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「──ばか野郎。信号赤だぞ。死にたいのか」
 下校の帰り道、赤信号を渡ろうとした深森が、口喧しい太郎じぃに怒鳴られていた。交通安全だとかで自主的に活動している変わったじぃさんだ。俺も車通りが少ないからいいやって思って渡ろうとしたら、こっぴどく叱られたことがあった。
「すみません」
 萎縮しながら深森は謝る。どうやら技とじゃないらしい。太郎じぃは安堵し「気をつけなさい」と言い、深森の肩を2度、励ますように叩いた。
 やっぱり深森はどんくさいと思う。
 俺は寒さで鼻を擦りながらその様子を遠目で見ていた。
 深森はまたしても、うつむき、青いマフラーを顎辺りまで引き上げ信号待ちをする。パッと青になる。それなのに信号を渡ろうとしない。
 まったく。下ばかり見てるから気がつかないんだよ。
 俺は深森の横を友達の優と喋りながら通り越した。ようやく気がつき深森も信号を渡る。
 変な奴だ。

「──ってことがあったんだよ兄ちゃん」
「お前なぁ。勉強聞きに俺の部屋に来たんだろう」
「だってさ、深森の奴マジで、どんくさいんだって、見ててイライラする」
「ふーん」
 夕食後。数学の宿題を思いだし、兄の真司の部屋を訪れた。兄とは5歳違いだ。雑で騷しい俺の性格と反対で、兄はおっとりとしている。なんにしても父なんかよりも、側にいると落ち着くので、もっぱら兄のもとばかり訪れる。
 兄はゆっくりとしたバラード曲を聞きながらスマホで彼女にメールを送っていた。打ち終わるとすぐに話を聞く体制をしてくれた。
「お前も女に興味を持つ年になったんだな」
「なっ。違うわ。だいたい俺は深森が苦手なんだよ」
「ははは。そのわりにはよく見てるようだがな」
 俺の顔が火照った。
「もういい、兄ちゃんに相談したのが間違いだった」
 青いベッドの前にあるちゃぶ台を、どんと手をついて俺は立ち上がる。
 自分は彼女がいて女の子に余裕があるからって、その物の言い方はないじゃんかと腹が立った。
「怒るなって、いいからちょっと座れ」
「うるさいな」
「駆」
「……」
 兄が真剣の表情をする。決まってそういうときは兄の言うことを聞いた方がいいっと経験上わかっていた。
 俺は怒りを抑えてぶちぶちと文句を言いながら、ちゃぶ台の前に座り直した。兄は余裕しゃくしゃくで顎に手をあて、目をつぶり、何かを考えている。立ち上がると本棚から何冊か出しペラペラとめくり出した。
「兄ちゃん?」
「その子、もしかして色覚異常(しきかくいじょう)なんじゃないか」
「なにそれ」
「お前。眼科の子供だろう。それぐらい知っとけよ」
 本気で驚いた顔をする兄に、俺は拗ねたように頬をハムスターのように膨らませた。
 ふーんだ。兄ちゃんが眼科の跡を継ぐんだから興味もないんだよ。いいだろう知らなくたって。
 兄は呆れたような顔をして「まぁ、この時代だから仕方がないか」なんて言った。
「色覚異常とは色の見えかたが普通と違って見える人のことだよ」
「そんな病気あるの」
「大きくわけると、先天性のものと、なにかの原因でなる後天性のものがあるそうだよ。──病気なんて色々あるさ。って言ってもこれを病気と言うのはどうかと俺は思うけどな。まぁ、個性だろう。色の見えかたが違うだけなんだから」
「どう見えるんだよ」
「そうだな。色覚異常の人は赤と緑の区別が見えにくいらしいぞ。ほらこの本を見てみろよ」
 兄に進められ本を見た。カップを置くコースターのような丸のなかに、水玉の模様が散りばめられ、赤や緑や茶色などのトリックアートのような色盲検査の図柄を見せられた。
「色んな色が見えるだろう」
「うん。真ん中に数字が書いてある」
「そうだ。通常の人はたくさんの色に見えるけど、色覚異常の人はこれらが灰色に見えるらしいぞ」
「えっ」
「次のページめくるぞ──ほら、信号見てみろよ」
「なんだよコレ。赤と緑の信号の区別がつかないじゃん」
「そうだ」
「あっ」
 そこで今日の深森の行動と合点がいった。──まてよ。じゃあ、あいつはおっちょこちょいなんかじゃなくて〃見えにくかっただけ〃なのか。
「苺は赤。美味しそうな赤と、まだ青い苺の区別がつかなかったんじゃないのか」
 俺は驚き口を抑えた。
「可愛そうにな。個性なのに陰で笑われ、幽霊なんてあだ名付けられて。お前。この前その子とトイレで鉢合わせしたって言ってたよな」
 俺は心臓をばくばくさせながら顔をあげた。兄はしっかりと俺を見て
「トイレのマークは何色だ」
 と問うた。
 はっとした。──そうか女子のマークは赤。見えにくかったんだ。そして俺は思い出す。『ははは。なんだ深森って、おっちょこちょいなんだな。〃しっかりマーク見ろよ〃』と笑い飛ばした。ああ、だから深森は傷ついて涙目になったんだ。
 知らず知らず俺は赤の見えにくい深森を馬鹿にして笑ってたんだ。
「俺、そんなつもりじゃなかったんだ」
「だろうな。きっとその子もわかってるさ」
 もやもやとする。
「なんだよ、だったら深森の奴。言ってくれればいいじゃん」
 兄は渋い顔をする。
「中学1、いや、もうすぐ2年生かぁ。お前、小3のときにホラー映画見て、怖くてトイレに行けなくなって、膀胱炎(ぼうこうえん)になったことあるだろう。あれ、みんなに理由を言ったか」
「は……恥ずかしくて言えるわけないだろう」
「だろうな。もしかしたら、その子もそう思ってるんじゃないのか」
 俺は黙った。
 前髪を伸ばし、いつも下を向く深森。
「もしかしてみんなに知られたくないのか」
「だろうな」
 パタンっと兄は本を綴じた。
「今の時代、色覚検査は廃止されている。その理由が検査によって発見された色覚異常の子供が虐めに合うことがあったからだ」
「そうなの」
 これは2012年時点の話だ。のちに知ることになるのだが、色覚検査が廃止されたことにより色覚異常が発見出来ず就職先や進学に影響がでたことから2014より小学生の色覚検査が再開された。今の俺たちは知らないことだ。
──兄は簡単に
「その子の力になってやれよ」
 なんて言った。
 俺の心は砂嵐のように荒れ狂っていた。
 力になれったって、どうすればいいんだよ。
 だって知られたくないんだろう。下手に声をかけたら俺が知ってるってバレちゃうじゃん。
 また、涙目の深森が浮かんだ。
 なんだよ。泣くなよ。
 さりげなく傷つけたことに大きなトゲが何度も俺の心を容赦なく刺してくる。ぶす。ぶす。ぶす。
 わかってるよ。助けてやりたいよ。でもどうすればいいんだよ。
 その晩。ベッドに横になり俺は悶々としていた。布団にくるまり考えた。でもなにも浮かばず無情にも時間だけが過ぎていった。俺はその日からカタツムリのように殻に引きこもった。
 なにも出来ず、ただ触角だけを伸ばし深森を遠目で観察する毎日だった。