きみとこの世界をぬけだして




母に「少し遅くなる」とラインしたのは十七時を回ったときのこと。送った直後に母からは電話がかかってきたけれど、帰りが遅くなる理由を全て説明するのは面倒だったので出なかった。


【遅くなるって何時頃?】【迎えいく?】と続けて送られてきたラインには、既読だけをつけた。


翼が何も言わずいなくなった理由が、なんとなくわかった気がする。
相手が諦めるまで鳴り続ける電話も連続で送られてくるラインも鬱陶しくて言葉を返したくない。だけど、心配性の母が不安がる気持ちもわからなくないので、既読だけは一応つけておこう。


そういうことをいちいち考えて思考を奪われるのが嫌だったんじゃないか? なんて、今ここにいない人間の思考をわかろうとしたところで、どうせ正解はでてこないんだけど。



人を探していた。遭遇できるかどうかの確証はなかったけれど、地元の高校に通う生徒たちの通学路を辿ったり、街の真ん中にあるいちばん大きな交差点で辺りを見渡したりした。


翼が残した日記のなかに名前があったあの子。夢に出てきて、何をしているか気になってしまうようなあの子。彼女なら、おれが知らない翼のことを知っているかもしれない。

時間が経ってだんだん周りが翼のニュースに興味を示さなくなる前に、おれは彼女に会っておきたかった。


「おーい、新くーん」


だからその日、彼女───庄司絢莉と偶然遭遇できた時は、柄にもなく、神様とかまじでいるかも、と思ってしまった。



彼女は、中学時代と変わらず永田百々子と木崎祐奈と一緒にいた。

おれは三人のうち誰ともきちんと関わったことはなかったけれど、彼女たちが中学時代一緒に行動していたことは知っていたので、時間が経てば経つほど翼とわかりあえなくなってしまった俺からすれば、変わらない関係を築けているのが少しだけ羨ましかった。



「庄司さんは、どう思う?」
「どうって?」
「翼は、やっぱり死んだって思う?」



彼女に何故そんなことを聞いたのか、自分でもよくわかっていなかった。

自分だけじゃないと思いたかったのかもしれない。信じたかった、───希望を抱いているのがおれだけじゃないってことを。




スケッチブックを開き、削りたての鉛筆を握った。

記憶をたどって、翼の顔を描いてみる。一卵性の双子だから、鏡を見ながら描けば大体の特徴をとらえることはできるのかもしれないが、それをしなかったのは、妥協したくなかったからだ。

手癖で描く漫画のキャラクターの何倍も難しくて何度も描きなおしたが、結局できあがった似顔絵はこの上なくへたくそで、おれはひとり、部屋で笑ってしまった。



双子なのに、おれは翼の顔をきちんと認識できない。それだけ長い間、おれは翼を避けていたということだ。


まったく似てない似顔絵の隣に、深く考えずにギターを描いた。

つばさとあまり話した記憶はないけれど、中学一年生の頃まで翼が時々ギターを弾いていることは知っていた。あの頃、隣の部屋からやさしい音色が聴こえると、おれはBGMを止めていた。翼には死んでも言わないことだけど。


ある日突然聞こえなくなったのは、多分、母の影響だと思う。俺がちゃんとしていない代わりに、母は翼に期待していたから、無駄な時間を許さなかった。

好きなことを禁止されるのはどんな気持ちなんだろう。その点、おれは絵を手離したことはなかったから、翼の苦しみは到底想像できなかった。



おれは、翼のことを何も知らない。
知らないから、話をしなければならない。


おれは変わらずひねくれていて、翼のことはどうしたって羨ましいと思ってしまうし、おれには何もないとも思ってしまう。


翼よりおれのほうがずっと死にたいって思ってるとか、わけのわからないマウントを取りそうにもなるし、運動も勉強もできるんだから絵なんか描けなくてもいいだろとかクソみたいなことも思う。


おれのことをわかってもらいたいなんて思わないし、おれの気持ちはきっと一生、翼には理解できないことだ。


だけどきっと───それはお互いさま、だから。


おれたちに必要なのはお互いをわかり合うことじゃなくて、おれたちが双子で、違う人間であることを分かろうとして、受け入れること。




まだ間に合うだろうか。

おれたちは、まだ、これから仲の良い双子になれるだろうか?


