3月。
 ニュースでは花粉情報が飛び交うようになっていた。
「駆。お前、成績落ちたって母さんから聞いたぞ。兄の真司を見習え、まったく遊んでばかりで、父さんがなにも言わないからって眼科の息子がこんな点数とるな」
 きたよ。
 父のイライラがこっちまで伝わってくる。俺は「わかってる」と言い。不機嫌に朝ごはんを食べ、さっさと学校に向かった。
 どうにも父親が苦手だ。
 ついつい父が顔を出すと逃げ出してしまう。俺はため息をした。
 いつから父の顔を見ると逃げるようになったんだろうか。子供のころは父を尊敬する時期もあったのに。
 空を仰ぐ。まだ蕾もつけない桜の木が風に煽られて揺れている。
 そういえば家族で花見なんてしたこともなかったな。なんてどうでもいいことを思った。
 っと。
 とぼとぼと歩いていると信号待ちの深森がいた。目を細目、必死で信号機を睨んでいる。
 どうしよう。
 声をかけるか悩む。しかし深森のその必死さに俺は悩んだあげく、声をかけた。
「まだ、赤だよ」
「えっ」
 真相、驚いたようすで深森は俺を見た。俺は冷静な振りをしているが内心はドキドキだった。
「ほら、いま青」
 深森は放心状態になった。
「遅刻するぞ」
 俺はさっさと信号を渡る。深森はしずしずと俺のあとをついてきた。そして暫くすると深森が小さなボソボソ声で話しかけてきた。
「永田君、さっきのって」
「あのさ、もしかして赤、見えにくい」
 俺は意を決して言った。深森は立ち止まり愕然とする。
「知ってたの」
「なんとなく──俺、眼科医の息子だし」
 深森は握りこぶしをつくり、悪いことをしたように下を向いた。
「前向けよ。別に悪いことじゃないんだろう」
 悩んでいたのが馬鹿みたいに、すらすらと言葉が出てきた。深森は驚き、顔をあげた。すると前髪で隠れていた意外なほど大きな綺麗な瞳が俺を見つめた。
 一本。
 心のトゲがすっと抜けたような気がした。深森は優しく微笑んだ。
「ありがとう。そんな風に言ってもらえたの初めてで嬉しい」
 ああ、やっぱり深森は色のことを負い目に感じていたんだ。
「いつから」
「産まれたときからだよ」
「そっか。誰かに言わないのか」
「……私ね。幼稚園のときに桜の絵を書いたことがあるの。そのとき私は他の人と色の見えかたが違うなんて思わなくて見たままの色を塗ったんだ」
 悪い予感がした。
「嫌になっちゃう。友達に笑われて、汚いって、言われたの。だって私には桜の花は茶色で木は緑に見えたのよ。だからその通りに塗ったら、友達は、こんなの生きてない、死んだ桜みたいだって言われて、みんなに苛められたわ」
 ああ。兄ちゃんが言った通りだった。色覚異常だと知られて虐めに合う奴がやっぱりいるんだ。
「両親に言わなかったのか」
「うん。お母さんには言ってたから、たぶん薄々気がついていたんじゃないかな? でも病院で検査してもらう前に、お母さん交通事故で亡くなっちゃったんだ」
 俺は痛ましそうに顔を歪めた。
「お父さんは」
「お父さんは気づいてないんだと思う。私ね。ずっとお父さんに育ててもらったんだ。お父さんお仕事が忙しいから家にあまりいなかったし、それに心配させたくなくて。私、ずっと黙っていたの」
「困ること沢山あるだろう」
「そうだね。でも桜はピンクって知ったから、写生大会とかあるときはピンクって字の絵の具を見て塗るようにしてたりしてるんだ。知識さえ身に付ければ、世間一般では赤、緑、ピンクなんだって合わせれば、なんとかなるんだよ」
「そっか」
「でもね。服は色の明示されてるからいいんだけど。たまに小物とか載ってないから、白だと思ってたらピンクだったってことはあるんだよ」
 そこで、デパートで「ピンク好きなんだな」って聞いたとき、深森がぎょっとしたことを思い出す。
「もしかしてリボン」
「うん。白だと思ってた。ついでに筆箱も白だと思ってたんだ」
 ああ、だからピンクの筆箱、誰のだって聞いたとき反応がなかったのか。
「ありがとう永田くん。このことを人に話たの初めて」
 もう一本トゲが抜けた。なんだこんなふうに、さっさと話せば良かっただけなんだ。
「あのさ、なんでクラスでひとりでいるの」
「だって、誰かと一緒にいると目のことバレちゃうでしょう。そしたら、もしかしたらお父さんの耳に入るかもしれない。私、知られたくないの、普通の子じゃないなんて」
 父親を大切に思ってるんだろうな。父が苦手な俺には心が痛い。
「でもさ、深森の父さん再婚したんだろう。新しいお母さんとかも出来たんだし、言ってみたら? 俺さ色覚異常のこと調べたんだ。ちゃんと色が認識できるメガネってのが、あるんだっ……」
「やめて」
 悶々と考えているあいだ。俺はスマホや兄の部屋の本棚をさばくって調べた。それを自慢げに提案しかけたが、深森は鋭くその言葉を切り込み遮った。
「言えないよ」
「なんで? 家族だろ」
「言ったら、お父さんが嫌な思いをするだけよ」
「そんなことないと思うけど」
「いいの、このままで。──それにやっと再婚できてお父さん幸せになったんだから煩わせたくない」
「でもさ」
「それに新しいお母さんも良くしてくれるの。妹の秋ちゃんも可愛い」
「なら、なおさらさ」
「普通じゃないなんて知られたくないの。それにメガネって色が着いたメガネでしょう。そんなの着けたら私が色覚異常者だってまわりに教えているようなものじゃない。そんなのみんなの噂の餌食にされるわ。また苛めに合うじゃない」
「でもさ、信号とかあぶな」
「永田君にはわからないのよ」
 言葉にカチンときた。
 ああ、わかんないよ。でもさ俺だってお前を思って色々調べたんだ。なんだよ頭ごなしに……。
「あのさ、お父さんは仕事ばかりしてて気づかないかもしれないけど、新しいお母さんは一緒に暮らしている以上、違和感に気がつくんじゃねーの。だったら自分から言えばいいじゃん。悪いことじゃないんだからさ」
「やめてよ。普通の人には私の気持ちなんてわかりっこないんだから」
 そう言って今にも泣き出しそうな表情で深森は怒り学校へ走っていった。
 正直。言いすぎたと思った。
 折角抜けたトゲが倍に増えて突き刺さった。
 傷つけるつもりじゃなかったんだ。
 最後の冷たい北風が、びゅうっと二人の間を通り抜けた。
 学校についてもお互い話すこともなく。目を合わすこともなかった。そしてとうとう俺たちは喧嘩したまま春休みに突入したのだった。