葉に驚いた。
 俺は桜が嫌いなんだけどなぁ。なんて言えなかった。
「私の名前は、桜の花からつけられているんだって、お父さんが言ってた。亡くなったお母さんが1番好きな花が桜だったんだ。だから桜の花のように咲き誇り、いつも楽しい気持ちでいられるようにって、咲楽って私につけたんだって」
「そうだったんだ」
「私、ずっと桜が大嫌いだったの。虐められた原因だし、それに私には茶色の花に見えていたから、枯れ草とそんな変わらなくて、綺麗だなんて思ったこともないんだ。ずっとなんでそんな汚い花の名前をつけたんだって思ってた。だって私には秋に散るイチョウの葉のが綺麗なんだもの、でも、今はみんなが綺麗だって言ってる桜の花を見てみたいの。そう思えるようになったのは永田君のおかげだよ」
 晴れやかな深森は、俺の今まで知ってた深森咲楽ではなかった。たぶんきっと、これが本当の深森咲楽なんだろう。物静かなだけの女の子じゃない。きっとお喋り好きな普通の女の子だったんだ。
「俺は何もしてないよ」
「そんなことないよ。目のこと受け入れてくれた。凄く嬉しかったの」
 素直に気持ちをぶつけてくる深森に、なぜか俺の背中がこそ痒くなった。
 そんな真っ直ぐ俺を見るなよ。
 いつも深森を盗み見していたくせに、まともに目が合わせられない。眩しいほどに深森は「ふふ」っと笑った。
 馬鹿。そんな嬉しそうに笑いかけるなよ。目のやり場に困る。なぜかそんなことを思った。
 そんな俺の心境も知らず深森は話続けた。
「私、1度検査しようってことになって眼科に行くことになったの、だからね、どうしても永田眼科がいいって言っちゃった」
 上目遣いで俺を見つめる深森。
 その信頼した目は、俺を頼ってくれているのだろう。実際見るのは父だけど、深森のためなら俺は苦手な父だろうが相手してやろうと思った。
「なら俺が予約しといてやるよ」
 と心から言葉が出た。
「えっ。わるいよ。自分で……」
「やらせろよ、それぐらい」
「……うん。ありがとう」
 ざわっと家の木の葉が揺れた。
 深森の前髪が掻き分けられ、柔らかな笑顔が写真のように焼き付いた。
 触れたい。
 それは髪なのか肩なのか手なのかわからなかった。この感情はどこから湧いてくるのだろうか。
 ああ、ずっと押し込めていたが、これは認めるしかないのかな……。
 深森はその後、何度もお礼を言って家に帰って行った。
 俺は照れ隠しに鼻の頭を擦る。そして、どうしたもんかと首をひねった。
 父を説得しないといけない。以前、友達の眼科の予約を安請け合いしたら、どえらい怒られたことがあった。絶対に雷が落ちるだろう。
 それでも、どうしてもなにか力になってやりたかった。
 ばたん。と玄関の扉を閉めると兄が「お前。格好いいじゃん」なんて冷やかしてきた。
「別に」
 素っ気なく答えたが、風船のようになんだか心が軽くなった。
 ピシャリ。そらきた。
「──馬鹿なことを言うな。友達を見てやってくれだと。患者は特別扱いはしないっと前にも言っただろうが」
 案の定、雷が落ちた。
 俺は引き下がる訳にはいかなかったのだ。深森の笑った顔が脳裏に浮かんだ。もっともっとあんな顔をさせたいんだ。父の激怒に恐怖して俺の体は硬直し、少し震えた。それでも……。
「父さん、お願いします」
 俺は背を深く曲げてお願いした。
「くどい」
「その子、色覚異常者なんだ」
「だからなんだ。男性は20人にひとり。女性で500人にひとりいるとされている。特別扱いはしない。だいたいこんな忙しい花粉時期に馬鹿なことを言うな。色覚異常など普通にいるんだ……見てほしいなら自分で予約しなさいと、その子に言いなさい」
「俺から予約してやるって言ったんだ」
 俺は何年かぶりに父をしっかりと見据えた。
 父は金縛りにあったかのように動きを止めた。家の柱に掛けられた時計の秒針の音が鳴り響く。長く思える重い沈黙が二人のあいだを包んだ。その間も俺は瞬きも忘れ、父の目を見逃さないようにじっと見ていた。父は驚き俺を下から上まで見下ろした。
「お前の顔をちゃんと見たのは久しぶりだな」
「えっ」
 見下していたのかと思っていたが、その父の意外な言葉に、今度は俺が硬直した。すると、その場にいた兄と母は顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。
「駆。父さんは寂しかったんだよ。お前、父さんの顔を見る度にすぐにどっか行って逃げるだろう」
「おい。真司」
 えっと。そうだっけ。いやだって父さん小言ばかりだから。
 ゴホンっと、どこか決まり悪げに父は咳払いをし、なにか考える素振りをすると、おもむろに
「確か、来週の月曜日にキャンセルの客がいた。11時だ」
と言った。
「えっ」
 俺が目をパチクリさせていると、父はひとつため息を吐き俺を見た。
「引き受けてしまったんだろう。見てやる。だか、こんなことは2度とないと思え」
 ぶっきらぼうに父は言い。いつもなら俺が居たたまれなくなり逃げるのに、父は照れ隠しのようにリビングから出て行こうとしていた。
 俺は嬉しくて満面の笑みをして「ありがとう」と言った。父は首だけで振り返り、難しそうな眉が一瞬下がり口角が少し上がった気がした。そのままリビングを出て行った。
 父さんってこんな風に笑ったっけ。
 俺は何年ぶりかに父の笑ったところを見たと思った。
 決まればトントン拍子で話が進んだ。義母に連れられて深森は永田眼科に訪れた。やはり検査の結果は色覚異常とされた。父の進めで専門のメガネを作ることになった。
「これが赤?」
 深森はメガネを着けて真相驚いたと言う。
「──色鮮やかとは聞いていたけど、こんな色だったんだってそのとき思ったの」
 俺の家に報告に来て深森は教えてくれた。
 その言葉を聞いた時、俺は初めて父の仕事を誇れた。
 くしゅん。
 相変わらず花粉症で訪れる患者は多い。院内に入っていく患者を見やり、ふふっと嬉しそうに深森は笑い、俺の手を握った。なんだか普段と見慣れた景色がいつも以上に色づいて見えた。
 なんだこれ。
 俺も花粉症になったのか。
「ありがとう永田くん」
 じんわりと感じる深森の手が気持ちが良くて、体が熱くなる。
「それでね。今ね、家族と花見をしているの」
「へぇ。抜け出してきて良かったの?」
「うん。ちゃんと断ったから」
「どうだった。桜」
「茶色」
「え!」
「ふふ。まだメガネつけて見てないの」
「なんで」
「永田君と見たかったの」
 どくんっと心臓が跳ねた。