「つっても、話してみないとわかんねーよなあ……」




おれのひとりごとが静寂に落ちた時───玄関のドアが開く音がした。




駅のホームに並ぶベンチの横にギターケースを置き、俺は定刻通りやってきた上り列車をぼうっと見つめていた。


生きる、死ぬ、帰る、帰らない、生きる、死ぬ、帰る、帰らない。


それらを頭の中で唱えながら、花弁を一枚一枚抜いていく。ぷちぷちと抜けていくその行為は、快感というよりはただ何も考えずにすむという点でちょうど良かった。


当駅は終点の一つ前。視界の片隅で手動の開閉ボタンを押して乗り込んだのはひとりの老人だった。生まれも育ちもこの街で、週に一回、列車で二駅のところにある図書館を訪れているらしい。
それはつい五分前、老人が俺の目の前で落とした古びたパスケースを拾った時に、お礼と共に聞いてもいないのに伝えられた情報だった。


老人が乗り込んで扉が閉められた後、汽笛の音が鳴り、それからまもなく列車が動き出した。ガタンゴトンなんてかわいい音じゃない。ゴォ──…と鼓膜まで響く耳障りな音は、ノイズキャンセリング機能がついているイヤフォンすらも突き抜けた。


何を叫んでもかき消される。たとえばその瞬間、誰に向けているかもわからない不満を吐き捨てたって、情けないほどの弱音をこぼしたって、列車が過ぎ去る数秒が強い味方になってくれる。

もちろん、現実的にそんな野暮なことをしようとは思わないけれど、生きているうちに一度くらいは、抱いた感情をすべてを吐きだしてみたいという欲があった。


「はー……」


大きなため息が出た。幸せが逃げていくような気がする。

ここは無人駅だ。利用者は当然のように少ない。券売機もなければまともな改札もなく、出入りは自由。祖父から昨日聞いた話だが、三年前、この駅から西に十分ほど歩いたところに大きな駅ができたそうだ。

地下鉄も在来線も通っている駅で、病院やショッピングモールへのアクセスが良くなった。この辺りじゃ革命だなんだと騒がれ、住民はこぞって喜んだという。


利用者の少ないこの駅は、あと数年も経てばなくなってしまうのだろうか。


電車や駅の仕組みに詳しくないのでこの無人駅の未来のことなんてわからないけれど、なくなってから気づく愛しさとかありがたみとかを語っている人を見ると、そんなの都合良すぎだろ、と思ってしまう。



