そもそも、彼女と僕が会ったのはほんの1週間前。
友人のとある一言がきっかけだった。

「なぁ、手話教室に行ってみない?」

放課後にわざわざ僕の前の席を陣取って、ヘッドフォンをしている僕に話しかけてきたのは幼馴染の 中束隼人(なかつかはやと)だった。
まぁ、ヘッドフォンをしているだけで実際に音は出ていないから普通に隼人の声は聞こえるのだが。
彼は僕のたった1人の友人であり、家族を除いて僕の秘密を知る唯一の存在である。だからこそ彼は僕のヘッドフォンから音が流れていないことも知っている。

「手話?隼人、手話に興味あったの?」

ヘッドフォンを外さずに答える。いつものことだ。
隼人はいつも穏やかな感情で僕に話しかけてくるがクラスメイト達ははそうでははない。
テスト期間ということもありテストへの憂鬱さ、バイトの愚痴さまざまな感情がこの教室には溢れている。
そんなクラスメイトたちの声は極力聞きたくないのだ。吐き気を催してしまうからね。

「昨日、ポストにチラシが入ってたんだ。それでちょっと興味が出てきて」

そう言って、隼人は『手話教室』と大きく書かれたチラシを僕の目の前に差し出してきた。

そこには手話教室の体験日時について書かれており、ちょうど今日の17時からも手話教室の体験ができるようであった。

「それに、いとも手話に興味あるって言ってただろ?今日もやってるみたいだし行ってみないか?」

確かにそうだ。手話は筆談と同じように僕が僕の事情を気にせずに用いられるコミュニケーション手段になるだろうと前から気になってはいた。
きっと、友人も僕の事情を知っているからこそこの話を持ってきてくれたのだろう。

でも……
僕は友人の顔をチラリと見る。

「隼人、前回の定期テストで数学赤点だったよね。今回も初日に数学あるけど勉強しなくて大丈夫なの?」

彼は今まで楽しそうに話していた表情を引き攣らせ視線を泳がせる。

そう。何を隠そう彼は数学が壊滅的にできない。英語や国語であれば学年トップの学力があるにも関わらず、数学に関しては最下位争いをするレベルである。
前回のテストでも28点という点数を叩き出しており、今回も赤点なら夏休みの補習は確定してしまう。

「い、1日くらいなら息抜きしてもなんとかなるだろ。せっかく部活もバイトも休みなんだし、いい機会だし!な?」

「まぁ、隼人がいいなら僕も興味あったし行こうか」

「さすが!そう言ってくれると思って、もう2人分予約しといたんだ」

してやったりというような顔で予約画面を僕に見せながら笑う隼人に思わず呆れた声が出る。

「僕がテスト勉強するからって言って断ったらどうするつもりだったのさ」

「そうなったら泣き落としか、最悪土下座してでも一緒に来てもらってたよ。いと、優しいから流石にそこまでしたらついてきてくれるだろ」

「泣き落としか土下座って、隼人には羞恥心ってものはないの?」

「だって、2人で予約してるのに俺1人だけで行くのは向こうの人にも悪いだろ?」

至極当たり前のことを言っていると言いたげな彼に呆れを通り越してしまい思わずため息が漏れ出る。

「そういうことを言いたいんじゃなくてさ、僕の予定を聞いてからっ」
 
「ほらほら、もう時間あんまりないんだから早く行くぞ!」

そう言って僕の分の荷物まで持ちウキウキとした表情で教室の扉に向かう。
いつものように、隼人のペースに乗せられてしまったことに少し悔しさを覚えながら僕も彼に続いて教室を出て、駐輪場へと向かう。

僕と隼人は学校まで自転車通学をしているのだが、地図を見た感じ手話教室は自宅と学校のちょうど中間地点といった場所にあり、行き帰りにいつも通るところであった。

「ここって、手話教室もやってたんだね」

少し広めの一軒家といった風貌のその建物は、算盤教室や、茶道教室といった様々な習い事をしているところだというイメージがあったが手話教室までしていたのは知らなかった。

「俺もチラシ見るまでは知らなかったけど、調べてみたら曜日ごとにそれぞれの習い事が順番にここを使ってるみたいだな」

まぁシェアハウスみたいなもんだな
なんて意味がわからないことを言いながら中に入っていく隼人に続いて僕も中へと進む。

中に入って靴を脱ぐと、50代くらいの女性が出迎えてくれた。

「すみません。体験を2人で予約していた中束です。」

隼人がスマホの予約画面を見せて説明する。


「中束様ですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

女性の後をついていくと、少し広めの部屋に通された。
手話教室とは言っているが塾のように手話を教えてもらうという感じではなく、個々人で手話を使ってお話をするという雰囲気だ。
その上、部屋には50〜70代くらいといった年代の方が多かった。たった1人彼女を除いては。

僕たちに気づいた彼女は、そばにいた70代くらいの女性に何か手話で話した後、僕らの方へとやってきた。

シュッとした輪郭に大きな目とその下の綺麗な形の涙袋。鼻筋が通った輪郭のはっきりした鼻。
一目で彼女が、いわゆる美人と呼ばれる顔をしていることがわかり思わず緊張してしまう。

しかし彼女の方はこちらの緊張に気づく素振りはなく話しかけてきた。
もちろん手話で。

僕と隼人は思わず顔を見合わせ困惑する。
全く手話を知らない僕たちにとって彼女が何を話しているのか理解できないのだ。

彼女もこちらの戸惑った素振りに気付いたようで首を傾ける。

『話しかけてくれてありがとう。でも僕たち今日初めてここに手話を習いにきたから、まだ手話がわからないんだ』

僕はスマートフォンを取り出してそう文字を打ち込んだのち彼女に見せる。

彼女はなるほどねと、大きめに頷いた後手帳を取り出して文字を書き込む。

『そうなんだね。なら、私が手話を教えてあげる!』

そう、可愛らしい文字で書かれていた。

「どうする?」

僕が隼人に問いかけるとほぼ同時に彼女に手を引かれる。
ほら早く!なんて言わんばかりに彼女は空いている席に僕たちを案内し、彼女自身も近くの椅子に座る。

多少強引なところは幼馴染にそっくりだなんて心の中で思いながら僕たちは案内された席に座った。