──ざぁっと見事な桜吹雪が舞った。桜は満開だ。
「メガネ着けてみろよ」
 深森は「うん」と言って装着する。180度、桜を見回した。
「うわぁ綺麗。これがピンク。これが本当の桜なの」
 目の前に広がる淡いピンクの花に、深森の顔が自然と上を向いた。
 花見に来る客は沢山いるのに、俺の目には桜の花と深森しか映らない。
 賑わう露店の声も、はしゃぐ子供の声も、ビールを飲み騒ぐ大人の声も、風の音となんら変わらなかった。
「私ね。みんなが花見をするのが理解できなかったんだ。でも……」
 深森と俺の間をピンクの花びらが、儚く、ひらひらとゆっくりと落ちていく。
 つっと深森の瞳から涙が頬を伝った。
 深森は幽霊のようにふっと消えてしまいそうなほど淡白に透明に見えた。
 幽霊か。
 もしかしたら幽霊の涙は、本当は綺麗なのかもしれない。俺はそんなことを思い。ロマンチックなその発想にカッと恥ずかしくなり顔を赤らめた。
「どうしたの。顔が赤いよ」
「……なんでもないよ」
「ふふ。変な永田君」
 桜に溶け込む深森が、このうえなく桜が似合っている。
「なぁ、お前のことさ、咲楽って呼んでもいいか」
「うん。いいよ。……駆君」
 どくん。
 俺の下の名前を知ってたことに驚き、心がざわついた。俺はまたしても頬を赤らめる。
「桜。好きになりそう」
 咲楽が言うと俺も頷いた。
 幾度となく咲楽の目から澄んだ涙がこぼれる。
 辛くて悲しい涙じゃなくて良かった。
「綺麗」
「……ああ。綺麗だな」

 俺は桜が咲く時期が嫌いだ。しかし、来年はきっと……。
 首が痛くなるほど俺たちは、ずっと上を見ていた。ピンクの桜が嬉しそうに、柔らかな風に吹かれ、楽しそうに振り子のように揺れている。
 きっとこれからは桜の咲く時期が好きになる。
 だって桜を見る度に、このときの咲楽を思い出せるから。
──好きだ。

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