酸素を肺に送り込み、ゆっくり呼吸をする。

生きる死ぬ帰る帰らない、生きる死ぬ帰る帰らない。


この花占いが「生きる」、もしくは「帰る」で終わったとして。俺がまたあの街に帰って生きたところで、今までと何が変わるんだろう。

「死ぬ」「帰らない」で終わったとしても同じだと思う。


生活は「慣れ」だ。俺がこのまま帰らなくたって、ぽっくり死んだって、家族も知人もいずれ俺がいなくなった生活に慣れていく。

人間ってちっぽけだな、と花弁をちぎりながら俺は再びため息を吐いた。



遠ざかる列車の音とは反対に、ざっざっとコンクリートを蹴る足音が近づいてきて、俺は顔をあげた。

長く細い黒髪が揺れている。あの列車に乗っていたみたいだ。老人が乗り込む様子に気を取られていて、降りてきた人には気づかなかった。



「……久しぶり、仁科くん」



空の青に反射した彼女はやけに繊細で、それからとても綺麗だった。




彼女──庄司絢莉と顔を合わせるのは中学校の卒業式以来、実に三年ぶりのことだった。

見た目や雰囲気に多少の変化はあるものの、記憶にいる彼女と一致する。それが、今の俺にとってはとても温かく優しいものに感じられたのだった。


無人駅で再会した俺たちは、一人分の距離を空けて歩いていた。

目的地はすでに決まっているけれど、それを改まって言葉に起こすのはどこか恥ずかしくて、俺は何言わずに駅を出た。彼女は、何も言わずに俺の横をついてきた。


「元気してた?」
「うーん、それなりに」
「はは。俺もそんな感じ」


中身のない会話だったが、嫌いじゃなかった。庄司さんのほうから何か問いただしてくるようなことはなく、俺が他愛のない話題を振って、それにこたえる時間が数分続いた。


「庄司さん、本当に来てくれると思わなかった」
「……ラインしてきたの仁科くんじゃん」
「だよね。言われると思った」


我ながら贅沢すぎる言葉だ。「絶対会いに来てほしかった」くらい言えたらよかったのに、それはそれで我儘すぎる気もして、正しい言葉は見つかりそうになかった。

笑ってごまかすと、庄司さんが「でも」と開口する。



「私も、仁科くんとまた会うことになるなんて思わなかった」



俺と彼女は、友達でも恋人でもない、ただの中学時代の同級生だ。まともに会話を交わしたのは一回だけで、そのたった一回は、俺の偉そうなお説教だった。


「覚えてるかわかんないけど……私、仁科くんに言われたこと今でも覚えてるよ」
「ああ、うん。ゴミみたいなこと言った記憶ある」
「ゴミって。そこまでは思ってないよ。でも、つまんなそうな顔してるって言われたのは今も引きずってるから」
「庄司さんって意外と執念深いんだ」
「最悪。やっぱ中学の時から思ってたけど仁科くんって結構性格悪いよね」
「ごめん、自覚ある」



忘れてなどいない。あれは、一種の八つ当たりのようなものだった。

自分と似たような生き方をしている彼女を見ていると無性にイライラしてしまう、そんな時期だった。



俺達は決して仲良くなかった。それどころか、嫌われていても忘れられてもおかしくない過去の記憶があった。

それでも彼女は、昨晩俺が突然送ったラインにたった一言「いいよ」と返事をして、俺に会いに来てくれた。


「仁科くん」
「うん」
「海、私たちの街にもあったらよかったのにね」



彼女と海に行きたかった。俺の中で、それが一種の区切りのようなものに思えていた。



「生きててよかった」
「……ごめん」



別に最初から死のうと思ってなかった、なんて強がることすらできず、俺はただ、何に対してかもわからない謝罪を返すのがやっとだった。





自分がニュースになっていることを知ったのは、祖父母の家を訪れた二日後の夜のことだった。



「続いてのニュースです。B市に住む男子高校生、仁科翼くんの行方がわからなくなっていると、翼くんの母親から警察に通報がありました」


金曜ロードショーが終わったあとの、次の番組までのつなぎの時間で流れるニュース。祖父母はすでに眠っていて、居間には俺しかいなかった。


「警察は事件の可能性も視野に入れ、捜査を進めています」


自分の母親と同世代とみられる女性アナウンサーが無機質な声で原稿を読み上げている。

リュックとギターケースを背負って家を出て、電車を乗り継ぎ、二時間かけて祖母の家に来た。
大した理由じゃない。ただちょっと、生きることに疲れてしまったから羽根を伸ばしにきただけだ。


スマホの電源を切ったままにしていたので、ネットニュースやSNSは見ていなかった。バイト先や家族から電話がかかって来ることを予想していたので、あらかじめ遮断することにした。祖父母の家にいる間は、現実に引き戻すような出来事にはなるべく触れていたくなかった。


祖母と祖父は、快く俺を受け入れてくれた。
家出紛いのことをしていることも、学校のことも、何も聞いてこない代わりに、あたたかいご飯と布団を用意してくれた。


母からかかってきたと思われる電話に祖母は「……ええ? 翼が? ……こっちには来ていないねえ」と言っていた。俺から何かを言ったわけじゃない。むしろ、すでに両親に俺がここに来たことを伝えている可能性も考えていて、迎えに来られたらそれはそれだと思っていたのだ。
ありがとうと言うと、みかん食うか? と言われ、笑いながら泣きそうになってしまった。



電話のひとつでも出ておけば、母が警察に届け出ることはなかったのだろうか。
友人のひとりにでも一言くらい弱音を吐いておけば、また違っただろうか?


なんて考えたところで、今更ニュースが無かったことになるわけじゃない。


生まれ育った人口二万人の小さな街は、時々呼吸が浅くなる。
おいしい酸素をたくさん吸って、頭をすっきりさせたい。


俺はただ、少し楽になりたかっただけなのだ。



「……ホントに死ねたら楽なのに」


俺はどうすればよかったのか。こんなふうに逃げ出したくなる前に誰かに上手に頼れたら、とか、弱音が吐ける友人がひとりでもいれば違っただろうか、とか。


どうせ、生きている限り楽になれない。
例えば今抱えている悩みや苦痛が解決したって、日々を重ねていくたびに新しい悩みがやってくる。

全部考えるだけで面倒になって、思わず本音が溢れた。

ホントに死ねたら楽なのに、死ねないから、生きてるだけでただ漠然と辛いのだ。







小学五年生の時、父がギターをくれた。

どういう経緯でギターをもらうことになったのかまでは覚えていないが、父が若い頃ギターをやっていたことと、「音楽が持つ力は素晴らしい!」と熱弁したことに感動した、というのはひとつのきっかけだったのではないかと思う。


初めてギターに触れた時、世界が変わったような気がした。譜面の読み方もコードも覚えるのは大変だったけれど、父が隣で優しく教えてくれて、夢を語ってくれた。

俺にとってその時間がとても大切で、尊いものだったのだ。

けれど、それは一時の娯楽だった。中学生になる時、母は俺に「いつまでも遊んでられないのよ」と言った。母の指す“遊び”が何を指しているのか、言葉にはされなくともすぐにわかった。学生の本業は学業だから、と。そういうことを言いたかったのだと思う。


俺の家は、とても穏やかで平和な家庭だった。

母は過保護で心配性なところが難点だったけれど、それも愛ゆえのことだとわかっているつもりだったので、文句を言ったことは一度もなかった。


本当はもっとギターの練習をしたかった。もっといろんな曲を弾けるようになって、いつか自分で作詞作曲を手掛けて、俺の音楽が誰かを救えるくらい大きくなれたら──なんて、そんな夢を抱いても、母の前では言えなかった。

ギターをやめろと直接言われたわけじゃない。否定されたわけでもない。けれど、確かに感じていた。

敢えて言葉にはされない母の願いが垣間見えるたびに、俺はひとつずつ本音を呑み込むようになった。


人の雰囲気や表情、声色で感情を察するようになったのはこの頃からだ。

母に限ったことじゃない。学校でも、誰が誰に好意を寄せているとか、今この先生は機嫌が悪いとか、そういうことがわかるようになった。

頼まれてもいないのに相手の機嫌を取ったり、空気を読んだりするのはとても疲れるけれど、そんな自分にもだんだん慣れて、誰とでも平等に接するのが得意になった。元々、人と話すこと自体嫌いなわけではなかったので苦には思わなかったが、その代わり、自分に対して疑問を抱くようになった。


俺はなんでこんなことしてるんだっけ。
周りの人の機嫌をうかがって、自分を殺して、なんで生きてるんだっけ?


勉強や部活を頑張るのは俺のためじゃなくて母のためなんじゃないか。本当はもっとたくさん良い音楽に触れて、ギターの練習をして、俺が思うかっこいい自分でいたいのに。

実際は、母に否定されるのが怖くて踏み込めないだけだ。



双子の弟──仁科新は、絵がとても上手かった。部活動には所属せず、学校のテストでは常に赤点を取るようなやつだったけれど、部屋に引きこもって好きなことに熱中する姿はとてもかっこよくて、正直なところ、とても羨ましかった。


母はよく「ちゃんとしなさい」と新のことを怒っていたけれど、母の言う通りにするだけの自分がちゃんとしていることになるのなら、ちゃんとしていない人間のほうが俺にはよっぽどかっこよくて、煌めいて見えた。

けれど、双子なのに、俺と新の間にはどんどん距離ができ、だんだん最低限の会話しか交わさなくなった。嫌われていたのだと思う。いや、思う───ではなく、確かに俺は新に嫌われていたのだ。


俺も、こんな生き方しかできない自分は嫌いだったから、疑問には思わなかった。



庄司絢莉という人物に興味を持ったのは、自分の生き方につまらなさを感じ始めた頃のことだ。


席替えをして、俺の席から彼女はよく見える位置にいた。永田百々子と木崎祐奈といつも一緒にいて、クラスでも目立つ人物。良く笑うし、それなりに発言もする。

けれど、いつもどこか一歩引いているように見えた。自分を殺して周りに合わせることを正解だと思って生きてそうなところが、なんとなく、俺と似ている気がした。



話してみたいと思っていた。けれど話す機会は思いのほかなくて、ようやくちゃんと話したのは中学三年生の夏だった。

すでに、席替えをして三か月が経っていた。


休みに入る前に行われた三者面談で、母の前で有名な進学校を進めてきた担任が俺は嫌いだった。俺の意思も聞かずに進学校に進むことを前提にする母も嫌だった。

勉強は俺のためのものじゃなくて、母を安心させるための材料だと気づいてしまってから、俺はとにかく家に帰りたくなくて、放課後はよく教室で日が暮れるのを待っていた。


三年生の夏となると、県大会に出場する運動部か塾に通う生徒か何も気にせず遊ぶ生徒の三択にしぼられるので、ホームルームが終わるとすぐに帰宅する人が多く、十分も経てば教室はあっという間に無人になる。

だれもいなくなった教室で、勉強をするわけでもなく、ただぼーっと窓の外を眺めるのが、俺にとってはひそかな楽しみだった。

三年生の教室は後者の四階にあり、空が近くてグラウンドも良く見渡せる。ベランダに出て、ランニングする陸上部や下校する生徒たちの姿を眺めていると、ひとり、校舎に向かって歩いてくる生徒を見つけた。庄司さんだった。


木崎とふたりで下校したはずの彼女ひとりで戻ってきた。忘れ物でもしたのだろうか。だとすれば数分後、彼女は教室に戻ってくるだろう。

だれもいない教室で、俺がひとりベランダにいたら不思議に思われるかもしれない。

相手が彼女じゃなかったら、忘れ物とりにきた、とでも言えたかもしれないが、庄司さんに「仁科くんなにしてるの?」と聞かれたとしていつものように当たり障りなく流せる自信がなかった。いや、違うか。そうしたくなかったんだ、俺は。



一度教室を出て、トイレで彼女が来るのを待った。それから数分して控えめな足音が聞こえ、俺は教室に戻った。


彼女の目を見て話をしてみたい。友達といる時に時折つまらなさそうな表情をする理由を暴いてみたい。それで、俺は、安心したかったのだと思う。


それなのに、眩しいほどのオレンジを写真に収めようとする彼女の姿を見た時───やっぱりどこか自分と似ているような気がして、嫌いだと思った。


俺の中学時代なんて、どこをとってもしょうもない。

これと言った思い出はできないまま、母が望んだ高校に進学し、俺は高校生になった。
進学校というだけあって授業やテストはレベルが高かったけれど、頭が良いからといってみんなが真面目でお堅いわけでもなく、それなりに友達もできたし、それなりに学生らしいこともできていた。


テスト期間にみんなで集まって勉強をしたり、休みの日に男女で遊んだり、家から近いファミレスでバイトを始めたり。一応、彼女がいた時期もあった。「翼くんって本当に私のこと好き?」と聞かれ、三秒言葉に詰まった結果、「もういいよ」と言われ二か月足らずで破局してしまったが。


とはいえ全部それなりに、そこそこ充実した日々のなかにいた。


それなのに、ふとした瞬間に満足すべきはずの日々に物足りなさを感じるのは、誰かがひいたレールの上を落ちないように慎重に歩いているだけの自分に気づいているから、なのだと思う。


高校生活が進めば進むほど、その気持ちは強くなった。


成績が良くないと母に幻滅されてしまうかもとか、バイト先は常に人手不足で大変そうだからたくさんシフトを入れておこうとか、そんなのは所詮俺が勝手に思っているだけのことで、実際、仮に母が望む大学に合格したとて自分の将来像は見えないままだろうし、俺がいなくても結局店は回る。


いつだって人の機嫌を窺って、避けられそうな問題は先回りして回避する。母を心配させないために、面倒でもラインはすぐ返事をするし、成績を落とさないための努力をする。


どこをとっても、俺は変わっていない。ただ漠然と、死にたいと感じる。なんとなく生きづらいと思う。


この先も俺は、そんなことを思いながら俺のためじゃない人生を生きていくのだろうか。

そう思ったらつまらなくて、気持ち悪くて、それからとても怖かった。






高校三年生になると、模試や受験の話題ばかりが飛びかうようになり、受験期特有のぴりついた空気に居心地の悪さを覚えはじめていた。


眠りが浅くなり、夢をよく見るようになった。それも過去や理想が混じったものばかりだ。


夢の中の俺は、こぢんまりとしたライブハウスでギターを弾いていたり、新に俺の似顔絵を描いてもらったりしていた。庄司さんと一緒に海辺で弾き語りをしている日もあった。

目が覚めて嫌でも現実に引き戻されるあの感じがとにかく大嫌いで、それがまた俺のストレスを誘うのだった。


変われない自分のまま、時々周りの不幸をこっそり願って、心の中で悪口を言って、だけど現実では機嫌を窺っていくくらいがちょうどいい。

なんとかバランスを保っていたつもりだった。俺は、俺の生き方に慣れているつもりだった。
けれど所詮、「つもり」は「つもり」に過ぎなかった。



夏休みが明けてすぐ行われた実力テストの返却日。


第一希望にしていた国公立大学の判定はAで、それ以外の大学の判定はS。バイトをしながらも、母をがっかりさせないために勉強も時間をきちんと充てていたので、それなりに成果が出てほっとしていた。A判定ならほぼ安泰。このままいけば、多分、受かる。


「うわ、仁科またAかよ。やば」
「勝手に見んなよ」



一年生の頃から行動をともにしていた友人の堂島に試験結果を覗き見された。近くにいた藤田も便乗して覗き込んでくる。

同じ高校に通っている時点で学力はお互い平均以上はあったはずの堂島と藤田は、入学してからどんどん勉強しなくなっていき、赤点の常習犯だった。

「俺はヨユーでE」と堂島がお茶らけ、「おれもおれも」と藤田が同意する。かける言葉の正解が見つからず、いつも通り適当に話を流そうとおもっていた俺に、堂島は言った。


「あーあー、お前はいいよなあ。努力しなくてもできるやつでさ」


思わず、「は?」と声がこぼれる。そんな俺に気づかないまま、堂島はさらに言葉をつづけた。


「センセーにも気に入られてるし、評定も安泰だろ? バイトもやってその成績とかもう勉強しなくても受かるって。あーまじでいいなー、天才は苦労しなくて」
「いや……そういうんじゃないと思うけど」
「いやいや、ここでの否定は逆に嫌味だから! なあ藤田?」
「まじそれな? 仁科ってまじ恵まれてるよなー」


言葉が出てこなかった。入学してから築いてきたふたりとの楽しかった思い出とか、青春らしいこととか、途端に全部霞んでしょうもないものに思えてしまう。


なんでこいつらと仲良くなったんだっけ?

中学時代、全員に平等に接することで特定の存在がいなかったから、高校では関わり方を少し変えてみようと思った。席が近かった。進学校のわりにゆるそうな人たちだったから接しやすかった。深く干渉してこないから楽だった。


ああ、そうか。仲良くなったのなんて、そんな適当なる理由だったっけ。


恵まれている。天才は苦労しない。否定は嫌味。


うるせえ、黙れ。そんなこと言われたら、また俺が死にたくなってしまう。



俺の成績が良いのは才能じゃない。母を裏切らないための武器で、この学校でそれなりに過ごすための保険だ。

努力してないわけじゃない。授業も模試もしんどいし、本当はやりたくない。

だけど、ひかれたレールの上を歩くことを選んだのは俺だから。選んだからには、外れるわけにはいかないんだ。



「ハハ、逆にEで焦ってないお前らのほうが天才かもね」
「うわうぜー!」
「冗談」



本心だ。本心だけど、冗談にしないと空気が悪くなる。


こんな時でも、俺は良い顔をしてしまうのかと、そんな自分に吐き気がした。



俺が俺でいる限り、この生きづらさも死にたい気持ちもなくならない。つまらない。俺の人生、このままじゃ何も楽しくない。俺の日々を脅かすもの全部無視して遠くへ行きたい。



俺が俺を捨てることができたら───もっと新しい気持ちで生きていけるだろうか?






その夜のこと。SNSを見ていた時、ふと、俺のタイムラインに綺麗な海の写真が流れてきた。


青が煌めいていて、太陽が眩しくて、とても美しかった。


そういえば、最後に海を見たのはいつだろう。父方の祖父母は、海が良く見える山の上に住んでいて、昔はよく長期休暇になると家族全員で顔を出しに行っていた。

けれど、中学生になったあたりからはどうしても部活や塾の関係もあって祖父母の家にはなかなか顔を出せなくなっていった。


「海いいなー……」


綺麗な海が見たい。美味しい空気を吸いたい。自然に触れて、俺のことを開放してあげたい。


ふと思い立ったこの気持ちが、今の俺にとっては学校やバイトよりずっとずっと大切なものに思えたのだった。




祖父母の家に行くことにした。電車を乗り継いで一時間半。

遠すぎなくて近すぎない、程よい距離の、俺だけの秘かな旅だ。



頭を冷やすにはちょうどいい。一週間ほどスマホの電源を切って、家族にも友人にも内緒で、俺は俺をやめてみよう。


大きな理由もなく死にたいと思う毎日は、思うだけでひとりじゃ実践する勇気もない。

だけど、これからもしかしたらすごく良いことがあるかもしれない。どこか、何かのタイミングで音楽の道に進めるようになるかもしれない。


俺がこれから大丈夫になる保証なんてどこにもないけれど───先のことなんて、生きてみないとわからない。



例えば今突然死んだって、俺の人生は素晴らしいものだったと思えるような毎日にしたいから。



卒業以来一度も動いていない、中学のグループライン。メンバーのなかから、彼女の連絡先を見つけて追加した。このグループは何度も退会しようと思ったけれど、しなくてよかったと心の底から過去の自分に感謝した。


トークルームを開き、震える手で文字を打つ。今更なんだと思われるかもしれないし、忘れられている可能性も捨てきれなかったが、そんなことは今の俺にとっては大した問題ではなかった。これがひとつの区切りのようなものだった。


【海いかない?】



庄司絢莉。烏滸がましいかもしれないけれど、君にだけは、わかってもらいたかった。






海につくまでの間、俺と庄司さんはいろんな話をした。歩くには疲れるような道と時間だったけれど、それがあっという間に感じるほど、俺たちは確かに濃い時間を共有していた。


中学時代のこと。今ある日々のこと。

改まって自分たちの話をするのは恥ずかしくて、けれどとても大切な時間だった。



「でも、仁科くんはやっぱり仁科くんのままだったなって思う」


きらめく海を見つめながら、庄司さんがふと声をこぼす。どういうこと? と視線を移すと、光が差し込む彼女の瞳と目が合った。潮風に黒髪が靡いている。ふ、と笑われ、心臓が鳴った。


「なんかこう、ちょっと尖ってるっていうか。仁科くんはやっぱり今も良い人のふりしてるなあって」
「それ、褒めてないよね?」
「わはは、うん。でも、それが仁科くんなんだって知れたからいいの。むしろ今更仁科くんに優しくされても怖いもん」



あまり変われないまま、俺は十八歳になってしまった。


まだまだ子供なはずなのに、世間じゃもう大人に括られるようになり、クレジットカードも作れるようになった。
大人になっても俺はまだ、自分の行動や言葉にすら責任が持てない。
真面目に生きようと頑張るのは疲れるし、友達や家族にはどこか気を遣うのをやめられない。

毎日悩みはつきなくて、生きているだけで疲れてしまうような日々を、俺たちは生きている。


「……俺、帰っていいのかな」


こぼれた本音があまりにも情けなくて、自分で言っておいて少し笑えた。



本当は、こんな日々を終わらせて楽になりたかった。

母親の前でいい子のふりをするのも、やりたいことを諦めてひかれたレールの上を歩くのも、自分より上手に生きている人を羨むのも、全部やめてまっさらな俺になりたかった。

死にたいとか消えたいとか、そんなこと思わないくらいの人生を歩めるような人間でいられたらよかったのに。


「いいんだよ。だってもう過去の仁科くんはいないんだから」



けれど、不安に駆られる俺に、彼女は言う。まっすぐな声だった。


「今までの仁科くんだったら、こんなふうに電車乗り継いで遠くに来ようなんて思わなかっただろうし、海行こうとか、そんな突然私のこと誘ったりしないと思うもん」
「……それはそうかも」
「これは逃げじゃない、仁科くんは戦に来たんだ。過去の自分を殺すための旅、でしょ?」



俺が抱える悩みも、庄司さんに刺さる棘も、あの子が言わずにいたことも、彼が考えていることも、例えば言葉に起こせたとしても、すべてがわかり合えるわけじゃない。


他人にわかってもらおうなんて、ただの我儘で、傲慢だ。

それでもどうしても、大切な人には、わかってもらいたい。



「ね、考えてみてよ。生きて帰ったら警察の事情聴取もあるだろうし、親にも学校にも説明しないといけないし、バイト先に誤ったりもするんでしょ? 死んだほうがマシなのに、仁科くん生きて帰ろうとしてる。ぜったいぜったい、死んだほうマシなのに」
「庄司さん俺のこと殺そうとしてない?」
「違うよー中学の時言われたこと引きずってるだけだよー」
「あの時はごめんって……」



この海まで背負ってきた俺の青い棘が、彼女の言葉にやさしく溶かされていく。


「どれだけ逃げたって死ぬまで生活って終わんないわけだし。でも本当に死ぬほどの度胸もないし、だったら生きててよかったって思えること、増やしたほうがいいんだよねえ」
「そうだよなー……」
「なんかさ、勿体ないなって私も思い始めた。私ももっと正直に生きてたい。仁科くんに会って私も前向きになれた気がする」



青が綺麗だった。俺たちが暮らす街にも海があったら、もっとおいしい空気を吸えていたかもと考えて、海があったところで悩みは尽きないし、それはそれで死にたくなりそうな気がしてやめた。

どんな家に生まれても、どんな場所で息をしていても、自分なりに生きるだけだから。



「帰ろう、仁科くん」



こうやって生きてしまうんだ、きっと。
それなりに悩んだり苦しんだりしながら、自分の信じたいものを信じて日々を越える。

死にたくなるような毎日すら、愛しくなってしまうまで。



「仁科くんさ、帰る前に一個お願いがあるんだけど」
「なに?」
「ちょっとだけ仁科くんのギター聴きたい」
「へたくそだよ俺」
「でも、こんなところに背負ってくるくらい大事にしたいことなんでしょ?」
「……わかったよ。笑わないでね」
「私の好きなバンド、これなんだけどさ、知ってる?」
「ああ、うん。俺このバンドいつもコピーしてた」
「……ふうん」
「え、なに?」
「なんでもない。それより早く聴かせてよ、仁科くんのへたくそなギター!」



彼女に聴かせた俺のギターはとんでもなく下手くそだったが、その瞬間、どうしようもなく、生きていてよかったと思った。





「ちょ、あやちゃん! ニュース見た!?」



友人のユウナからその話題が振られたのは、登校してすぐのことだった。

背負っていたリュックを机の上に降ろした状態で、「見たよ」と短く返事をする。彼女の隣で、幼馴染のモモコが「あんた声でかい」と呆れている。


「死んでるとか言われてたけど、生きてんじゃん! ってなった! あやちゃんに絶対報告しないとって!」
「報告って大げさな」
「大げさじゃないよ! あやちゃんの大切な人なんでしょ? 生きててよかった本当。あたし全然仁科くんと仲良くなかったのにうれしくなったもん!」


人口二万の小さな町じゃ、誰がどこの高校に行ったとか、誰が高校を中退してどこで働いているとか、誰と誰が付き合っているとか、そういった情報は全部筒抜けだ。おまけに彼に関するニュースは一度全国に放映されている。

だから、ユウナや私にその話が流れてきたことは、べつに不思議なことじゃなかった。



「はあ……自殺と行方不明が同義とか言ってた人の発言とは思えないよねホント」
「ちょっとぉ! モモちゃんなんで今そんな意地悪なこと言うの⁉ あたしが無神経すぎてめっちゃ落ち込んでた時に励ましてくれたくせに!」
「えー、いつの間に? 私その話知らない」
「言ってないからねえ」



けれどそれは、前までの私じゃ気づけなかったことだ。

ユウナが自分の発言を振りかえって反省していたことも、それをモモコが励ましていたことも私は知らなかった。

実際のところ、世の中、知らないことのほうが圧倒的に多いような気がする。



「やっぱさあ、噂もニュースも当てになんないんだ。あたしすーぐ耳に入った情報信じちゃうからなー……生きづらい」



ユウナが枝毛をちぎりながら言う。

生きづらい、とか、いつも元気はつらつなユウナでも思うことがあるらしい。きっとモモコにも、言わないだけでそう思う瞬間があるのだろう。私にもあるから、わかる。


「多分、この世に本当だって確信できることなんてないんだよね」
「ねーホント」
「結局、自分が信じたいもの信じるのが一番なんだよ。本当のことなんて本人しかわかんないんだから。ねえ絢莉?」




同意を求められ、私は頷いた。妥協じゃない。
私は今、確かに本音で息をしている。










「私は思ってたよ。──仁科くんは絶対生きてるって」

 

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総文字数/108,506

ヒューマンドラマ273ページ

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死んでも人に言えないヒミツ
  • 書籍化作品
/著

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青春・恋愛16ページ

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